志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好政長(三好宗三)―細川晴元権力の体現者

 戦国時代、三好長慶細川晴元や将軍足利義輝と戦い三好政を樹立した。長慶は三好之長以来、受領名「筑前守」を名乗る三好氏の嫡流であった。一方で三好氏には多数の支流があり、長慶という「主流」にある時には従い、ある時には対立して生き残りを図った者たちもいた。三好政長(三好宗三)もその一人である。三好政長の歩んだ道は決して「主流」となることはなかった。しかし、彼が権力を得た階梯や趣味嗜好は畿内戦国史の中に確かな足跡を残している。政長は三好氏の中では傍流のさらに傍流という立場であり、決してなるべくしてのし上がれたわけではない。しかし、と言うよりもだからこそ政長は細川晴元権力の要となって立身し権力を掌中に収めることになったのである。
(なぜ三好政長なのか?と言えば、私は三好三人衆について、長逸は書いてみたので次は宗渭と思い、宗渭について書き始めたら前史としての政長が予想以上に膨らんでしまい分離したという経緯がある。しかし、三好政長について書くのは予想以上に難しかった。近年三好氏研究や戦国細川氏研究が隆盛しているのは実に有難いことであるが、両者の中でも政長はクローズアップされていないからである。三好氏研究は之長→元長→長慶の「嫡流」を軸としていて、政長は「もう一つの三好氏興隆の道であった」とされつつもその政治権力や立ち位置についてそれ以上突っ込むことはない。戦国細川氏研究は馬部隆弘先生が近年成果を上げており、三好政権に至るまでの細川権力の中の階梯について有意義な示唆を与えてくれる。しかし、その階梯は柳本賢治と木沢長政を語った後、その縁者であり晴元権力のキーマンであろう三好政長に焦点を当てず、高国残党の細川国慶細川氏綱へと視点がシフトしていく。そのため三好政長の畿内戦国史における役割というのは三好氏研究でも戦国細川氏研究でも非常にぼやけてしまっている。本記事はそのような三好政長を語ろうとするものだが、如何せん筆者による「脳内補完」や「妄想」の類がとても多いことをおことわりいただく。)
※本記事は三好政長(宗三)に関する情報を募集しています。また事実の誤謬などありましたら遠慮なくご指摘くださいますようお願いします。

三好政長の来歴と父兄たち

 三好政三好長尚の子である。政長は死の際には42歳とされているため、生年は永正5年(1508)ということになる(松永久秀と同歳である)。父三好長尚は三好氏の惣領三好之長の弟である。政長には後述するように二人の兄がいたから三男以下であり、確認できる長尚の子の中では末子となる。政長の仮名は「神五郎」(「甚五郎」「秦五郎」と書かれることもあった)で出家した後は「神五郎入道」法名として「半隠軒宗三」を名乗っている。「宗三」の読みは「しゅうぞうShuzo」とされることもあるが、当時の記録類に「宗サン」「ソウサン」が見られるため「そうさんSosan」が正しい。本記事では時期によって政長と宗三を使い分け、客観的評価の際の呼称としては「三好政長」を用いる。なお、政長は受領名「越後守」あるいは「越前守」を名乗ったともされるが、少なくとも本人がそれらの受領名を自称したことは認められない。政長が一生を仮名「神五郎」のみで過ごしたのは意味があると考えられ、後述する。
 政長に触れる前に政長の父三好長尚と兄たちの事績を確認していこう。父長尚は「三好越後守」という受領名で知られている。一部の系図類では長尚の実名を「勝時」とするが、越後守が自署した実名は「長尚」のみで「勝時」は全く確認できない。『三好記』などの軍記によれば、天正7年(1579)に三好徳太郎に討たれた「三好越後守」の実名を「勝時」としている*1系図類はこの「三好越後守勝時」を三好長尚と見なした可能性がある。しかし、三好之長の弟で永正~天文年間に主に活動した長尚が天正年間まで生きていることは考えられないため、三好勝時は受領名「三好越後守」を共通させた別人である。
 長尚は三好之長の弟とされている。活動の初見は永正4年(1507)細川澄元が大和に派遣した軍勢に「三好越後守」が加わっているものである。この戦争はこの年細川政元が殺され、澄之と澄元が争ったのに連動したもので、長尚は兄之長とともに澄元に従って畿内に来ていたものと考えられる。長尚の活動が次にみられるのは約20年後で、大永6年(1526)12月13日大甥・三好元長(之長の孫)に従い、二人の子供とともに和泉国堺に上陸して戦った。以降、畿内に留まり、細川晴元重臣であったが、徐々に存在感を後退させた。最期は系図類では享禄5年(1532)に飯盛山城で討死したとされる。ただし、これは誤りである。享禄5年(1532)には河内守護畠山義堯と木沢長政の対立が先鋭化し、義堯は三好一秀(之長・長尚の弟)を頼み、飯盛山城の木沢長政を攻めた。長尚の旗幟は不明だが、あるいはこの時に戦死した息子である可能性がある三好家長かこの後に戦死した弟の一秀との混同が見られるのかもしれない。実際には天文9年(1540)6月19日に死去したことが『天文日記』より確認される。死ぬまで「三好越後守」と称されており、家督であったと見られる(「越後守入道」という表記もあり出家していたようだ)。兄である三好之長は長禄2年(1458)生まれであるため、長尚はかなりの長寿と推測される。
 長尚の長男にして、政長の長兄は三好長久である。長久の畿内デビューは弟たちより早かったが、デビューとともに世を去った。どういうことかと言うと、永正16年(1519)長久は叔父三好之長に従い、細川澄元軍の先鋒として細川高国が支配していた京都を奪回した。しかし、澄元が病で動けないこともあって之長は一度京都を奪ったものの高国の反攻を許し敗れ去った。永正17年(1520)長久は叔父之長とともに捕えられて、二人とも百万遍で斬られたのだ(厳密に言えば長久が之長を介錯し、その後自害したらしい)。長久は「筑前が弟の三好越後と申者の子」とされるから長尚の子であることは確実である。おそらく父の名代であったのだろうが、実績を残す前に最期を迎えた。三好長久は史料ではもっぱら仮名の「三好新五郎」としてしか見えないが、「三好新五郎長久」の署名文書があるため、実名は「長久」であると確認される(なお新五郎という仮名は政長の「神五郎」と同じものである可能性もある)。
 長尚の次男で、政長の次兄は三好長家である。長尚の息子としては大永6年(1526)12月13日父長尚に従い戦った「三好左衛門尉」が初見である。「同弟神五郎」とあるため、政長(神五郎)の兄であることもわかる。大永7年(1526)2月13日には弟政長とともに細川高国に味方する武田元光と戦い、大勝を収め「樊噲張良も面をむくべきやうもなし」と絶賛された。この時京都に攻め入った晴元軍における三好氏は「柳本波多野三吉越後」あるいは「三好越後同弟神五郎」と他称されているため、長家は父長尚の名代の地位にあった。この頃「三好左衛門佐長家」として弟政長とともに文書を発給している人物は「三好左衛門尉」と同一人物であろう。よって、系図類では長家の実名は「三好勝長」とされることが多いが、「長家」が正しいことがわかる。しかし、長家は戦いで重傷を負った後は活動が見えなくなる。戦傷によって死去したのであろうか。
 一方「三好左衛門佐」が消えてから入れ替わるように出現した「三好遠江守」が長家の後身であるともされる。「三好遠江守」の実名は家長だが、長家と署名するものもあるからである(ただし、改名歴は「三好遠江守長家」(永正16年)→「三好左衛門佐長家」(大永7年)→「三好遠江守家長」(享禄年間)が想定されるため歪なものとなる)。しかし、この「三好遠江守」すなわち三好家長は三好元長の「年寄中」であり元長より下乙訓郡代に任命され、享禄2年(1529)三好元長柳本賢治の間に合戦が起こると京都から元長の加勢に駆け付けた。また享禄5年(1532)6月15日には三好元長に従って木沢長政が籠城する飯盛山城を攻めていた際、一向一揆の襲撃に会い「兄弟郎党以下討死」した(家長には代理人を務める「遠江弟」がいた。この弟は三好政長とは別人である)。三好家長が三好長家の後身であるとすれば、長家は桂川原の戦いで「三好越後」を標榜しつつ、元長の「年寄中」しかもその立ち位置は塩田氏や市原氏と同じ被官層であったことになる。「三好遠江守」は系図類では之長・長尚・一秀の弟三好勝宗として見えるが、家長の系譜的位置は確定できない。系図類において三好長尚が「勝時」、長家は「勝長」であるので「三好遠江守」(勝宗)も彼らに近い位置と見なされたのかもしれない。
 以上が三好政長の登場を用意した父兄たちである。三好長尚とその長男であろう長久は嫡流の三好之長・三好元長に従属する形で畿内への軍事行動に加わっていた。一方で嫡男であったろう長久が三好之長とともに処刑されてしまったことは、長久の遺族の後の行動に影響をもたらした可能性がある。三好氏嫡流と一体になるがゆえの没落に巻き込まれてしまう危険性が認識されたのである。大永6年(1526)以降の三好氏の軍事行動でも長尚とその子たちは三好元長に協力したが、その行動は元長に先んじており、三好長家・政長兄弟の大永7年(1527)における戦功も単なる「三好」ではなく「三好越後」(長尚)と認識されていた。しかし、政長の兄・三好長家は大永7年(1527)に没したか、三好元長の指揮下に戻り享禄5年(1532)戦死する。父三好長尚も天文年間に入ると徐々に表舞台から退いて行く。
 三好政長が初めて歴史上に姿を現したのは、先述した大永6年(1526)12月13日に三好元長に従って父と兄とともに阿波から和泉国堺に上陸した時である。政長は兄長家とともに京都に攻め入り大永7年(1527)2月13日細川高国の部将武田元光相手の戦いで「樊噲張良に比されるほどの大勝利を挙げた。この軍事行動は「三好越後」としての参加であり、三好氏の惣領である三好元長とその腹心は参加していなかったようだ。そして京都から高国の勢力を放逐した晴元軍、具体的には柳本賢治は京都の支配を開始し、三好政長も彼らと関係を結んで行ったと推測できる。

両細川の乱と波多野三兄弟

 柳本賢治という名前が出たついでに、賢治とは何者なのか、この頃何が起きていたのかを確認していこう。永正4年(1507)室町幕府管領であり、畿内の最有力者であった細川政元が謀反によって討たれたことで畿内と細川家中は長い内乱に突入した(両細川の乱)。政元には実子がなく複数の養子がいたことから後継者争いが起こったのである。一方の勢力は阿波細川家から養子に入り、四国の軍勢を率いて戦った澄元→晴元の系統で三好氏もこれに属していた。一方は畿内国人のまとめ役であった細川野州家の高国→氏綱である。最初の戦いは高国の勝利に終わり、澄元と三好氏は本国である阿波に逼塞せざるを得なかった。永正16年(1519)にも澄元方には京都奪還のチャンスがあったが、この時は当の澄元の病死によって失敗に終わり、三好氏の惣領之長が処刑されてしまったのは先述したとおりである。
 こうして室町幕府細川高国と彼が擁立した将軍足利義晴によって運営されていた。しかし、高国は大永6年(1526)重臣香西元盛を謀反の疑いで一方的に殺害した。これに怒りを発したのが、元盛の兄弟である波多野元清柳本賢治であった(賢治と元盛は丹波に勢力を持つ波多野氏からの養子であった)。元清と賢治は主君高国に対して挙兵し闘争を開始する。
 このゴタゴタを細川澄元の子・細川晴元*2は見逃さなかった。高国政権の内紛の今こそ高国を追い落とすチャンスと見た晴元は阿波から大軍を畿内に上陸させ、大永7年(1527)には決戦に及んで高国相手に勝利を収めた(桂川原の戦い)。この戦いの中で三好政長とその兄長家が畿内デビューを果たし戦功を挙げたのも先述した通りだ。この決戦には波多野元清と柳本賢治の兄弟も晴元軍として参戦していた。彼らは高国を見限って晴元を主君に仰ぎ、その旗下に加わって行く。
 しかし、近江に逃れた高国は足利義晴を将軍として手元に確保しており、「正統性」を有していた。これを打開するために晴元は「堺幕府」を立ち上げた。阿波には足利義晴の兄弟である足利義維が「阿波公方」と称されており、晴元は義維を「将軍」として推戴したのである。義維を「将軍」とする「堺幕府」は京都を抑え精力的に統治にあたった。ただし、義維は征夷大将軍に任官されず、「堺幕府」と「将軍」義維の権威は全国的なものにはならなかった。一方で「堺幕府」の存在は室町幕府とこれを支える大名と国人の関係に一石を投じて行く。畿内近郊に二人の「将軍」と二人の「細川京兆」が存在するという異常事態の解消こそが最大の政治懸案として存在することになったのだ。

柳本賢治三好元長

 ところで元来三好氏は都の嫌われ者であった。早くも文明17年(1485)には三好之長が京都に土一揆を組織して略奪を繰り返していたところ、京都所司代からの追及を受け、主君細川政之が庇って何とか場を収めたということがあった。細川政元の後継者争いでも阿波細川家出身の澄元の重臣として都にやって来た之長は専横の振る舞いが多く、それが細川家の畿内被官の恨みを買っていた。高国が勝利し、澄元が四国に追い落とされたのも、見方を変えれば之長が澄元の重臣として権勢をふるうことへの危機感が背景にあった。之長は永正17年(1520)に処刑されたが、これは「いまの三好は大悪の大出なるものなり。皆の人々悦喜せざるはなし」(三好之長は極悪人であり、(その処刑に)喜ばない人々はいなかった)とまで書かれた。畿内の人々は四国出身の三好氏に概して否定的であった。
 果たして大永7年(1527)2月細川高国は敗れて京都から去り、柳本賢治を中心とする細川晴元軍が京都に進駐した。賢治にとっての課題は幕府官僚が離散し、主君晴元が堺に留まる中京都でどのように支配を実現していくかにあった。賢治は幕府の吏僚ではないにも関わらず、京都で禁制を発給し荘園領主との交渉を始めた。また、畿内の国人に柳本名字を付与し一門・家臣化するなど独自に編成を行った。柳本賢治の立場は細川晴元の「申次」であり施策にも堺から指示を仰ぐなど政治的配慮もあったが、独自に山城国の国人を組織し支配することを実現していたのである。
 しかし、賢治の京都支配はあっさりと終焉を迎える。大永8年(1528)7月細川晴元三好元長山城国下五郡守護代に任命し、京都支配を委任したのである。元長は山城国を支配するために郡代を配置した。郡代葛野郡に市原胤吉、乙訓郡に三好家長、愛宕郡に塩田胤光、紀伊郡に森長秀、宇治郡に逸見政盛と推定され彼らを元長の大叔父・三好一秀がまとめている構成にあった。このメンツは全員が三好一族か阿波国人であり、畿内出身者は一人もいなかった。元長は現地の国人を抜擢せず故郷の阿波から勢力を扶植する姿勢を明らかにした。四国出身の三好氏が本格的に京都支配に乗り出したのである。
 これに一定期間山城国を支配してきた賢治が反感を抱くのは当然である。京都をめぐる三好元長柳本賢治の対立は深まり、実際に合戦に及ぶなど実力行使さえ行われた。享禄2年(1529)2月柳本賢治三好政長とともに主君細川晴元に元長を讒言し、元長を失脚させることに成功する。堺公方足利義維を「将軍」と積極的に認めようとして、細川高国を堺幕府に取り込むことを図る元長を、賢治は「元長は高国と結ぼうとしている」と讒訴したのである。賢治にとっては怨敵である高国との「和解」は飲み難かったし、むしろ足利義晴は廃すべき将軍ではなく確保すべき将軍であったという路線対立が背景にあった。二人の主君である細川晴元は後者の路線を選択したのである。当の三好政長は同族の惣領元長ではなく柳本賢治と結んで畿内に留まっていた。

滅亡する三好元長

 これを見た細川高国は反攻を開始する。この最中の享禄3年(1530)柳本賢治は播磨進攻中謎の刺客に暗殺された。賢治の死に晴元の軍勢は退潮を余儀なくされる。享禄4年(1531)に高国は京都を奪回し、摂津の国人たちを自らの陣営に引き戻していた。この事態に晴元の重臣の一人であった木沢長政は失踪してしまった。柳本賢治、木沢長政といった有力武将を失った晴元陣営は切羽詰まって行く。
 細川晴元三好元長に頼るしかなくなった。晴元は阿波に逼塞していた元長に出馬を要請したが、『細川両家記』によればその内容は「望共悉く相叶へらるべき。早々罷上れ」(何でも言うこと聞くからすぐ来てくれ)であったという。これを聞いた元長が「ん?今何でもするって言ったよね?」と言ったかどうかは知らないが、享禄4年(1531)2月に畿内に復帰、阿波守護細川持隆に8000の援軍を出させ、三好一秀を片腕に陣容を立て直した。戦争は長期戦の構えを見せたが、元長は高国に味方する浦上村宗から赤松晴政を離反させ6月には高国とその与党を殲滅した(大物崩れ)。両細川の乱は決着したのである。
 この勝利で三好元長の声望がいよいよ高まったのは言うまでもないだろう。しかし、それは元長への反感がより強まっていくということでもあった。最大の政敵細川高国を倒した細川晴元は近江に逼塞していた将軍足利義晴との和解を考え始めた。「堺公方足利義維を見捨てることに元長は反発した。さらに悪いことに元長は失脚させられた怨みとばかりに、晴元に無断で享禄5年(1532)1月に柳本賢治の後継者・甚次郎*3の殺害に及んだ。元長は「何でも願いは叶えるって言ってたじゃん」と思っていたのかもしれないが、勝手に家臣を殺された晴元が激怒したのは当然である。阿波守護細川持隆は何とか晴元と元長の中を取り持とうとしたが、奏功せず阿波に帰ってしまう始末であった。こうして晴元と元長を仲裁しようとする勢力はなくなった。
 折しも畿内では新しい動乱の種がまかれていた。細川晴元重臣木沢長政がいたことは述べたが、この長政、何と元は河内畠山氏(畠山総州家)の家臣で畠山氏と細川氏に両属という状態だった。長政は本来の主君・畠山義堯を軽視する形で晴元と繋がり、その重臣に登っていた。これまた義堯が長政を不快に思って当然である。この対立はいよいよ白熱し、享禄5年(1532)畠山義堯は飯盛山城に籠る木沢長政を包囲し実力行使に及んだ。
 三好元長は畠山義堯と結んだ。木沢長政は主君晴元の寵臣でもあったが、元長と折り合いが悪かった。ここらで畠山に恩を売るついでに排除しておこうと思っていたのだろう。細川家中最大の軍事力・三好元長の助けを得た畠山義堯は包囲戦を有利に展開、享禄5年(1532)5月には長政討伐は時間の問題になっていた。
 木沢長政を助けるべく細川晴元三好元長法華宗の徒であることに目を付けた。享禄5年(1532)6月畿内全土で一向一揆が蜂起した。晴元が本願寺一向一揆の蜂起を依頼し、本願寺はその依頼に乗ったのだ。飯盛山城を包囲していた畠山・三好軍は総勢10万とも言われる一向一揆に蹴散らされ、畠山義堯はその場で自害、三好政長の兄である可能性がある家長も殺され、堺に逃げ戻った三好元長は妻子を阿波に逃がした後壮絶な最期を遂げた。晴元は裏ワザのような手で最大の重臣かつ最大の障害となっていた三好元長を始末したのだった。

細川晴元と「御前」権力

 ここまでの流れにほとんど三好政長が出て来なかったが、本当にこの頃政治的に何をしていたのかわからない。晴元の側近であったのは間違いないが、主体性を発揮して行くには25歳程度では若すぎたのだろうか。しかし、それを言うなら細川晴元も天文元年(1532)においては未だ19歳である。ここまで「晴元は~」と語ってきたが、晴元が独自に判断を下していたわけではない。未だ成熟していない晴元には有力なブレーンがいたと考えられる。では「晴元は~」で語られてきた真の主体とは一体誰なのか。
 『細川両家記』にはこの時期の晴元について特筆すべき記述がある。三好元長讒言の際「晴元御前衆可竹軒、三好神五郎、木沢左京亮相談」というのがそれである。「可竹軒」すなわち可竹軒周聡、「三好神五郎」はご存じ三好政長、「木沢左京亮」は木沢長政、この三人が「晴元御前衆」であったというのである。『細川両家記』の記述の当否はともかくとしてこの三人が晴元権力のキーマンだったのは間違いない。ただこの三人が対等な立場で権力集団を形成していたかどうかは疑問が残る。本記事では、晴元から政治的諮問を受け、あるいは晴元と一体化して政策決定を行う「御前」なる地位があったと見ることにする*4
 最初に「御前」であり「御前」権力を用意したのは可竹軒周聡であろう。可竹軒周聡という呼び方は正確ではない。これは出家後の号であり、「可竹軒」は姓や名字の類ではないからだ。周聡は京都の公家や寺社に独自のコネクションを持っており、細川京兆家の当主からも敬語を付与されているため、細川氏の被官ではない高位の出身であったことは疑いない。阿波細川家の一族ではないかという説がある*5ため、本記事では「細川周聡」と呼ぶことにする。
 細川京兆の側近という周聡の元の地位は周聡が独自に開発したものではない。晴元の父・澄元にも「光勝院周適」という僧体の側近がおり、周聡は周適の後継者であろう。しかし、「堺幕府」の成立という歴史的事件に細川晴元が幼少であったことは、周聡の役割を拡充、側近を「御前」に変えて行く。柳本賢治の京都支配は先述したが、この監督に当たっていたのが周聡で、周聡本人も山城国西岡国人を被官とするなど京都周辺に権益を有していた。また、京都から細川晴元へ取次が行われる際も周聡は連絡係の中坊堯深と密接に接触していた。柳本賢治三好元長が対立を深める中「細川晴元」としてその権力を掌中にしていたのは細川周聡であった(なんならここまで出てきた「晴元」は全て「周聡」に読み替えてもいいだろう)。この段階では三好政長はもちろん木沢長政でさえも周聡に並列できるほどの権限はない(ただし、当時の動向として晴元に「御前衆」の3人はセット扱いなところがあり、「御前衆」が重要側近セットという側面があったのは無視できない)。
 「御前」権力の特徴を述べると次のようになるだろう。

  • 主君である細川晴元の意志を代弁できる
  • 晴元の名を背景に晴元旗下を編成、指令下にできる
  • 晴元の名を背景に内政の責任者となる

 この地位は一見して絶大な権限に見えるが、その基盤は主君である細川晴元との個人的な信頼関係に全てが依存している。そのために逆説的ではあるが、細川家中において晴元の地位を脅かさないことが「御前」権力を行使できる条件となってくる。その点においては周聡は僧体の細川一族という晴元にとっては安心感の高い人物であったと言えるだろう。

晴元権力の再編と木沢長政

 さて、時を享禄5年、改元して天文元年(1532)に戻そう。晴元もとい周聡が本願寺を通じた一向一揆の動員に成功し、三好元長とその一党を葬った。三好政長は晴元の側近であったが、主体的な行動は見えない。ただし、政長は同族の惣領である元長を特段弁護しなかったし、兄である可能性がある家長の死に反応を示さなかったのもまた事実である。本願寺が動員した総勢10万とも言える一向一揆本願寺のコントロールを早々に失い、奈良・京都・堺に侵入、寺社への襲撃を開始した。晴元は一向一揆を止めるために今度は法華一揆を動員、戦乱はさらに拡大した。
 三好元長の死と足利義維の阿波退避によって「堺幕府」は消滅に追い込まれ、天文2年(1533)2月には晴元本人も一向一揆に襲われて淡路に避難した。この中で周聡は戦死した。晴元は一向一揆頭目である本願寺を討伐しようとしたが、細川高国の弟である晴国が蜂起したことにより和睦を選択する。和睦の仲介人となったのは皮肉にも元長の遺児・三好長慶*6であった(長慶の本格登場まで長かったぜ…)
 戦争は未だ継続していくが、晴元に焦点を絞ろう。晴元は自らの代弁者・「御前」としての周聡を失い、その周聡には後継者がいなかった。さらに戦乱の中、柳本賢治三好元長も敗れ去り、高国残党が息を吹き返す始末である。自然と晴元の政権は再編を迫られる。周聡の地位・「御前」を継承したのは木沢長政である。木沢長政は元々畠山氏の家臣であったが、主家を凌ぐ権勢を発揮し、主家を軽視する形で晴元と繋がっていた。これを不快に思った主君畠山義堯が長政を除こうとしたのが、戦乱の契機となったのも先述した。
 なぜ細川晴元は周聡に代わる「御前」として木沢長政を起用したのか。長政が有能であるのは当然の前提として、信頼を得られた要因を考えたい。まず、長政が畠山氏の家臣という細川政権から見ると「余所者」であったのが根底にあると考えられる。長政が細川政権に食い込んでいくには晴元の信任が前提とならなければならないのであり、これによって長政の専横を制御することが可能となる。次に長政はすでに柳本賢治らと結んでいたことがあり、特に畠山氏の影響が強い山城国上三郡に権益を有していたことである。また、長政には自らの軍事力を有しており、京都支配を安定させ得るのにうってつけの人材であった。ただし、山城国下五郡においては三好政長が三好氏の影響力を継承しており、同時に政長の親類(姉妹であろう)が長政の妻となるなど、長政を晴元権力に繋ぎ留める役割を果たしていた。
 しかし、やはり「御前」木沢長政は周聡の不慮の死による緊急事態という要素が強いように思える。木沢長政は最終的に没落に至るが、「繋ぎ」の側面が大きいのではないだろうか。これに関しては後述しよう。
 三好政長はすでに触れたが、「御前」木沢長政と関係を構築することで晴元側近としての階梯を上った。また、三好氏の勢力は元長、一秀、家長を失い、その勢力も政長が一旦は継承したと見られる。ただし、政長が三好氏の惣領になったわけではない。政長は元長が持っていた河内国十七箇所(その名の通り荘園17個セットである)の代官職を手に入れ、これに隣接する形で榎並城を築き以後城主として本拠地とした。天文2年(1533)より細川晴元摂津国芥川山城に移り、以後芥川山城を本拠地としていた。地理的に言えば京都を睨む位置にいながら摂津を本国とする晴元、大荘園に隣接し淀川流通を通して芥川山城、大和川流通を通して飯盛山城と繋がり、堺と本願寺を睨む榎並城の政長、芥川山城を淀川の向かい側に見つつ大和と河内に影響力を行使する飯盛山城の長政という役割分担となる。

三好政長の妻女と人脈

 三好政長よりも晴元側近としては細川周聡や木沢長政を取り上げてしまうが、政長が主体的に何もしていなかったわけではない。注目されるのは天文前期に政長は畿内に人的結合の種を撒いており、これが後に政長の「御前」権力の伏線となっていくことである。これを確認するために政長の妻女を中心に考察して行こう。
 だが、のっけから三好政長の妻が誰なのかは不明である。しかし、ここで終わってしまっては何にもならない。そこで注目したいのは、三好政長が三好長慶「叔父」であるという所伝が少なからず見受けられることである。すでに見たとおり、長慶から政長に至るには長慶→元長(父)→長秀(父)→之長(父)→長尚(弟)→政長(子)という非常に遠い階梯であるため「叔父」という立場で記されるのは不審である。可能性としてまず考えられるのは、長慶の母で元長の妻が政長の姉妹である場合、あるいは政長の妻が元長の姉妹、長慶の叔母にあたるものであろう。だが、政長と元長の関係がかように近かった場合これは特筆されることであろうと考えられ、そのような関係性が見えてこないのは不審である。
 手掛かりとなるのは、長慶の最初の妻が波多野秀忠の娘ということである。また、三好政長が柳本賢治与党として活動し、あるいはそのように見なされたということは政長と賢治の間に何らかの縁組があったことを暗示する。また、政長の子・政勝(後に政生、宗渭)は香西元盛の子・元成と歩調を合わせ行動した。このように政長は波多野三兄弟の子孫との関係が、賢治が死してなお強い。これは政長の妻が波多野元清の娘(香西元盛・柳本賢治の姪)であることに求められると考えるのは不自然だろうか(宗渭と香西元成は実際に血縁であるゆえに紐帯が深かったのではないか)。そして、このように考えれば政長妻と長慶妻は叔母と姪になり、彼女らを正室とした政長と長慶も叔父と甥の関係に収まる。とりあえずはこのように考えておきたい。(※三好政長の妻は波多野秀忠の娘で、宗渭の母親であると記した史料があるらしいが、未確認のため草稿のまま置く)
 また、木沢長政が敗死した際長政の「后室」「政長親類」として保護されている。長政の妻が嫡流の長慶ではなく、政長の親類とされているということは、彼女は政長の姉妹、娘、あるいは姪であるということになる。彼女は木沢孫四郎相政の母親でもあり、年代的には姉妹であると考えるのが最も整合的だろうか。政長と木沢長政は義兄弟であり、政長を介して木沢長政と波多野三兄弟も血縁を有していたと言えよう。
 さらに政長の「娘」が摂津の有力国人池田信正に嫁ぎ、池田長正を産んでいたのも重要である。私は池田長正の活動時期を考えると、嫁いだのは政長の姉妹である方が整合的と考えるが、それはともかく政長の女系が池田氏に食い込んでいたのは重要な血縁である。しかし、独立性の高い池田氏を擁護、制御できるかどうかは後に政長の命取りになっていく。
 以上が考察を含んだ三好政長の血縁による人脈である。これらの血縁構築はいずれも天文10年(1541)までになされたものである。政長は柳本賢治、波多野秀忠、香西元成、木沢長政、三好長慶、池田信正といった畿内の名族・有力者たちを自身の血縁とし、彼らの勢力を接着させる役割を果たしていたと評価すべきだろう。系図にしてみると次のようになる。
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 政長の人脈は血縁のみに留まらない。政長は天文18年(1549)2月11日茶会を催したが、その際招かれたのは武野紹鴎津田宗達など堺が誇る茶人と商人たちであった(武野紹鴎は政長の師匠でもあった)。政長はつくも茄子や北野肩衝といった名物茶道具や後世宗三左文字と呼ばれた刀などを収集(後述)、贈与しており(宗三左文字武田信虎今川義元織田信長と所持者が移り変わった)、文化を通して近国の富裕者や遠国の大名と関係を構築していた。
 こうした人脈が三好政長(宗三)が細川晴元の「御前」であることを可能にしていったと考えられる。
 一方で政長の直臣は氏名がわかる者がほとんどいない。波々伯部元継や田井長次など懸案ごとに政長の指令下に置かれた人物は存在するが、皆細川晴元の側近たちであり、政長は「御前」権力の下に彼らを用いたにすぎない。政長の家臣は存在しなかったわけではないが、唐木崎三郎(開康)が「与力」として名前が挙げられているくらいで、詳細は不明である。
 ただし、推し量ることは不可能ではなく、天文17年(1548)に行われた将軍足利義輝細川晴元邸御成は政長が惣奉行を務めており、諸役を務めている人名に政長の直臣が紛れている可能性がある。その中で気になるのは御成門の担当者に「撫養掃部助」が見えることである。撫養氏は阿波の国人で三好之長の「執事」として「撫養掃部助」が見られるが、ここでの撫養掃部助は之長執事の掃部助の子孫であろう。同じく掃部助の子孫と見られる撫養隠岐守の後家である阿古女は金融業を営み、まさに天文16年(1547)段階で赤沢氏や友成氏といった京兆家の被官、細川駿河守、細川摂津守といった細川一門、芥川孫十郎といった摂津国に銭を貸し付けていた。政長はかつて三好氏の執事を務めた撫養氏の嫡流を被官化し、その財力を細川京兆家中に適用し編成に利用していたのではないだろうか。三好政長の基盤は土地ではなく、人的ネットワークや財力にあったと推測される。

木沢長政の没落と「御前」三好宗三の誕生

 前項で若干先走ってしまったが、「御前」三好政長(宗三)が誕生する経緯を見て行こう。享禄・天文の乱はなおも続き、高国残党の細川晴国が蜂起するなど晴元方にとっては苦しい状況が続いた。しかし、和平を望む本願寺の姿勢や六角定頼の協力により、天文5年(1536)には一揆を滅ぼすことに成功した。また、高国残党のリーダーだった細川晴国も同年、配下の三宅国村に背かれて自害に追い込まれた。この間三好政長は木沢長政と共にあり、晴元軍の主力として戦った。
 細川晴元「天下静謐」を実現したとも言えるが、戦後問題として浮上したのが三好元長の遺児・長慶の処遇であった。天文8年(1539)長慶は父元長の旧領で政長が統治する河内国十七箇所の代官職を要求したのである。だが晴元はこれを拒否し、長慶は軍勢を率いて上洛し将軍義晴に直接訴えるなど、強硬な姿勢を取った。将軍義晴は調停に動きつつも、晴元と政長は波多野秀忠や細川元常を動員し、小規模な衝突さえ起こった。結局長慶と晴元は和睦し、長慶は摂津下郡守護代とされて越水城の城主となった。天文9年(1540)三好長慶は波多野秀忠の娘と結婚し、晴元・政長と和解に至った。政長にとって長慶は敵と見なす人間ではなく、自身の血縁に取り込むことを選んだ。
 細川晴元三好政長にとって喫緊の課題は長慶ではなかった。「御前」に起用した木沢長政は細川・畠山両属の立場を利用して大和国に進出し「守護」と見なされるに至っていた。元は細川京兆家の家臣ではない長政は融通が利く立場にいたが、その勢力伸長はもはや「御前」としての領域を超えていたのである。
 仕掛けたのは晴元側であった。天文10年(1541)9月三好政長は長慶、波多野秀忠、池田信正といった自身の血縁を動員し、上田氏を殺害すると今度は高国残党とされた摂津国人・塩川国満を攻撃した。国満は縁者である伊丹親興と三宅国村に救援を頼み、親興と国村は木沢長政を頼んだ。ここに「御前」であったはずの長政は政長と敵対関係に陥った。9月29日長政は親興、国村とともに将軍足利義晴三好政長成敗を訴えた。長政は最初から今回の黒幕が政長であると確信していたことがわかる。しかし、長政に与同する勢力は現れなかった。細川晴元は最初から政長を支持していたし、将軍義晴は長政に対して当初は好意的中立を示したがすぐに晴元支持に移った。12月には長政に救援を依頼したはずの三宅国村は晴元に帰参し(伊丹親興は天文11年6月に宥免され、塩川国満もいつの間にか晴元方に帰参している)、長政は畿内に孤立した。
 実に鮮やかに木沢長政は没落した。陰謀論めいてしまうが、一連の行動は全て長政を孤立させるべく動かされているような感がある。晴元方には畠山尾州家の重臣であり、長政とともに畠山家を牛耳った遊佐長教も加わり、天文11年(1542)3月17日木沢長政は三好・遊佐連合軍によって討ち取られた(太平寺の戦い)。こうして木沢長政は滅び去った。
 なぜ、細川晴元三好政長は木沢長政を滅ぼしたのか。木沢長政の勢力が細川京兆家の枠内を超えつつあったのが最大の要因であろうが、本質は「御前」としてイレギュラーな存在であったことにある。長政は細川氏の血縁でもないし、晴元と意思を通わせるには年齢も出身も異質に過ぎた。そのような長政が「御前」たりえたのは細川周聡が死に、畿内が戦乱の中大きな勢力と軍事力を持っていたからにほかならない。すなわち、「天下静謐」が実現してしまえば「御前」長政は不要だった。そして、晴元権力の不穏分子であった三好長慶の政長人脈への取り込みが完了してしまうといよいよ長政は排除されることになった。
 また、後任の「御前」として三好政長の目途が立ったことも重要である。政長の人脈網については触れたが、この頃には三好政勝(後の宗渭)や香西元成、柳本孫七郎が成人し、池田長正が誕生するなど影響力を発揮できる次世代が育ちつつあった。木沢氏も例外ではなく、長政と政長の親類との間に木沢相政が生まれ、この頃には元服もしていたようだ。長政は妻を通して政長と繋がり、相政を後継者とすることで政長や晴元とのパイプを維持、強化したつもりだったのだろうが、政長はこの血縁も利用した。長政の遺族が複数いる中、政長は自身の親類である長政の未亡人と相政を通して長政の財産相続を指示した。政長はこの後木沢相政を保護していくが、同時に木沢氏の財産を接収してその権勢を継承しようとしたのである。
 このような中、天文11年(1543)4月三好政長は法名「宗三」を名乗った。この出家が木沢長政の死に連動したものであることは間違いない。しかし、政長が長政の死を悼んだわけではない。「御前」細川周聡とこれに先行する有力側近光勝院周適はいずれも僧体であった。「御前」権力は主君細川晴元の存在を否定してはいけない。それゆえに俗体であることは憚られたのだろう(その点でも俗体を維持していた木沢長政は配慮に欠けた)。「御前」木沢長政は死に、「御前」三好宗三が誕生したのである。政長の出家はまさに彼が「御前」となった証であった。

晴元の「軍師」三好政長の戦法

 三好政長は軍事に優れた人物とされている。享禄4年(1531)成立の奥書を持つ『細川高国晴元争闘記』でも桂川原の戦いにおいて「并力馳騁者三好神五郎也」とあり、その軍事的才覚は同時代から周知されていた。後代の『三好記』では「三好宗三ノ智謀ハ。隠モナカリケレ共。双六ノ賽ノ一ノ裏ニ六ヲ見ル如ク*7とする。
 しかし、三好政長の軍事動員力は決して高かったわけではない。『言継卿記』天文14年(1545)5月14日条では宇治田原に出兵した細川晴元軍の構成を記しているが、三好長慶が1500、池田氏が1500、香西氏、三宅氏が500の軍勢を率いているのに対して、政長の兵数は柳本氏、伊丹氏と同数の300に留まっている。
 それでは三好政長の軍才とはいかなるものであったのか。これを示唆する逸話が二話あるので挙げてみよう。
 『三好記』には次のような逸話を載せる。大和国の「筒井喜蔵」が畿内に攻め入った際、木之本に陣した。三好宗三は堺南にて四国衆二万を率いたが「筒井は武勇にはやるばかりで知略が形をなしていない」といい、兵を割いて筒井には小兵と思わせつつ、伏兵を用いて筒井を討ち取った…というものである。「筒井喜蔵」って誰だよ?とかいつの合戦だよ?などは気にしてはいけない*8
 また、『常山紀談』拾遺巻三・二十七「上杉弥五郎が事」は、上杉謙信が養子の畠山義春の部下が多いことを諌めた際の言葉として次のように述べている。「三好宗三は五畿内にて弓矢功者の名将なり。宗三常に『人数は遣ひ難きものなり。三百騎より上の勢は遣はれぬものなり』と度々云しと聞けり」。実際に政長が300を超える軍勢を率いたことがないかと言えば別にそんなこともない(上の『三好記』の逸話では2万を率いている)が、この逸話の中では上杉謙信三好政長を少数精鋭を率いる名将と認識している。
 もとより逸話は事実とはあまり関係がないことが多いが、これらの逸話から窺える三好政長の軍才は「必ずしも多くない軍勢を用兵の巧みさで機動的に動かす」ものである。これは動員力の少なさや、そうでありながら軍事的才能を称賛される実在の三好政長に通底するものと言えないだろうか。
 そしてこのような少数を基調とする軍才こそが「御前」として理想的でもあった。政長自身の動員力は欠けており、政長単独で晴元に逆らうことは出来ない(ように見せた)。一方で晴元は大将であったが、実際の指揮については伝わっていない(と言ったがあるかもしれないので、あるなら教えてほしい)。三好元長死後の晴元の軍の総指揮は木沢長政や三好政長が担当していたと考えられ、主力部隊には常に二人の名前が見える(長政が死去した後は政長のみとなる)。三好政長の優れた軍才は戦場において晴元の代理人を務めることを可能にするものであった。三好政長は晴元の「軍師」(ここでの「軍師」は参謀という通俗的な意味)であったと言えるだろう。

三好政長のコレクション

 三好政長が名物茶道具を蒐集していたことは伝承としてよく知られている。しかし、その全貌や実態はよくわからず、とりあえずまとめてみようと思いつつ、苦戦していた。ところがよく調べてみたら織豊期の茶会と政治織田信長以前の茶道具蒐集史がまとめられており、三好宗三の項目もあるではないか。というわけで、97~99頁の表を一部改めたものを載せることにした。

名前 種類 現在 注記
松島 茶壺 本能寺の変で喪失
つくも茄子 茶入れ 静嘉堂文庫美術館所蔵
北野肩衝 茶入れ 三井記念美術館所蔵 国宝
志野丸壺 茶入れ 愛媛文華館所蔵
平釜 茶釜 不明
油滴天目 茶碗 九州国立博物館所蔵 重要文化財
談合茶碗 茶碗 不明
餌笭水指 水指 不明
合子 香合 不明
青磁竹子 花入 不明
貨狄舟花入 花入 本能寺の変で喪失 現存のものは千宗旦
善好香炉 香炉 不明
枯木 不明 玉礀筆
客来一味 宮内庁所蔵 牧谿
香炉 香炉 不明
曜変天目 茶碗 本能寺の変で喪失?
伊勢天目 茶碗 不明
桃尻(古銅) 花入 不明
柑子口 花入 不明
穂屋香炉蓋置 蓋置 不明
香炉青磁 香炉 不明
南蛮合子 建水 不明
半桶 水指 不明
油屋釜 茶釜 不明
丸壺 茶入れ 不明
万歳大海 茶壺 本能寺の変で喪失
水指 水指 不明
舟花入 花入 不明
貝台 不明
河原林の香炉 香炉 不明
七台 不明

 私は茶道具についてはほとんど門外漢であるので、名物の分類の正確さや単なる一般名詞に見えるものが本当に固有名詞としての名物なのか、今一つ自信がない。正確な知識を常に求めている。
 固よりこれらは伝承であって、政長が本当に所持していたと確かめられるものは少ない。しかし、伝承とはいえ、政長の所持した名物茶道具の数は同時代の武士の中ではトップクラスと認められる。しかし、政長と同時期に政長のコレクション数に匹敵する名物茶道具を蒐集した武士がいた。その人こそ細川晴元なのである。晴元コレクションと政長コレクションは一部共通する可能性があるものもあり、水指「半桶」は政長から晴元へ献上されたという伝承がある。晴元と政長の距離の近さを思えば、二人が茶道具を献上&下賜、と言うよりやり取りしていたことが容易に想像できる。
 政長の茶会参加は『天王寺屋会記』が政長が死ぬ天文18年(1549)からしか記事がないため、正確さを欠くが、それでも天文18年(1549)2月11日に政長が茶会を催し、12日には津田宗達、13日には武野紹鴎の茶会に出席していることは注目される。この時期には三好長慶の謀反による戦争が激化しており、開催場所は明確ではないが、それでも3日続けての茶会は政長の茶の湯への強い意志を感じさせるものである(もっとも堺の商人である津田宗達を交えていることを思えば、戦費調達などの戦争に向けての話し合いを兼ねていた可能性は高い)。
 一方で、晴元と茶の湯にまつわる伝承はなく、晴元本人が出席した茶会も少ない(ということにしているが、あるかもしれないのであったら教えてほしい)。記録時期の都合や事情で晴元参加の茶会記録が残らなかったとも考えられるが、晴元の茶道具コレクションを思うと、伝承・記録の少なさは奇異にも思える。晴元期には茶頭と言い得る役職は確認されないが、晴元と政長の関係を思うと、政長が晴元の「茶頭」であったのではないだろうか。政長を経由して晴元は茶の湯にのめり込んだが、政長を経由していたがゆえにあまり意識されることがなく、記録や伝承に欠けたのではないだろうか。
 また、三好政長が宗三左文字(義元左文字)を所持していたのは著名であるが、同時に特筆されるのは政長は刀剣書を所持していたということである。永禄年間に書写されたことから書名が付与された『永禄銘尽』は元は三好政長の秘蔵本であった。『永禄銘尽』の特質は分量の少なさと後半になるに従って簡素化する記述、天文元年(1532)を基準とした年代の逆算表記にあると指摘されている。すなわち、『永禄銘尽』は天文元年(1532)(あるいは天文年間)に不慮の事態から無理に完成させたものと推測できる。ここからさらに推していくと、『永禄銘尽』の著者は三好政長であり、享禄・天文の乱が激化して晴元とともに逃避する中、完成せざるを得なかったものなのではないだろうか。この頃の政長は政治的活動に乏しいが、刀剣書を記していたのである。それが晴元への指南のためか個人的な趣味かは不明であるが、政長も刀剣に強い興味を抱いており、そのために名刀への審美眼を習得せんとしていたことがわかる。政長の蓄えた刀剣の教養は息子の宗渭の段階で花開くことになる。

三好宗三の「御前」権力

 三好宗三が「御前」たりえたのは細川晴元からの強い信頼と信任によるものであることは言を俟たない。それでは、宗三はいかにして晴元から信頼されたのか?これを史料から読み解くのは困難である。何せ宗三は記録に現れる最初から晴元の側近であり「御前衆」であったのだから。想像するしかないが「御前衆」における三好政長は幼い晴元の保護者であったのではないだろうか。細川周聡の年齢は不明だが、晴元にとって親しみの持てる存在と言うには辣腕を奮いすぎ、晴元の権限を規制していたのではないか。木沢長政に至っては京兆家の伝統的被官ですらなく、畿内に来て初めて出会った存在にすぎない。このような中で年齢が6歳差とそれほど離れておらず、武勇に秀で、茶道具コレクションという共通する趣味を有する政長は「兄貴分」としてとても心強く映ったはずである。政長もこれに応え、周聡や長政相手に幼い晴元の意志を代弁していたのではないだろうか。晴元と政長(宗三)はこのようにして一体性を強めていったということにしておきたい。
 また、宗三が三好氏の嫡流から見れば傍流に属していたことも重要である。晴元はその機会がないわけではなかったにも関わらず、宗三を三好氏の惣領の地位に就けなかった。むしろ宗三を通じて三好氏嫡流にして惣領の長慶を取り込み、長慶も宗三によって編成される畿内人脈の一部として影響下に置いた。これは宗三に三好氏の大きな軍事力を直接与えないことで、晴元に反逆する恐れを前もって取り除いたということだろう。より積極的に言えば宗三を三好氏惣領という立場から自由にした*9宗三が官途を名乗らず終生仮名「神五郎」を称したのも、自身を小身に留める方法の一つであったのだろう。宗三は天文13年(1544)息子の政勝に家督と榎並城を譲ったことで、晴元に文字通り近侍できる身分となった。
 しかし、公的な裏付けがないことにより「御前」三好宗三の地位は傍目にはわかりにくいことになった。東寺八幡宮領返付の交渉は高畠長直が担当していたが、宗三が進捗状況を尋ねた際、長直はなぜ宗三が晴元の意向を承知し介入してくるのか訝しがっている。最終的にこの件は宗三と長直が連署して解決するが、長直は宗三が晴元の意向を熟知し長直を指導できる権限を把握できていないことがわかる。一方で龍翔寺の所領を巡る案件では宗三は垪和道祐、波々伯部元継、田井長次と協力して解決に導いている。高畠長直、垪和道祐、波々伯部元継、田井長次に平井長信を加えた5人は木沢長政の滅亡後に立身していった晴元の側近たちだが、宗三は彼らに指導することが出来る立場にあった。
 「御前」三好宗三の時代は必ずしも平穏ではなかった。天文12年(1543)7月細川氏綱が高国残党の新しいリーダーとなって挙兵した。氏綱には畠山稙長や遊佐長教が与同し、無視できない大勢力となった。氏綱は堺を攻めたが、この時は和泉守護代松浦守がよく守り、氏綱を退けた。しかし、氏綱を滅亡させるには至らず、天文14年(1545)には氏綱与党である細川国慶が京都を奪い、丹波では内藤国貞が氏綱方として挙兵するなど戦乱は続いた。晴元は六角定頼と協力して山城国宇治田原に出兵し山科を放火しつつ勝利を収めたが、この戦いで宗三の部下が80名戦死している。天文15年(1546)には晴元はさらに劣勢になり、氏綱方が摂津に侵入し始めると、三宅国村や池田信正が晴元から離反し、芥川山城は落城、将軍足利義晴も氏綱寄りに傾くなど危機的状況に陥った。この時点で摂津において晴元に従っていたのは宗三・長慶を始めとする三好一族と伊丹親興だけだった。
 晴元の窮地を救ったのは四国からの援軍であった。阿波守護細川持隆、長慶の弟である三好之相(後に之虎、実休)と安宅鴨冬(後に冬康)が大軍を率いて畿内に渡海し、晴元方に加わった。また、この頃木沢相政と畠山在氏も晴元に合力したが、これは宗三によるという側面もあろう。勢いを盛り返した晴元方は天文16年(1547)原田城、次いで三宅国村の籠る三宅城を攻略し、芥川山城を取り戻した。これを見た池田信正は宗三を頼って降伏した。晴元は京都を奪回すると、河内国十七箇所に兵力を集めて南下、7月21日細川氏綱・遊佐長教連合軍を打ち破った(舎利寺の戦い)。天文17年(1548)4月には六角定頼の仲介で遊佐長教と晴元は和睦し、足かけ4年に及んだ細川氏綱の乱は終結した。
 この戦乱の中で三好宗三は長慶とともにあって三好氏の兵をよく指揮した。舎利寺の戦いに至るまでに榎並城に隣接する河内国十七箇所で諸将が集結しており、この軍議も宗三が主導したと見ても良かろう。しかし、宗三にとって深刻な課題も露呈した。波多野秀忠・元秀、香西元成、木沢相政、三好長慶といった血縁が宗三とともに一貫して晴元に従ったのに対し、婿にあたる池田信正が晴元から離反したことである。事態を重く見た宗三は信正を切腹させ、自身の血を引く長正を池田氏の当主に据えた。向背定まらなかった池田氏への統制をさらに強化せんとしたのである。
 戦乱が終結し、将軍が足利義晴から義輝に代わった天文17年(1548)7月29日晴元は新将軍義輝の自身の京都の邸宅への御成を実現させた。この時宗三は塩川国満とともに惣奉行を務めた。諸役に動員されたのは高畠長直や垪和道祐を始めとした晴元の側近たち、波多野元秀、香西元成、柳本孫七郎ら京兆家の被官であり宗三の血縁でもある者たちで、晴元の下、彼らを宗三が統括したことを視覚的に示した。池田氏の新当主の長正も裏門役として出仕している。この時が晴元および宗三の権力の絶頂であっただろう。

三好宗三の死と晴元権力崩壊

 だが、細川晴元足利義輝の御成を実現させた時すでに宗三の「御前」権力と晴元権力の崩壊は始まっていた。天文17年(1548)8月11日池田氏の家中は宗三に与同する勢力を池田から追放した。また、8月12日には三好長慶が晴元の側近団に宗三を糾弾し、宗三とその息子政勝の排斥を迫った。長慶が宗三の悪行として挙げたのは次のようなことである。

  • 晴元の「御前」を申し掠めていることが諸人の悩みとなっていること
  • 一度は赦免した池田信正を切腹させたこと
  • 池田氏の財産を横領したこと
  • 政勝が氏綱の乱において自陣を引き払う際に放火し長慶を殺そうとしたこと

 最初のものは宗三の「御前」地位を端的に記していて興味深いが、長慶に与同したという摂津の「年寄衆」からすると死活的問題だったのは2条目と3条目であろう。晴元権力による国人当主の排除とそれによるお家乗っ取りは最初ではなかったからである。三好元長や木沢長政が先例であり、そのたびに宗三は三好氏、木沢氏の勢力や財産を一部継承して立身してきた。記録に残っている以上に宗三の血縁は畿内国人に嫁いでいたのかもしれないし、将来的に血縁に取り込まれることは考えられる。そうなった場合国人としての独立性が脅かされる恐れを畿内国人は感じていたのだろう。
 一方で長慶にとっては宗三だけでなく、その後継者である政勝の排除を主張したことに問題の本質があった。政勝が長慶を殺そうとしたことなど難癖にすぎない。長慶にとって宗三・政勝を排除しなければならない問題としては、三好氏の家中統制という側面があった。どういうことかと言うと、三好宗三は三好氏家中において独自の地位にあった。本願寺との礼遇関係を見ると、三好家中としては長慶>宗三、細川家中としては宗三≧長慶長慶と宗三の地位の上下は一致しなかった。さらに宗三は後継者として政勝の存在を明らかにし、長慶としては自身の家中においては自身に従属すべき人間が細川家中では上位に位置するという構造を将来的にも受け入れなければならない危惧が生じていた。政勝が長慶の存在を意識せずに放火を加えたという「事件」は長慶の家中統制を大いに揺るがせる象徴的事件だった。
 こうして長慶は畿内国人の宗三権力への危惧をバネに家中における矛盾の清算を図ろうとした。長慶は宗三の排除が容れられない場合は主君である細川晴元を排除することも辞さないと決断したと言われるが、宗三が晴元権力の中核である限り晴元権力を否定するしかないのは自然な成り行きであった。晴元は当然の如く宗三の擁護に動き、8月18日十河一存(長慶の弟)と三好加介の取り込みを図って長慶陣営を切り崩そうとした。一存と加介は一時はこれに従ったが、一存はやがて長慶方に復帰している。晴元にはこの期に及んでも宗三や政勝を三好氏の惣領にする発想はなく、他の三好一族を長慶の対抗馬に選んでいる。結局長慶が抱える問題と晴元のこうした態度には妥協点がなかった。
 天文17年(1548)9月三好長慶は挙兵に至った。長慶には多くの摂津国人や和泉守護代松浦守、丹波の内藤国貞、河内の遊佐長教らが与同し、大枠としては細川氏綱陣営に長慶ら晴元権力の不満分子が加わる形となった。宗三はこれまで長慶と事を荒立てるのは避けてきたし、軍事行動の多くを長慶と共同で行うなど配慮を見せていたが、長慶を統制しきれなかった。長慶に嫁いでいた宗三血縁の波多野秀忠の娘は「不縁」によって離縁され、長慶は天文18年(1549)5月に遊佐長教の娘と再婚している。長慶は宗三人脈から離れたのである。
 ただ、長慶も主君晴元と直接戦うのは避けた。晴元と宗三は在京していたが、長慶はまずは宗三の子・政勝が籠る榎並城を攻略することにした。摂津国人の多くが長慶に与し、あるいは向背定まらぬ中、大阪湾に近い榎並城は孤立していた。榎並城包囲網を敷く長慶と京都から榎並城に援助を送ろうとする晴元と宗三の間にせめぎ合いが起こったのである。晴元陣営には六角定頼が付いており、畿内国人の全てが長慶陣営になったわけでもなく、さらに榎並城は堅城であったため戦いは短期で決着はつかなかった。
 晴元・宗三の立てた作戦は、六角定頼の来援を待ちつつ、丹波を経由して北摂から榎並城に入り、また和泉や紀伊の国人に助力を頼んで長慶を挟撃しようとするものだった。天文18年(1549)2月長慶は堺で遊佐長教と会談すると方針が決まったものか、積極的な軍事行動に入り3月細川晴賢が籠る柴島城を攻略した。4月には晴元と六角定頼が会談し、晴元・宗三も塩川城と三宅城を相次いで攻略するなど両陣営の動きは活発になった。5月には晴元・宗三方の香西元成が六角軍の進路を開くべく高槻に侵攻したが、これは三好長縁(後の長逸)によって退けられた。晴元・宗三方も長慶に対して圧倒的劣勢に陥っていたわけではないが、日に日に榎並城の籠城は長くなり、城内の状況も深刻化していった。
 宗三は息子の窮状を見かねたものか、晴元を三宅城に残して6月11日一軍を率いて南下し、江口に陣を移した。江口は四方を水に囲まれた要害であり、晴元の三宅城と政勝の榎並城の中間に位置し、宗三はここに移ることで援軍の六角軍が来るまで三宅と榎並の連絡を維持しようとした。しかし、江口は四方が水に囲まれるだけに孤立しており、長慶は冷静に安宅鴨冬と十河一存に命じて江口への補給を断たせた。宗三の頼みの綱は六角定頼の援軍であったが、六角軍はなかなか来ず、宗三軍の食糧も尽きかけ、背水の陣に陥った。6月23日宗三は「河船を とめておふみの 勢もこす とはむともせぬ 人を待哉」 と詠んでいる。翌24日長慶は六角軍が来ないうちに、江口の宗三が疲弊したのを察知すると、江口を強襲した(江口の戦い)。宗三は江口を諦め、淀川を泳いで榎並城への逃亡を図ったが、その途上水死し、遊佐長教の足軽に討ち取られた。戦死したのは宗三だけではなく細川一族の天竺弥六、晴元側近の高畠長直、波々伯部元家(元継の子)、平井長信らも討死しており、宗三の軍勢はまさに晴元軍の中核を形成していた。
 奇しくも江口の戦いの同日である6月24日に六角軍は山崎まで到達していたが、敗報を聞くと戦いを諦め引き揚げた。宗三の遺児となった政勝も榎並城から脱出して晴元に合流し、晴元も6月25日には三宅城を出て、6月28日には足利義晴・義輝父子を伴って近江国坂本まで逃避した。7月9日には将軍がいなくなった京都へ三好長慶細川氏綱が入った。晴元はこの後も長慶と戦い続けるが、晴元権力は崩壊し、細川京兆家畿内戦国史の主役の座から転落した。三好長慶の時代が到来したのである*10
 宗三は戦死した6月24日付で開基した善長寺(現大阪府堺市)に政勝によって葬られた。善長寺は縁起によれば、政長が永正13年(1516)8月13日堺に戦陣を敷いた際感得した観音像を安置し、天文9年(1540)3月に堂宇を建立していたという。永正13年(1516)に出張っていたのは、政長であるとすると不審なのでこれは政長の父長尚のことではないだろうか。政長が堂宇を建立したとされる天文9年(1540)も6月に長尚が亡くなっているため、元は政長が亡父長尚のために建立したと推測される。善長寺には現在でも政長(宗三)のものとされる墓がある。

三好政長の歴史的意義

 三好政長を語る際に避けて通れない核心としての問題は、柳本賢治三好元長、細川周聡、木沢長政が死んでも崩壊しなかった細川晴元権力が三好政長の死とともに崩れ去ったということである。換言すれば、三好政長は晴元権力の中核に位置し、その位置付けは柳本賢治らと質的に異なっていたということになるだろう*11本記事ではこの政長の権力と位置を「御前」と命名している。「御前」の主眼は晴元と一体化することで、その意思を時には代弁し、また家中編成を行い、領国統治の責任者となることである。この地位の萌芽となったのは幼少の晴元に成り代わり、指令を出していた周聡であるが、周聡が戦死し、晴元が成人してもその地位は消滅せず、生き続けることになった。
 これは晴元が直接的に家中編成を行い得なかったのが原因であると考えられる。戦国大名による家中編成の多くは戦国大名を中心とする血縁関係の構築に依存する。例えば、毛利元就北条氏康は配下の諸国人に自分の子を養子として送り込み、その紐帯でもって国人たちを束ねていた。織田信長も家臣に養子を送り込み、娘を嫁がせている。しかし、晴元は自身の兄弟や子を摂津国人の養子として送り込むことも、娘や姉妹を嫁がせることもなかった。これは晴元本人に血縁が少なかったことにもよるが、何よりも細川京兆家という室町幕府秩序において高位の家柄は、守護大名家や権門の子弟といった同じ高位の家柄同士でないと縁組が出来なかったという家格秩序に由来する。しかし、一方で細川京兆家が摂津を単なる分国ではなく、領国としていく中、晴元権力が摂津国人と密接な関係を結ぶのもまた避けられない事態であった。
 こうした中で、晴元権力の代弁者たる「御前」は家中編成・領国統治において重要な意味を持ってきた。晴元自身が摂津国人への血縁構築を成し得ないことにより、晴元に代わってそれを行い得る地位が必要とされた。それが「御前」であり、「御前」三好政長が巡らした人的ネットワークだったと評価しうる。そしてそれが失われた時、晴元は摂津を支配することが出来なくなり、摂津を失陥するに至ったのである。
 また、このように考えれば天文17年(1548)からの三好長慶を中心とする摂津国人の反乱は、国人への統制を強める戦国大名権力への反発という戦国時代に普遍的に存在する問題という一面も見えてくる。ただ、このような国人の反発が現当主の追放、新当主の擁立に帰結することが多いのに対して、「御前」三好政長を立てる晴元権力は「御前」や細川京兆家の当主交代という論理を働かせることが難しかった。細川京兆家の名目的地位は細川氏綱細川昭元が継承していくが、彼らは晴元と同じく直接的に国人層と血縁を結ぶことはなく、三好長慶による政権樹立に畿内戦国史は動いて行くことになった。長慶は自らの血縁で安宅氏(淡路)、十河氏(讃岐)、内藤氏(丹波)、松浦氏(和泉)などを編成し、政権主宰者と国人層が直接結びつく政権を形成できたのである。
 このように考えると、三好政長は去り行く旧体制の象徴で敗亡は当然のように思ってしまうが、政長の果たした大きな役割はマイナス面だけではない。
 永禄5年(1562)6月24日津田宗達三好政長の十三回忌として茶会を催した。このタイミングで政長を悼んでいるのは、前年に細川晴元三好長慶に屈し「和解」が成ったことで、晴元権力にまつわる人間も名誉回復がなされたからだろう。それはともかく、津田宗達にとって政長は茶人仲間であり、宗達は政長の死を悼んでいるのが重要である。三好氏が「大悪の大出」と罵られ、一揆によって殲滅される時代は政長によって終わりを告げた。政長が畿内の文物に親しみ、その中で一目を置かれる存在になったことは、四国から中央に進出してきた侵略者という三好氏への見方を大きく転換させ、「同好の士」と見なされるに至っていた。政長は中央に溶け込んだのである。
 この方法は後の権力者によっても踏襲された。三好長慶細川幽斎から連歌会における立ち居振る舞いを絶賛され、長慶の弟・三好実休(之相・之虎)は山上宗二から武士では唯一の数奇者茶人であるという高い評価を受けた。長慶と実休はその道の第一人者から称賛されるほどの教養を身に付け、それが中央で認められる権力者であることを可能にしていった。また、織田信長豊臣秀吉はその道の第一人者を目指すのみならず、名物を特権や褒美として用い、また名工に天下一の称号を付与するなど、権力者として文化を秩序編成に大いに利用した。このような地方出身者が中央の文化を通じて立身していく道は三好政長が実践し、切り拓いた道であった。
 大名の領国編成と文化による立身の新旧が交わった時代が細川晴元の時代で、その意味では三好政長は確かに時代の寵児であったと評価できるだろう。

三好政長の図像

 三好政長を描く肖像画は存在しない(後世に描かれた武将絵は一応存在する)。政長の時代の畿内戦国史はスポットを当てられることも少ないので、漫画などの創作で三好政長が登場するのも管見の限り知られていない。近年では政長が所持していた刀(の擬人化)の方がよくイラストになっており、刀の方が本人より有名と言われてしまう由縁である。ゲーム等では政長が描かれることもあるが、多くはインスピレーション重視と考えられる。『信長の野望』シリーズにも政長のグラフィックはあるが、現行のものは凡庸なサラリーマン顔に見え、これのどこが「樊噲張良」に喩えられる面構えかと言いたい気分である。
 と言えども、三好政長に関しては近親者の肖像画もなく(もっとも近縁の肖像画があるのは叔父三好之長)、どうにもこうにも手掛かりがない。ただし、政長を思わせる図像として重要なのは、

  • 勇将を思わせる
  • 晴元を擁護する控えめな態度
  • 大人の財力とコレクター力
  • ちょっと嫌な奴そう

あたりであろうか。相反する要素が多くて難しいな!(この基準だとノブヤボでも天翔記のは悪くないかもしれない)
 ただ、貧相なのではなく有徳人を思わせる風貌がいいのではないだろうか。
 というわけで最後に自分で描いてみるわけだが…全然上の要素反映されてなくない?と思われそうなので最後に回させてもらった。お目汚し申し訳ない。

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参考文献
ci.nii.ac.jp
ci.nii.ac.jp

戦国期細川権力の研究

戦国期細川権力の研究

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

織豊期の茶会と政治

織豊期の茶会と政治

*1:「カケ引ヲ三好越後ノ勝時ガウタレテ後ハマケ時トナル」という落首を掲載するため

*2:この頃の晴元は足利義晴と対立していたため、義晴から偏諱を受けておらず単なる「細川六郎」であったが、煩雑となるため「晴元」で統一する

*3:柳本賢治には遺児がいたが、幼少のため甚次郎が柳本氏の家督を代行していたらしい

*4:概念としては「管領代」の再生産に近いものと思ってほしい

*5:周聡が戦死した際に並列される「細川紀伊守」を周聡と別人ではなく、周聡の別称と見る説

*6:この頃は幼名仙熊丸、後に利長→範長→長慶と改名していくが長慶で統一する

*7:全てを見通すというニュアンスは伝わるがよくわからない喩えである

*8:あえて言えば細川氏綱との戦いの一幕であろうか

*9:例えば、長慶は晴元の側近と連署することはついぞなかったが、宗三は連署可能であった。宗三が三好氏の惣領にならなかったのは、なれなかったという観点と同時に家格秩序上利点があったとも考えられよう

*10:とカッコよく書いているが、三好長慶の統治は初期は細川氏綱と共同で行っており、細川京兆家がすぐさま力を失ったわけではない

*11:言うまでもなかろうが、晴元権力崩壊の直接的要因としては三好長慶が謀反を企図し、晴元権力の改善ではなく破壊を狙ったことが挙げられる。それはそれとして晴元権力側のキーマンは誰かという話をしている