志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『多聞院日記』天正10年6月3日条の「細川殿」とは誰か

 『多聞院日記』は興福寺塔頭多聞院の僧侶が3代、文明10年(1478)から元和4年(1618)まで書き継いだ日記である。140年分全てが現存しているわけではないが、戦国時代から江戸時代初期にかかる「一次史料」として日本史研究では重視されている文献である。しかし、「一次史料」であることが、即情報の正確さを意味するわけではない。『多聞院日記』は同時代史料であるゆえに、その時その時巷間に出回ったデマを掴まされている。著者もこの点は自覚的であったようで、デマを判明した情報については、傍書として「ウソ」と書いていたりする。
 さて、天正10年(1582)6月2日に惟任光秀が織田信長・信忠父子を襲撃し、両者を自害に追い込んだ事件―本能寺の変は日本史上でよく知られている。当然ながら、奈良にもすぐ変の情報が届くことになるが、情報は錯綜していた。無数の噂が飛び交う中、多聞院英俊がしかるべき筋から情報を入手したのは6月3日であった。

京ヨリ注進之面、信長ハ本能寺ニテ、城介ハ二条殿ニテ生害、菅屋九衛門・村井三人・福富平衛門、此外小性衆五六百生害了、日向守ハ先ツ坂本へ入、大津・松本・セタニ陣取云々、細川殿モ生害云々

 織田信長は本能寺で、信忠は二条御殿で自害に追い込まれ、菅屋長頼村井貞勝福富秀勝ら、彼ら以外にも小姓が500~600人戦死したという。そして光秀は坂本城に入り、近江方面への出陣計画が記されている。流石、「注進」と言うだけあって、正確な情報がもたらされている。
 …。
 「細川殿モ生害」って何だ?
 本能寺の変に絡んで死亡した人間に細川名字の人間はいない。よって、現代の目から見るとこれは虚報である。それはそれとして、この人物は一体誰を指しているのか。
 明智光秀に細川と言うと、真っ先に連想されるのは細川藤孝・忠興父子だろう。しかし、「細川藤孝」と言うとわかりにくいが、この頃の藤孝の名字は長岡(永岡とも書かれた)である。ややこしいが、細川藤孝は当時「長岡殿」なのである(よって本記事でも天正以降の細川藤孝はきちんと長岡藤孝と表記する)。
 ただ、そうは言っても多聞院英俊あるいは英俊に変の情報を知らせた相手が適当に藤孝の前の名字である「細川」で藤孝を呼んでしまっている可能性はないとは言えない。この可能性を否定するためにも、また色々調べないといけなくて自分の性分を呪うことになった。もう12月なんだぞ!こんなことをやっている場合では…。そもそもこれデマなんだから、「細川殿」が誰かとかどうでも良くない?

1 「細川殿」が示すもの

 『多聞院日記』に踏み込む前に「細川殿」が誰を指しているのか、確認しておこう。
 まず、『信長公記』である。『信長公記』巻八(天正3年)に「細川殿」が登場する。

一、丹波国桑田郡船井郡細川殿へ進せらる

 越前一向一揆を平定した後の織田信長が、諸将に領地を与えた中の一節である。織田信長丹波国桑田郡船井郡を与えた「細川殿」とは一体誰か。
 かつてはこの「細川殿」も長岡藤孝であると考えられてきた。先賢がこのように判断したのは理由がなかったわけではない。

来秋大坂合戦申付候、然者丹州舟井・桑田両郡之諸侍、其方へ相付上者、人数等別而相催、可被抽粉骨候、此旨申触、各可成其意事、簡要之状如件、
 天正
   三月廿二日        信長(朱印)
    長岡兵部大輔殿

 織田信長天正3年(1575)3月、本願寺と決戦すべく船井郡桑田郡の国人を長岡藤孝に付属させ、兵を集めるよう命じた。そして、9月には船井郡桑田郡が「細川殿」に与えられる。この2つの点を結びつければ、長岡藤孝に船井郡桑田郡が与えられたと考えるのは一理ある。
 しかし、「細川殿」を藤孝に比定するのには疑問が残る。何より長岡藤孝の名字は「長岡」であり、細川ではない。この点は『信長公記』は徹底している。『信長公記』における天正以降の長岡藤孝は「長岡」「永岡」「長岡兵部大輔」「永岡兵部大輔」と呼ばれ、例外らしい例外はない。さらには元亀4年(1573)の「細川兵部大輔殿」を最後に藤孝に「殿」を付けることはなくなる。細川(長岡)藤孝が敬称を帯びるのは、幕府が機能し藤孝が幕臣である限りにおいてであり、名字を改め織田氏の家臣としての性格を強めた長岡藤孝は呼び捨てなのである。このような姿勢を持つ『信長公記』が天正3年9月に突然ピンポイントで藤孝を「細川殿」と呼ぶのは不審が多い。
 実は『信長公記』には「細川殿」が登場する箇所はもう一つある。巻十一(天正6年)である。

晦日には、払暁より堺の津に御成り。近衛殿、細川殿、一色殿、是れも御同心。

 織田信長が大船を観覧した際に連れてきた貴人に「細川殿」が見える。ここまで来たらもったいぶることもないだろう。この「細川殿」は細川信良(昭元)である。信良は細川家嫡流家にあたる京兆家の当主であり、三好氏に盟主として擁立された後は、織田信長によって庇護されてその妹を娶り一門格の立場にあった(逆に言えば織田信長細川京兆家の義兄というポジションを手に入れた)。
 実際、『信長公記』において、細川信良は織田陣営に属した後は一貫して「細川六郎殿」「細川右京大夫殿」と「殿」付で呼ばれる。名字も細川のままであり、「細川殿」と呼ばれる条件を満たしている。よって、『信長公記』において、単に「細川殿」と呼ばれる場合、細川信良を指している。「長岡兵部大輔」と「細川殿」に互換性はない。

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 でもそれは『信長公記』限定ルールでは?と思われるかもしれないので、もう一つ史料を挙げたい。

 公方様に次ぐ日本の重立った領主である細川殿御屋形(Fosocauadono Voiacata)はおよそ六カ月間、包囲された中島の城中にいたが、彼を囲んでいたのは三人衆霜台(Sanninxu Sotay)、三好殿、大坂の仏僧、および多数の兵であり、そこ(城中)には御屋形の家中の重立ったキリシタンの貴人二名がいた。度々合戦が行なわれたにもかかわらず、城は決して武力によって落とすことはできず、絶えず双方に幾らかの死者が出た。結局、街道を押さえたことから城は飢餓により陥落し、細川殿とその兵は、信長が遠く離れた所にいて彼を助けることができなかったので堺に逃れた。

 「1573年4月20日フロイス書簡」における一節である。ここで「細川殿」と呼ばれているのは細川昭元(信良)のことで、「細川殿」一つで細川京兆家の当主を呼称できることがわかる。
 ここで挙げたのは2例だけであるが、「細川殿」と単に呼称した場合、それは細川京兆家の当主を指すことが「常識」である、としたい。

2 『多聞院日記』における細川藤孝

 翻って『多聞院日記』である。「細川殿」が細川京兆家の当主であるのが「常識」と言ってみたところで、『多聞院日記』がその「常識」に従っているかどうかが問題として問われる。英俊が長岡藤孝を細川藤孝、あるいは「細川殿」と認識していたのなら、「細川殿」=細川信良は成り立たない。
 下に示したのが、『多聞院日記』に登場する細川(長岡)藤孝の全てである。

出典月日 表現
永禄11年9月23日 細川兵部大輔
永禄11年10月10日 細川兵部大輔
天正5年3月2日 細川兵部
天正10年6月17日 細川ノ兵部太夫カ中間ニテアリシヲ引立之

 はあ!?すっくな!
 ちなみに天正10年6月17日条の記述は敗死した惟任光秀の素性を語った有名なもので、光秀の出自論では必ず引かれる。「細川ノ兵部太夫」とはなっているものの、これは来歴を語る部分なので、天正10年6月の認識を示すのかどうかは確信しかねる。
 しかし、とっくに長岡藤孝になっている天正5年段階でも英俊の認識が「細川」藤孝なのは重要な情報である。
 ただし、これは英俊の無関心に由来するということも考えられる。と言うのは、惟任光秀についても天正4年5月10日条で英俊は「明智十兵衛」と記すのを皮切りに「明智衆」という表現が続くからである。光秀は天正3年に惟任日向守になっているので、英俊は改名字を認識していないのである。『多聞院日記』における「惟任」の初出は天正7年6月20日条であり、以後「惟任日向守」の表現が頻出する。
 英俊は名字の変更に総じて興味がなかったのかと言えば、そういうことではない。なぜなら、原田名字に改めた塙直政に関しては天正3年段階でそれを認識し、「原田備中守」と呼んでいるからである。「惟任日向守」が頻出するようになるのも、光秀が筒井順慶の上司として大和国統治に積極的関与をし始めてからである。つまり、英俊はどこまでも奈良目線と言うか、自身の利害に直接的に絡む権力者の姓名に対して敏感であったのだ。
 だから、直接的に大和国や奈良に関与する機会が少ない細川(長岡)藤孝は『多聞院日記』にほとんど出て来ないし、長岡への改名字が認識されていたのかはついぞわからない。まあ英俊に限らず、一般的な認識としては自身の利害に直結しない限り、他人の名字への認識は低いものなのかもしれない。
 しかし、これで終わってしまってはどうしようもない。

長柄殿、十市郷侍衆払之間、彼是被迷惑行方不知逐電了、依之二郎子妙徳院法印ノ弟子ニテ連実房ト云、法印他界ノ後一円鈍ニテ寺僧モ不成、又妙徳院坊務実賢房へ十市常陸ヨリ被預之間、無力被追出テ長柄父ノ所ニ住ケル処、腫物煩足カヽミニテ瘞ニ成テアリシカ、父既ニ捨テ行方不知之間、頸ヲクヽリテ死了ト、サテ〳〵不便ノ事也、其母ハ細川殿ノ奉行田井ノ源介ト云人ノムスメ也シ、何トカ成リシヤラン、一ノ兄ハ毒カイニテ死了、其次ハ一向無薬帯ニテ、博奕以下ニテハテヽ行方シラス、一跡一円果了

 『多聞院日記』天正14年10月21日条の記事である。 十市郷の「長柄殿」という武士が行方不明になってしまい、その子は妙徳院法印の弟子になっていたが、法印の死後は頭が良くなかったために僧侶にもなれず、そのうち妙徳院も他人の手にわたってしまったため、寺から追い出され、仕方がないので実家に戻っていたが、足に腫物が出来てしまい、父もおらず前途を悲観してしまったのか、首を吊ったという悲惨極まりない話である。もっとも彼の兄は毒殺され、次兄も博徒になって行方不明みたいなので、そもそもろくでもない一家だったのかもしれない。
 色々と酷すぎる話だが、ここで挙げたのは戦国大和残酷物語を展開するためではない。何と件の人物の母親は「細川殿ノ奉行田井ノ源介ト云人ノムスメ」であった。「田井ノ源介」と言えば、細川晴元の奉行人・田井源介長次が知られている。通常、家の仮名や官途名は世襲されるため、「田井ノ源介」だけだと、長次の先代か後継者である可能性もあるが、どちらにしてもこの「田井ノ源介」が奉行人として仕えていた「細川殿」は細川京兆家の当主に他ならない。すなわち、天正14年に至ってもなお『多聞院日記』には「細川殿」とは細川京兆家の当主を意味する認識が生きていたと言えるだろう。
 …にしてもまさか田井長次の孫がこんな凄惨な目に遭っていたとは…

 『多聞院日記』の「細川殿」は一体誰だ!?調べてみた!
 いかかでしたか?結局詳しいことはわかりませんでした。
 ですが、細川氏であることは確かなようです!

まとめ

  • 信長公記』において「細川殿」は細川信良(昭元)を指し、「長岡兵部大輔」の藤孝とは明確な区別がある
  • フロイスの書簡からは「細川殿」一つで細川京兆家の当主を呼称する認識が知られる
  • 『多聞院日記』は自分に関係ない人物には興味がないので細川藤孝の長岡への改名字を認識しているのかわからない
  • 『多聞院日記』でも「細川殿」一つで細川京兆家の当主を呼称できる認識はある

 ゆえに、『多聞院日記』天正10年6月3日条に出現する「細川殿」も信良(昭元)を指す可能性は高い。ただし、藤孝である可能性は完全に排除できるものでもない。


補論 細川藤孝・忠興父子は「管領」になれるのか

 本旨とはそこまで関係ないのだが、おまけで一つ述べておきたい。惟任光秀が織田信長・信忠父子を誅殺した後、いかなる政権構想を持っていたのかは謎に包まれている。ただ、変後に光秀が発給した数少ない文書から一端を掴むことができる。例えば、変を知り出家した長岡藤孝・忠興父子に対し、光秀は「100日かけて畿内周辺を平定した後は明智光慶と長岡忠興に政権を譲ろうと思う」旨を述べている。また、近年原本が発見された土橋重治宛の書状によると、当時は毛利氏に保護・支援されていた将軍足利義昭の帰洛を図っている。どちらも光秀が味方を募るために出した文書なので、これがそのまま政権構想に直結するのかどうかは評価を慎みたいところだが、両者をリンクさせようとする営為として、光秀は将軍足利義昭管領細川忠興政権を構想していた、という与太話もある。
 この補論の目的はこれを論うことにあるわけだが、何が最大の問題であるかと言えば、細川、否、長岡忠興には管領たる資格はないということだ。細川藤孝」・「細川忠興」と言ってしまうと、どうしても室町幕府管領であった細川氏の正統な継承者であるかのように錯覚してしまう。しかし、結論から言うと藤孝も忠興も管領細川氏どころか守護大名級の細川氏にほとんど連なっていないのである。

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 細川藤孝と言えば、一昔前の通説では和泉上守護を務めた細川元常(刑部大輔)の養嗣子とされていた。が、上記山田康弘氏の論文により、細川藤孝は細川晴広(刑部少輔)の養嗣子であることが明らかになった。詳しくは山田論文を読んでもらいたいが、この考証は綿密なもので、通説に対しそうではない新説が出てどちらが正しいか不明という類のものではなく、藤孝が和泉上守護家を継いだ事実の信憑性は0%に近くなり、代わって9割9分細川晴広の養嗣子であったことがわかったというものである。藤孝は和泉上守護家の系譜とは全く無関係である。
 それでは、細川晴広の細川氏とは何なのか。これは将軍足利義政が佐々木大原氏出身の人物を近臣として取り立てる際、彼を淡路守護細川氏の養子格として細川政誠を名乗らせたことに由来する。将軍がお気に入りの近習を正式な幕臣として取り立てようとする時、名門の名字を与えて格付けることは多々あった。例えば、松永久秀の家臣でありキリシタンとしても著名な結城忠正足利義満に仕えた先祖が幕臣となる際、結城名字を与えられたもので、関東結城氏との血縁関係はなかった。
 細川藤孝の子孫が「先の戦争でうちも財産を失ってね…」と語る時「先の戦争」とは太平洋戦争ではなく応仁の乱を指す、というジョークがあるが、藤孝の「細川」は応仁の乱で財産を失うどころか、その頃は存在すらしていなかった家である。
 ただ、一応言っておくが、細川という名字に意味がないことはない。名字を共有する以上、家格秩序の上は一門に属する(細川政元が有力内衆である上原元秀に細川名字を与えようとした際は一門から大反発が起こり、政元は結局元秀に細川名字を与えなかった)。ただ、藤孝の細川の場合、淡路守護家の庶流格である。嫡流たる細川京兆家から見れば、家格も血縁もまさしく「端くれ」であった。
 一方の「管領」を巡る事象である。管領と言えば、幕府内において将軍に次ぐ地位と言われる。そして、三管領と言えば、斯波・畠山・細川の三氏である。しかし、この名字であれば管領になれるのかと言えば、そうではない。斯波・畠山・細川共に大名格も含めて一門が大量にいたが、管領になれるのは嫡流の血筋に限られた。特に細川氏嫡流は官途「右京大夫」を世襲することから、細川京兆家と呼ばれる。
 ところが、上記のような「原則」は戦国時代に入ると崩壊する。斯波氏の力が衰え、畠山氏が内紛に突入する中、安定的に幕政に参与できるのは細川氏(京兆家)のみとなった。さらには、管領もナンバー2として幕政を行うポジションと言うよりも、幕府の重要な儀式に必要な名誉職化した。細川氏によって管領は独占されたものの、そもそも管領という地位自体に実態がなくなっていくのである。このため、細川高国を最後に正式な管領への補任はなくなった。歴代管領表では細川晴元や氏綱を管領に数えているが、少なくとも彼らが正式な管領となった事実はない。
 ただし、管領の名誉職化・形骸化は管領職が占めていたポジションがなくなったことを意味するわけではない。「幕政に大きく関与し、将軍を支える畿内の有力大名」というのは必要とされ、基本的に細川京兆家がこれを担う家系として認識されていた。そのため、管領職の争いは細川京兆家の当主の座を巡る争いとして現出することになる。幕府より「右京大夫」の補任を受けた者が、事実上の「管領」(正式な管領にはならないが、かつての管領任務を担う者)として公認を受けるのである。
 すなわち、細川(長岡)藤孝・忠興父子を「管領」にするのかどうかという問題は、彼らに「右京大夫」を名乗る資格があるのか、細川京兆家を継ぐことが出来るのかという問題に置換できる。
 ここで、細川政元とその後継者に関して、京兆家の相続条件について確認したい。政元は生涯童貞を貫いたため、当然のことながら子供がいなかった。そこで、高国、澄之、澄元の3人を後継者候補として養子に迎えていた。このうち、高国に関しては幼年期に養子になり、その後間もなく養子関係は解消されたと見られるので一先ず措いておく。澄之は関白九条政基の息子で、将軍足利義澄とは母方の従弟であった。澄元は阿波守護家の出身で彼の祖父・細川成之は大きな影響力を持っていた上、出自である阿波守護家は相伴衆という室町大名の中では最高の家格を備えていた。
 政元が2人の養子を迎えたのは、内衆や一門における勢力関係とも密接に連動するが、澄之については摂関家という公家最高の家格、足利将軍との血縁、澄元については細川庶流家の中での家格の突出性・有力性を重視していたと言えよう。
 しかし、政元はこの後継争いを収拾できず、殺害されることになる。殺害したのは澄之方で、澄元はこれを好機とばかりに澄之をすぐに抹殺する。ところが、この後澄元を擁立する三好之長らの専横に反発が集まり、澄元は失脚・逼塞に追い込まれる。澄之と澄元が両者共に倒れるという結果に細川氏一門は会議を開いて、京兆家の当主を決めることになる。
 細川氏一門では「右馬頭(助)」の官途を世襲する典厩家が京兆家に次ぐ地位を占める。典厩家の当主・細川政賢は自身が京兆家の当主になれると確信していたという。ところが、細川(上野)玄蕃頭家の当主・細川元治は大勢に反して、細川高国を押した。押す理由として、元治は次のように主張したという。

  • 高国には政元の養子であった経歴がある
  • 典厩家は確かに家格は高いが、養子が入っており血縁で見ると高国の方が京兆家に近い

 元治は解消されたとは言え、故政元との養子関係の有無と血縁の近縁さを重視したことがわかる。これが最終的に受け入れられ、高国は京兆家の当主となった。当てが外れてしまった政賢は大いに失望し、その後高国を裏切って澄元与党になってしまった(ちなみに政賢の娘は高国の正室でもあった。高国が選ばれた理由としては本来典厩家に近しいのも一因であったはずである)。ただ、退けられたとは言え、政賢が確信していた、京兆家当主が空位ならナンバー2の典厩家が継ぐべきという主張にも理があったとは言えるだろう。
(ちなみに細川京兆家の継承問題は細川高国の嫡男稙国が夭折したことで密かに再燃した。高国には弟の晴国(八郎)がいたが、高国の実父・細川政春の細川房州家(安房守家)を継承していた。一方、高国期の細川典厩家は高国の従弟にあたる細川尹賢が当主となっていた。尹賢は細川稙国の死後、自身の子である次郎(後の細川氏綱)を高国の養子にすべく運動を始める。高国の後継者となるのは弟の晴国なのか、典厩家の後継者である次郎なのか。高国はこの問題を自覚してか無自覚か、次郎と晴国を同時に元服させ並列させる方針を取った。「最も近しい血縁」である晴国か、「血縁」と「家格」を同時に備える次郎(氏綱)か、高国も容易には判断が下せなかったのだと思われる。)
 まとめると、細川京兆家の当主になるには、血縁や家格が重視されていた、という至極当たり前な結論が見える。本能寺の変の場合、京兆家当主の細川信良が健在であるどころか、典厩家の細川藤賢もいた。地方なので中央への影響力はもはやないものの、阿波では守護家の末裔・細川真之が、備中では野州家(房州家)の系譜を継ぐ細川通董が活動している。彼らを差し置いて、藤孝・忠興が京兆家の当主として振舞える論理はなかったと言って良い。仮に光秀に室町幕府再興構想があったとしても、「管領」は細川信良あたりを抱き込むのが基本路線であろう。