戦国時代、三好長慶は細川晴元や将軍足利義輝と戦い三好政権を樹立した。長慶は三好之長以来、受領名「筑前守」を名乗る三好氏の嫡流であった。一方で三好氏には多数の支流があり、長慶という「主流」にある時には従い、ある時には対立して生き残りを図った者たちもいた。三好政長(宗三)とその二人の息子、宗渭(政勝、政生)と為三の歩んだ道は決して時代の「主流」となることはなかったが、それゆえに彼らの戦いの歴史は畿内戦国史に確かな足跡を残した。
前編として三好政長(三好宗三)記事もどうぞ。
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- 三好宗渭・三好為三の系譜的位置と名前について
- 三好政勝の登場
- 細川晴元与党・三好政勝の戦い
- 三好政生の三好政権への復帰と厚遇
- 永禄の変と三好三人衆・三好宗渭の誕生
- 反キリシタンから見る三好宗渭の性質と長逸との関係
- 三好宗渭の戦いと死
- 三好為三のその後
- 三好宗渭と為三が目指した「生存」とは
- 三好宗渭と刀剣~『三好下野入道口聞書』小論を兼ねて
- 参考文献
三好宗渭・三好為三の系譜的位置と名前について
父である三好政長本人の父や兄にもあやふやな情報が多かったが、宗渭はさらに名前や系譜に誤謬が紛れている。
まずは、系譜的位置である。三好宗渭は三好之長の次男・三好頼澄の子であるというが、これは誤りである。三好頼澄は兄である三好長秀(元長の父、長慶の祖父)とともに永正6年(1509)政敵である細川高国に与する北畠材親によって殺害されたと伝わる。しかし、頼澄の存在は一次史料からは確かめられない(そもそも当時の現職将軍が足利義澄であり、「澄」の字を共通させる名が陪臣に許されるとは考えにくい)。長秀とともに死んだ弟がいた可能性は否定されないが、その遺児が宗渭であるとは考えられない。
なぜなら、三好政長の遺児であり、一般的に三好政勝と呼ばれる人物は「右衛門大夫政勝」→「右衛門大夫(大輔)政生」→「下野守政生」と名前を変遷させ、花押も共通している(以下の記事を参照のこと)。すなわち、「下野入道」を称する三好宗渭とは、政長の子・政勝の後身である。三好長秀の弟の子である可能性は最初からないのである。
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同時にこれで名前の誤謬も正すことができる。どういうことかと言うと三好宗渭は「三好政康」と呼ばれることが多く、人名事典でもこの名前で立項されることがあるが、宗渭の実名として一次史料で確認できるのは政勝と政生のみである。要するに政康と名乗ったことは確かめられない。発給文書が確認できない永禄4年から7年までに「政康」の実名であった可能性は否定できないものの、宗渭ゆかりの人物は「生」を実名に用いていることから「政康」を実際に称した可能性は低い。「三好政康」は『細川両家記』を典拠にする実名であるが、「三好政康」が登場する永禄8年初秋条を確認すると「三好御同名衆日向守政康、下野守定逸」とある。三好日向守長逸(ながやす)と並列する中で両者の実名を混同してしまっているのが明らかにわかる。先学は単に両者の実名が入れ替わり誤記されたと見なし「三好下野守政康」を誕生させたが、実名レベルでも混乱していると見るのが至当であろう。
三好宗渭の系譜的位置と名前の一般的誤情報と正しい情報を示すと次の通りである。
以前知られていた通説 | 正しい情報 | |
系譜的位置 | 三好之長次男・頼澄の子 | 三好政長の子 |
名前 | 三好政康 | 三好政勝→三好政生 |
これを確認したところで、三好宗渭の名前について確認して行こう。実名は政勝であり、天文22年(1553)頃に政生に改名したと考えられる。官途名は当初は「右衛門大夫(大輔)」→「下野守」と推移したが、一時「散位」と署名したこともある。永禄8年(1565)以前に出家して法名「釣閑斎宗渭」を名乗り、「下野入道」と呼ばれた。なお、宗渭の仮名は本人の自署からは確かめられないが、天文13年(1544)5月三好新三郎が結婚した際本願寺が三好宗三に、三好宗三が隠居した際本願寺が三好新三郎に音信を贈っている(『天文日記』)。また、刀剣書『永禄銘尽』の奥書に所持者として「新三郎」が三好宗三(政長)と並んで記されている。これらから三好新三郎とは後の宗渭である可能性が非常に高い。よって、宗渭の仮名は「新三郎」である。
弟の三好為三の実名は不明である*1。為三は「伊三」や「意三」とも書かれたため、読みとしては「いさんIsan」が恐らく正しい。父政長の法名「宗三」を兄の「宗」渭と弟の為「三」で分け合った格好になる。為三を三好政長の子「三好政勝」と同一人物とする記述もあるが、政勝は宗渭のことで、宗渭の弟である為三と宗渭本人である政勝は同一人物ではない。可能性としては兄の旧名「政勝」を継承したとも考えられるが、根拠はない。系図類では為三の実名を「一任」ともするが、これは法名「一任斎為三」から採ったもので、実名とするには不審が残る。為三は史料上の初見から法名を名乗っており、その前の名前は明らかではない。江戸幕府下で官位を授かり受領名「因幡守」を主に称した。
三好政勝の登場
さて、宗渭について語るにはまず、宗渭の父親である三好政長(宗三)を語らなければならない(上にも挙げたが詳細は三好政長(三好宗三)―細川晴元権力の体現者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』)。宗渭の父・政長は三好之長の弟・三好越後守長尚の子で、細川晴元に近侍することで、晴元権力のキーマンとして立身していった。三好政長はその中で波多野氏・香西氏・柳本氏*2と強い関係を結び、政長の妻は波多野氏であった。政長と波多野氏の間に生まれたのが宗渭で、出生より政長の後継者であると同時に、三好氏と波多野氏という細川京兆家の重臣の血縁を融合させたサラブレッドでもあった。宗渭が生まれたのは、政長と波多野元清、柳本賢治が初めて共に戦った桂川原の戦いの大永7年(1527)より数年以内と考えられる。
晴元に仕える三好政長の地位の特色は、晴元からの信頼を前提に晴元に代わって人的ネットワークを構築し、家中編成を行うことにあった。宗渭、もとい三好政勝は天文13年(1544)5月に父より家督と本拠地である榎並城主の地位を譲られた。この時結婚もしたようである(『天文日記』)が、相手は不明である。ただし、この年の2月には主君細川晴元と波多野秀忠が榎並を訪れており、恐らく政長の家督譲渡と政勝の地位を巡り調整が行われていたのではないか。政勝本人も波多野一族とは縁が深い。この時政勝と結婚した娘が波多野秀忠の血縁であった可能性も大いにある。
ただし、家督継承によって政勝に政長の権力が継承されたわけではなく、むしろ政長は榎並城主の地位を譲ることで晴元に近侍する立場としては一層自由になったと言うべきであろう。また、政勝を政長の後継者としてアピールする側面もあったと考えられ、「右衛門大夫」という、従五位下相当という官途名がこれを象徴する。父政長が終生単なる「神五郎」であったことを思うと、諸大夫ではあるが、官途を称することが出来た政勝は父よりエリートであった。まだ10代であったろう政勝に政治的権限はあまりなかったが、一方で父政長より茶の湯などの芸能を教養として叩きこまれたと思われる。
だが、三好政長の権力は長続きしなかった。細川氏綱の乱の際に、政長の「女婿」である池田信正が晴元を裏切り、戦後の天文17年(1548)政長は信正を切腹させて、自身の「孫」にあたる長正を池田氏の家督として、池田氏への統制強化を目論んだ。これに池田氏家中は反発し、この機を捉えた三好長慶が政長・政勝父子の排除を訴えたのである。長慶の弾劾によると、政勝が木本の在陣を引き払う時に放火しあやうく長慶を殺しそうになったと言い、「於侍上者、言語道断働候」と罵られている(『戦三』二〇九)。事実とすれば迂闊なことをしたものである。ただ、政勝と長慶は波多野氏との血縁関係や三好氏権力内部において競合する立場にあった。お互いに意識しあっていたことが、こうした「事件」を招いたのかもしれない。
三好長慶は妻であった波多野秀忠の娘を離縁して、細川氏綱の一派である河内守護代遊佐長教の娘を娶る(『天文日記』)ことで、三好政長の編成下から離脱した。反旗を翻した長慶が攻撃対象としたのは政勝が城主である榎並城であり、榎並城を包囲する長慶とこれを救援しようとする細川晴元・三好政長の争いになった。両者は天文18年(1549)6月激突し、政長軍の自滅もあって、長慶は政長を始め晴元権力の要人を多く討ち取った(江口の戦い)。これを見た晴元は摂津から逃亡し、政勝も榎並を放棄して晴元の逃避行に加わった。こうして三好長慶は明確に政勝の親の仇となった。
三好長慶は摂津を制圧し、7月には新たな主君と仰ぐ細川氏綱と共に入京、洛中を制圧した。ここに細川晴元権力は崩れ去った。しかし、この時から父を失った政勝の戦いが真の意味で始まることになるのである。
細川晴元与党・三好政勝の戦い
細川晴元敗北の被害を蒙ったのは晴元の配下ばかりではない。大御所足利義晴と将軍足利義輝も細川晴元を支持していたため、晴元権力の崩壊とともに幕府の首脳も京都から近江へ逃れなければならなかった。しかし、逆に言えば晴元権力の残党は統治の正統性の根源となる足利将軍を確保していた。摂津を追われることになったが、晴元の支持者、またはそれになり得る国人たちは依然として畿内に健在であり、かつて畿内の諸勢力がそうであったように権力者として返り咲く可能性は大いにあった。
しかし、そのためにはまずは軍事的勝利を得なければならない。こうした中で三好政勝の活動が開始される。政勝にとっては、父政長以来の人的交友関係も大きな武器であり、摂津を追われた身でありながら、寺社との音信を継続していた。
なお、三好長慶陣営は主君と見なす細川氏綱とその被官たちや河内畠山氏、和泉守護代松浦氏など必ずしも長慶の「部下」とは言えない多勢力の集まりであったが、わかりやすさと当時の呼称であることも考慮し、彼らを総じて「三好方」と基本的に呼ぶことにする。
大御所足利義晴は京都から逃れた数か月後には東山に中尾城を築き始め帰洛を窺った。しかし、義晴は寿命が尽き、天文19年(1550)5月4日に死去する。京都への復帰は息子で未だ15歳の少年にすぎない将軍義輝に託されることになった。この間の4月4日大原辻の門番が晴元方の兵に殺害され、三好政勝と香西元成が山中に潜んでいることが噂されている(『言継卿記』)。7月には晴元与党の動きが活発化し、三好方は十河一存・三好長縁(後の長逸)・長虎父子が1万8000の兵を率いて入京した。この時は小競り合いに終始したが、長虎の部下が鉄砲に撃たれて死んだのが、最古の鉄砲による戦死記録である(『言継卿記』)。その後も断続的に小規模な戦いが行われたが、11月19日に三好方が4万の兵を率いて上洛、20日には近江に進出して放火すると、背後を突かれることを恐れた将軍義輝は中尾城から堅田へ撤退せざるを得なかった。23日に中尾城は三好軍によって破却され(『言継卿記』)、大御所足利義晴が最期の事業として、「誠に百万騎の勢にて攻る共。一夫いかつて関城に向ひなば。容易落難し」(『万松院殿穴太記』)が目指された城郭は1年足らずで寿命を迎えた。
ここで晴元残党の人的構成を確認したい。外部の協力者・後援者としては将軍足利義輝と近江の大名で晴元の岳父にあたる六角定頼がいた。また、和泉守護家の細川元常や典厩家の細川晴賢も晴元に従っていた。そして、晴元の部将としては三好政勝、香西元成(与四郎→越後守)、柳本元俊(孫七郎)、内藤彦七、十河左介、宇津秀信(次郎左衛門尉)、織田左近、岸和田(兵衛大夫)、加成将監(友綱ヵ)らがいた。柳本元俊はかつての柳本賢治の後継者のようで、内藤彦七・十河左介は三好方の内藤国貞・十河一存に対立する一族、宇津氏は丹波内藤氏に、岸和田氏は和泉松浦氏に対立的な氏族であった。直属の部将として働くわけではなかったが、丹波八上城に拠る波多野元秀(孫四郎→上総介)も晴元与党であり、内藤国貞と争い続けた。当然と言えば当然だが、反「三好方」が集結する格好である。これらに加え、垪和道祐や田井長次、平井氏など奉行人らも晴元近臣として従っている。
この中で晴元の両腕となったのが政勝と香西元成で、晴元の副状を発給し、連署することで晴元陣営の意志を表すことができた。香西元成はかつて細川尹賢の讒言によって細川高国に粛清された香西元盛の遺児だろう。この経緯からすると、尹賢の実子で高国後継者を自認する細川氏綱とは相容れるはずもなかった。受領名「越後守」はかつての上香西氏には見えないので、三好政長あたりから授けられた可能性もある(政長の父・長尚が越後守であった)。香西氏が越後守を称する間、政長の子孫は越後守を名乗らず、その後越後守を名乗りだすようになるため、蓋然性は高い。この三好・香西コンビの紐帯が晴元残党の中核であった*3。
閑話休題、その後も京都を巡る政情は混迷を極めた。天文20年(1551)1月30日には伊勢貞孝・一色藤長・進士賢光らが将軍足利義輝の帰洛を図って失敗、自分たちだけで上洛した(『言継卿記』)。伊勢貞孝は三好方との妥協を狙っていたようで、その後三好与党となった。2月22日には調略の成果か、北近江で京極氏が蜂起したため、六角定頼と晴元は鎮圧に向かい、その隙を突いて三好方の松永長頼が志賀郡に出兵したものの逆に近江勢に対応され、近江勢は京都に侵入、これを今度は伊勢貞孝と今村慶満が迎え撃った(『細川両家記』・『言継卿記』)。3月8日には三好長慶の陣所を焼き討ちしようとしたとして60人が捕縛され、14日には伊勢貞孝邸を訪れていた長慶を進士賢光が襲う(『細川両家記』・『言継卿記』)。翌15日には三好政勝・香西元成・柳本氏・宇津氏が洛中に侵入して伊勢邸を焼き討ちしたため、一連の暗殺未遂と義輝・晴元方の動きは連動していたのだろう。16日には三好長虎が2万の兵を率いて駆け付け、晴元方が陣所にした西賀茂と聖天寺を放火している(『言継卿記』)。三好政勝・香西元成らは7月にも洛中に進出し、相国寺に籠城したが、攻める三好方は構わず相国寺を燃やし尽くし、晴元勢は敗走した(『長享年後畿内兵乱記』)。情勢が予断を許さず、正統性は義輝・晴元方が勝る中、三好方は敵方への協力者に厳しい態度であたった。
ただ、天文21年(1552)1月2日有力者であった六角定頼が死ぬと、後継者義賢は三好方との和睦を探ることになる。そして、1月18日には義輝の帰洛が実現、晴元の息子で義賢の甥にあたる聡明丸(後の細川昭元・信良)も三好方に引き渡された。しかし、晴元は和睦に不満だったようで若狭へ出奔した(『言継卿記』)。晴元が和睦に合意せず、嫡男を引き渡すといった特殊な事情が発生した理由はよくわからないが、和睦は六角義賢の強い意志によって実現したことは間違いない。3月11日には三好方が擁立していた細川氏綱が「右京大夫」に任官し、晴元はただの「前右京大夫」となり、京兆家家督の地位を公式に否定された(『言継卿記』)。こうして三好方は将軍を擁し晴元の完全排除に成功したかに見えた。
しかし、4月末波多野元秀が籠る八上城を長慶が攻めていた時、芥川孫十郎、池田長正、小川式部丞ら摂津の国衆たちが波多野に通じ、長慶と松永久秀を暗殺しようとする企みが明らかになる(『細川両家記』)。驚いた長慶はすぐに丹波から引き揚げて、6月聡明丸を越水城に確保した(『細川両家記』)。松永久秀はそのような事実はないにも関わらず、京都の権門に池田や小河が屈服したことを6月段階で喧伝している(『戦三』三三八)。三好方としては高い危機感を感じていたことが知られる。
晴元の反応は微妙に遅かった。8月26日に晴元は宇津に進出し、京都を窺う(『言継卿記』)。10月20日に晴元軍が丹波守護代内藤国貞に大勝を収めると、28日・29日・11月1日と3日連続で晴元軍は京都近郊に出没し、治安を脅かした。11月27日から29日にかけても晴元軍3000は洛中洛外に放火を繰り返し、30日に河内の軍勢を率いた安見宗房が、12月1日に三好長慶が対処のため上洛した時にはすでに丹波に引き揚げた後だった(『言継卿記』)。晴元軍は小勢であったが、ヒット・アンド・アウェイ戦法で三好方を攪乱した。ただし、12月までに長慶に反抗した芥川・池田・小河は順次屈服しており、全体の中で見ると嫌がらせ以上にはならなかった。
それでも三好方の足並みが乱れ、晴元軍の跋扈を許したことは、反三好勢力を勢いづかせることになった。幕臣に上野信孝を中心にして三好方を見限り、晴元を復権させようとする動きが生まれたのである。天文22年(1553)3月8日将軍足利義輝もついにこの動きに同調し、霊山城に入って反三好の旗幟を鮮明にした(『言継卿記』)。芥川孫十郎が再び長慶から離反すると、長慶は7月3日孫十郎が籠る芥川山城の隣に位置する帯仕山に陣城を築き圧力をかける(『細川両家記』)。晴元方は長慶が芥川山城に集中すると見たのか、7月28日上野信孝の手引きによって内藤彦七・香西元成・柳本元俊・三好政勝ら20人の晴元の部将が入京し、将軍義輝の閲兵を受けた。ここに細川晴元は公式に赦免された(『言継卿記』)。
入京した晴元方の当座の狙いは三好方の小泉秀清が守る西院城である。29日には内藤彦七・香西元成・三好政勝・十河左介・宇津秀信の5人が幕閣と作戦会議を行い、義輝から酒を下賜された(『言継卿記』)。30日には幕府・晴元方の3000~4000人が西院城を包囲した。しかし、なぜか戦闘は起こらなかった。そうこうしているうちに翌8月1日には三好長慶が2万5000の兵を率いて上洛、今村慶満が霊山城を落城させる。足利義輝は再び没落して近江へ逃亡した。晴元方は一戦も交えず引き揚げたようで、山科言継は「言っていたことと違う」(詞に相違)と評した。
なぜ、政勝ら晴元方は戦わなかったのだろうか。もとより3000の兵では2万5000の兵と戦うには不足だが、30日に西院城を攻めなかったのも気にかかる。最大の要因は大将である細川晴元の到着を待っていたのではないか。28日の段階で晴元は赦免されたという認識はあったが、やはり実際に義輝と対面しアピールすることが必要だったのではないだろうか。「前右京大夫」にすぎない晴元の復権にはハードルがあった。結局、晴元が義輝に合流できたのは8月2日で、復権どころか義輝没落の御供をするために現れたようなものであった。
三好方は再び将軍を追放し、京都を掌握した。しかし、晴元方は離散したわけではなく、8月18日には池田を襲う。これは不首尾に終わったようで、22日には芥川孫十郎が降伏(『細川両家記』)、以後芥川山城は長慶の居城となった。摂津を抑えた三好方は9月に丹波へ派兵し、波多野元秀の八上城を攻撃する(『細川両家記』)。ところが、9月18日三好政勝と香西元成が八上城の救援に現れ、丹波守護代内藤国貞・永貞父子を討ち取る大勝を挙げた(『言継卿記』)。内藤氏の居城で丹波から京都への進路を守る八木城は大混乱に陥ったが、国貞の娘婿でもあった松永長頼がよく城衆を指揮し、政勝らを退けた(『細川両家記』)。
丹波守護代内藤氏の当主を親子で討ち取ったのは晴元方の大戦果のはずだったが、三好方は松永長頼の子・千勝(後の内藤貞勝)を内藤氏の当主に据え、長頼は内藤氏家中を掌握した。この長頼が相当のやり手であったため、晴元方の勝利はかえって三好長慶による丹波の掌握に貢献することになってしまった。以後の天文23年(1554)以降永禄元年(1558)まで晴元方は京都で放火することも摂津へ侵入することもなくなる。その間八上城は落城こそ免れたものの何度も三好方の攻撃に晒され、三好方は東播磨に勢力を拡大した。ハンデになるかと思われた将軍不在もいつの間にか常態化し、三好氏は将軍を戴くことなく首都京都を支配した。
結果的に見ると動員力がせいぜい3000前後の晴元方は三好方にとって政権確立への程良い経験値稼ぎであった。もちろんそれは乗り越えるのが容易な試練ではなかったのであるが。晴元方は一方的に敗北を重ねたわけではないが、勝利が局地的に過ぎ、大勢に影響を与えることは出来なかった。そして、復権の機会を逸したのである。
三好政勝は天文22年(1553)頃から実名を「政生」に変えた。「勝つ」から「生きる」への転換は境遇の変化を現しているようにも思える。三好政長所蔵の名物茶器・松島は政生によって武野紹鴎に売却された(『茶器名物集』)。また、寺社との音信は継続していたが、大仙院から鳥目20疋を贈られた礼状で政生は「近年音信を返していなかったが、いい加減に思っていたわけではない」と言い訳を述べている(『戦三』一四五八)。音信の返礼を行う余裕がなかったとも取れよう。晴元に従っているが、身分としては単なる「牢人」でしかない政生が窮乏していったのは想像に難くない。
三好政生の三好政権への復帰と厚遇
永禄元年(1558)2月3日三好方が庇護していた細川聡明丸が元服し、六郎を名乗った(『細川両家記』)。刀剣書『本阿弥本銘尽』の奥書によれば、永禄元年(1558)3月3日にこの本を政生が松永久通に贈ったという。丁度六郎の元服と1月ずれているのは気になるので、六郎の元服に関係して逼塞していた晴元方と三好方とで好意的なやり取りがあったのかもしれない。
しかし、融和ムードがあったとしてもすぐ打ち砕かれた。永禄改元が通知されなかった将軍足利義輝は激怒し、5月に5年の間隙を経て挙兵したのである。当然の如く細川晴元もこれに加わった。しかし、5月3日に軍勢を見聞した者によると、香西元成の兵が625人、三好政生の兵が315人、西坊の兵が200人、晴元直属の兵が200人、幕府軍は2000人で晴元方の軍勢はせいぜい1000人ちょっとであった(『言継卿記』)。なお、政生は逼塞中受領名「下野守」を得ていたが、あまり知られてはいなかったようで「三好下総守」などと呼ばれている。下総守は三好之長の嫡男・長秀がかつて称していたから、これをもじった側面はあったのかもしれない。
三好長慶もこの動きにすぐ反応し、6月には1万5000の兵を繰り出した。しかし、この軍勢には5年前と異なる点があった。畠山氏の軍勢がいなかったのである。この頃の畠山氏は安見宗房が力を得ていた。年次は不明だが香西元成と三好政生が波多野元秀に連絡した書状中で、三好方の十河一存・松浦氏に敵対する根来寺と安見宗房が連絡を取っていることが触れられている(『戦三』二一一八)。安見宗房は和泉情勢との兼ね合いで三好方への協力に疑問を抱きつつあったのかもしれない。河内・紀伊へ軍事動員力を持つ畠山氏の向背が定まらないのは三好方にとってリスクであり、反三好方にとっては有利に働く材料ではあった。
6月9日の合戦で三好方は義輝・晴元方相手に勝利を収め、奉公衆を多数討ち取った。その一方で義輝らを没落させるには至らず、両軍は睨みあいを続ける。晴元方にとっては三好方を挟撃したいのが大事で、6月14日付けで紀州粉川寺へ軍事動員を依頼し(『戦三』五一八)、閏6月には尼崎本興寺とも連絡を取っている。この2つの案件で政生は取次を果たしている(『戦三』五二九)。閏6月6日付で政生は能勢氏に軍事的に支障がないことと丹波は波多野元秀が制するであろうと喧伝し、調略を行なっている(『戦三』五二一)。晴元方としてはこの時点では負けるつもりは毛頭なかった。
しかし、畠山氏の援軍がなかろうとも三好方の動員力と比べると義輝・晴元が劣勢なのは火を見るより明らかであった。さらに長慶は畠山氏の穴を埋めるべく、阿波三好家の四国勢を動員にかかる。7月下旬より四国勢は徐々に畿内に上陸を始めた(『細川両家記』)。こうなると数の力ですり潰されるだけである。7月頃から六角義賢が三好方と義輝を和睦させるべく仲介する噂が立ち始めた。9月になると和睦の具体化が始まり、細川晴元と六角義賢が関与していたことが義輝によって北条氏康に知らされている(「尊経閣文庫所蔵文書」)。9月13日には吉田兼右邸で政生が三好方の石成友通と談合に及んでいる(『兼右卿記』)。恐らく晴元の側近として和睦交渉を行ったのだろう。
結局11月27日に三好方と足利義輝とで和睦が成立し、義輝は5年ぶりに帰京を果たした(『細川両家記』)。三好氏は再び将軍を戴くことになった。しかし、和睦の仲介者となったのは六角義賢だけだった。晴元は和睦に反対の姿勢であったため、和睦の当事者から外されてしまった。恐らく、京兆家の現当主である細川氏綱との兼ね合いが付かず、晴元の復権という条件が果たされなかったからだろう。晴元とその与党は将軍を失いまたまた逼塞することになる。
ところで、三好政生は主君晴元の逃避行にもはや従わなかった。政生は京都に残ったのである。なぜこうなったのかは直接的にはわからない。単純に置いてけぼりを食らったのかもしれないし、和睦に傾いた政生と和睦に反対する晴元で政治的に決裂した可能性もある。あるいは、もはや政生にとっては、晴元より義輝の方に帰属意識が強かったのかもしれない。現実的に言えば、牢人としての窮乏生活に耐えかねたということもあり得る。
一方の三好方としてはどうだったのか。かつて長慶は政生を自身を殺そうとしたと非難した。政生を受け入れるのに後ろめたい部分はなかったのか。ただ、長慶が政長父子を非難した根底には、庶流であるはずの政長流が細川京兆家内で嫡流である自身に比肩する地位を得かけたことにあった。すでに長慶は数か国の主であり、将軍直臣の家格を手に入れていたから、政生に「嫡流」を奪われることはあり得なかった。政生が長慶の地位を脅かす可能性は永禄元年の時点でもはやなく、嫡庶の別ははっきりしていた。わざわざ政生を排除しなければならない条件は消えていた。
それどころか、政生は三好政権内でそれなりの待遇を受けた。政生は三好氏の河内侵攻の際に、河内国に禁制を発給しているが、この時三好方で禁制を発給できたのは、政生の他に長慶とその兄弟、松永久秀、三好康長だけだった(『戦三』六三五・六四三)。永禄4年(1561)2月26日政生は将軍足利義輝に直接的に太刀と馬を献上しており(「伊勢貞助記」)、将軍とのコネクションも維持していた。そして、このような背景を受けてであろう、3月の足利義輝の三好邸御成で政生は列席した三好一門において、三好政権の長老である長逸に次ぐナンバー2の地位を与えられている(「三好亭御成記」)。三好政権に加わった政生は単なる傍流一門として捨象されるのではなく、有力一門として厚遇されたのである。
政生が厚遇された要因は何か。これを示唆する逸話がある。政生が帰洛した時、松永久秀が粟田口吉光に似た刀を入手し、三好長慶に見せようとした際、政生に鑑定を依頼した。政生はその刀に丸嶺があることに気付き、丸嶺があるのは粟田口吉光ではなく延寿国吉の刀であると看破したのである。政生は大いに面目を施したという(『三好下野入道口聞書』)。政生の刀剣の目利きが本物であり、周囲を嘆息させるものであることをよく伝えている。
また、永禄4年(1561)閏3月には将軍足利義輝から直々に指名されて、能「西行桜」の大鼓を担当している(「伊勢貞助記」)。後々の話であるが、政生が戦死しそうになった時、高安権頭が身代わりになって政生を逃がしたという(『続応仁後記』)。この逸話が事実であるかどうかは確かめられないが、高安といえば能楽の大鼓方の有力な一派である。政生の大鼓の腕前がそれを本職とする一族からも惜しまれるものであったことを示唆する逸話としては充分なものであろう。
父政長は茶の湯に耽溺であったが、政生の茶会への参加はあまり確かめられない。『天王寺屋会記』によれば、永禄7年(1564)11月15日と永禄11年(1568)2月26日の2回のみである。前者は三好康長や十河了三ら三好方の高名な茶人が多数参加しているため、その中にいる政生の茶人ぶりも引けを取るものではなかっただろう。しかし、父旧蔵の名物・松島を売り払ってしまった逸話からも、政生の茶の湯は父からの仕込みを昇華する意欲には欠けていたのではないだろうか。
以上のように三好政生の文化的技能は相当なもので、しかも当時の武家社会の交遊において実用度も高い。三好政権にとって、このような政生をただ遊ばせておくのではなく、取り込むのが重要であると見るのが自然であろう。
もっとも政生が重用されたのは軍事と儀礼においてであり、三好長慶・義興政権下で政治文書発給に携わることはなかった。さらに政生は多羅尾綱知の子で母親が十河一存の娘と言われる三好孫九郎生勝を養育していた(「広島藩士三好家系図」)。生勝の養育がいつ始まりどのような期間継続したのかは一次史料を全く欠くため不明である。ただ、この伝承が事実であるとするなら、永禄8年(1565)以降政生と生勝の実父・多羅尾綱知は敵対陣営となるため、それ以前の縁組ということになる。生勝は実名からして政生(政勝)の影響が大きいため、恐らく単なる「養育」と言うより養子だったのではないか。多羅尾綱知は細川氏綱の寵臣であるので、この縁組の仕掛け人は政生の高い文化的素養を細川氏綱人脈と三好氏嫡流の血筋に回収することを狙っていたのだと考えられる。政生の重用が無制限なものではなく、こういった措置を織り込んだものであることは留意する必要があるだろう。
さて、一方の細川晴元。永禄3年(1560)三好方が畠山高政・遊佐(安見)宗房と交戦状態に入り、主要な軍勢が河内・大和へ侵入すると、香西元成らは10月8日宗房に味方すると称し、宇治周辺に出没、放火を繰り返した(『細川両家記』)。元成らは三好方はすぐには対応できまいと踏んだのだろうが、10日には松永宗勝(長頼が出家)が丹波から駆け付け、12日には香西元成、垪和源三郎、木沢神太郎、波多野氏らを戦死に追い込んだ(『長享年後畿内兵乱記』)。もっとも、「香西越後守」はこの後も活動が見られるため、元成戦死は誤報とする説もある。しかし、やはり元成はこの時死んだのではないかと思われる。この後の「香西越後守」に発給文書が確認できないため、元成との同一人物関係を確認不可なのもあるが、この後永禄10年(1567)までの一時期「香西」の活動が全く見られなくなるからである。元成は先述の通り、細川晴元の片腕たる要人で反三好ゲリラ活動が少しずつ見られる中、一定期間名前が見えなくなることは不自然である。恐らく後述の「香西越後守」は元成の後継者で、名を挙げるには時間がかかったのだろう。
そういうわけで、細川晴元は復権活動を展開する上で両腕と頼んでいた三好政生と香西元成を双方失った。丹波情勢も永禄2年(1559)波多野氏の有力一門である波多野秀親・次郎父子が松永宗勝に従属したこともあり、八上城は陥落、反三好の波多野氏や赤井氏は牢人となり、丹波ほぼ一国三好方の手に帰した。流石の晴元もこれ以上の抵抗は無意味と悟らざるを得なかった。永禄4年(1561)4月田井長次ら奉行人を伴い堺を訪れた晴元は長慶と交渉を持ち(『天王寺屋会記』)、5月出家して普門寺(大阪府高槻市)に入った。晴元には富田庄が与えられ(『細川両家記』)、衣食住は保障されたようだが、以降普門寺から出ることはなかった*4。政治生命を完全に断たれた晴元が亡くなったのは永禄6年(1563)3月1日である。政生が幽閉状態の晴元と交渉を持ったのか、自身の手を離れ有力三好一門としての処遇を受ける政生を晴元がどう思っていたのか、残された史料は何も語らない。
ちなみに晴元与党だった牢人勢力はこの後も晴元抜きで活動しており、永禄4年(1561)には三好氏と交戦する六角氏に加わって薬師寺氏と柳本氏が戦死(『長享年後畿内兵乱記』)、永禄5年(1562)には没落した伊勢貞孝と結んで挙兵した薬師寺氏と柳本氏が松永久秀に討たれ(『長享年後畿内兵乱記』)、永禄6年(1563)には柳本氏・薬師寺氏・長塩氏がゲリラ的な放火を行ったのを細川藤賢が迎撃している(『言継卿記』)。旧晴元残党のメインは薬師寺氏と柳本氏になったようだが、誤報が混じっているのか、毎年のように戦死している。この間に柳本氏の当主は元俊から秀俊(勘十郎→弾正忠)に交代するため、元俊がどこかのタイミングで戦死したのかもしれない。
時系列が前後するが、永禄2年(1559)と3年(1560)にかけて三好氏は河内畠山氏の内紛に介入し、河内と大和を領有化する。この戦いに政生も従軍していたようだ。政生は永禄2年(1559)12月16日に11月の鎮札の礼として吉田兼右に鯛10、辛螺30、昆布一束、角樽3荷を贈っている(『兼右卿記』)。鎮札は新居への呪符のことだから、政生は三好氏の河内侵攻の中で河内国のどこかに新しい知行と城を手に入れたのではないだろうか。
これを裏付けるようにこの後の政生は河内南部を領有した阿波三好家の当主・三好実休と軍事行動を共にするようになる。永禄4年(1561)和泉松浦氏の後見に入っていた十河一存が死去すると、三好氏によって河内を追われていた畠山高政は反攻を活発化し、三好実休はこれを防ぐべく和泉に出陣した。実休に従った諸将は安宅冬康、三好康長、三好盛政、篠原長房、吉成信長に加え三好政生であった(『細川両家記』)。翌永禄5年(1562)3月5日久米田で両軍が激突、康長・政生・盛政の部隊が畠山軍を押しに押しまくったところ、手薄となった実休の本陣が根来衆に襲われ実休は敗死、三好軍は敗走した(『細川両家記』)。敗報はすぐに京都にも伝わったが、政生も戦死したという情報が流れたらしい(『厳助大僧正記』)。政生戦死は誤報であるが、堺を経由して四国へ逃げ帰る阿波三好家の諸将と異なり、政生に逃げ帰るアテはなかった。この後の教興寺の戦いでは政生の弟の為三が功績を立てたとする説がある一方、信頼できる記録からは政生の参戦は確かめられないので、実際一定期間潜伏していたのかもしれない。
それはそれとして、総じて三好氏は勢力を拡大し、五畿内を意味する「天下」を制していた。政生はその中で特に儀礼面において重要な位置を得た。窮乏とは無縁の中、刀を愛好しつつ暮らした。この期間が政生の一生の中で最も平穏かつ充足した期間であったのではないか。
永禄の変と三好三人衆・三好宗渭の誕生
しかし、乱世は政生に単なる文化人として余生を過ごさせることを許さなかった。永禄7年(1564)7月三好長慶が死去すると、後継者義継が若年であったこともあって三好政権の枠組みは流動化する。永禄8年(1565)3月には義継の裁許を複数の幹部がバラバラに奉じる事態が起こっており、誰が政権の意志を保障できるのか混乱を招いている。しかし、ここで重要なのはこの事態に政生は「下野入道宗渭」として三好長逸と連署し、義継の意志を奉じたことである(『戦三』一一五〇)。ここに政生は政治権力として復活を果たしたのである。
ここで政生は出家していることが確認できる。タイミング的に長慶の死を悼んだものである可能性もあるが、長慶の死は当時公表されなかったため、長慶の死は重要な契機ではないだろう。むしろ、弟の為三も基本的に法体であることと併せれば、政治権力としての復帰に出家が要請されたと考える方が自然だろう。ここからは三好宗渭と呼称することにしよう。
宗渭は長逸の手引きで政治権力として復帰した。宗渭の素性や経歴を知る者にとってはある程度インパクトのある案件ではあったと思われる。ただ、反応が出る前により大きなインパクトが日本列島を覆ってしまった。永禄8年(1565)5月19日三好義継・松永久通・三好長逸が将軍足利義輝を強襲し討ち取ったのである(永禄の変)。宗渭が永禄の変に参戦していたことは確かめられないものの、翌20日には石成友通や長松軒淳世とともに宝鏡寺門跡に伺候している(『言継卿記』)。三好方は22日に足利義輝に御成を請うていた(『永禄以来年代記』)ので、宗渭は4年前の三好邸御成と同様出席が要請されていたはずで、19日時点で在京していた蓋然性は高いと思われる。
なお、足利義輝の所持していた刀剣が後世に伝わったのは宗渭が保全したからという説がある。例えば、大般若長光は宗渭が足利義輝に献上したという伝承と義輝没後宗渭が所持したという伝承があり、現代に伝わっている。伝承が正しいかはともかく、整合的に解しようとするならば、義輝と宗渭が短期間連続して所持していたことになり、永禄の変後に宗渭が「保護」したというのも一概に否定すべきでないのかもしれない。
さらに想像を膨らませることを許されるなら、永禄の変において攻め手の三好方は名物類の処遇について気にかけていた徴証は存在する。「御小袖之唐櫃、御幡、御護等櫃三」といった足利将軍家の存在意義を示す家宝は伊勢貞助によって安全に持ち出されているし、三好方によって御成の開催場所に指定されていた慶寿院邸(「フロイス書簡」)は焼失を免れている(『言継卿記』)。献上・下賜用の名物刀剣(刀剣に限らないが)は慶寿院邸に前もって移されていたのではないだろうか。雲をつかむ話であるが、それらの処置の助言に宗渭が関わった可能性は想定したいところである。
宗渭と足利義輝の関係性は悪くなかったと思われるので、義輝を弑逆するに至った時宗渭の胸に何が去来したかはわからない。もっとも、三好方も義輝殺害後の政権ビジョンを欠いていたようで、後継将軍を立てるのか立てないのか、立てるとしたら誰を立てるのか等が決まらないうちになし崩し的に三好義継による単独畿内支配が行われることになった。ただ、将軍を殺害した三好方への反発は大きかった。特に8月2日内藤宗勝(松永長頼)が荻野直正に討たれ、三好氏による丹波支配が根幹から揺らぐと(波多野元秀は翌年2月八上城を奪還した)、柳本秀俊らは10月京都を窺う構えを見せ、三好方の竹内秀勝と交戦した(『多聞院日記』)。7月には松永久秀が保護していた一乗院覚慶(後の足利義昭)が和田惟政・細川藤孝らの手引きで逃亡しており、三好方における安全保障の懸念は次第に厳しさを増した。
11月16日ついに政変が起こった。三好長逸と宗渭・石成友通の3人は飯盛山城に1000余りの兵を率いて入城すると、義継の奉行人である金山駿河守と長松軒淳世を斬り殺し、松永久秀の政権からの排除を迫った(『多聞院日記』)。若き当主義継にノーの選択肢はなかった。ここに松永久秀と義継の奉行人が排除され、長逸と宗渭・石成友通の3人が三好政権の最終意志保障者として確定した。三好三人衆が誕生したのである。三好三人衆は阿波三好家の篠原長房や三好康長らと協力しつつ、松永久秀や足利義昭と戦っていくことになる(義継は途中まで三人衆に担がれていたが、永禄10年(1567)2月三人衆を罵倒して松永久秀方に走った)。
三好三人衆において三好宗渭はどのような位置だったのか。そもそも宗渭が三人衆に加わったのはなぜか。答えるのはなかなか難しい。細川晴元人脈の象徴という答えも一応は用意できるものの、それは一体何なのか明らかにできなければ答えたことにはならないだろう。実際、宗渭は晴元の息子である六郎とそこまで関わってきたわけではないし、永禄10年(1567)に六郎の部下が大原口と粟田口を押領した際、山科言継は三人衆に対処を求めた(『言継卿記』)が、書状が送られたのは長逸と友通のみで宗渭は対象ではなかった。この時期の宗渭の周辺には薮田宗泉や吸江斎養真といった人物がいるが、彼らがどういう人物であるのか、不詳である。
あまり手掛かりがないのだが、次の案件からは宗渭の独自の立ち位置は窺える。かつての弘治3年(1557)12月三好長慶は東寺久世荘代官の宮野浄忠・卜安父子の不正を糾明した。驚いた父子は逃亡したため、長慶はさらに父子の拘束を命じ、久世荘は東寺の直務支配となった(『戦三』四五四・四五五・四五八・四九六)。浄忠らは捕まらないまま、久世荘に影響力を行使しようとしていたらしく、永禄4年(1561)にはこれを問題視した三好義興が卜安の捕縛と殺害を命じている(『戦三』七八七)。永禄8年(1565)には三好義継が浄忠とその与党が久世に出没したならすぐに成敗せよと命じた(『戦三』一一六八)。三好本宗家はこのように一貫して不正を働いた浄忠に厳罰を以て望んでいた。
しかし、何度も殺害まで含めて命令を出しているように宮野浄忠は全く捕まらなかった。逃亡した浄忠を受け入れその復帰を後押しする有力勢力がいたからである。それがこともあろうに阿波三好家であったのだった。永禄10年(1567)3月河内南部を支配する阿波三好家の重臣である三好康長・三好盛政・矢野虎村は連署して、宮野卜安が久世の代官職に復帰することを東寺に通告してきた(『戦三』一三二六)。三人は三好三人衆の了解を取っていると称していたものの、流石にこれまでの裁許を引っくり返してしまう処置に東寺も疑惑が大きかった。東寺は東寺で独自に三人衆や篠原長房に確認を取り始めた。長逸や友通の反応は記録に残されていないが、三好本宗家の重臣である塩田若狭入道は「高屋衆は長慶の裁許について知らないのではないか?」と呆れなのか怒りなのか、不審を露わにしている(『戦三』一三四二)。こうしたことからもどさくさ紛れに阿波三好家側が浄忠復帰をごり押ししようとしたのであろう。
ここで動いたのが宗渭であった。三好三人衆と阿波三好家の協調に亀裂が入りかねないと感じた宗渭は浄忠の代官復帰をとりあえず認め、自身と康長が上使を派遣することを提案した(『戦三』一三三三)。上使の派遣は不正防止策ということだろう。阿波三好家のメンツを立てつつ、在地の不安を抑える折衷案である。宗渭は三好本宗家の伝統的(と言っても10年も連続していないが)裁許に拘束されることなく柔軟性を発揮することが出来た。実際にこの宗渭案で解決されたのかは不明だが、9月には康長らが久世荘の年貢を浄忠に納めるよう通達している(『戦三』一三六五)ので、三人衆側としてはかつての裁許に反する措置を最低でも黙認したとは言えるだろう。
これは宗渭が三人衆政権の中、穏当な調停者として振舞った例と言える。
反キリシタンから見る三好宗渭の性質と長逸との関係
一方、宗渭には激甚な側面もあった。反キリシタンである。
カトリックは天文末期の日本に伝わり、永禄に入って足利義輝や三好長慶が宣教師を保護したこともあって畿内にも徐々に広がって行った。一方で既存の仏教界からは反発が大きく、禁教令への要望も強かった。こうした声を受けて、永禄の変後の三好義継は7月5日朝廷に禁教令を申請し、宣教師を追放する女房奉書を得た(『言継卿記』)。しかし、三好氏の配下にもすでにキリシタンは多く、彼らを繋ぎとめるためにも宣教師の追放の撤回が今度は求められた。永禄10年(1567)8月12日には長逸と宗渭、篠原長房で追放令の撤回を朝廷に申請したが、朝廷はこれを却下した(『御湯殿上日記』)。
その矢先、事件が起きる。奈良に在陣していた三好氏の家臣・三木半大夫が神鹿である鹿を射殺し食べてしまったのだった。『フロイス日本史』はこの事件を聞いた宗渭の反応を次のように記した。
彼らのうち最悪人で、とりわけもっとも残忍なキリシタンの敵であった一人は、それは自分に加えられた侮辱であると見なした。彼は三木判大夫が神に加えたこの侮辱に極端な憤激ぶりを示し、(こう)言った。「あのように大胆な行為は、(判大夫)が自発的にやったのでは決してない。いな堺に住んでいる伴天連が、彼に鹿を殺して食べるように勧告したのに違いあるまい。それゆえ俺は堺以外のところなら、どこで伴天連に会おうとも即座に奴を殺させることを誓っている」と。
後世に残った貴重な宗渭の「肉声」であるが、かなり物騒な発言である。この後には革島ジョアンが神仏の不在を明らかにするために西宮の神像に便をかける事件が起こった。この時も強硬に反応したのは宗渭であった。
三人(の執政)の一人で、彼らのうちもっとも(キリシタン宗門に)敵意をもっていた下野殿は、(先には)キリシタンたちに殺された鹿(の事件)で、ひどく感情を損ねた態度を示していた。彼は(こんどの事件について)、あの(若)者が、自分および他の執政たちの親類(の者)でなかったなら、疑いもなく即刻磔刑に処するところだ。(命だけは助けてやる)が、あの(若)者は、(今後)予の知己、親族から除外されること、なお申すまでもなく(相続)請求(できる)封禄も(没収されるもの)と心得るがよい、と答えた。
こうして革島ジョアンは宗渭の言葉通り、財産を没収された上、追放された(「シモ」と言うので九州に行ったらしい)。
なぜ、宗渭はこのようにキリスト教に厳しい態度を取ったのであろうか。もちろん宣教師の記述のように性向からして相容れなかったと考えることも出来る。宗渭は永禄11年(1568)2月12日道祖神を移転させる際にも吉田兼右から鎮札を得ており(『兼右卿記』)、従来の神仏への畏敬の念も強かったのかもしれない。その一方、先述したように8月にはキリシタンに好意的とされる三好長逸や篠原長房とともに追放令の撤回を求めていたため、単純に迫害したいという情動によるものでもあるまい。
では、一体何が問題であったのか。まず、三木半大夫の件であるが、実は三人衆方の三好生長は永禄10年(1567)10月春日社に神木と神鹿の保護を約束していた(『戦三』一三六八)。生長は三好長虎が改名したもので、長逸の息子である。事実上の禁制を与えていたのである。すなわち、半大夫が鹿を殺したのはまずこの禁制に反する案件であった。しかし、それならばまず長逸が怒っても良さそうなものである。なぜ、宗渭は「自分に加えられた侮辱」のように感じたのだろうか。
そこで気になるのは、第二の事件の革島ジョアンの続柄である。『フロイス日本史』ではジョアンは「彼は(前記)三人の殿たちのうち、司祭とキリシタンたちに好意を示した唯一の人である(三好)日向殿の甥」と説明されている。しかして、宗渭はジョアンを「親族」から外すことを主張した。宗渭とジョアンの関係はどうなっていたのか。実はこの事件は編纂物である『フロイス日本史』だけでなく、フロイスの同時代の書簡にも記述がある。そこでは、宗渭は次のように語っている。
執政官の内もっともキリシタンを敵視する一人はさっそくこれに対して、もし彼が己れの従兄弟でなく、他の二人の執政官の親戚でなければ、間違いなく直ちに磔刑に処するところであるが、彼を己れの親交と親戚関係から外し、彼が求めていた俸禄を与えないと述べた。
すなわち、革島ジョアンは宗渭の「従兄弟」であった。革島ジョアンを起点にすると、彼の叔父が三好長逸であり、従兄弟が宗渭ということになる。これだけの情報であると、様々な系図が想像できる。しかし、先の第一の事件で宗渭が生長の禁制が一貫しなかったことに強く反応したことを思い返すとどうであろう。そもそも、長虎が生長に改名しているのも、通常であれば上の「生」は誰かから偏諱を与えられた結果と見なせよう。その誰かとは今更言うまでもないが、宗渭(政生)しかいない。
つまり、次のように想像するのが許されるだろう。宗渭は三好長逸の養子となり、そのことによって生長には義兄として偏諱を与え、長逸の甥であるジョアンも「従兄弟」と呼びうる存在になったと。この縁組がいつからあったのかはわからないが、かつて宗渭を三好政権に埋め込むべく行われた三好生勝との縁組が多羅尾綱知との敵対の中で意味を持たなくなっていったのに反比例して重要になっていったのは間違いない。
宣教師の史料で読むと宗渭の反キリシタン言動がセンセーショナルなものに映るが、結局のところ両案件ともに「禁制」を巡るものだったと評価できる。第二の事件も西宮は三好氏にとって重要な港湾拠点であり、越水城は西宮を掌握するための拠点城郭でもあった。西宮の寺社の活動は三好氏に保護され、同時に三好氏の経済を支えていた。春日社にしても、奈良に進駐して松永久秀と対戦する三好三人衆にとっては、是非とも味方でいてほしい有力な寺社であった。キリシタン武士らによる、既存の寺社へ喧嘩を売るかのような言動は一利もなかったのであり、三人衆、特に両事件ともに「身内」が関わった宗渭としては、「信用」のためにも声高に(キリスト教に全責任を負わせる形での)解決を主張しなければならなかったのである。
三好宗渭は寛容さと厳しさを使い分けながら、三人衆内部の連帯を乱しかねない案件に対処していたのである。
三好宗渭の戦いと死
三人衆の戦いと言うと、松永久秀(と三好義継)との戦いがメインだが、晴元残党の系譜を引く勢力も三人衆に敵対し続けていた。永禄10年(1567)7月には波多野元秀と柳本秀俊が京都周辺に侵入するという噂が立ったため、三好長逸が急遽上洛している。実際、27日には波多野・柳本・赤井勢4000が丹波から攻め入ったため、西岡衆が迎え撃った(『言継卿記』)。そして、10月東大寺大仏殿の戦いで三人衆が奈良から退散したのを好機と見た牢人衆は幕臣の三淵藤英を総大将に立てて*5、足利義昭派の奉公衆とともに宇治田原まで進出してきた。しかし、これは西岡衆を糾合した三好生長の前に打ち破られた。三淵藤英自身が戦死したと言われるほどの大敗であった(『言継卿記』・『多聞院日記』)。
ところで、三好宗渭との絡みで言うと、この10月の戦いに久しぶりに「香西」が見えることが注目される。そして、後述するが、永禄11年(1568)9月に「香西」は宗渭と行動を共にしている。陣営が違うため、この2つの「香西」は別人かもしれないが、活動の系譜から見て両者ともに元成の後継者であることは間違いない。永禄2年から10年の間、宗渭の周辺に香西氏は全く見えないし、上香西氏の系譜が三好政権にいる気配もない。そこで、今回の戦いに参戦した元成の後継者の「香西」が敗れた後捕縛されたのを、故元成との旧縁から側近として助命した、という経緯を想定したい。ちなみにこの「香西」は仮名や官途名がなかなか出て来ず(実名も確かには不明)、最終的に「香西越後守」を称する(「玄蕃助」を称していた疑惑もある)。よって、一応は香西越後守と呼んでおく。
南山城で優位に立った三人衆方は奈良への布陣を続け、松永久秀に圧力をかけ続ける。永禄11年(1568)5月宗渭は篠原長房とともに1万5000の軍勢で山城国で打ち回りを行い、そのまま奈良に入って、25日には長房を伴って春日社に詣でた。前年禁制が反故にされたことへの償い兼恐喝かもしれない(『多聞院日記』)。
三人衆は長逸と友通が6月には上洛したが、宗渭は別件があったのか、理由は不明だがなかなか来なかった。2人は手持無沙汰であったのか、洛中の曲者を捕えたり、祇園祭を見物して暇つぶし(?)をしている。宗渭が京都に現れたのは8月12日である。足利義昭を担ぐ織田信長の上洛戦が始まるというので、三人衆は戦略を急ぎ、17日には近江の六角承禎と談合した(『言継卿記』)。しかし、三人衆の戦略にはアクシデントが発生していた。松永久秀の山城への進出を防ぐべく、三人衆は奈良の外港であった木津平に築城していたが、木津平の城主にするはずであった松浦虎が河内へ帰ってしまったのである。そこで9月13日木津平には宗渭と香西越後守が3000人を率いて入城することになった(『多聞院日記』)。
さらには近江において義昭の上洛軍の障壁と頼んだ六角氏もアテにはならなかった。大軍を相手に戦っても、折を見て甲賀郡に引き籠り大軍が去った後に再起するのが六角氏の伝統的な戦略であり、9月12日には観音寺城を放棄して義昭軍の通過を許した。10日には石成友通が援軍のためか、坂本まで来ていたがすぐ引き返す羽目になった(『言継卿記』)。9月下旬には友通の守る勝竜寺城も屈服に追い込まれた。義昭軍を防ぎきれないことを悟った長逸は細川六郎を確保しつつ、芥川山城から阿波へ撤退することを選んだ。宗渭の動向は今一つ掴めないが、木津平に留まっていては京都の義昭軍と奈良の松永軍に挟撃される恐れが強い。結局戦わずに木津平を去ることになったと思われる。
ちなみに足利義昭・織田信長が上洛する中の9月24日柳本秀俊がまたも現れ、嵯峨など京都近郊を放火している(『言継卿記』)。これが柳本氏の活動の最後の記録となった。三好氏の政権が倒されたことで賢治・甚次郎・元俊の怨念も成仏したということだろうか。波多野氏も元亀元年(1570)には明智光秀に滅ぼされたことで著名な秀治が当主として確認されるため、元秀も程なく亡くなったようだ。元秀は波多野氏当主の中では無名だが、当主としての一生を反三好ゲリラ活動に捧げ、苦境に立たされることも少なくなかったが、最終的に本拠地を取り戻した。波多野氏の当主の中では最もドラマチックな生涯であった。
さて、三人衆は足利義昭の上洛軍に押されて畿内から退去したが、壊滅させられたわけではない。三人衆の兵力は温存されており、義昭幕府が成立し畿内勢力が従う中でも常に反攻の機会を狙っていた。義昭軍の主力を担った織田信長があっさりと岐阜に帰り、松永久秀が挨拶に向かうと、12月には義昭幕府を支える勢力が手薄となった。これを見た三人衆は12月下旬に堺に軍勢を上陸させはじめ、付近の家原城を攻略すると、年末年始にかけて一目散に京都を目指した。永禄12年(1569)1月4日三人衆の軍勢は東山に放火して義昭の退路を断つと、翌日には1万の大軍で義昭の御所となっていた本圀寺を包囲する(本圀寺の変)。
宗渭ら三人衆にとっては、将軍足利義昭を討ち取れるかという賭けであった。しかし、本圀寺の軍勢は2000足らずであったものの、明智光秀らはよく守った。そのうち、三好義継・池田勝正・細川藤孝ら畿内の守護格の軍勢が駆け付けてきた。そして、行われた決戦の結果は義継が戦死したとか三人衆が行方不明になったとかかなり錯綜したようだ(『言継卿記』・『多聞院日記』)。しかし、畿内の守護級の大名たちが三人衆に靡かなかった時点で三人衆は「賭け」に負けていた。この状況下で最も大事なのは、京都の義昭軍と畿内の守護軍に挟撃される危険の中生き延びることではなかっただろうか。その点で言えば、三人衆の要人からは戦死者が出ておらず、三人衆が戦闘には勝ったとする情報も一概に誤りではない。
なお、討ち取られそうになった宗渭を庇って、高安権頭が戦死したという逸話があるのも本圀寺の変である。高安権頭は『信長公記』にも三人衆側の戦死者として名前が見える。一方で『当代記』は戦死したのは権頭の養子としている。
そして、永禄12年(1568)5月3日、三好宗渭は阿波で死去した(『二条宴乗記』)。興福寺の坊官である二条宴乗がいかにしてこの情報を掴んだのかはわからないが、宗渭は永禄12年(1568)以降発給・受給文書がない。さらには篠原長房は元亀2年(1571)南山城の有力国人である狛氏へ「釣閑斎如筋目」として連絡し(『戦三』一五一九)、足利義昭は宗渭の弟の為三に「舎兄下野守跡職」を与えた(後述)。すでに宗渭の不在は前提として処理されている。こうしたことを思うと、永禄12年(1568)のいずれかの時期に宗渭が世を去ったのは確実と言える。
死因は何か。フロイスは「下野殿は奇禍に遭い、哀れな死を遂げた」(『フロイス日本史』)とする。フロイスはアンチキリシタンとしての宗渭を強調するので、この記述も悪因悪果的記述であることを差し引く必要はある。しかし、三好長尚の子孫は戦死者が多いのだが、天寿を全うできれば長寿の人物が多い。そうした中で見ると宗渭は40歳そこそこで死んでおり、死の数か月前まで精力的に活動もしていた。自然死であるとはあまり思えない。
ただ、自害や三人衆側の事情による粛清と捉えるのはやや過剰である。『二条宴乗記』は宗渭の死を「遠行」としており、他殺のニュアンスはない。とすれば、本圀寺の変で戦傷を負い、その悪化によって亡くなったとするのがより蓋然性の高い理解ではなかろうか*6。
とまれ、宗渭は亡くなった。享年は40歳弱であったろう。宗渭の後は弟の為三が継ぐことになるが、果たして為三はどのようにポスト宗渭たり得、またそうはならなかったのか。
三好為三のその後
宗渭の弟・三好為三はここまででもちょいちょい出ていたが、改めて経歴を確認する。系図類の没年から為三の生年を逆算すると、天文5年(1536)の生まれとなる。政長の子・宗渭の弟としては順当な誕生年と言える。しかし、為三本人の動向が確認されるのは遅い。『寛永諸家系図伝』によると、教興寺の戦いで湯河上野介を討ち取り、三好義興から「証文」(感状?)をもらったと言う。これが事実であるなら、為三独自の活動の初見である。恐らくそれ以前は兄宗渭と一体化して活動していたのであろう。
兄宗渭が三好三人衆として活動を開始すると、為三も一軍の将・兄の副官としての活動が見えてくる。永禄8年(1565)三人衆が成立した直後の12月には「三好下野守弟侍者」が石成友通とともに上洛している(『言継卿記』)。これが確認可能な為三の初見ということになるが、「弟らしい」という以上の情報がないほど無名であった。この後固有名詞を帯びる時にはすでに法名為三で呼ばれるため、為三の仮名・官途名・実名はいずれも不明である。なお、系図類によると、為三の実名は「一任」であるが、これは斎号・一任斎から採ったもので実名ではないだろう。ここまで為三と主に呼称してきたが、「一任斎為三」が法名としては正しい。
さて、兄宗渭が永禄12年(1569)中に亡くなるとその役割は為三が引き継いだようである。閏5月には淡路で紛争があり、為三と矢野虎村が戦死したという噂が立っている(『多聞院日記』)。為三は12月23日には石成友通と連署して、西大寺へ書状形式の禁制を発給し(『戦三』一四八一)、翌年(1570)4月22日には同じく友通と共に西大寺へ音信を謝した(『戦三』一四八四・一四八五)。友通と連署することからも宗渭の持っていた三人衆の地位を継承したと見て良かろう。
元亀元年(1570)義昭幕府による越前攻めが不首尾に終わると、三人衆勢力は再び動き出す。6月に摂津池田氏で内部分裂が起こり、当主勝正が追放されると、池田氏は三人衆に属した。これに呼応すべく三人衆と阿波三好家は7月1万規模の軍勢の畿内への上陸を開始し、中島・天満森に陣取った。三人衆は野田・福島に築城し、拠点とする構えを見せる(『細川両家記』)。為三は8月2日付の大山崎への禁制に三好宗功(長逸)、石成長信(友通)、塩田長隆、奈良宗保(長高)、加地久勝と署名しており(『戦三』一四九一)、三人衆の幹部・要人であった。
義昭幕府としても捨て置ける事態ではない。織田信長を主将とする幕府軍は畿内の守護を動員、5~6万の大軍で野田・福島を包囲する。将軍足利義昭が自ら出陣するほどの力の入れようであった(『信長公記』)。こうした中、為三は8月末香西越後守とともに何と幕府方に寝返ってしまう。為三は城内から内通する算段になっていたが、それが難しかったため、やむなく自身の300人の兵士とともに天王寺の信長の陣に投降したという(『言継卿記』・『信長公記』)。三人衆方は数で勝る幕府軍の前に劣勢になっていたが、9月には本願寺が蜂起して三人衆に味方し、篠原長房が1万を超える援軍で駆け付けることになる。為三も幹部としてこれら三人衆方の起死回生のカードは承知していたはずである。なぜ、為三は三人衆から離脱したのだろうか。
三好為三は単に三人衆に勝機なしと見たため、離反したわけではない。9月20日には織田信長が摂津国豊島郡を為三に与えることを図っている(『戦三』一五一二)。織田信長が多忙となるため、この話はやや停滞したようだが、翌元亀2年(1571)6月16日信長は明智光秀に為三に榎並を与えることと恐らく豊島郡を付与するため近隣の伊丹氏との利権調整を図るように命じた(「福地源一郎氏所蔵文書」)。7月30日には信長の「執申」に応じ、将軍足利義昭が故宗渭の跡職の知行を光秀を通じて為三に認めている(『戦三』一六〇二)。このように為三は父政長以来の本領である榎並と豊島郡に拘っていた。為三の豊島郡への拘りの理由はよくわからないが、池田にある法園寺は「筑後守勝政室建之 阿波三好意三始之」という所伝が伝わる。為三は池田勝正の妻と何らかの関わりがあり、これを通じて勝正の利権を主張できる立場にあったのかもしれない*7。三人衆は勝正を追放した池田氏家中と繋がることで、畿内への再進出を果たしている。このような三人衆方では豊島郡の領有が難しかったことが離反の理由ではないか。
三人衆は元亀2年(1571)に入ると三好義継・松永久秀と再連繋し、義昭幕府とも対立を強める。8月28日に足利義昭の股肱の臣であった和田惟政が三人衆方の池田知正・荒木村重に敗死すると、摂津における三好方はより優位を強める。6月になって義昭幕府が為三への権益付与に動き始めたのも為三の再離反を防ぐためだろう。三好方も一枚岩ではなく、12月になると三人衆が擁立していた細川六郎と石成長信が幕府に寝返った(『信長公記』・『兼見卿記』)。六郎は右京大夫に任官した上、義昭から偏諱を賜って昭元を名乗った。昭元の任官御礼には薬師寺氏と三宅氏、それに香西氏が三騎で供をした(『兼見卿記』)。この香西氏は越後守のことだろう。為三も昭元の編成下に入ったと思われる。
細川昭元は為三や香西越後守とともに細川藤賢の中島城に入り、三好方を牽制しようとする。ところが、元亀3年(1572)4月為三と香西越後守は三好義継と連絡を取り、昭元を義継に連繋させてしまうのである(『永禄以来年代記』)。為三は再び三好方となった。なぜこのようなことが起こったのかはよくわからないが、あえて言えば義昭幕府下における豊島郡の回復が前年以来進まなかったからではあるまいか。義昭幕府は池田氏家中から追放された勝正を保護し、その復帰を企図していた。すると、為三に豊島郡を与える方針と矛盾してしまう。義昭の御教書も言っているのは宗渭の跡職のみであり、どこを与えるのか具体的な明言を避けていた。であるならば、摂津を制しつつある三好方に加わる方が利権回復の可能性アリと見ても不自然ではないだろう*8。
しかし、この裏切りは昭元の確固たる意志に基づいたものではなかった。昭元は為三と香西越後守に言われるまま三好方に加わった(「誓願寺文書」)ものの内心は不満が残っていたようだ。昭元は結局8月になると中島城に再び籠り、義継や本願寺の攻撃を受けた(『永禄以来年代記』)。昭元は寡兵の中よく守ったようだ(「フロイス書簡」)が、攻め手の三好軍が兵糧攻めに転じると勝ち目はなかった。翌元亀4年(1573)2月中島城は開城に追い込まれ、昭元は堺へ逃亡した(『永禄以来年代記』)。為三と香西越後守は責任を感じていたのか、中島城攻めでは対岸の浦江に築城し兵糧攻めの一角を担っている(『永禄以来年代記』)。だが、これ以降為三の直接的な消息は絶えてしまう。
元亀4年、改元して天正元年(1573)は畿内勢力にとって画期の年となった。幕府内部では将軍足利義昭と織田信長の対立が臨界を突破し、義昭は三好義継の若江城に追放される。その義継も11月には織田氏の武将・佐久間信盛に攻められ自害する。この過程で三好宗功は姿を消し、石成長信は戦死し、三好三人衆は壊滅した。松永久秀も義継滅亡により、織田氏に屈服した。前年まで畿内を席巻した三好氏は中核を全て失うに至った。なお、三好氏の当主には若江三人衆によって、かつて宗渭が養育した孫九郎生勝が就いている。これらの動きを為三はどう見ていたのか。何をしていたのかも含めて全く不明である。
ただ、三好方に加わっていた人間がいなくなったわけではない。天正2年(1574)香西越後守は池田勝正や松山重治、三宅氏らの畿内敗者残党らとともに大坂本願寺に入城し、本願寺の軍勢の一翼を担うことになった(『永禄以来年代記』)。しかし、これも長く続かなかった。天正3年(1575)4月織田信長が南河内の制圧に乗り出すと、越後守は十河重吉とともに新堀城に籠って抵抗したが、敗れ捕縛された。捕えられた越後守は「眼をすがめ、口をゆがめ」ていたが、いかに取り繕ったところで、信長は越後守の顔を見知っており、往年の反抗的な動きを罵られた上で処刑された(『信長公記』)。ここに細川京兆家の伝統的重臣氏族であった上香西氏の系譜は絶えた。なお、この軍勢には細川信良(昭元から改名)も加わっていた(『兼見卿記』)が、信元は越後守を助命しようとはしなかった。むしろ処刑を後押ししたかもしれない。約20年前、細川晴元が三好政生と香西元成を片腕に戦っていた面影は信良・為三・越後守には全く見出せない。
為三が本領として拘っていた榎並は天正4年(1576)信長によって三好康長に与えられた(『戦三』一七四五)。康長は榎並統治について百姓に直接的に指示を出している(『戦三』一九七三)ので、為三は榎並への領有権を完全に否認された。もっとも上記の香西越後守の末路を思えば、為三がのこのこと織田信長の前に姿を現せるはずもなかったのだろう。ただし、天正4年(1576)3月8日の津田宗及の茶会に古田出羽、長谷川源五と並んで一任斎(為三)が出席している(『天王寺屋会記』)。この長谷川源五が藤五郎秀一のこととすれば、為三は織田信長の側近と茶会に同席できるだけの「生存」は許されていたことになるだろう。
為三は豊臣政権下で再び名前が見えるようになる。朝鮮出兵において名護屋城に在陣した者の中に為三がいた(『太閤記』)。また、豊臣氏の家臣・宮城豊盛に宛てた書状も残っている(『戦三』一九九一)。為三は豊臣氏の家臣となったようだが、弱小旗本以上に重用された形跡はない。
しかし、慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康が覇権を握りだすと転機が訪れる。一体どういう伝手があったのか、為三は徳川家康・秀忠父子と懇意であったようで、関ヶ原の戦いに東軍として加わり、戦後1400石を加増されて河内国に計2020石を得た*9。大名とは呼べないが、旗本としてはまずまずの地位である。なお、奇しくも河内国の領地の一部は飯盛山城の跡地を含んでいた。慶長9年(1604)に為三は因幡守、長男の可正は越後守に任官している。その後慶長19・20年(1614・15)の大坂の陣では父子ともに徳川家康に河内の地理を案内したという(『寛政重修諸家譜』)。為三・可正父子はその後も徳川将軍に近しかったようで、音信をやり取りしている(『戦三』一九九二・一九九三・一九九五・一九九六・一九九七・二〇〇〇)。
為三の子孫は長男の可正が為三の祖父長尚以来の受領名「越後守」を名乗っている。また、為三は孫にあたる長富を養子に迎えた。長富の子孫は代々法名を「○三」としている。このことから、為三は長尚以来の嫡流を可正の系統に継がせ、自身から始まる家を長富に継承させたのだろう。『慶長十六年禁裏御普請帳』にも「三好因幡守 貮千石」と「三好越後守 千石」が並列されている。為三の子孫は二家に分かれ、そこそこの地位の旗本として幕府の役職を務めつつ、江戸時代を生きることになった。
三好為三は寛永8年(1631)12月10日亡くなった。享年96歳。細川晴元の腹心の次男として生を受けた子が最期に生きたのは徳川家光の時代であった。気付けば誰よりも長く生きていた。
三好宗渭と為三が目指した「生存」とは
以上、三好宗渭と弟為三の動向を見てきた。宗渭には通説として確たる人物像があるわけでもないし、私個人としてもどのような人物であるかはかなり未知の領域にあった。そのため、動向や事件についてある程度逐次的に確認していく必要があり、どうにも冗長となってしまった。しかし、固より本記事で触れた動向が宗渭と為三の活動を網羅できているわけでもないし、宗渭・為三の陣営移動の理由など満足に明らかにし得なかった事情も多い。
ここで、三好宗渭と為三の人物像について何が言えるのだろうか。
三好宗渭には様々な要素が集まっている。高い文化教養や細川晴元残党の幹部としての働きは父である三好政長の教育の賜物であろう。もっとも、宗渭は父政長の愛好した茶の湯よりも刀剣目利や大鼓に優れたようなので、そこは個性と見なすべきだろう。特に刀剣目利は三好政権に帰順後の宗渭の扱いを大きくした。松永久通、細川藤孝、篠原長房などが宗渭の教えを請い、幕府・三好政権において、宗渭は多くの名刀を実見したと推測できる。宗渭は父政長の人脈を発展させる形で自身の新しい人脈を築いた。
こうした繋がりは宗渭を首魁とする派閥というわけではない。しかし、三好政権とは敵対的であった経歴を持ちながら、畿内周辺の複数の要人と親しい宗渭の存在は政権の「安定」を求める者にとっては是非とも取り込んでおきたいものだった。こうした点が三好政権において宗渭を有力一門たらしめ、三好三人衆に加えられる要因となったものであろう。
実際、宗渭は「身内」への責任感が強かった。義兄弟となった三好生長の禁制が守られなかった際、宗渭はそれを「自分に加えられた侮辱」と見なした。従兄弟にあたる革島ジョアンが反仏教的言動によって追放された時、宗渭はジョアンを自身の「知己および親族」から外されることを罰として加えた。逆に言えば宗渭の「知己および親族」であることは、宗渭にとって価値があることであり、その限りにおいて宗渭は彼らを擁護していたのであった。こうしたある種の親分肌とも言うべき性質が宗渭の人間的な魅力であり、三人衆の一人たらしめたと評価されよう。
対して、弟の三好為三は嫡男としての教育を受けた兄とは異なり、奔放さが目立つ。行動原理が自身の権益が確保され得るのかどうかに左右されてしまっているように見える。為三には高い文化的教養も人間的魅力もあまり窺い知れない。ただ、庶弟である為三には本来、家を負って立つことは要請されておらず、リーダーとしての素養も責任感はなかったのであろう。為三は弟として宗渭の後を襲ったが、政権指導者の一角としてはあまり向いていなかった。しかし、ある意味ではこの柔軟さが為三とその子孫を江戸幕府下でも中級旗本として存続せしめたとも言える。
思えば、宗渭と為三の出発点は危ういものだった。細川晴元権力の有力者であった父政長が敗死すると同時に晴元権力自体が消え去った。三好家の庶流であった政長は嫡流の長慶に匹敵する力と地位を築いたが、宗渭と為三にはこれが逆に大きな負債として圧し掛かった。紆余曲折はあったが、嫡流に属する三好長慶が歴史の大きな流れに乗っており、敗者晴元を支持する宗渭らはいつ消し飛ばされてもおかしくない一庶流に過ぎない。「孤独」の中生存を確保することが、宗渭と為三にとって第一義の使命であった。
宗渭は自身の教養を武器に、敵であった三好氏の嫡流の内部において「生存」を実現し、三好三人衆の幹部にまで栄達を回復する。為三は庶流という軽さを逆に生かし、陣営移動によるフットワークに「生存」の可能性を賭ける。その結果、長慶以来の河内三好氏を由緒とする家は宗渭が養育した三好生勝が継承して広島藩士として、為三の子孫は飯盛山城を領地に含みつつ旗本として江戸時代を生き延びた。皮肉にも三好氏嫡流の家と土地の継承にも庶流の宗渭・為三の動向が一枚噛むことになった。最終的に宗渭と為三は生存を賭けた闘争に打ち勝ったのである。(本来否定されるべきだった)「生存」を肯定した道程として、兄弟の生涯は評価されるべきだろう。
三好宗渭と刀剣~『三好下野入道口聞書』小論を兼ねて
この項目では三好宗渭と刀剣との関わりについて試論を展開したい。と言っても私自身、名物刀剣についてほとんど知らないので、何がどうなのか判断するということは出来ない。また、基本的な論旨は生野勇「戦国武将目利者 三好釣閑斎の研究」(日本美術刀剣保存協会『刀剣美術』1989年4月号)に依拠している。参照どころかほとんど受け売りのようになっている箇所もあることをお断りしておく。
ところで、宗渭には多くの「~聞書」と題された伝書がある。そのうち『三好下野入道口聞書』は刀剣博物館に所蔵があるとのことだったので、博物館にお窺いを立てて令和元年(2019)8月22日に実見させていただいた(楷書漢字+カタカナなので大意を掴むのは難しくはなかった)。個人的に「~聞書」というくらいだから、延々と宗渭の口述筆記が続いているのかなと思っていたが、基本的に刀剣書で各刀剣の特徴についてつらつら述べる書物だった。しかして、節々に「三好下野入道はこう言われた」として、宗渭が発見した(かどうかは知らないが)刀剣の特徴の記述であったり、宗渭の逸話であったり、三好関係者の刀剣の話が掲載され、その点では確かに宗渭の教えというものに臨場感を覚えさせるものではあった。
『三好下野入道口聞書』(以下、『口聞書』)は「三好下野入道口聞書」(以下、「口聞書」)と「三好釣閑斎秘説」と「三好釣閑斎秘事」の3冊の合冊で、分量として「口聞書」が最も大きく3分の2ほどを占めている。それぞれに奥書もあり、共通する記事もあるため、同伝承圏内の異本と認めうる。合冊したのは天正17年(1589)に「岩主慶友」と署名する人物によってであるが、刀剣博物館所蔵の『口聞書』は江戸時代後期の写本であり、奥書の形式等を遡ることが出来ないため、「岩主」が名字なのかイニシャルなのかは確かめようがなかった。残るのが江戸時代後期の写本であるため、内容が本当に天正まで遡り得るのかは慎重を期したい部分もあるが、他の刀剣書と共通する部分の指摘や登場人物が基本的に三好氏関係者であり、宗渭が生きていた頃の様子を伝えるよすがとしては特段の不自然さはないと考えたい。
個人的な感想としては、細川晴元が全く出て来ないのが気にかかった(氏綱は出て来たので余計に晴元不在が際立つ)。宗渭には粟田口吉光の一期一振を見に越前朝倉氏をはるばると尋ねたところ、刀を見せてもらえなかったという逸話があり、背景等も気になっていたのだが、『口聞書』の記述では背景等が全く書かれておらず、本当に刀を見られなかったということに終始する一逸話の域を出なかった。これは私の想像だが、宗渭は晴元時代の思い出を意識的に避けていたのではないか?越前朝倉氏にアポを取れなかったという話はあり得るとするなら、晴元に従って牢人となっていた時代のことのように思える。それがあっさりとした逸話の口ぶりに繋がっているのではないだろうか。
「畠山殿」や「細川讃州」や阿波海部氏の刀も出て来たので、宗渭の交遊圏が知られる(「細川讃州」の刀は篠原長房が見せてくれたらしいが、故持隆の刀を持ち出したのだろうか?)。刀の特徴的記述も多々あったが、自分は刀剣について全く知らないので、「ああ!確かにあの刀はそうだよな!」とか「宗渭が言うこの刀はあの刀のことなのでは…?」とか全く反応できなかったのが惜しい。
例えば、「備前三郎国宗」には彫物があるのかどうかという説に対し、宗渭は十河一存の「備前三郎国宗」には彫物があり、それが唯一の彫物と語ったらしい。「備前三郎国宗」には一般的に彫物がないのは正しい情報なのか、その上で十河一存が所持していた「国宗」に彫物があったのが、「珍しい刀だなあ」なのか「ちょwww騙されてまっせwww」なのか、そういった点が全くわからない。
なお、宗渭には長岡幽斎(細川藤孝)に著された伝書である『三好下野入道聞書』もあるようだが、所蔵者とされる和鋼博物館に連絡を取ったところ、所蔵が確認できなかった。生野氏の論文には写真付で掲載されているので、ないということはないと思うのだが…。この件については後考に俟ちたい。生野氏の論文の写真は奥書の部分で、確かに長岡幽斎の著であると書かれている。他に『三好下野入道殿聞書』という書物もあるようだが、これは宇都宮三河入道の『秘談抄』の写本というべきものらしい。
宗渭所持の刀剣書としては『永禄銘尽』が父政長とともに「秘蔵」していた本である。『秘談抄』の写本には宗渭所持の奥書を示すものがある。『如手引抄』は本阿弥光刹からの伝授本であるらしい。『能阿弥本銘尽』は奥書によれば、宗渭から松永久通に贈られた本ということになる。他に宗渭の教えを記した本は上記のように多々あったが、『刀工秋広口伝』も伝説の刀工に仮託した、宗渭門下の編纂であるらしい。この段落の情報は全て受け売りで、確認など全く取ってませんが、そうらしいです。
宗渭の刀剣目利は系統としては本阿弥系に属する。直接的な師匠は本阿弥光刹(光節)である。本阿弥光真(光心)からも教えを受けたらしい。素性がわかる弟子としては細川藤孝(長岡幽斎)、松永久通、篠原長房、宮城豊盛がいる。特に宮城豊盛は『宮木入道伝書』を遺しており、宗渭の師資関係を記している。豊盛によると、宗渭の目利は「上アタリ上手、習サノミナシ」とする。豊盛は藤孝の目利きは「上当ハ下手」と称しているので、宗渭の方が刀には強かったらしい。
宗渭はいかなる刀を持っていたのか。天正8年2月22日には織田信長の刀剣コレクションを津田宗及が見る機会があった(『天王寺屋会記』)。その中の「国行」がかつて六角氏が所持していたが、津田宗達が宗渭に献上した刀という注記がある。また、「大般若長光」は宗渭の所蔵刀として著名で元亀年間には織田信長→徳川家康の順に伝来していった(『当代記』)。「大般若長光」は600貫文で売買されたのが大般若経600巻にかけられたネーミングであるが、600貫文で購入した人物が宗渭なのかもしれない。他には「西方江」も宗渭の所持刀剣という伝承がある。毛利秀元が持っていた「鷲の巣行光」は豊臣秀吉から「これはあの三好宗渭が持っていた刀だ」との触れ込みで拝領した名物とされている(現存せず)(『毛利秀元記』)。
『続応仁後記』には永禄4年(1561)12月に畠山氏の反撃により三箇城主三好下野守政成が討ち取られたとする。戦死どころか戦いの事実自体が確かめられないものだが、討ち取られた政成は太刀は「天国」、刀は「雲次」を持っていたのを奪われたという記事が見える。「天国」も「雲次」も伝説的な刀工であり、宗渭と刀剣の強い結びつきを示す伝承として捉えられようか。
ただ思いつくままを書き連ねた項目となったが、宗渭と刀剣の関わりを示す情報としてはこんなところである。かなり、宗渭が刀剣に入れ込んでいるなと感じてくれればうれしい。
参考文献
- 作者:今谷 明
- 発売日: 2007/04/01
- メディア: 新書
- 作者:天野 忠幸
- 発売日: 2015/08/06
- メディア: 単行本
三好長慶:諸人之を仰ぐこと北斗泰山 (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者:天野忠幸
- 発売日: 2014/04/10
- メディア: 単行本
三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)
- 作者:天野忠幸
- 発売日: 2016/01/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
*1:『吹田市史』では「い三之正」の署名文書を三好為三書状としているが、為三のものである確証は得られていない
*3:ちなみに書札礼としては元成の方が政生より地位が高かった
*4:戦国期細川京兆家当主の墓は基本的に龍安寺にあるが、晴元のみ普門寺にある
*5:三淵藤英は永禄5年(1562)の伊勢貞孝の反乱に与同しているのでその時から牢人衆とコネがあったのかもしれない
*6:高安権頭の身代わりがあったとしても死期を4か月遅らせるだけだったことになる。それが良かったのか悪かったのかはわからない
*7:父政長が池田信正・長正父子と血縁を結んでいたのが思い出される
*8:すみません、実の所ここらへんはよくわかりません
*9:豊臣政権では600石しかもらってなかったらしい