志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『今村家文書』376「年未詳七月 松謙斎新介(松山重治)書状(折紙)」小考

 『今村家文書』に松山重治の新出書状があるというのは認知していたが、確認するのが遅くなってしまった。ただ、正直何を言っているのかよくわからないところがあり、それでいてこれは結構面白いのではないかとも思ったので全文と試訳を掲載して諸賢の教示を仰いでみたい。

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本文

376 年未詳七月 松謙斎新介(松山重治)書状(折紙)
  尚々先ニ久秀へ書状如此認上申候、御被見候て、上包させられ、多門へ可被遣候
一高対者、一昨日路次まて罷上候、昨日定而其方へ可為参着候、御状即辺進候
一与兵相煩延引申候、今日者、可罷上候間、路次まて成共候、直ニ申含越可申候
一三豊御下之由、然共、紀州遅引之旨、被取乱、左様ニも可有之候、然者、御同備福賀彼方へ弥入魂候て、江州辺まて令調略、於山科大志万兄弟・郷之者与参会候由候、時宜いか様之儀候や、菟角慶満・一慶之御証跡さへ候ハねハ、自余之儀者、不止事候、然者、御気遣御尤ニ候、於我々無由断候、涯分急候て与兵多門へ越可申候
一南方牢人催事必定ニ候、是も当方内輪候、不慮ヲ伺然候
一竹三へも切々可有御入魂候、猶追々目出可申承候、昨日日暮候間、御使留申候、恐々謹言
  七月九日       新介(花押)
「(墨引)
           松謙斎
             新介
□□(弥カ)御返報           」

試訳

 なお先に(松永)久秀へ書状をこのように用意して提出しました。御覧なさった後、上を包んで多聞山城へ送られることでしょう。
一、「高対」(誰?今村氏からの使者か)は一昨日路次(頻出するけどどこだ?)まで参上しました。昨日定めてそちらへ参着するように、お手紙を返しました。
一、「与兵」(松山守勝)が病気のため延引しておりましたが、今日は参上できるとのことなので、路次までではありますが、直接申し上げることができます。
一、「三豊」(三好実休が下されたということですが、そうであっても紀州」(今村慶満)が長引いていること、取り乱され、そのようなこともあるでしょう。そうであれば、「御同備福賀」(誰?)彼らといよいよ関係を深くし、近江までも調略して、山科では「大志万」兄弟(誰?)や郷民たちと参会すれば、時宜はどのようになるでしょうか。とにかく今村慶満・一慶父子の証拠文書さえなければ、他のことはどうにでもなります。そうであれば、お気遣いはもっともなことです。我々も油断なくいる所存で、出来るだけ急いで「与兵」(松山守勝)を多聞山城に派遣します。
一、近畿南方の牢人(畠山氏や根来寺など)が事件を起こすのは必至です。これも我々の内輪の思いがけないことを伺っているのです。
一、「竹三」(竹内季治)ともよくよく仲良くするべきです。また追々吉報がありましょう。昨日は日が暮れていたので、使者を一泊させました。恐々謹言
  (永禄四年カ)七月九日     (松山)新介(重治)

解説

 宛名は不詳だが、「□弥」とすると文書の伝来と合わせ「今村弥七」、すなわち今村政次である可能性がある。今村家周辺で何らかの問題が発生し、それを松山重治が松永久秀に取り次いでいるようである。ただし、何が問題になっているのかは特定できる固有名詞の少なさや前提の把握が困難なため私の読みでは理解できなかった(そのため試訳も内容は意味不明になっている)。ただ、「江州辺まて令調略」などはすごく気になる文言である。誤読かもしれないが、三好氏が六角氏にちょっかいをかけているということなのだろうか?
 「三豊」(三好実休)が生存していること、多聞山城が政庁として存在すること、南方の牢人が「内輪」の「不慮」を伺うことが十河一存の死(永禄4年4月)による反攻活発化と見られること、永禄5年に亡くなった今村慶満が生きていることから、この書状は永禄4年(1561)に比定するのが妥当であろう。とするとこの年の7月中旬から下旬にかけて畠山高政と六角承禎が反三好の挙兵に至るため、この書状はまさに開戦直前の文書ということになる。
 なお、松山重治が俗人でありながら松謙斎を名乗ることから、松謙斎は法名ではなく号とわかる(重治の法名としては「新入斎宗治」が正しいと言える)。松山重治から松永久秀への連絡には松山守勝が当たっていたのも興味深い情報である。
 また、「慶満・一慶之御証跡」とは今村慶満およびその息子今村一慶の文書を指す。現存する慶満・一慶の連署状は1通しかないが、往時はそれなりに発給されていたのかもしれない。また、慶満・一慶の発給文書が在地において大きな力を有していたことを窺わせる文言とも言える。