志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『兼右卿記』に記された年齢まとめ

 歴史上の人物の説明として生没年は基本的事項となる。いつ生きていたかによって、その人物が関わる人物や事件の評価が変わってくることもままある。例えば、「北条早雲」として知られる伊勢宗瑞はかつて永享4年(1432)誕生とされてきた。この通説に従うと、宗瑞が世に出たのは50歳を超えてからで、その後88歳で死去するまで第一線で戦い続け戦国大名後北条氏の礎を作り上げた生涯現役・大器晩成型の武将となる。しかし、近年では今川氏親の母である宗瑞の姉妹が「姉」とされることや享年88歳説が近世以降の所説であること、新出の系図史料などから、宗瑞の生年は康正2年(1456)説が支持されている。すると、宗瑞の活躍も30代~50代という常識的範疇に収まる。こうなると、もはや大器晩成は成り立たず人物像はだいぶ変わることになる。
 一方で、この宗瑞の例にも見られるように没年はともかく生年はおぼつかない事例が多い。生まれた時から著名な人物、あるいは生まれがその後伝説化される人物は歴史上有名であっても多くはないからだ。実際、本記事で取り上げる人物たちも一般にはマイナーな人物たちでこれまでは生年の手掛かりすらなかった。

「だが…今は違う!」

 …すみません、言ってみたかっただけです。何のことはなく、近年翻刻が進んでいる天理本『兼右卿記』は記手である吉田兼右が祈祷を専門にしているためか、依頼主の年齢を記していることが多く、それによって多くのあの歴史上の人物の生年が特定できるようになった。ありがとう吉田兼右…ありがとう天理図書館翻刻人(岸本眞実先生・澤井廣次先生)たち…。

※なお本記事での引用は全て『兼右卿記』なので出典記載は省略し、年月日条のみ記すものとする。

走井盛秀(1514~66以降)
  • 天文20年10月14日条

河内国高屋内走井備前守盛秀卅八才・妻女於徳丸卅二才、去年令造作之処、当年以外相祟、子息両人令死去、

  • 弘治元年12月11日条

河州走井備前守盛秀四十二才、起請許事申之、別令懇望之、調遣了、為礼六貫文到来、

 走井盛秀は河内守護代遊佐氏の筆頭重臣(次席が菱木氏、その次が田河氏とされる)にあたる人物で、主君である遊佐長教が本願寺から音信を受ける際、常に盛秀も音信を受けている。その盛秀であるが、天文20年(1551)に38歳、弘治元年(1555)に42歳なので、生年が永正11年(1514)に特定できる。最近、畑和良氏によって遊佐長教の父・順盛の没年が享禄4年(1531)だと明らかになったが、時期的に見て盛秀の「盛」は元服の際の順盛からの偏諱と見られる。
 盛秀の家族は妻の名は「於徳丸」(丸を抜いた「於徳」が本名か)で32歳(永正17年・1520生まれ)である。去年作事を行ったが、今年になると祟りが発生し、子息2人が死去したという。死んだ息子の年齢は不明だが、妻の年齢からするとどちらも元服前だろう。そのため特段年齢も名前も記されなかったと思われる。
 特筆されるエピソードのない盛秀だが、遊佐長教の死後、萱振賢継や鷹山弘頼が安見宗房に粛清され、その後吉益氏や田河氏といった長教期の遊佐重臣が姿を消す中でも遊佐氏筆頭重臣の地位を保っている。ちなみに天文20年10月は畠山氏当主を廃した遊佐長教が5月に暗殺された後、畠山氏当主も遊佐氏当主も事実上の空位であった時期にあたり、「高屋内」という修飾になっているのもそのためと思われる。閑話休題、なぜ盛秀が排除対象とならなかったのか、あるいは台頭する安見宗房との関係を上手に維持できたのかは不明ながら、後継者となる子息を失い、政治的意欲に欠けていたことが作用した可能性もあるのかもしれない。
 盛秀の終見は永禄9年(1566)12月に畠山・遊佐重臣連署し、和泉の松浦光に知行を付与したもので、この時53歳となる。永禄8年(1565)には遊佐氏重臣連署する存在として走井左京進慶秀が登場することから、慶秀が盛秀の後継者でそのため盛秀は活動を終えていくのであろう(ただし、その後慶秀を含む走井氏の活動は見えなくなってしまう)。天文20年に盛秀は息子2人を失っていたことから、慶秀はさらなる年少の子か、新たに儲けた息子、または養子である可能性もあり、いずれにしても永禄8年段階では10代であろう。
 なお、盛秀とその妻の問い合わせと吉田兼右の返答は以下のようである。
Q 丑寅に去年門を作ったのでその祟りか?
A 去年は家主(走井盛秀)が37歳で遊年方にあたり、誰かの方角を「勘」られた*1か、その祟りでしょう。ただし今年は金神方なので塞ぐことも無用です。
Q 工事に神木を買って使ったのでその祟りか?
A 神木を買って使ったことは問題ではないが、その神木が御神体、あるいは影向の木、または子細のある木であったならば必ず祟る。この鎮札をお勧めします。
 結局、祟りだったのかどうかよくわからない返答だが、吉田兼右は祟り対策に「屋固札」と「神木安鎮札」を売りつけ送り、1貫200文を得ることに成功している。

三好長逸(1516~73頃)
  • 天文20年11月20日

三好日向守方へ方違札・屋固札・地鎮調遣了、次荒神鎮札同調遣了、三日当年卅六才也

 三好長逸(長縁)三好三人衆の一人として知られる人物で三好政権では松永久秀と並ぶ重臣トップツーの地位にあった。その生年も不明だったが、天文20年(1551)に36歳ということで永正13年(1516)と判明。長逸の父は三好之長の子である孫四郎長光とされているが、長光は父之長ともども永正17年(1520)に自害に追い込まれている。また、フロイスは永禄末期の長逸についてだいたい55歳の老人と記している。永正13年という生年は長光の生前かつ、永禄末期には50代前半なのでこれまでの指摘とも整合性がある。
 また、天文3年(1534)に三好連盛とともに活動する「三好久介」が後の長逸である可能性が指摘されており、これが長逸の初見となる。三好元長の配下には長逸は全く現れないが、享禄年間には長逸は10代前半でやっと元服したかどうかであったことを思えば、元長の配下として働くには若すぎたと言うべきだろう。天文3年には17歳なので、元長の配下がほぼ全滅した欠を埋める形で一族として浮上してきたと見ると初登場の経緯として自然である。その後江口合戦で再登場した時は「日向守」を名乗っているが、その時(天文17年・1548)は33歳なので受領名を称するに足る年齢である。
 長逸は「日向入道」としては元亀3年(1572)、「三人衆」としては元亀4年(1573)が終見なのでこの頃死去したと考えられている。後者が没年とすれば享年は58歳であった。
 なお、上記記事は越水城の鎮札についての問い合わせに応えたものなので、長逸が越水城の管理に携わっていたことがわかる。

池田正秀(1527~75以降)
  • 天文21年1月19日条

摂州池田紀伊廿六才、去々年ヨリ不例也、祈祷事令申間領掌了、従廿四日吉日也、可始行法之旨申遣了、

 池田四人衆の一人であり、元亀年間には荒木村重と並ぶ摂津池田氏重臣と言っても過言ではない池田正秀は天文21年(1552)に26歳であった。よって、生年は大永7年(1527)となる。この後アラサー~アラフォーに池田四人衆として活躍すると思えば妥当な年齢だろう。ただし、永禄6年(1563)には清貪斎一孤を称して出家しているので、37歳以前での出家はややタイミングが早いだろうか。終見は天正3年の津田宗及の茶会出席なので没年は49歳以降となる。

今村慶満(1505~62)・一慶(1542~65以降)
  • 天文22年12月19日条

今村紀伊勝竜寺城立家、然処以外相祟了、札事所望之間、調遣了、■■屋固札・解八難厄札・地鎮・御祓遣了、紀伊守当年四十九乙丑歳、件妻四十二壬申歳也、

  • 12月22日条

今村紀伊慶満方へ今日鎮札等持遣了、為使者鈴鹿若狭守為使者也、然処ニ今村妻女令対談、祈祷事令申之、彼妻年ハ四十四才云々、令隠密四十二才分令申之由申来了、

  • 12月26日条

今村妻女方へ解八難厄札・天度御祓・守一遣之了、又件息男十六才芥河城為人質預遣了、其守所望之間、同遣了、今村妻方へ奏者名今大路帯刀ト云者也、自今村紀伊守妻女申来云、件息男来年十三才壬寅、女子来年八才、両人在之云々

 今村慶満は細川国慶の配下として京都統治に関与し、主君国慶の敗死後は細川氏綱三好長慶の京都支配の柱石となった人物である。天文22年(1553)で今村慶満は49歳なので生年は永正2年(1505)、この年の干支は乙丑なのでその点も整合する。今村慶満が活動を始めるのは天文年間に細川国慶の配下としてだがその頃はアラサーだったことになる。慶満の「慶」は国慶からの偏諱と考えられているが、慶満の方が年齢的には兄貴分なので、慶満以前に「慶」を含まない実名を持っていたか、「慶」は国慶とは無関係に名乗っていた可能性もあるだろう。慶満は永禄5年(1562)に死去するので享年は58歳。宣教師の記録には松永久秀の配下で勝龍寺城の主である「今村殿」が老人として現れるが、50代後半であれば十分老人であろう。
 慶満の妻は42歳で永正9年(1512)生まれでこの年の干支は壬申でこれまた合致…と思いきや実は44歳だったので生年は永正7年(1510)である。実年齢を隠密にしていたのは興味深いが、何らかの風俗なのか若作りか…。後に触れる子2人を出産したのは33歳と37歳の時なので時代的には高齢出産となる。この妻の没年は不明である。
 慶満の妻が連絡してきた2人の子は男が12歳(来年13歳のため)、女が8歳である。男子は天文11年(1542)生まれで干支の壬寅とも整合、娘は天文15年(1546)生まれとなる。慶満の息子である源介一慶は永禄元年(1558)に父と連署して文書発給を開始するが、ここでいう男子と同一人物だと17歳となるので、活動開始時期として自然となる。娘がその後どうなったのかは全くわからない。一慶は慶満38歳の時の男子で子作りの時期が遅めだが、天文0年代は父が国慶とともに潜伏し余裕がなかったからだろうか。なお、一慶は永禄8年の三好権力分裂後は所見がなくその後は跡職が話題になっているので、その頃死去したか没落した可能性が高い。仮に永禄9年死去ならば享年25歳であった。
 余談だが、上記記事によって天文22年12月段階で今村一慶が芥川城に人質になっていたことが判明する。長らく細川国慶の与党として反三好であった今村慶満が三好長慶から離反しなかった理由は至極単純で、一粒種の後継者を人質に取られていたからであった。こうなると天文末期の細川氏綱から三好長慶への政権移譲も、氏綱の自発よりも力によるものも想定できるかもしれない。

内藤貞勝(1547~61以降)・貞弘(如安)(1552~1626)
  • 弘治元年12月1日条

松永甚介妻来、年九才・四才男子二人星事申之間、領掌了、弐十疋到来了、

 弘治元年(1555)に松永長頼の妻が9歳と4歳の男子について問い合わせてきた。松永長頼の妻といえば丹波守護代内藤国貞の娘で、その間の子が国貞没後の内藤氏を継承していくことになる。天文22年(1553)の国貞没後に内藤氏を継承した千勝は永禄3年(1560)には備前守貞勝を名乗っているため、9歳の男子に該当すると思われ、生年は天文16年(1547)となる。そうであれば、外祖父国貞の没時には7歳となって継承が視野に入りつつも政治能力を有さない存在として整合的であり、永禄3年には14歳なので受領名を称していても不自然ではない。なお、貞勝は永禄4年が終見でその後は父長頼が「内藤備前守」を名乗るため、何らかの事情で家督を外れたと見られる。仮にその事情が死去であれば、享年15歳で没したことになる。
 内藤貞弘、キリシタンとしては洗礼名「ジョアン」(如安)としても知られる人物は永禄8年(1565)に宣教師から受洗した「15~18歳の貴公子たち」の一人と考えられている。4歳の男子は天文21年(1552)生まれで、永禄8年には14歳となるのでこの点も宣教師の記録とほぼ一致するため、貞弘と見て良い。貞弘の文書上の活動初見は永禄11年(1568)で五郎を名乗っていたが、この時は17歳。備前守を名乗った元亀4年(1573)は22歳となる。その後の貞弘は足利義昭小西行長に仕えるが、江戸幕府の禁教令によりマニラへ追放され1626年没した。享年は75歳であった。
 ちなみに貞弘にはキリシタンの弟がいたようだが、実弟とするなら弘治元年(1555)以降に生まれた弟ということになるだろう。

池田孫八郎(1542~57)
  • 弘治3年4月17日・18日条

摂州池田十六才去十二日ニ参宮下向了、自路次相煩了、御祓所望之旨申来間、天度祓・御表祓遣了、百疋到来、鈴鹿美乃守申次之、
「十八日、早朝令死去了、三好宗三孫也」

 弘治3年(1557)4月12日に参宮した「摂州池田」だったが帰路に発病し、17日に祈禱依頼があったが翌日早朝に死去したという。「摂州池田」とのみ記されるのでこの人物は当主格の人物にあたるが、折しも同時期の弘治3年5月2日の春日社は池田氏に対し「孫八郎殿香伝」として1貫文を贈っている(「今西家文書」)。池田孫八郎は三好実休から池田四人衆を通じて押領停止を求められる高位の人物で、発給文書こそ確かめられないが書状封紙は残されておりそこでは実名ではなく仮名の「孫八郎」で署名している(「池田文書」)。よって、弘治3年5月直前に死亡しなおかつ若年であった池田孫八郎こそが16歳の「摂州池田」その人と見て間違いない。
 また、先行研究では孫八郎は池田長正の弟かとされてきたが、特に史料的根拠があるわけではなかった。しかし、『兼右卿記』では孫八郎は三好宗三の孫と明言している。周知のように宗三の娘は池田信正に嫁いでおり、その間の子が長正であった。よって、孫八郎は確かに長正の弟にあたると見られる(あるいは宗三の孫である太松丸が孫八郎と考えることも可能かもしれないが、太松丸の初見が天文17年の御成参加であることを考えると、高々7歳で公式行事に参加しているのは若すぎるし、孫八郎が筑後守家の仮名である「三郎五郎」を名乗っていないことやじゃあ長正って誰?という新たな疑問も生まれるのでとりあえず長正の弟とする方が自然ではあろう)。

おまけ 三好長慶の次男
  • 弘治元年12月1日条

自尼崎筑州妾方、筑州次男至金神方罷向、鎮札所望之間、調遣了、為礼壱貫二百文到来、民部申次、

 三好長慶の妻としては波多野秀忠の娘と遊佐長教の娘(養女か)が知られている。長慶は天文9年(1540)に「秀忠の娘」と結婚し、天文11年には嫡男義興を得ている。しかし、江口合戦に際して細川晴元から離反したため「秀忠の娘」を離縁し、天文18年には遊佐長教の娘を新たに妻とした。上記が長慶の妻子に関する情報の全てだったが、新たに上の記事により、長慶には「妾」がおり、その間に「次男」を儲けていたことが明らかになった。「妾」は妻ではないので「長教の娘」とは別人と見られる。また、義興の死後、長慶の他の子が話題になることはなく、養嗣子の義継(十河一存の子)が「次男」と呼ばれることもあるので、上記の次男は夭折したか、継承できない何らかの事情があったと思われる(「至金神方罷向」が意味するところはよくわからないが、何らかの病気である可能性もある)。

*1:読み方がわかりません