志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

令和5年春の博物館めぐり

 4月28日に1日かけて各所の博物館をめぐってきた。本来なら一館ごとに記事を書くべきなのかもしれないが、それぞれの展示はそこまで大規模なものでもなく、かと言ってTwitterあたりで感想を書くにはやや長くなりそうなので、一つの記事にまとめてしまうことにした。

大阪大谷大学博物館・令和5年度春季特別展「椿井文書をめぐる人々 ―拡散する偽文書―」 期間:4月3日~6月19日

 大阪大谷大学博物館はその名の通り大阪大谷大学にある博物館である。しかし、大阪大谷大学自体が富田林という僻地にある上に博物館は日・祝が定休ということで、これが平日に無理に南河内の博物館をハシゴしていった大きな要因となる。
 さて、今回の特別展は椿井文書をテーマとするもの。昨年度まで大阪大谷大学にて准教授を務めていた馬部隆弘氏が椿井文書研究の第一人者なことも加味した題材だろう。実際、大阪大谷大学は椿井文書を多く収集しており、その成果還元としても重要な内容となる。感想としては、椿井政隆という一人の偽文書作家の作品であるにも関わらず、総合展を見ているようなバラエティ感が面白かった。椿井政隆は偽文書の製作にあたって、自身が作者と悟られないため、筆致や包装を使い分けているからだ。結果として、ぱっと見多彩な「作品」展となるわけだ。他には、『椿井文書』でも椿井政隆個人のキャラクターは捉えられきれていなかったのが、後ろ姿とはいえ本人の図像や家族の墓碑の拓本などが展示されており、実在の椿井政隆を朧げに感じられた。
 そしてそして…個人的に今回の目玉の一つは『椿井先祖へ来書写』尾張にて近世を過ごした椿井家と山城に残った椿井家が交流する中、山城椿井家は尾張椿井家の求めに応じて自家の家伝文書を写し冊子として送った。その中に書写された中世文書は120通以上!椿井政隆の存在を思うと、信用できるのかという疑問も浮かぶが、見たところ中世文書として文言がおかしい部分もなく、細川国慶なんてマイナー武将をよく知っていないと捏造できない内容を後世偽作できるとは思えない(よく見たら「玄蕃頭国慶」の傍らに「山口」と小さく書いてあったりするので、書写者は「玄蕃頭国慶」を「山口玄蕃」か?と考えたらしい)。そして何より、その120通の中のいくばくかは現在も正文が確認できるらしいので、信用に足ると考えて良いとのこと。
 フライングで名前を出してしまったが、今回展示されていたのは細川氏綱書状写×1、細川国慶書状写×5、三好長慶書状写×1となる。内容としては、天文15年の挙兵を機に国慶が椿井氏へ晴元方の狛孫一の跡職や洛中の権益を付与し、細川氏綱からは国慶の尽力もあって知行宛行状が発給され、後年三好長慶が上狛に対し椿井氏への年貢納入を命じるという流れになる。国慶の挙兵と京都制圧はそれこそ馬部氏の研究成果に詳しいが、九月や正月に出されたものは挙兵や洛中支配の行き詰まりと合わせてリアルタイム感抜群だし、国慶書状写に記される取次者は全て今村源介(慶満)で、慶満の国慶の片腕としての働きが如実に窺える。最後に長慶書状が出てくるのも、国慶の支配が三好権力の先駆けを成したことのアピールになる。ここまでの内容を「偽作」するのはそれこそ『戦国期細川権力の研究』が上梓されて以降でないと不可能ではなかろうか。
 たった7通だけでこの質と量!正直ガラスケースを割って資料のページを実際に捲ってみたい思いすらあったが、流石にそれはできない。眼光紙背に徹すると、うっすらと「高国」の裏文字が見えるような気がしたが、120通もあるのだから他の当該期の有力者の文書が収められているのは間違いない。今後の史料紹介に期待していきたい。
 それにしても数奇と思わずにはいられない。馬部氏の研究の主眼は中世からいかにして近世権力が誕生していくかという点にあり、偽文書研究は言わば副産物である。その偽文書研究からまさに馬部氏のメインフィールドである戦国期畿内、しかも細川国慶の文書がごろごろ出てくるとは…。上手く言えないが、報われるものである。ちなみに出品目録には載っていないが、都市共同体への発給としては最古となる細川国慶禁制も国慶書状写に並んで展示されていた。この禁制も馬部先生がネットオークションで見つけて大阪大谷大学が購入したものなので、もうここで一緒に展示するしかないものだろう。

八尾市立歴史民俗資料館・企画展「戦国時代の八尾」 期間:4月28日~6月26日

 八尾市立歴史民俗資料館も僻地というか、服部川駅前にはほとんど何もなく、誘導の看板自体はあるものの延々住宅地が続くので、本当にこの先に博物館があるのか心配になってくる。とは言え、中に入ってしまえばもう内容は博物館で間違いない。ちなみに今回の記事の中ではここのみ入館料がある。
 展示内容としては8割方『新修八尾市史』に写真付きで掲載されている文書になるが、それでも実際の文書で畠山義就から徳川家康までの戦国期河内の情勢が実態を以て迫ってくる力がある。もちろん館蔵の遊佐長教書状、六角承禎内書織田家連署状などは基本的にここでしか見る機会がないので貴重だったし、『若江三人衆由緒書上』を実見できたのは予想外のうれしい誤算だった。
 惜しいのはこれだけ充実しているにも関わらず、企画展なので図録がないことか。まあ先述したように『新修八尾市史』を買えば8割方間に合ってしまう内容でもあるが…。遊佐長教の花押分類なども展示解説として存在していたが、もう少しちゃんとした形で分類したいものでもあった。

尼崎市立歴史博物館・企画展「尼崎を駆け抜けた戦国武将 細川高国三好長慶佐々成政」 期間:4月22日~6月18日

 尼崎市立歴史博物館は周辺には尼崎城もあり図書館もあり、この記事冒頭にあるような史碑もありとにかく文化スポットには事欠かないエリアにある。もっと時間があれば色々見て回りたいところでもあったが…。
 さて、この企画展で取り上げられているのは細川高国三好長慶佐々成政。三題噺か何かかという取り合わせだが、全員尼崎に関係あるので仕方ないね。今回の展示が表層だけでなくガチ目に思えるのは、高国の趣味として犬追物にフィーチャーしてデカい屏風(『犬追物図屏風』)があったり、長慶だけでなく実休や宗三といった有力一族の文書もあったりとした部分。特に犬追物はちゃんとクイズの題材にまでなってますからね。この博物館は来展者に高国の趣味を植え付けて何をしようというのだ…。結果的に尼崎に直接関係ある三好一族、織田家臣としてのネームバリューのある佐々成政を羊頭に、本当に言いたいのは細川高国になってるような気も…。いいと思います。一方で佐々成政は本人の文書などがなかったのはちょっと寂しかったかもしれない。
 ところが、一番気になったのは高国、ではない。『射儀私記』とは小笠原持長の著とされる弓矢の故実書であるが、なぜここで展示されているかと言えば、この本は伝来の過程で細川澄元が所持していたからである。今回の展示資料でも展示部分は奥書であった。

          右京大夫
永正二年九月二日     澄元(花押)
     大館六郎殿

 これによれば、永正2年9月2日に右京大夫澄元が大館六郎に写本を与えたので『射儀私記』が現在まで伝来していることになる。しかし、この奥書は正しいのだろうか。細川澄元が政元の養子として上洛するのは永正3年で、右京大夫への任官は永正5年まで下る。据えられている花押の形状も馬部隆弘氏の分類では花押2であって、永正2年に用いたものではない。よって「永正二年」というのは何らかの誤りを含んでいる可能性が高い(誰かすでに指摘していないのか…?)。高国が主役なのに何でか最後は澄元に拘ってしまったが…まあ持之や晴元の文書もあったのでいいか…。