三好政長(宗三)の息子・政勝と三好三人衆の一人・三好宗渭が同一人物であることは今やWikipediaにすら載っている。この事実が指摘されたのは平成22年(2010)と9年前にすぎない(『戦国期三好政権の研究』補論二「三好一族の人名比定について」)*1が、すでに巷間には知名度を確保しているとも言えるだろう。そういうわけでもはや常識とのほほんとしていたのだが、最近「本当にそうなのか?」という問い合わせを頂いた。私個人としては政勝と宗渭が同一人物であることは間違いないと思っているが、考えてみれば自分で確かめて論理を組み立てたわけではないので、良い機会であるし調べてみることにした。
まず、わかりやすく決め手になるのが花押(署名の下に書く属人的紋章)で、天野忠幸氏の指摘もこれを根拠にしておられる。実際、注で何を見て花押を確認すればいいのかまで明記されていた。いやあ有難い話である。
花押を収載しているのは、この『大仙院文書』である。100を超える文書を収めているが、それら一点一点の印判を巻末に掲載しているという優れもの。これで三好政勝・政生の発給文書を見て行こう。なお、『大仙院文書』刊行時点では政勝と政生が同一人物だとは気付かれていなかった。また、内容はどれも「贈り物ありがとう!」なので年次も不明である。それでは、文書名と花押を見て行こう。
- 八九 三好政勝書状(切紙)
金首座より鳥目50疋を贈られたことを謝している。日付は「卯月三日」。署名は単なる「政勝」だが、上書には「三好右衛門大夫政勝」という注記があり、三好政勝のものである。
花押
- 二八 三好政生書状(現状は切紙だが折紙の可能性もある)
大仙院から樽代20疋を贈られ、「毎度御懇之儀」を感謝している。政生は「和尚様」とも親しかったようだ。日付は7月17日で署名は「三好右衛門大輔政生」。
花押
- 三〇 三好政生書状(切紙)
如意庵から棰代に30疋を贈られ、必ず「面拝」して御礼を申し上げるとしている。日付は7月9日で署名は単なる「政生」。上書に「三好右衛門大輔政生」とあると注記している。
花押
- 二九 三好政生書状(切紙)
大仙院から鳥目20疋を贈られたことを謝す。近年音信を返していなかったことを詫びている。8月24日付けで署名は「政生」、上書には「三好下野守政生」とある。
花押
上記のみでは上書で三好政生が下野守と名乗ることを知れるにすぎない。『大阪の街と本願寺』(毎日新聞社、1996年)には三好下野守が永禄3年(1560)に発給した禁制が掲載されるが、これで以て下野守の花押を確認すると以下のようである。
以上、三好右衛門大夫政勝と三好右衛門大輔政生、三好政生、三好下野守の花押を掲載してみた。いかがであろうか。私の目にはいずれも同じ花押に見えるのだが…。
もうちょっとこの人物についての状況証拠を集めてみよう。
三好右衛門大夫を名乗る政勝が三好政長(宗三)の息子であることは同時代史料において一致し、今更言うまでもないだろう。この人物は江口の戦いで主君細川晴元が没落した後、どのように行動していくのか。
主君晴元とともに摂津を追われた(逃亡した)政勝は丹波に籠りつつゲリラ的な軍事行動を展開することになる。ただ、発給文書の年次比定は難しい。その中で特筆されるのは香西元成(越後守)との連携が多く記されることである。この点は発給文書でも確認可能である。例えば、三好政勝・政生と香西元成の連署文書は次のようなものがある。
『戦国遺文』番号 | 日付 | 差出署名 | 文書の概要 |
一四四九 | 7月3日 | 三好右衛門大夫政勝・香西越後守元成 | 波多野方の通りに配下の兵士が矢銭・兵糧米をかけるのを禁止する(実質的な禁制) |
一四五一 | 9月1日 | 三好右衛門大輔政勝・香西越後守元成 | 配下の兵士の乱暴、矢銭・兵糧の賦課、放火を禁止する(実質的な禁制) |
一四五二 | 10月19日 | 三好右衛門大輔政勝・香西越後守元成 | 樽代50疋を贈られたことを謝し、寺に賦課をかけないことを約束する |
一四六〇 | 8月23日 | 政生・元成 | 「御書」の通りに働くことが大事であることを述べる(細川晴元の副状か) |
二一一八 | 12月9日 | 政生・元成 | 波多野元秀に対し南方における反三好策動の連絡 |
五一五 | 永禄元年6月9日 | 下野守・越後守 | 大山崎への禁制 |
また、永禄元年(1558)に比定される6月14日付細川晴元書状写(『戦三』五一八)にも「猶香越後守・三好下野守・垪和道祐可申候」とあり、香西元成と三好下野守が並列されている。
以上のように香西元成と三好政勝・政生はセットとして扱われることが多かった。元成と組む三好一族がころころ変わるとはあまり考え難いので、元成と連署する右衛門大夫政勝・右衛門大輔政勝・政生・下野守はいずれも同一人物と考えるのが自然である(なお、三好政生は永禄元年(1558)に三好長慶方に転向するが、香西元成はその後も反長慶として活動し二人の連署体制も終焉する)。
結論:三好右衛門大夫政勝と三好下野守政生は同一人物である
そして最後に言っておくが、この人物が「政康」などといった名前を名乗ったことは一次史料では一切確認できない*2。
※追記・三好政勝・政生と宗渭も同一人物である(令和3年4月5日)
この記事ではもっぱら三好右衛門大夫政勝と三好下野守(右衛門大輔)政生が同一人物であることを端的に示した。その一方で三好下野守政生と三好下野入道宗渭が同一人物であることについては受領名の一致から特に証明はしなかった。厳密に言うと政生と宗渭が同一人物であることは証明できないと思っていた。宗渭の花押は鴛を模した可愛らしいもので、この記事で挙げた政勝・政生の花押とは別だろうし、信頼できる史料に政生の出家が記されたこともない。極論を言えば永禄4年から8年の間に政生が死去し、その後継者として下野守の受領名を受け継いだ人物が程なくして出家し宗渭となった…という経緯も想定可能なのである(実際『厳助往年記』によると永禄5年の久米田の戦いで三好下野守が戦死したとする情報源もある。デマを掴まされた可能性も大きいが)。
ところが、上記の政生と宗渭が同一人物であると確実には言えないとする想定は誤りであった。三好下野守政生と三好下野入道宗渭は同一人物である。これをダイレクトに示す史料は存在した。
三好下野入道宗渭の初見は『戦国遺文 三好氏編』の番号で言うと一一五〇号であり、三好長逸と連署するもので、出典は浄福寺文書である。月日が3月7日とあるだけで年号が記されていないが、永禄6年の幕府奉行人奉書を前提にすること、三好氏当主の名が「重存」であること、さらに同内容の三好氏奉行人奉書が永禄8年(1565)に発給されていることから、この文書も永禄8年(1565)のものと確定できる。
この文書に据えられた花押は『戦国遺文』では(花押2)、すなわち三好宗渭の鴛型花押に分類されていたので、これを鵜呑みにして、三好宗渭は下野入道として再登場を果たした時から花押を改めていたとばかり考えてきたのであった。ちなみに『戦国遺文』がいう(花押1)は本記事でずっと挙げてきた政勝・政生の花押である。
ところが、『京都浄土宗寺院文書』にて当該文書の署名を確認してみたところ、下のようなものであった。
「三好下野入道宗渭」に続いて据えられた花押は(花押2)ではない。ここまで記事を読んできた方なら忘れもしないであろう(花押1)である!「三好下野入道宗渭」が三好政勝や三好政生と同一の花押を用いている、ということは彼らが同一人物である紛れもない証である。
そしてここからは新しい知見も得ることが出来る。三好宗渭の鴛型花押の明確な初見は永禄8年11月に法隆寺に出した禁制(『戦三』一二一四)である。他には10月29日付の「三好宗渭・同長逸連署状」(『戦三』一二〇五「光源院文書」)が『戦国遺文』では永禄8年に比定されており、花押を確認できていない(『戦国遺文』では(花押2)とする)が、(花押1)であっても(花押2)であっても主旨は変わらないだろう。三好三人衆は永禄8年の秋頃から称し始めたとされ、11月15日のクーデタによって明確に成立する。つまり、宗渭の鴛型花押は三人衆の結成を契機として改められたものである可能性が高い。逆に言えば、3月時点での宗渭の自意識は政勝・政生時代の延長にあり三好三人衆は成立していなかった傍証とも言えよう。
それにしても史料集は便利だけど意外と間違いもあったりするので使い方は難しいですね…と今更ながらに感じるのであった。
ちなみに宗渭の鴛型花押(「花押2」)は下のリンクから見られます。
hyakugo.pref.kyoto.lg.jp