志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『フロイス日本史』に見る永禄の変への道

 永禄の変とは永禄8年(1565)5月19日、室町幕府将軍足利義輝が三好義継、松永久通、三好長逸らの襲撃を受け殺害された事件である。戦国時代の足利将軍は影が薄い存在のようにも捉えられがちだが、この事件は織田信長上洛のきっかけとなっただけに知名度も高く、足利義輝が抵抗の際奮戦したことから、義輝は「剣豪将軍」とキャラ付けされることも多い。その一方で事件そのものの畿内政治史における意義や、なぜ義輝が殺されたのかなどは一般的にはあまり意識されていないのではないだろうか。戦国時代の足利将軍は「傀儡」であり、実権を握る三好・松永氏に反抗したため、殺された、そのような「下剋上」の典型としての理解が今でも多いような気がする。
 しかし、戦国時代の室町幕府は傀儡として操られる権威だったわけではなく、統治機関としての実体性を備え、有力大名と連立して畿内の支配を実現していたことがわかりつつある。そのような中で永禄の変も実証的な研究が進み、現在でも定説があるわけではないが、通説に留まらない理解が示されて来ている(足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)に永禄の変に関する諸説が端的にまとめられているのでおススメである)。その中で有力となっているのが、三好氏が行ったのは「御所巻」であり、最初から義輝を殺そうとしていたわけではないというものである。三好氏による御所包囲は公認された請願運動であったというこの説は、永禄の変が「下剋上」であるという理解からすると新鮮なものに見える。
 永禄の変御所巻説の大きな根拠となっているものの一つがフロイス日本史』である。『フロイス日本史』には確かに「三好殿」(三好義継)が義輝に訴訟ありとして「イワナリ」(石成友通)が訴状を提出する様が描かれており、義継が将軍義輝に政治要求を行ったことを記している。しかし、フロイス日本史』のこの場面は引用されることが多いが、『フロイス日本史』が記す永禄の変への経過はそこまで意識されていないのではないだろうか(なお、上記中世武士選書シリーズでは簡潔ながら触れている)。というわけで、何が書いてあるのか、読み直してみようというのが本記事である。

※その後、フロイスの書簡を見つけたので、色々と書きなおしました→「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』


 とは言え、『フロイス日本史』をダラダラ書き写して注釈するのも疲れるので、永禄の変に至る事件をトピック化して、コメントを付けて行くことにする。なお、『フロイス日本史』における原表記は「公方様」とか「三好殿」であるが、固有名詞は一般的な表記に直すので注意されたい(三好義継は永禄の変段階では義重だが、義継とする。松永義久も同様)。

①三好義継、足利義輝から官位推挙を受け「修理大夫」に任官する

 『フロイス日本史』に月日の記述はないが、永禄8年(1565)5月1日の出来事である。義継は義輝に拝謁し、三好氏当主として主従関係を確認した。この時偏諱も賜り、重存から義重に改名している。なお、義継が任官した官職は実際に修理大夫で調整されていたようだが、任官したのは左京大夫であった。どのような政治原理が働いて左京大夫になったのかは不明である。

②三好義継、官位推挙の御礼に足利義輝に自身が主催する豪華な饗宴への出席を依頼すべく兵を率いて上洛する

 ①で述べたように、義輝が官位推挙した時に義継も居合わせているのだが、『フロイス日本史』ではここで上洛したことになっている。「自身が主催する豪華な饗宴への出席」と書くと何のことやらわからないが、要するに三好邸への御成を請うたのである。義輝の三好邸御成は三好義興時代の永禄4年(1561)3月にも行われており、この時も三好氏への栄典授与の返礼であったから、義継が将軍義輝との蜜月を演出すべく三好邸御成を請うのは何ら不自然なことはない…のだが『フロイス日本史』ではこの段階で義継はもう義輝殺害を決心していることになっており、三好邸への御成は義輝殺害が目的ということになっている。なお、『フロイス日本史』では義輝は義継の率いた兵が問題を起こすことを警戒し、自制を促している。

足利義輝、三好邸への御成を拒否するが、三好義継は引き続き督促する

 ②までは特に不審なことはなかった。普通に考えれば、義輝は三好邸御成を快諾し、足利―三好関係による京都支配は継続したことだろう。ところが、義輝は義継が率いた兵の多さに慄き、暗殺の危険から申し出を辞退しようとした。15~20日の間義輝は表面上は三好氏に好意を示し、義継も督促を行った。具体的には「自分たちが崇める偶像に厳かに宣誓したり」、饗宴が終われば居城に引き返すと証言した。要するに起請文を提出したのであろう。義継はさらに譲歩し、饗宴の場所を御所内の義輝の母(慶寿院のことだろう)の邸とした。ここまで行くともはや御成の意味は薄れている気がするが、ここまで譲歩されると義輝もとりあえず応じる意向を明らかにせざるを得なかった。ちなみにこの督促を15~20日行ったというのも若干時間が合わない気もするが、15日ならあり得るかもしれない。

足利義輝、逃亡を図るが、成功せず

 ただ、足利義輝の疑惑は解けなかった。義輝は土曜日に近臣を連れて御所から逃亡を図った。しかし、近臣たちは義輝のこの行動が逃亡であると知ると「臣下が明確に反逆の意志を示したわけちゃうのに逃げるってそれ将軍としてどうなん?まあもし本当に襲われたら、ワイらも一緒やし」と義輝を説得したので、義輝は不本意ながら御所に帰らざるを得なかった。側近衆がいみじくも指摘したように、三好氏は反逆の意志を示したわけではないし、それどころか提案内容を譲歩し、歩み寄ってさえいた。それに対し、応じる意向を見せつつも逃亡しようとする義輝の方が不義理ではあるだろう。もっとも義輝がどれほど三好氏を警戒していたのかは⑤に見るように謎が多く、この逸話も事実ではない可能性もある。

⑤翌日、三好氏の兵が清水参詣に行くと見せかけて御所を包囲する

 義継が清水参詣に赴くのを装った理由はよくわからない。前日の義輝逃亡未遂を聞いて一刻の猶予もないと感じたのであろうか。『フロイス日本史』はここまでさんざん義輝の三好氏への警戒心を描写したくせに、反逆があるとは予想していなかったので、御所の門は皆開いていたとしており、記述の一貫性が見えてこない。上記中世武士選書では政権主宰者は平和アピールのためにわざと非武装する傾向を指摘しており、義輝もそれを企図していたのだろうか。しかし、これによって三好氏の兵は簡単に御所に侵入することが可能となった。

⑥石成友通、進士晴舎に訴状を提出し、小侍従らの殺害を要求する

 なぜ、石成友通が訴状を提出する人物に選ばれたのかは定かではない(石成友通は一色藤長と「入魂」であったため幕府とコネを有していたのだろうか)。進士晴舎は義輝の信頼する側近の一人で、小侍従は晴舎の娘で義輝の側室の一人であったが、小侍従は3人も義輝の子を設けており、親子揃って信頼が厚かったと言える。晴舎は幕府における三好氏への取次でもあったので、この訴状提出自体は公的ルートを通した「正統」なものであり、しかも三好氏は要求が受け入れられれば無事に退去すると約束していた。

⑦進士晴舎、自害し、永禄の変勃発!

 友通が提出した訴状に自分の娘の殺害が含まれていたことを知った晴舎は激怒し、三好義継の無礼を責め立てると切腹を宣言、食事前だった義輝の御前に駆け込んで義継を罵倒すると自害を遂げた。晴舎は激情家だったのだろうか、と書くと晴舎の気持ちに寄り添えていないが、義輝の前で五臓六腑を露出させる方がよっぽどか無礼なのではないだろうか。ともあれ、晴舎の死によって、義継と義輝を結ぶ公的な交渉ルートは消滅し、どうしようもなくなった。結果、三好義継の兵が御所に乱入し、将軍義輝やその側近たちの多くが討ち取られた。

 …というのが、『フロイス日本史』が記す永禄の変へのあらすじである。本当は①の前に松永久秀の画策や阿波公方の指令があったり、⑦の後に進士晴舎の息子(進士藤延)が現場に駆けつけて死んだり、逃亡を図った小侍従が捕えられて処刑されたりといった話もあるが、とりあえず事件の直接的原因には関係ないので措いた。
 さて、永禄の変御所巻説を採る場合、解明しなければならない問題は3点あると考えられる。すなわち、

  • 三好義継(あるいは三好氏首脳陣)はなぜ小侍従らの殺害を要求したのか
  • 足利義輝(あるいは幕府首脳陣)が小侍従らの殺害を受け入れる余地はあったのか
  • 三好義継(あるいは三好氏首脳陣)にとって交渉決裂の場合、義輝を殺害するのは想定内であったのか

の3点である。永禄の変を御所巻と見なすのなら、御所巻が失敗し、義輝殺害に至った意味を考えなくてはならない。義輝幕府の機構の研究は未だ発展段階で、御所巻説を採る研究も管見の限りではこれらを全て説明しているとは言い難いと思っている。
 一方、『フロイス日本史』の記述を追う限りでは、三好氏と義輝の関係の拗れは意外と明確なのではないだろうか。全ての問題のきっかけは、義輝が三好邸御成を拒否しようとしたことにある。フロイス日本史』では三好氏は「郊外」への御成を提案したことになっているので、義継は洛中の三好邸ではなく、飯盛山城や淀城への御成を想定していたとも考えられる。この場合、義継の方が非常識になってくるが、義継はすぐに譲歩し、最終的に開催場所は御所内の慶寿院邸でいいということになっている(これはこれでどうかと思うが)。義輝は渋々同意するも直後に逃亡を企図しており、この逃亡を三好氏が知ったかどうかは『フロイス日本史』からは窺えないが、フロイスレベルでも知っているのだから、当然(事実であるなら)察知できたであろう。
 御成を拒否され、何とか同意にこぎつけたはずなのに、逃走を企てられる。こうなると義輝の三好氏と関係を構築しようとする前向きな意志を義継は疑わざるを得ないだろう*1義継としては、責任者を処罰しなければ、三好氏新当主としての沽券にも関わってくる。当然ながら義輝を処罰するわけにはいかないから、別に責任者を想定することになる。もっとも重大な責任者は三好氏と義輝の間を取り持つべき進士晴舎であろうが、三好氏にとっても窓口である晴舎の殺害要求は、三好氏からの関係破棄になってしまう。そこで選ばれたのが晴舎の娘で義輝の寵愛厚い小侍従ではなかったか。小侍従を殺害すれば、晴舎を直接処罰しなくてもその勢力を弱めることが可能となる。しかし、娘の殺害要求を知った晴舎が激高し、死を選んだことで、交渉は決裂してしまった。
 このように考えると、『フロイス日本史』の記述では、三好氏は、御成の提案、開催場所の譲歩、政治要求を公的ルートで行うなど概ね常識的な対応に終始し、御成の拒否、逃亡、取次の勝手な死亡など非常識な行いは義輝側に多く見られる。信長公記』など、変の原因を義輝の「謀叛」とするものもあるが、例えば逃亡未遂などは確かに謀反と見なすこともできる。『フロイス日本史』では全ては最初から義輝殺害を目的にした陰謀であったという論調なので、三好氏(を操る松永久秀)が悪いことにされているが、書かれた出来事としてはそうでもないのである。むしろ三好氏の行動に正統性があるようにも読める。
 こうした三好氏の側に正統性をちらつかせる情報の出所はどこなのだろうか。無論、実際の見聞を元にした情報である可能性も高いが、フロイスは処刑された小侍従が妊娠中だったと間違えており(実際には変の前に出産済み)、直接の見聞というよりも流布した噂や伝聞を再構成したのではないだろうか。そして、このような噂が流布していた現場とは、足利義輝が消え、三好氏が支配する畿内下であったと考えると、噂が流れることは三好氏にとっても都合の悪いことではなかったと想像できる。そもそも噂を流布した主体が三好氏の関係者であったのかもしれない。
(この情報の出所が三好氏であるのなら、三好氏が正統な振る舞いを主張し得たのは、松永久通の軍勢に清原枝賢がいたのが大きいと思っている。三好氏研究の大家である天野忠幸氏は儒学者である枝賢の従軍を革命思想を用意するためと説くが、流石に話が大きすぎる。清原枝賢は当時随一の学者であったが、松永久秀三好長逸に秘伝付きで建武式目の写本を貸し出すなど、幕府法の大家という側面も有していた。三好氏が御所巻を行い得たのは枝賢の助言があったと考えるのも的外れではないだろう*2。)
 ただし、『フロイス日本史』の記述が永禄の変に至るまでを全て説明しきれているわけでもない。そもそもなぜ義輝が三好邸御成を拒否しようとしていたのかわからない。義継が率いる軍勢の多さにビビったと言っても、起請文提出や開催場所の譲歩までされて渋る意図は図りかねる。そもそも本記事では三好氏は正統な振る舞いをしたと評価しているが、本当に御成を請うためだけなら、1万を超える大軍は不要ではないのだろうか*3。永禄の変計画実行説(松永久秀の策謀や阿波公方の指令があった説)は、変の18日前という直近時期に義継が義輝から官位推挙を受けていることから見ても成り立たないと思われる*4が、大軍の動員は当初から義輝を殺害する意図を感じさせるものではある(積極的意志によるものかはわからない)。
 ただ、本質的な問題として、義輝幕府と三好政権の関係を上手く調停できる人物や機関が存在しなかったということは言えるだろう。永禄4年(1561)に行われた三好義興邸御成は、義興が鹿苑寺を見物に行った際、偶然にも足利義輝と居合わせ、伊勢貞孝が義興に御成を請うように促して実現した。御成に至る流れに作為性が感じられ、脚本を書いたのは伊勢貞孝であろう。伊勢貞孝は室町幕府政所執事職を世襲する伊勢氏の当主で、そうでありながら義輝の逃避行に従わず、三好氏と結んだ幕臣であった。伊勢氏は三好氏に礼儀作法を指南しており、一方で義輝とは微妙な関係にあった。貞孝にとっては、三好氏と義輝の関係が良好でありそれを実現するのが自分であることが、幕府内の地位を保つ上で重要だった。それゆえに御成の実現に拘ったと考えられる(ちなみに貞孝とともに義興に御成を促した幕臣上野信孝大館晴光だった)。
 しかし、伊勢貞孝は永禄5年(1562)の三好対畠山・六角戦争の際に身の振り方を誤り、義輝や三好氏を裏切って六角氏に通じたことで、戦後松永久秀によって誅され、伊勢氏は没落した。永禄4年(1561)の三好邸御成実現に関わった上野信孝も永禄6年(1563)、大館晴光は奇しくも永禄8年(1565)4月という永禄の変直前に亡くなった。義輝幕政に物申すことが出来た松永久秀家督を息子久通に譲り、第一線からは退こうとしていた。三好氏と義輝を結びつけることが出来た人材が次々に現場から消え、進士晴舎一人では力不足だったし*5、三好氏の当主は老練な長慶からまだ若い義継に代わり、今から義輝と関係を構築していこうというところだった。
 最後の方は『フロイス日本史』から離れてしまった気がするが、御所巻は永禄の変の原因と言えると同時にそれ自体が結果でもある。御所巻に至る記述に見えてくるのは、三好氏・義輝間の交渉の不調であり、嘘か真かそれは義輝側が原因になっているようにも読める。そこにあるのは変の正統化を図る三好氏の作為である。一方で将軍弑逆を非とする陣営からすると、三好氏は当初から悪意を持って義輝を殺している方が都合が良い。こうした情報合戦が錯綜した結果が、実態としては御所巻や「訴訟」を記しつつも、松永久秀の悪意や阿波公方の指令を強調する『フロイス日本史』の記述や、変を非難しつつもその原因を義輝の「謀叛」とする他の記録類の記述になっていくのではないかと考えられる。

続編記事
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参考文献

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

足利義輝 (シリーズ・室町幕府の研究4)

足利義輝 (シリーズ・室町幕府の研究4)

*1:義輝が逃走したらそれで決着ではなく、三好氏は正統性を失い、義輝は三好氏以外の自分を支え得る大名権力を探さざるを得なくなり、結果その大名権力と三好氏が戦うことになる

*2:想像をたくましくすれば、三好氏が御所巻の末に義輝を殺害したのは、義継ら三好氏首脳陣に対して枝賢が「御所巻が不首尾の場合、将軍を殺しても良い」と教授したのかもしれない。後年の事例だが足利義昭と対立した織田信長は上京を焼き討ちする際に、吉田兼見に「東大寺比叡山が焼かれた上で京都を焼くのは災いを招く」という説の真偽を尋ね、兼見が否定したために満足し、(御所に累が及ぶ可能性もあるのに)上京焼き討ちを敢行した

*3:ただ『言継卿記』によると、義継の大軍を率いての入京は変前日の18日で、『フロイス日本史』の記述とは距離がある

*4:松永久秀の策謀や阿波公方の指令を真とするなら5月2日~18日という短期間になされたことになる

*5:かつて進士賢光が三好長慶への暗殺者として送り込まれているのもあり、進士氏と三好氏に特別な強い関係はなかった