唐突だが何につけ、自分の人生には時機(タイミング)というものがあると思っている。生来保守的かつ頑固な部分があるので、どうしても世間や周囲の流行を見ても「じゃあ乗ってみよう」ではなく「近寄らんとこ」と思いがちなのだ。そういうわけで何かを好きになる、ハマるタイミングというのはかなり独特だ。例えば、『ドラゴンボール』は長らく弟から布教されていたが本格的に読んだのは大学生からだし、『ワンピース』は今でも触れていない(もちろんキャラや基本設定くらいは知っているが)。
こうした性癖はある意味難儀で、人生におけるチャレンジに欠けると我ながら思ってもいるが、それでも定期的にそういう時機はあるので、それが数年越しであっても続くなら、自分と言うものも新鮮であり続けられるかとも思う。もっともそんなことはどうでも良く本題に入ると、今年の1月に国会図書館のデジタルコレクションの送信分でたまたま暇潰しに『オリエント急行の殺人』を初めて読んでみたらこれが面白い!実はアガサ・クリスティの推理小説というものはここまで読んだことがなかったのだが、そこから『スタイルズ荘の怪事件』『アクロイド殺し』『ABC殺人事件』を続けざまに読んですっかり惚れこんでしまった。一見意味不明な事件をロジックで以て綺麗にひも解いていくのは頭の体操や刺激にもなるし、それ以来毎日のように推理小説を読んでいる。
アガサ・クリスティと言えばエルキュール・ポアロ。実の所、ポアロもどういう探偵なのか身を以ては全く知らなかった。母がポアロは嫌な奴と言っていてあまり好きではなかったようなので、子供時分にクリスティを読まなかったのもその影響だろう(ドイルのホームズは中高時代に結構読んでいた)し、ポアロも何となく敬遠してしまっていたのだ。実際に読んでみるとなるほど、確かにポアロは嫌な奴だった。しかし、嫌な奴だからこその魅力というものも確かにあり、それが現代の世相的にも新鮮さがあったのも間違いない。この探偵がどのような最期を迎えることになるのか、それを知るためには全部読む必要があった。せっかく全部読んだので、簡単ながら感想を認めてみる次第である(ちなみに短編も全部読んだはずだがこれは本当に全部読めたのかはわからない)。
(※当然だがネタバレ配慮などはないので注意)
- スタイルズ荘の怪事件(1920) ★★★
- ゴルフ場殺人事件(1923) ★★
- アクロイド殺し(1926) ★★
- ビッグ4(1927) ★
- 青列車の秘密(1928) ★
- 邪悪の家(1932) ★★
- エッジウェア卿の死(1933) ★★
- オリエント急行の殺人(1934) ★★★
- 三幕の殺人(1935) ★★
- 雲をつかむ死(1935) ★★
- ABC殺人事件(1935) ★★
- メソポタミアの殺人(1935) ★★
- ひらいたトランプ(1936) ★★
- もの言えぬ証人(1937) ★★
- ナイルに死す(1937) ★★★
- 死との約束(1938) ★★
- ポアロのクリスマス(1938) ★★★
- 杉の柩(1940) ★
- 愛国殺人(1940) ★★★
- 白昼の悪魔(1941) ★
- 五匹の子豚(1943) ★★
- ホロー荘の殺人(1946) ★
- 満潮に乗って(1948) ★★★
- マギンティ夫人は死んだ(1952) ★★
- 葬儀を終えて(1953) ★★
- ヒッコリー・ロードの殺人(1955) ★
- 死者のあやまち(1956) ★★
- 鳩のなかの猫(1959) ★★
- 複数の時計(1963) ★★
- 第三の女(1966) ★
- ハロウィーン・パーティ(1969) ★
- 象は忘れない(1972) ★★
- カーテン(1975) ★★★
- まとめ ポアロシリーズとは
スタイルズ荘の怪事件(1920) ★★★
ポアロものとしてもクリスティの推理小説としても記念すべき第1作。個人的にはホームズでも『緋色の研究』が一番好きだったりするのだが、やっぱり長期シリーズはそれが長期シリーズになるだけあって第1作の面白さには特別なものがある。クリスティの作品は読者の視線の誘導の仕方が上手いのだが、もちろんここが原点で最初からの完成度の高さに驚き。最も疑わしくない者が犯人であるという鉄則をわかっていたとしても、否、わかっているからこそハマっていく陥没というものがあり、これが最初なだけに何度読んでも色あせることはない。
ゴルフ場殺人事件(1923) ★★
長編2作目。主人が仕掛け人というパターンの端緒。ヘイスティングスの恋愛話も兼ねているので、いつもより鬱陶しい(今思うと長編2作目で相棒が結婚相手を見つけるのってホームズオマージュ?)。と言うか、ポアロ長編2作目ということで力が入りすぎたのか、推理小説としてもごちゃごちゃしている。シンデレラが双子だったとか、お互いに相手が犯人だと思って自首したため真犯人が隠されたなどの要素は、以前の殺人と首謀者が同じであるという事件の肝をむしろ邪魔しているような気がしてしまう。クリスティの若気の至りを感じる…。
アクロイド殺し(1926) ★★
時系列的には『ビッグ4』より後だが出版はこっちが先。驚きの犯人についてはネタバレは避けていたものの、わりとすぐに「何か書き方おかしくない?」と気付いたのでそこは惜しかった。この手の叙述トリックは『アクロイド殺し』で直接ネタバレに触れなくても、ここまで30年生きているとどこかで出会ってしまっているものなのだ。そういう意味では新鮮さがなかったのは仕方ない。ただ、犯人がわかった後も最後の最後まで叙述のギミックを貫徹したのはいい書き方だった。
ビッグ4(1927) ★
推理小説じゃなくてスパイもの…と言いつつ短編の集合要素もあるごった煮作品。ぶっちゃけると首領たるナンバー1が結局謎の中国人のまま終わったのはだいぶマイナス。そこは「そんな奴実はいなかったんです!」か「え?あの人物が首領!?」のどっちかでしょ。似たような『秘密機関』では上手く作ってたのに何で後発のはずのこっちでは劣化してるんだ。今は亡き仮面ライダーの春映画のように(ボンバーマンポアロが見られるのはこの作品だけ!)、ポアロとヘイスティングスの友情アクションを楽しむ娯楽作として読むべきなのだろう。実際、愛妻を人質に取られてポアロをおびき寄せる謀略に加担せざるを得なかったヘイスティングスがやっぱりギリギリのところでポアロを優先しちゃうのは無茶苦茶友情を感じて好きなシーンではある。
青列車の秘密(1928) ★
長編の割にトリックが「え?そんな程度?」で評価は低い(個人的には驚きのある犯人を求めすぎて、父親が犯人だとばかり予想していた)。話自体は短編「プリマス行き急行列車」と全く同じなので、正直短編の方が佳作としてはまとまっている。
邪悪の家(1932) ★★
メインの殺人とは別に複数の事件が同時進行していてわけがわからないのをポアロだけが丁寧に解きほぐすパターンの最初期にしてトップクラスの出来栄え。
エッジウェア卿の死(1933) ★★
被害者もトリックを使っていたというパターン。途中で何かに気付いた人物が犯人に殺されてしまう端緒で、気付けば気付けたはずなのを気付けなかったのが悔しい。
オリエント急行の殺人(1934) ★★★
推理小説の鉄則として「完璧なアリバイを持っている人間が犯人である」というものがある。作劇上、こいつは絶対に犯人ではないという人物が犯人であればこそ、カタルシスがあるものだからだ。実際にクリスティの作品も往々にしてそうなのだが…この作品には参った。話が進むにつれ容疑者全員が完璧なアリバイを持っていることがわかるからだ。いや、もちろんそうではなくて容疑者全員が犯人なので鉄則通りだったのだが…。ポアロが珍しく犯人を見逃す作品なのだが、最終章でポアロが間違った推理を披露すると支配人と医者は「そんなことあり得ない!」と激高したのに、真相を知ると「いやそれが正しいと思いますよ」とひっくり返るのも面白いし、「この列車の中で本当に死ぬに足る人物は誰だったのか?」という問いを永遠に問いかけてくる、文学性も高い作品。
三幕の殺人(1935) ★★
『ABC殺人事件』とは逆で、最初の事件が無差別殺人だったので事件の全体がわからなくなったという話。犯人の動機が重婚ネタの端緒。あと、「何か知ってたから殺されたんだ」をもうここで逆手に取ってきてるのもすごい。個人的に好きなシーンはラストでサタースウェイト氏が「運が悪かったら私が死んでたかも!」とぞっとした後にポアロが「もっと悪いことがあります。毒を飲まされたのは私だったかもしれない!」と高慢さを発揮したとこ。ポアロの高慢さよ!
雲をつかむ死(1935) ★★
面白い!間違いなく面白いんだけども…!「偽の証拠で推論される犯行手段はダミー」「偽の証拠で犯人を自白させる」という真相の肝は、他の推理小説も含めて擦られまくってるものなので、この作品ならではが感じられず普通という感想になってしまう。
ABC殺人事件(1935) ★★
無差別殺人かと思いきや…で有名な事件。ただ、途中でダミーのABCのいかにもこいつが犯人ですパートはややわざとらしすぎて、真犯人はこいつじゃないことが逆説的にわかってしまうのは如何なものか…と思いつつ、最後の方はこの人物がほとんど主観で殺人に関与していて混乱させてくるのは見事ではある。
ひらいたトランプ(1936) ★★
アガサ・クリスティ作品からポアロ、オリヴァ夫人、レイス大佐、バトル警視が集結するオールスターだが、共演に味があると言うよりはポアロが率先して事件を解決してしまう。終盤に匂わされる犯人がころころ変わるのが怒涛の展開ではあるが、2人目の犯人のとこで流れ的に真犯人がわかってしまうのでインパクトがそこまでだった。証拠捏造勝負だしね。
もの言えぬ証人(1937) ★★
タイトルの「もの言えぬ証人」は被害者、と見せかけて濡れ衣を着せられた犬…の割に最後の真相解明で犬は別に浮かび上がってこないなとか思ってたら、天啓が来た。「もの言えぬ証人」って犯人のことじゃん!タイトルの付け方上手いなあ。犬の言葉がヘイスティングス訳で出てくるが、まさしく犬らしい賢しさになっていて上手い。流石愛犬家。
ナイルに死す(1937) ★★★
犯人もトリックも事件発生直後くらいにわかってしまったのですっかり勝ち誇りながら読んでいたのだが、それだけにラストは衝撃的だった。「ナイルに死す」ってお前らがナイルに死ぬんかい!こういう犯人当てクイズとしてではなく小説としての面白さで張ってくると真顔になる。
死との約束(1938) ★★
中東シリーズ第3作。面白いんだけど、この作品については惜しさの方の印象が強い。エルサレムという舞台よりも海外旅行の方にフォーカスされていたり、タイトルの含意が浅かったり、真犯人の存在感が中途半端(「え?この人が?」と思うには蚊帳の外感が足りない)だったりと、もう少し面白くできたはずだという感想が先行してしまう。この作品ならではの良さとしては、被害者に抑圧されていた容疑者全員が幸せを掴むラストが明言されているところだろうか。たいてい家族ものは家族としては崩壊してしまうパターンが多いので、たまに全員幸せになるとほっと出来るのだ(どうでもいいけどこの時点では第二次大戦がまだなので未来時空となるラストシーンに戦争の影がないのがちょっと独特)。
ポアロのクリスマス(1938) ★★★
他の作品は当てずっぽう混じりだとしても10回読めば犯人が誰か当てられることもあるだろう自信があるが、この作品だけは100回読んでも当たらないところから犯人が出てくる。しかし、犯人は最初からいるし、読み直すと犯人としての言動だってちゃんとやっているのがわかるのだ。お見事の一言。
杉の柩(1940) ★
犯罪としても真相究明としても長編でやるほどの話ではない。最後の裁判のシーンで俄に雲行きが変わるのは面白いものの、そこに至るまでが長い。金目当てじゃなさそうに見えるからのやっぱり金目当てなのもオチとしては平凡だし。光るものがあるとするなら、ロード医師の被疑者の献身ぶりだろう。ラストのポアロの「彼女は別の人に恋してるかもしれないが彼女を幸せにできるのはあなただけです」という言葉には何百回だって頷ける。
愛国殺人(1940) ★★★
トリックや動機も見事だったので推理小説としてもレベルが高いのだが、ポアロが犯人の実績には共感しつつも「国家のため、権力維持のためとは言え凡百の歯医者やクズや売国奴を殺すのは許されない」と真相を明らかにするのが矜持を感じて好き。シーン単位で言うと、序盤にポアロをフランス人と勘違いするいつもの下りで「君主制の良さはわからんだろ~?」してた話し手が「ベルギー人です」の途端に仲間じゃんと態度変えてくるのも好き(ベルギーはイギリスと同じ立憲君主制)。
白昼の悪魔(1941) ★
なぜだかびっくりするくらい印象に残らなかった。驚くようなトリックも鮮やかな推理や高慢ぶりもなくキレを欠いたまま読み終わってしまった感じだ。
五匹の子豚(1943) ★★
大した話ではないけど、ラストで犯人がポアロに敗北するのではなく(証拠はもうないので厳密にはポアロの推理は推論止まりだし)、被害者と加害者の夫婦の絆に敗北を認めることに独特の味がある。不倫も結局は夫婦のプレイの一環でしかなかったのだ…。
ホロー荘の殺人(1946) ★
至極単純に見える殺人が時が経つにつれ謎だらけになる、その真相は容疑者全員が真犯人を庇って証拠をばらまいていたからだった!という筋のキレは抜群で、『オリエント急行の殺人』や『三幕の殺人』に匹敵するポテンシャルがあった…という作品。登場人物の心理描写ばかりなのはいいとして、そこへポアロがいまいち食い込めておらず、真相を鮮やかに推理するという場面もないので、探偵譚としてはすごく消化不良。大傑作になれたネタだけにここがものすごく惜しい。要素としては、被害者の息子がいずれ真相を聞きに来るだろうという予測があるのが『五匹の子豚』からの流れを感じてちょっと良い。
満潮に乗って(1948) ★★★
ラストの連続どんでん返しが『スタイルズ荘』であったようなクリスティのキレ味を感じられる佳作。被害者の正体とは?とデイヴィッドの素性は?に興味を引き付けておいて本当に問題になる正体が死角から現れるのは、気持ちのいい敗北感がある。反転はそれだけではなく、伏流としてあったリンの物語が最後に転じてローリイの冒険に上書きされていくのも明らかになる事実としてのインパクトがあるし、ポアロの推理の邪魔になっていないバランス感覚としても申し分なし。しっかし、クリスティは消極的で平凡みのある男と冒険心に富み危険を顧みない女のカップリングが大好きだが、今作のリンはちょっと度を越している。最終的にリンは結婚に納得してるけど、ローリイくんこそこんな女性と結婚して末永く生きられそうですか…?
マギンティ夫人は死んだ(1952) ★★
事件自体はまあそんなもんかなで、犯人は後々の殺人で勝手に尻尾を出しちゃうし、色々な要素も料理しきれていない気がする。オリヴァ夫人を通じたクリスティの愚痴が面白いし、改変上等してきた演出家が犯人ってほとんど私怨じゃないですかね?(そんなにオリジナル要素入れるなら私の作品を原案にするんじゃなくて最初から全部自分で作れやって?セ・サ…)
葬儀を終えて(1953) ★★
序盤から一杯食わされたのが小気味の良さがある話。タイトルにもなっている葬儀の長兄の死因には何かあるはずだという考えへの誘導と、ちゃんと種明かしに繋がる違和感を抑えているのが素晴らしい。それにしてもここまで人物の入れ替わりについては親族とか役者とかで理由を付けていたが、ここらへんから簡単に特徴を押さえればオーケーみたいなノリになっていく。
ヒッコリー・ロードの殺人(1955) ★
びっくりするほど平坦な作品。留学生の旅行が密輸に使われていたというネタは悪くない部類のはずだが、人間関係を描いているドラマとあまり嚙み合ってないからかもしれない。犯人も怪しそうな人間が本当に悪い奴だったというものでインパクトとしてイマイチ。終盤にかけて真相を明らかにするのもシャープ警部がやってしまっており、結果的にポアロの推理は当たっていたということにはなるが、外連味には欠ける。何よりせっかく事件の発端がミス・レモンなのに出番が深化しないままなのがもったいない。
死者のあやまち(1956) ★★
珍しくポアロが最後の最後まで「全然わからん」してるので爽快感はない。一方でそれだけにラストの真相と切れ味は鋭いのだが、日本語訳だと「Folly」を「あやまち」としか訳せないので、タイトルの「Dead Man’s Folly」がラストで色んな意味を持ってくるのがフォローしきれておらず、そこがとんでもなくもったいない。まあ「阿房宮」と訳してしまうとネタバレなので仕方ないのだが…。
鳩のなかの猫(1959) ★★
光るものがあると言うよりかはそつがない一作。終盤にかけてやっとポアロが出てくるのはシリーズでもかなり異色ではあるが、その分周囲から「何でそんなことを?」と思われる行動をとりつつさっさと真相に辿り着いてくれるので、探偵譚としての満足感はちゃんと抑えている。ポアロ登場からのテンポの良さ的には読みごたえたっぷりのプロローグつきの短編作品と見てもいいかもしれない。名門女子校が舞台の話なので、色んなタイプの女性が出てくるのも楽しい。しかし、「王族とか金持ちの子弟を入れるのはどうなん?」「アホ、ブランディングしとけば入りたい奴で競争になるから、こっちから理想の生徒だけ選べるんやで」は経営者としての有能をぶっちゃけすぎている。
複数の時計(1963) ★★
お話の主人公としてはコリンで、ポアロの出番は少なめ。お話としては十分面白いし、ポアロの最初から真相をほぼ見抜いてコリンを嗾けるのにもらしさはあるのだが、コリンの冒険譚としては中途半端になったかもしれない(ただ、ラストで任務を遂行するのはポアロにはできないのでそこはこの作品の持ち味ではある)。ところでこのコリンはバトル警視の息子説があるらしいけど、親子ともども時計には縁があるんですね(『七つの時計』を参照)。
第三の女(1966) ★
「第三の女」ってお前かーい!のインパクトで突っ切るには「変装して別人に見せてました」「主要人物は入れ替わってました」というオチに魅力がない。クリスティ作品だとカップル誕生で終わるものも多いが、今作では男の方が便利キャラにも程があるので唐突というかご都合主義も否めない。いや、ポアロが媒酌人として有能すぎるのか?(ミス・レモンが雄弁キャラなら前の主人(パーカー・パイン)に似てるなとか思ってそう)
ハロウィーン・パーティ(1969) ★
最近の映画の『ベネチアの亡霊』の原作だよという触れ込みから入って読んでみたらベネチアが全く出て来なくて困惑。映画はどうやらだいぶ翻案してるらしい。殺人を見たという殺された少女はやっぱりウソをついていたというオチこそ捻っているが、終盤にかけて殺人が連続して起こり犯人が勝手に尻尾を出してしまうのでクオリティが高いとは言えない。
象は忘れない(1972) ★★
双子が出てきた時点でだいたい真相が読めてしまうし、関係者への聴取で過去の事件を探るというのも何回かやっていて(というかこの作中ですらあの話やこの話でもやりましたねという会話がダイレクトに出てきてしまう)、新味に欠ける(同じネタなら『五匹の子豚』の方が何重にも面白い)。ところで、第一次大戦に際してイギリスに亡命して来てその時点で30歳のヘイスティングスより一回りは年上だったポアロが生存できるとしたらせいぜい50年代までと思うが、本作では今年は1972年ですという時間設定がずっと出てくる。執事のジョージや秘書のミス・レモンも本作に出てくるけど彼ら含めて何歳なんだよというツッコミをせざるを得ない。
というわけで評価は低かったのだが、『カーテン』を読み終えた後で思うと、「これ以上の殺人を止めるために相手を殺し自決する」という筋は共通しており、それでいてこちらには未来への希望があるので、クリスティが本当に最後に書いたポアロもの最終作としては『カーテン』と響き合って結構いいかもしれないと思い直し、評価を上げている。
カーテン(1975) ★★★
40年代には書き上げられていたというポアロ最後の事件。用意されていた最終作だけあって、人間心理から推理を行うポアロの探偵法にばっちり合った「最大最強」の犯人が立ちはだかる。どうしても名探偵コナンの映画をイメージすると犯罪の規模がデカいとか、ホームズのモリアーティみたいに組織だった犯罪ボスとかを思い浮かべる「最大最強」にスケールが小さいからこそ捕まえられない邪悪を持ってくるのが最後の敵にふさわしい(もっともこの犯人の「連続殺人」も死者数で言うと相当だが)。それでいて、久々のヘイスティングスを自由に使い、読者視点を誘導した上で二重の意味で「意外な犯人」を見せてくる、クリスティの十八番も健在(トリックや犯人はだいたい予想が付いたが、ポアロに関する仕掛けは気付けませんでした…)。ポアロが相打ちにならざるを得なかった「犯罪」とは何なのか…ポアロがやったことは正しかったのか…『オリエント急行の殺人』にも通底する問題を投げかけて最後の事件は終わる。しかれども…「思えばすばらしい日々でした…」。
まとめ ポアロシリーズとは
半年前には全く意識してなかったのに急にハマってしまった。もちろんベースとして「面白い」というのがあるのは間違いない。ホームズものと比べると冒険要素はあまりないが、それだけに理屈っぽさが強いので、難題を解きほぐしていく心地良さがあった。さらにクリスティ自身が推理小説の大ファンだったこともあり、推理小説の技法を悉知した上で仕掛けを盛り込んでいる。何度か挙げている「最も怪しくない人間が犯人」というのもあるが、クリスティはこれを巧みに利用して、読者の視線を誘導する。「最も怪しくない人間」を犯人候補としてアピールすることで、別の人間を盲点として「最も怪しくない人間」に仕立てるのだ。語り手が犯人、容疑者全員が犯人、無差別殺人かと思ったら違う、などクリスティの盲点を突く仕掛けと誘導は本当に上手い。それでいて文学性とでも言おうか、血の通った人間が確かに観測できる。登場人物が醸し出す善性と問題点は人間性というものを的確に抉ってくる。クリスティの創造した仕掛けは今ではそれも一つのパターンに成り下がっているものも多いが、それでいて輝きを失うことがないのは人物描写に巧みさがあるからだろう。
そして、古くして新鮮だったのは、登場人物たちがざっくばらんなことだ。時代設定もあって差別感情などはバリバリ出てくる。イギリスにおいてベルギー人というのは大手を振るえるような人種ではないが、ポアロの方もイギリスのことは正直バカにしている部分も多い。これは人種で判断している部分も多いが、友人同士でもぶっちゃけまくっている。ポアロはヘイスティングスのことをよく脳細胞が働いていないとバカにするし、ヘイスティングスはポアロが奇行に走ると「狂ったのかな?」とナチュラルに思っている(最終的にポアロに泡を吹かされることばかりだが)。しかしながら、差別しあっているからこその対等さや友情というものも確かに存在する。お互いバカにできるというのは親しさの裏返しでもある。私個人はいわゆるポリティカルコレクトネスを敬遠するものではないが、他人への配慮が行き届いたいい子ちゃんばかりでは今一つドラマが深まらないというのも感じがちだ。こういう人間関係の見せ方を最近は忘れていたが…なかなかいいものだ。
特にポアロと相棒ヘイスティングスの関係は何にも代えがたいものだ。この相棒・親友関係がすごいのはポアロとヘイスティングスに共通点がないことだ。国籍も年齢も体格も違うし、共通する趣味・嗜好もないし、上述したようにかなり頻繁に相手をバカにしあってさえいる。それでも二人の間には友情と信頼が確かに存在する、不思議な関係だ。これまた共通点がないからこそ、友情だけが純なものとして確かなのだ。友情を描くのにこんな逆説的な方法があるとは、コミュニティが蛸壺化しつつある現代だからこそ輝くものがある。それでいて推理小説としてもヘイスティングスの使い方には唸る。ヘイスティングスの考えはポアロとは全く似つかず、たいていは間違いだ。ヘイスティングスが信頼する、という時点でその人物は犯人、犯人でなくとも表面通りであることはあり得ないくらいだ。ただ、そのためにポアロの発想外から真相をいち早く提示していることもあり、単にヘイスティングスを否定すれば読み進められるというものではない。クリスティの得意とする視線誘導にヘイスティングスはまさに適役なのだ。
それだけにヘイスティングスがいなくなる40年代以降の作品は全体的にダイナミズムが消えたような気はする。ジョージやミス・レモンはポアロの忠実な部下だが、その分ポアロに何らかの示唆を与える機会は乏しいし、フランクな会話もない(当のポアロも「なぜあなたはヘイスティングスじゃないんだ」的なこと言い出す。あなたのお眼鏡に叶う使用人と秘書のはずですが?)。オリヴァ夫人は引っ掻き回し役だが、読者ではなく作者の自己投影なので、引っ掻き回されてもユーモアを以て読むことは難しい。
長期シリーズとしてのポアロに脂が乗っていたのはやはり30年代前半までで、その後はクリスティオールスターをやったり、海外を舞台にして旅情を出したり、色々やったが40年代以降はそうしたエキサイティングな仕掛けも減退してしまった。ホームズラノベコピペのオチで、推理小説を書き上げたクリスティに編集者が「探偵役をポアロにできませんか?」と言うものがあるが、これが信じられるほど、探偵役をポアロにしただけでは?という作品も多い。もっとも長期シリーズが長く続くほど当初を見失っていってしまうのもありがちなのかもしれない。『名探偵コナン』だってカップリングや作者の趣味で持ってますからね。ポアロはシリーズとしては半世紀以上続いたわけで、作品が熟しすぎてしまうのもむべなるかな。
そういうわけで齢30を過ぎてポアロから刺激を得たものは多かった。正月には予想していなかった未来だがこれだから人生というものは面白いのかもしれない。幸いクリスティ作品はポアロだけというわけではないし、推理小説というジャンルで見ればそれこそ無限なので人生の一部として、もうちょっとだけ付き合いが続くんじゃ*1。
戯言 ポアロはいつ死んだのか?
周知のように『カーテン』でポアロは亡くなる。一方で『象は忘れない』では1972年という時間設定が普通に出てくる。普通に考えたらポアロが亡くなったのは1972年以降となる。『カーテン』作中では1年前にヘイスティングスは関節炎で苦しむポアロに会っており、病気発症→療養などのタイムラグも合わせると、1972年から数年くらいは時間経過を見込みたいところだ。というのが「常識的」な考えになるだろうが…。
ポアロは『スタイルズ荘の怪事件』の1917年時点でベルギー警察は退職している亡命者で、この時のヘイスティングスの年齢は30歳という明言がある。ポアロが若い時に推理ミスをしたチョコレート箱事件が1890年前後となされるので、ポアロが産まれたのは1860年代だろう。すると、1972年にはヘイスティングスは85歳、ポアロは110歳を超えてしまう。流石にこれは無茶だ。1972年にポアロが生きているのはまずあり得ないだろう。
では『カーテン』ではどうなっているのか。作中で老婆が『スタイルズ荘の怪事件』から約20年という台詞が出てくるが、これはこれでちょっとおかしい。ヘイスティングスの末娘のジュディスが21歳で、他の子供はとっくに独立しているので、シンデレラさんがいかに年子をぽんぽん産んでいようが『スタイルズ荘』から30年弱は経っていなくてはならない。ここはまあ婆さんの宣うことなので多少ボケていたのだろう。ヘイスティングスが「ひょっとして戦争で財産飛んだんじゃ…」と心配する台詞もあるので第二次大戦後なのも間違いない。シンデレラさんの出産ペースが2年間隔くらいだとしたら、ジュディスの年齢的に『カーテン』は1950年代初頭くらいだろう。これならポアロは90歳前後、ヘイスティングスは60歳前後で作中描写との整合性も常識の範疇だ。
しかし、そうすると明確に50年代後半以降の時間設定になっているポアロの事件とは何なのか?一説によれば、アガサ・クリスティが50年代以前の事件を「脚色」して出版時間に合わせた、という話もあるらしい。まあそのあたりが穏当なのだろうが…(メタ的に言えばシリーズが長くなりすぎた。クリスティは自分の探偵キャラを爺さんと婆さんにしてしまったのを後悔していたとか)。
そして、ここで「戯言」の真骨頂。50年代後半以降のポアロは実はそれ以前のポアロではないのでは?エルキュール・ポアロ本人は1950年代前半の『カーテン』で確かに死んだ。その後はその遺志を継いだ人間が「探偵ポアロ」を名乗り事件を解決していたのである。そしてその人物はヘイスティングスに他ならない。あの推理にかけては無能なヘイスティングスが…?と思うかもしれない。しかし、彼は直観にかけてはなかなか悪くなく、灰色の脳細胞による裏付けがないだけなのだ(実際『カーテン』でも直観で結構物事を当てていた)。そしてポアロの方法論を著作で幾度も記しており、直接的な影響を最も受けている。ポアロの死と遺志によって、灰色の脳細胞が急に活性化してもおかしくはない(たぶん)(『カーテン』ではポアロの死と共にヘイスティングスも事実上死んだと自分で書いてるくらいなので一蓮托生なのは確かだ)。『カーテン』時分で妻が亡くなり子供たちも独立したヘイスティングスに社会的な居場所はなく、別の人物になりおおせる余地はある。
ぶっちゃけ苦しいところがあるのはわかっている。まず外見が全然違う。フランス語や口髭くらいは似せられるとしても小男な部分はどうにもならないし、ぱっと見で外国人としてナメられるのも良き英国人であるヘイスティングス相手には成り立ちそうもない。だが…後期作品でなぜポアロはヘイスティングスの不在に苛立っていたのか、微妙に推理のキレが悪いところがあるのか…こういった点はヘイスティングスがポアロを演じているからと見れば自然…じゃないですか?70年代初頭で活動を終えるのも、「最後の事件」が『象は忘れない』になるのも『カーテン』への返歌として言うことなく綺麗になると思うので。
*1:まだまだ続くの意






