志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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豊臣秀長の評価の推移とこれから

 豊臣秀長豊臣秀吉の弟である。何でもないような事実であるが、秀長の存在はあまり意識されることがない。兄である秀吉が最下層から天下人に立身出世した話は江戸時代初期から創作の題材としてメジャーであるのに対して弟の秀長の影は頗る薄く、兄の物語の中でも滅多に出て来ないからである。例えば、秀吉物語の中で最初期かつメジャーで後のベースになったものに小瀬甫庵太閤記がある。秀長は名前が出て来ないわけではないが、名簿の中に名前が現れるだけであり、人物造型は全くない。それどころか「秀長秀次秀俊*1などをば、甚しく取立給ひしが、何れか独御用に立給ひつる」(巻六)として、秀吉の「無能な親族」の筆頭に挙げられてしまっている。

太閤記 新日本古典文学大系 (60)

太閤記 新日本古典文学大系 (60)

 明治に入ると評論家山路愛山が積極的に歴史上の人物に対する評論を行っており、大著として『豊太閤』がある(この本は当時のベストセラーにもなっており人口に膾炙した)。この中では秀長はどのように描かれているのだろうか。ずらっと読んでみたが秀長本人は所々に頻出するものの、なかなか秀長評には辿りつかなかった。ようやく「豊臣秀次の位置の事」に秀吉の親族についてのまとまった記述があり、これによると秀長の評価は次のようである。

そも秀長は小一郎と称せし昔より秀吉に従ってほとんど同功一体の形あり。中国、四国、九州の合戦、いずれも兄と共に功を分たざることなかりき。されどその人と為りは兄に似たる所少かりしものの如し。(略)されど子というものなかりし秀吉にとりてはこの頼母しからざる弟もまた、まさかの時は家の柱の一本に数うべきものなりとせしならん。

 流石に十把一絡げに秀長を無能とは断じていないが、つまるところ「能力が劣るが重用せざるを得ない親族」という評価になる。秀吉と「功を分たざること」がないなら、秀吉の功績に秀長を含めてもいいのではないかとか、そもそも秀吉と比べて同等かそれ以上の同時代人なんてどれだけいるのかとか突っ込みたくもなるが揚げ足取りに過ぎよう。

豊臣秀吉 (上) (岩波文庫)

豊臣秀吉 (上) (岩波文庫)

豊臣秀吉 (下) (岩波文庫)

豊臣秀吉 (下) (岩波文庫)


 戦後の評価はどうか。戦後日本を代表する国民作家司馬遼太郎『豊臣家の人々』において豊臣秀吉の「家族」と言える人物たちを小説化した。秀長は第五話「大和中納言」にあたる。おそらく豊臣秀長を主人公にした初の小説である。ここでの秀長評は以下の通り(「小一郎」が秀長のこと)。

秀吉のみるところ、小一郎は天性の調整家であり民政家であるようにおもわれた。さらに秀吉のよろこびは、粗漏な者の多い秀吉の血縁のなかで、この小一郎だけが奇蹟といっていいほどに傑出していることであった。ゆくゆくは、その器量といい、人柄といい、おそらくは秀吉政権の柱石になってゆくであろう。

 これまでの流れからするとかなり高い評価を与えられていることがわかるだろう。『太閤記』で秀次や小早川秀秋と同類の「役立たず」であったことからすると、秀長だけが秀吉の親類で優秀であったという筆致はまさに隔世の感がある。さらに秀長の死の際には次のように述べられる。

たれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ケ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大坂城の古い者たちは、
――かの卿が生きておわせば。
 と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった。

 とうとう「秀長が生きていれば豊臣政権は崩壊しなかった」という言説まで登場した。ただ、この小説は秀長の死で閉じられており、秀吉の晩年の政策と秀長の死との因果関係は特にない。司馬は秀長を手放しで称揚したわけではなく、竹中半兵衛の言葉を借りて「教えられた以上のことをする才覚はない」としたり、山崎の戦い前夜秀吉より留守居を命じられた際に反駁するなどの面も描いている。が、司馬によって秀長は「秀吉親族では唯一の一廉の人物」という評価になったと言えるだろう。

豊臣家の人々 新装版 (角川文庫)

豊臣家の人々 新装版 (角川文庫)

 さらにこの路線で秀長の評価を高めて行ったのが堺屋太一豊臣秀長 ある補佐役の生涯』(以下、『豊臣秀長』)である。司馬の「大和大納言」は短編であったのに対し、『豊臣秀長』は長編小説である。『豊臣秀長』における秀長の人物造型の特徴を箇条書としよう。

  • 秀長は理想の補佐役であった
  • 理想の補佐役とは主役である者を主役と演出する者のことである。わざと損な役回りを被り続けることもあり、それが主役を支えるのに大事なのである
  • 秀長は有能な大将であるがゆえに補佐役を全うできた

 論旨は明快である。と同時にこれまでの秀長評を整合的に説明できていることに気付かされる。秀長は秀吉とともに行動しており、「無能」とは断じ難いものがある。そうであるのに、秀長はその後の評価を見てもパッとしなかった。それは秀長が意図して秀吉の影となったからだ。

この人(筆者注・豊臣秀長)は、自らの功績を伝える記録も残そうとしなかったし、おもしろおかしいエピソードも残さなかった。恋の話もなければ子供もなかった。すべてを兄・秀吉の築いたきらびやかな政権に埋め込んで逝ったのである。(略)この人の死によって豊臣家の何かが変った。この人の死後、兄・秀吉はなお七年半生き続け、その身辺と政権をますますきらびやかに飾り立てて行く。しかし、この人が死んだその日から、豊臣の家をより幸せにするようなことは何一つ起らなかった。

 ここまで言ってしまうと、理想の補佐役どころか、そうであるゆえに豊臣秀吉の隠れた本体」扱いである。普通に過大評価であるが、これは晩年秀吉耄碌史観と地味人物知ってるアピールにものすごく相性が良いこともあって、徐々に人口に膾炙することになった。

全一冊 豊臣秀長 (PHP文庫)

全一冊 豊臣秀長 (PHP文庫)

 その結果、CiNiiにおいてキーワード「豊臣秀長」で論文検索をしても、歴史学ではなくビジネス書、一般人向け歴史雑誌などに所収されたものしかヒットしない(平成31年3月現在)という状況が生まれている。このような風潮に流されているのか、見えない論証を経てなのか、織田家臣団や初期豊臣家臣団を語る歴史学からの本の中でも、秀長は有能な人物とされることが多い。理想の補佐役・豊臣秀長はもはや定着したとも言えるだろう。
 しかし、「本当にそうなのか」という点にはついては疑問が残り続ける。例えば、上記に引用した堺屋氏の文章には評価面を除いても誤謬がある。秀長の逸話は複数残っており、恋の話としては尼を還俗させて妻としたというものがある。子供は最低でも3人おり、息子の小一郎は夭折したが、娘2人はそれぞれ毛利秀元、豊臣秀保の妻になっている。淡河定範を攻める際に、雌馬を放たれ敗走したというのは「おもしろおかしいエピソード」であろう。有名になったのは、あくまで小説における豊臣秀長でしかないのである。作家の童門冬二も既存の秀長評に「そうではないのではないか」と漠然とした思いを文章にまとめているが、印象論の範疇を出ない。

 一応言っておくが、豊臣秀長豊臣秀吉、豊臣政権を語る際に重要人物であるのは間違いない。だから、本当は大したことないんでしょという評価は当たらないだろう(小瀬甫庵の「役立たず」評価は秀吉を一世代の英雄としたい曲筆もあるのではないか)。しかし、何が重要であったのか、真の役割は何か、今こそ一次史料に基づいた記述が求められている(=俺が読みたい)のである。

※追記(3月31日)
 ちょっと気になったので記事公開後にTwitter上で豊臣秀長のイメージアンケートを行ったところ、次のような結果となった。

 ありがたいことに700人以上から回答を得ることが出来た。ただ、票数が100を超えたあたりから、割合の大きな変動はなく、上記結果が一般的な豊臣秀長へのイメージ総合と言っても良さそうである。
 また、記事が話題になる途上で秀長評として「銭ゲバ」「戦闘民族島津氏をボコった猛将」「そんな頼りない人物に秀吉は身代わりを任せたりしないだろう」などといった意見も聞かれた。相変わらず、理想のナンバーツーという評価もあった。
 以上から豊臣秀長はもはや一定の高評価が定着していると言えそうである。

*1:秀俊は後の小早川秀秋のこと