志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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遠藤ゆり子・竹井英文編『戦国武将列伝1 東北編』(戎光祥出版)感想

 戎光祥出版さんが織りなす戦国武将列伝シリーズ畿内編・四国編では私にも馴染みがある戦国史研究の成果が反映されており、その画期性には身を以て瞠目できた。その一方、畿内や四国から離れ、織田信長豊臣秀吉のように一般的にもメジャーではないところへ行くと、最新研究でどう変わっているのか、研究が進んだ細部は正直よくわかっていない。Wikipediaを鵜呑みして「違うぞ」と突っ込まれたことは何度もある。となると、私としてはシリーズはここからが本領発揮だ。畿内編・四国編と同じ密度を期待して他地域を勉強できるのだから。特に東北は四国・畿内から見ると東方に最も遠く、史料が豊富なわけではないイメージがある。そうした中でどのような記述が最新のものとして可能なのか、探っていきたい。

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※どうでもいいけどちゃんと両目が開いてる伊達政宗グッズって無茶苦茶珍しくない?

  • 蠣崎季広―蝦夷地の和人を統一した道南の雄(新藤 透)

 戦国武将列伝シリーズは「北海道から鹿児島まで」の英雄伝と称している。沖縄は中世日本国には含まれないが北海道は含まれると認識していることになる。その北海道枠が蠣崎氏(松前氏)ということになる。やはり記述でもアイヌとの交流が目立つが、享禄・天文初期にアイヌと交戦を繰り返しており、アイヌ側のリーダーも名前がわかっているのは驚きだ。どうしても教科書のみだとコシャマインシャクシャインくらいしか人名が出ないが、名前が出ない時期でも紛争はあったのである(そりゃ本州でも暴力による解決にあけくれてた時代なんだからちょっとした揉め事でも紛争になるのは道理ではある)。アイヌは交易相手であって支配下ではない、アイヌとの交易ルール、アイヌと和人の住み分ける範囲の確定なども近世松前氏支配の原型を形成していて季広が立項される価値というものを感じさせる(アイヌの首長を騙し討ちすることまで原型になっているのはアレだが)。
 蠣崎季広でさらに興味深かったのは、独自の外交・勢力圏を持ちつつも生涯安東氏の被官身分を維持していたこと。どれだけ有力者になろうが、往年の主従関係は清算されない構図!他地域でもよく見られるものが最北端でもあるんだなあ。

  • 松前慶広―「最北大名」の誕生(新藤 透)

 前代の季広から蠣崎氏(松前氏)は多方面に関係を築いており、様々な顔があった。松前慶広についても中世の世界観と相まって色々な面で見られていたのが「最北大名」の面目といった趣がある。特に面白かったのは慶広が「日のもとをはなれたる松前の島主」と呼ばれていた一節。今の感覚からすると松前慶広は日本人だが、日本の外の領主という感覚もあったのである。また、秀吉は蝦夷地(北海道)と朝鮮半島が近隣だと思っていたので慶広の服属によって壬辰戦争の好転を期待していたとか。松前氏がアイヌを支配していたわけではないが、慶広は「唐衣」を着用するなど、自分から「日本にあって日本ではない」アピールをしていたようにも見える。こうしたある種の超国家性が見えてくるのが「最北」の醍醐味だろう。

 九戸政実といえば、豊臣秀吉の天下一統最後の戦いを起こした人物として知っていた。しかし、九戸氏について発給文書も受給文書も一通も残存していないとは想像を上回る史料のなさだ。さらに本項では天文7年(1538)の九戸神社の大檀那「源政実」が九戸政実である可能性を指摘するが、流石に年代が離れすぎているように思う。とすると、いわゆる「九戸政実」は実名すら覚束ないということになってしまう。政実の兄弟は実名に「実」を含むので「九戸政実」は南部晴政から偏諱を受けた結果、父祖と名前が被ったのかもしれないが。
 もはや素性からして何だかわからない人物ということになるが、九戸一揆の評価については新鮮だった。単に奥州仕置に反発する在地領主が反乱したという程度の認識しかなかったが、政実本人に反乱の意志は薄く、反乱後も伊達政宗を中人に頼んだ解決を志向していたのだという。だとすれば、反発はあったにせよ、中央対地方というより、中世東北ローカル紛争の延長上だったということになるだろう。しかし、もはやそうした解決は成り立たず九戸一揆は中央政権により叩き潰された。まさに東北地方の「中世の終焉」だったということになるだろう。

  • 津軽為信―南部氏から独立し大名となった野心家(滝尻侑貴)

 サブタイトルでは「野心家」とするが、あまり野心家とは感じなかった。どちらかと言えば、そつがない。いや、そつがなさすぎると言うべきか。勢力拡大に際しては南部氏傘下として働き、独立にあたって協力を受けた九戸氏を豊臣政権の指示によって滅ぼし、後ろ指を指されそうなことについても自分の責任を回避している。ここらへんが単に有能と見るか、いけすかないと見るか、評価の別れどころなのだろう。

 南部晴政といえば、戦国南部氏最盛期を築いた当主というイメージだったので、「不当に貶められてきた」は「そうなの!?」だった。もっとも、実像については結局まだまだわかっていないようだ。個人的には天文8年に上洛し足利義晴から偏諱を受けた南部彦三郎と永禄期から文書が確認できる南部晴政が同一人物というのに、20年の間隔を経てなお繋げられる面白さがあった。しかし三戸家当主に隔絶した地位があるわけではなく、上洛や将軍からの偏諱の「威力」というものはどれくらいあったものだろうか。一方で、晴政が他家当主に偏諱を授けたりもしており、この頃の南部氏同名は各家の連立と三戸家の主導とが混ざり合いながら破綻はしないという、一言では説明できない状況のようだ。晴政権力の実態や後継者構想などが見えてこないのも、近世の観念でこういった状況を上手くまとめられなかったからのような気もしてくる。もっと一次史料が残っていればなあ…。

  • 南部信直―激動の時代を生き抜いた南部家中興の祖(滝尻侑貴)

 南部晴政がなんとも的を射きれない記述だったのに比べると、信直は本人の心情を吐露する一次史料が残っていて急に生々しくなる。しかし、南部氏家督相続やその後の抗争にきな臭さが拭えないのに豊臣政権に従った後はストレスフルなので、同じ項目内でも落差が…。元からそういう性格だったのか、豊臣政権での人付き合いに疲れてしまったのかはわからないが…。「豊臣政権では成り上がりものが多いので地方の名族はバカにされる」という証言は、通常だと名族が成り上がりをバカにするというイメージだったので、名族の方がうしろめたさを感じるのは面白かった。秀吉が明を文系国家と見なして「俺らサムライが負けるわけねーだろ」みたく壮語してたのを思い出す風潮ですね。

  • 和賀信親・稗貫輝家―奥羽仕置に反発した一揆の首魁という虚実高橋和孝)

 サブタイトルに「奥羽仕置に反発した一揆の首魁という虚実」と書いてあるのに、頭は完全に「一揆の首魁」として読んでた(事実、途中まで引用される『信直記』では2人が一揆の首謀者)ので、最終結論が和賀・稗貫は一揆を止める側でしたというのはインパクトがあった。しかし、項目自体が後世の編纂物に対し、一次史料に現れる人名とその動向を駆使して実像を提示するという内容で「研究」そのものなので読み応えは抜群。実名をちゃんと比定できたというのも実在の信親・輝家両氏は喜んでいることだろう。

  • 安東愛季・実季―二つの安東家を統一した秋田の雄(遠藤ゆり子)

 安東氏といえば広い交易圏のイメージがあり、列伝でも日本海交易による中央との繋がりがアピールされていた。その一方で大名権力としての顔は見えにくい。浅利氏との確執や豊臣政権への臣従にあたって若干のトラブルはあったが、近世大名化をぬるっと達成してしまった感じを持った。「津軽為信」もそうだったが、近世にすんなり大名権力として存続してしまった方が記述はあっさりとしてしまうのかもしれない。

  • 小野寺義道―周辺領主を束ねた仙北地域の領袖(金子 拓)

 小野寺義道は周辺領主を攻撃し、それ自体は成就しないものの、豊臣秀吉に服属することで領域的大名権力となることに成功する。おっ、自力で成功はしなかったものの戦国大名っぽさが出てきたんとちゃう?改易後に仙北名字を名乗るのも、強いこだわりを感じさせて良いですね。

  • 最上義光―地域の盟主から絶対的な大名権力への脱皮(菅原義勝)

 最上義光についての読後感は「すごい!戦国大名がやっと出てきた!」。いや、ここまでの立項者って軍事的に強いだけだったり、近世に血脈が繋がらなかったり、近世大名化したとしてもそれは統一権力との関係による受動的なものだったりしたのが、この最上義光の項目は、専制への志向による家臣団や父との対立、征服戦争、内政の整備と一般的戦国大名らしさにあふれている。最上氏は大名としては江戸時代前期に改易されてしまうのだが、義光が注目され続ける理由の一端がわかったような気がする。

  • 大宝寺義氏―道半ばで非業の死を遂げた庄内の名将(菅原義勝)

 ここまででもチラチラ横死していた大宝寺義氏!ここで単独立項されることでさらに面白く見えてくる。大宝寺義氏もまた戦国大名権力を志向しており、その成果も実際に上がっていた。ところが、それが反発を招き前森氏永の謀反によって横死してしまう。謀反がなければ大宝寺義氏も最上義光のような大名権力になっていたかもしれないが本項における義氏評だったが、そう思わせるに十分な質量の記述だった。前項の最上義光とのコントラストにもなるし、こういう人物が立項されているのもうれしい。

  • 大崎義隆―奥羽仕置の前に沈んだ奥州きっての名門(遠藤ゆり子)

 大崎氏といえば奥州探題のはずだが、義隆の頃には探題職を伊達氏に奪われていて、動向からも名門らしさは窺えない。大崎氏の内乱も発端や義隆の位置はよくわからず、それでいて秀吉に参陣しなくとも存続の可能性自体はあったというのも奇異な気がする。

  • 葛西晴信―秀吉の奥羽仕置で大きく狂った運命(竹井英文)

 東北の戦国武将は史料が少ないイメージだが、葛西晴信は200通もの発給文書が残っており、同時にそのほとんどが偽文書という。何でこう極端なの…。大崎義隆とも共通する話題になるが、「奥州仕置」によって東北の大名が一気に豊臣政権へ!というイメージとは異なり、葛西晴信もしれっと統治を継続していたらしく、改易後も復権に向けて精力的に動いている。どうも安東氏を南部氏傘下と一時誤解していたように豊臣政権の東北観というのは曖昧、というかあんま真面目に構ってないだろうと感じる。その意味では「奥州仕置」などいくらでもひっくり返る余地はあり、当事者もそこまで深刻ではなかったのかと思うと同時にやっぱりそれくらいぼやけた統一権力の意志一つで権力から追われるのも嫌だなあと思った次第。

 伊達稙宗はこの本の立項者の中で最も古株に属する人物になる。しかし東北戦国スターターセットというか、張り巡らされた姻戚関係に、領国整備、守護職補任、これらへの反発による父子相克と敗北などなど、東北の権力がどう振舞い、何が目指されていたのか、各氏族の関係の前提はどう作られたかが稙宗1人に濃縮されている。南奥羽については総じて稙宗の「遺伝子」を何らか受け継いでいると見て間違いない。あえて言えば、早すぎた戦国大名とも言えるかもしれないが、目指すところが広域支配ではなく、幕府秩序の中で公権者の地位を占めようというのは戦国中期という時代性を感じる。

  • 伊達晴宗―父稙宗・子輝宗との相克に揺れた人生(長澤伸樹)

 伊達晴宗は個性の強い父・稙宗や、政宗の前史である子・輝宗とは異なり確かに影は薄い。しかし、影が薄いからといってそれが悪いわけではないことを晴宗の事績は教えてくれる。天文の乱の収拾にあたって大量に知行宛行したのも晴宗だし、重臣の抜擢、念願の奥州探題就任、米沢への本拠地移動など、輝宗・政宗が暴れられる下地はほとんど晴宗が作ったように見える。しゃがみ込むのはジャンプするため。そういった評価が晴宗には似合うのだろう。

 晴宗とは打って変わって家臣団統制と軍事行動へ注力する輝宗。いよいよ伊達氏の戦国大名化が始まる装いだが…そこまで成果が上がってるわけでもないな?色々やり始めたが開花に至らなかった印象である。輝宗は畠山義継に拉致され殺害されるが、仮に命を長らえていた場合歴史が変わるのかは気になるところだ。

  • 伊達政宗―戦国末期を鮮やかに彩った南奥羽の〝覇者〟(佐藤貴浩)

 東北戦国史の大本命・伊達政宗がいよいよ登場。しかし、政宗の叙述もいわゆる英雄らしくはない。家督継承にあたって体調は崩すし、父輝宗死亡による二本松畠山氏への復讐戦も勢いで完勝できるわけでもなく、いつの間にか四方を敵に囲まれたりしている。近年の政宗のキャラはどちらかと言うと政治力が評価されているが、本項での政宗像も戦争と政治をバランス良く展開することで、どっちでも失敗はあるのだがコツコツ実績を積み上げているように見える。その意味では摺上原合戦は確かに戦国大名としての政宗の総決算なのだが…その直後に秀吉が来てしまうのが何とも無常である。
 あと、伊達政宗といえば「独眼竜」としても知られるが、本項はそういった記述は一切ない。紙数の関係もあるだろうが、政宗が片目であったかどうかでその事績や評価が変わるわけではないので、書かなくても良いと言えば良い。本項では秀吉への服属までで記述が終わるのもあるが、弟とされる小次郎の記述もない。武将列伝シリーズの史料・研究重視の姿勢が窺えるものだろう。

  • 伊達成実―南奥制覇に貢献した伊達家きっての猛将(佐藤貴浩)

 今回立項されているのは大名その人がほとんどだが、流石伊達家はネームバリューがあるのか、家臣からの立項がある。伊達成実は伊達氏一門でもあるが、伊達名字を名乗れているのは偶然で有力一門としての歴史があるわけではなかった。それでも政宗から登用され、外交・内政に最大限活躍、その権限も自立可能なものまで任されるなど、これは立項されるに足ると実感できる。…なんとなく三好長逸とのシンパシーを感じる人物だな。

 片倉景綱も一般知名度が高い伊達政宗家臣だ。私のイメージでは政宗の親友兼腹心といったところ。本項ではそういった景綱像を過大なものとしつつ、それでもやはり政宗から信頼される重臣の姿を描き出している。成実の項でも述べたように今回家臣としての立項が成実と景綱のみで、成実が伊達一門であることを思うと、純粋に東北大名の家臣としての働きが見られるのは景綱の項目だけになるので、そういう視点の提供でありがたい人物だった(景綱の家臣像でどこまで一般化できるのかはわからないが)。

  • 田村清顕―力と知恵で領土を守った三春の隠れた名将(山田将之)

 田村清顕の初出が永禄13年(1570)の書状なので、清顕の生年は弘治年間と推測しているが、天文10年(1541)には父隆顕が活動していて、娘の愛姫の生年も考えると、天文20年前後には生まれていたと見た方が良さそう。
 それはともかく清顕の生涯は伊達政宗の呼び水という印象を持った。清顕が何を考えていたのかはわからないが、周辺の大勢力と諍いを起こした挙句、その諍いを伊達氏に引き継がせて退場していく。清顕自身は苦境を招き寄せたが、その苦境を娘婿が打開し糧にしていったという構図になる。その意味では清顕もまた政宗の「父」であったのだろう。

  • 岩城親隆―岩城家入嗣を運命づけられた伊達晴宗嫡男(泉田邦彦)

 岩城親隆、この本に立項されてる武将の中では圧倒的冴えなさである。実父や養父との関係に振り回され、養父が亡くなり自身も病となると狂乱の体となりそのまま政治からは退場してしまう。その後20年生きているのに全く出て来ず、本当に政治的不能になってしまったらしい。代わって、親隆の妻(桂樹院)が当主代行として文書発給主体になる。こう見ると、『畿内編』で洞松院が立項された前例もあることだし、親隆・桂樹院の共同立項した方が面白かったかも。

  • 岩城常隆―二十四歳で夭折した、戦国期岩城氏の最後の当主(泉田邦彦)

 親隆に続いて、立項武将中最も可哀想なのは間違いなさそうなのが岩城常隆。12歳で家督を相続し24歳で没するまでの当主としての生涯は周辺情勢の動乱の連続。当然イニシアチブを発揮できる期間もほとんどなく、田村氏家中へ介入するあたりは主体性を感じさせるが、劣勢となると伊達政宗と和睦してしまい、そのまま夭折してしまう。その生涯を評価しようとするなら、本項にもあるように伊達と佐竹との間で自立を保ったということになるのだろう。

  • 相馬盛胤―伊達氏との抗争を乗り越えた南奥の勇将岡田清一

 弾正大弼任官が正式なものとして特筆され、家督継承も並立からの委譲、引退後も長生きしているなど、立項武将の中では安定感を覚える武将。ただ、発給文書5通、受給文書2通という現存の少なさは流石というか…。

 それにしても相馬氏も戦国大名として成熟しないままぬるっと近世大名化してしまった感じがある。秀吉への出仕に当たっても、伊達氏への態度が定まらず小田原には参陣できなかったというのも当主の指導力のなさに見えるが、大名の地位は保障され関ヶ原も何とか乗り越えた。大崎・葛西・白河「ぐぬぬ

 蘆名盛氏といえば「伊達政宗がうん十年早く生まれていたら…」に対して「全盛期蘆名に政宗は勝てるのか?」というマウントでよく登場するイメージがあり、私の印象としても「隠れた英雄」という感じがある。今回での立項での盛氏の印象をまとめると、伊達・佐竹二大勢力との協調の中、独自の家臣団を抜擢・整備し、周辺国人を主従関係に取り込んでいったとなるだろうか。領国統治面での紛争調停の記述もあり、戦争を繰り返し領土を拡大せんとする戦国大名像とはまた別の意味で戦国大名権力を固めていっている。この独自の調停力によって平和を実現するタイプなのは三好長慶とシンパシーを感じる…(合ってるかどうかは知らない)。前提として伊達との協調があるので、政宗が仮に10年早く生まれて軍事行動を起こしていたらIFは単純に盛氏が勝つとは言えないかもしれないが、それでも盛氏の政治力は政宗が何とかできるものではないのではないかとは思えた。

 嗣子盛興を亡くした蘆名盛氏が後継者としたのが、二階堂氏出身の盛隆となる。他家出身となると趣がまた変わるものだが、盛隆時代での変更は蘆名一門の登用くらいで基本は盛氏の路線を受け継いでいる。しかもそれで上手く回っているのだから言うこともなかったが、盛隆が死亡し(殺害?)バランスが完全に崩壊してしまう。結局盛隆が死んだ事情がさっぱりわからないものの、盛隆死後の当該地域の混乱・火薬庫ぶりは、盛隆、引いては蘆名氏権力の存在感を強く覚えさせた。…いや何で盛隆さん死んで(殺されて?)しまうん?蘆名氏の終焉がこんな意味不明だなんてあんまりだよ…。

  • 白河義親―南陸奥の和平を司るコーディネーター(戸谷穂高

 白河義親についてはイメージが全然なかったが、義親は本来の当主から家督を簒奪したのではないかという説が隆起したところから、史料整理の過程で白河結城氏幻の当主「隆綱」が発掘され、余計に議論が錯綜していく様は面白かった。当の義親はコーディネーターとしての評価がなされているが、蘆名氏が斜陽な中伊達陣営に転じたりといった部分は、どうしてもコーディネーターたり得なかった部分というか、蘆名氏の役割が義親→政宗と受け継がれ(消滅し)ていっているような流れに見える。義親もうまく立ち回ったとは思うのだが地域の中核にはなりきれなかった。それでも奥州仕置で改易されてしまったのは「何で???」だが…。白河氏は史料が豊富なのが近年ようやくまとめられてきているようなので今後の研究にも期待したい。

総感想

 面白かった。やはり皆さん相応に史料がなく、史料があってもそれが真正なものなのか、年次がいつなのかという基礎的なところから難を抱えており、立項された人物が戦国後期に偏ってしまっているのもそういう一面の反映だろう。ただし、それによって同じ情勢を視点を変えて追い続けるリレー小説のような趣が確かにあり、過去の武将列伝よりも状況に対する有機的な連関を理解させてくる。
 以下、雑感。

  • 伊達氏は四代も立項されているが、執筆者が全員別というのも研究の深みを感じる。稙宗が戦国大名っぽくなろうとしたら失敗したので、晴宗が改めて下地を整え、輝宗の積極性を経て、政宗のバランスの良さに結実するといった流れだろうか。
  • 難読名字が多い気がするけど、土地勘がないからだろうか。厳密には東北武将ではないが、佐竹一門の部垂氏(へたれ)は酷い名字だと思う。
  • 家系や実名がよくわからない家が目立つ。近世に存続しなかった家もあるが、津軽氏が代々系図粉飾を重ねていることや南部氏が一門を再編していたように、近世に入ると今度は近世の秩序に合わせて系譜を改変しているので、何を見るにせよ史料批判が欠かせないようである。めんどくさいことをしてくれる!
  • 大名としては滅んでもその後復権を目指して活動していた勢力もあるが、その後自然にフェードアウトしていってしまうので、いつ死んだのか、子孫はどこへ行ったのか、確定できない勢力もまた多い。うーむ、子孫も確定できないとは何とも。
  • 奥羽両国は広大なので一般的な守護職では測れないのだろうが、「屋形」号持ちの大名多い…多くない?基準は何?
  • こいつらずっと戦争やってるけど、決着がつくか膠着したら誰かが仲介にでてきて和睦してるな(中人制)。戦争も和睦も長続きする方が例外的?戦争に勝つよりも「調停者」のポジションに就くことがアドバンテージという認識があったようにも見える。

 全体的に見て「有力になっても主従関係を解消しない」「地味だけど内政特化」「専制を志向するも父・子と対立したり、配下に討たれる」あたりは他地域でも既視感があるもので確かに中世・近世移行期の味がある。というところで東北の特色のように思えるのは、やはりこれらの動きが顕著になるのが天正期以降ということだろう。あんまり遅れているというようなことは言いたくないが、それにしても遅い。自発的に近世に移行する前に統一権力が「近世」として暴力的に乗り込んできたための齟齬は確実にあったと思う。その中でもなぜか改易された大名やなぜか存続できた大名もおり、中世の方法を継続しようとした九戸のような敗者もおり、戦乱とは別の意味で儚い…。そういった情景を感じることができた1冊と言える。
 ただし、個別の動向に関してはまだまだ理解が及んでいないので感想でも満足に触れられていない。家族関係や陣営移動についても、大局の中でどうなのかというところまでは踏み込めなかった。今後とも勉強していきたいところである。