三好長慶は近年その権力について再評価が進みそれが定着しつつある戦国武将である。特に長慶は阿波出身ながら五畿内を抑えたこともあって、一般的な戦国武将よりもゆかりの地が多い。すると当然のように三好長慶を地域振興と言うか、自治体行政の中で称揚していこうという動きも生まれる。その最たるものの1つとして長慶にまつわる「地元」に像を作ろうという動きがある。平成26年(2014)には堺の南宗寺に、平成29年(2017)には大東市の市役所前に長慶の銅像が造られた。私としてはこれらの動きを「へえー」と眺めていただけだったが、気付けば高槻市にも長慶の像が造られていた。そういえばそんな動きも聞いたような…だったが結構寝耳に水で驚いた。まあ大東市が造ったんだから高槻市も負けてられないよな。
そういうわけで5月15日に見に行ってみたら(山水館さんのツイートによると設置は5月10日だったので)、布を被っていて正式公開されていなかった。
正式公開は27日だったようで、6月5日頃からは各種メディアでも記事にもなり、またもやいつの間にか公開されているということになった。なかなか上手く情報収集できんな…。
しかしそういうわけでやって見聞してきたという次第である。
まずは全景。説明の看板とセットになっている。
説明の看板。和歌や連歌のチョイスがちょっと新しい。長慶の和歌と言えば「歌連歌~」が有名だが、霊松寺の説明看板で使ってしまったから避けたのだろうか。芥川山城の長慶を祀る祠や霊松寺の三好義興墓も紹介しているのは観光観点的にいいな。長慶裁許状の写真まである!
年表は基礎的な事実を抑えつつ所々「!!」を使うのが可愛い。「御成り!!」とか盛り上がりすぎでしょ。病没にまで「!!」使ってるのはちょっとどうかだが。
長慶さんのお墓は南宗寺でも大徳寺聚光院でも千利休の墓とお隣さんだよアピールしてるのは何だろう…。千利休と長慶の繋がりを言いたいけど確たることが言えないから関係匂わせか?
そして、石像本体。
台座には三好家の家紋(三階菱に釘抜)、「文武両道」と「理世安民」の文字が刻まれている。文武両道はまあそうですね。理世安民はどうだろう…フレーズを売り出したいのは理解しているけど、これあくまで後世の史料に出て来るだけだからな…。肖像画の賛文からフレーズを引けたらベストなんだけど、そうすると難しすぎるだろうから、誰でも知ってる四字熟語と長慶っぽさを表すような四字熟語を組み合わせるのがベターなのか。
後ろから。肖像画では確かめられない背中の桐紋がワンポイント的にオシャレ。台座の後ろには像を造った関係者の名前を書いた板が貼られていた。三好名字がちらほら見えたのは御子孫の方々でしょうか。
桐紋服を着ている上からがっしりとした体格なのが伝わり、武将・城主・畿内近国の主としての力強さを感じる。
一方、表情は目尻が下がっているのと、顔の四角い輪郭を頬を豊かにしてやや垂れさせることで再現する造形のため、やや老け気味に見える。イメージソースの聚光院所蔵の肖像画で感じられるエネルギッシュさや自信のようなものはそこまでかな。意外とあの肖像画の立体的・三次元的リアルに近づけた再現は難しいのかもしれない。
それにしても三好長慶像が3~4年のペースで新規に作られているとは…!本当に再評価が進み定着しているのだなと感慨深い。令和7年頃には徳島県や西宮市に長慶像が出来ているのかもしれない。
同時に、3基目ということで長慶像にある種の限界も見えた気がする。三好長慶の肖像画と言うと大徳寺聚光院所蔵のものが有名で、南宗寺所蔵のものもあるが基本的に聚光院所蔵のものと容貌は同じである。容貌魁偉さを強く感じさせるベストな肖像画であることは間違いないが、如何せんこの肖像画のインパクトが強すぎ、今回の摂津峡公園の像もこれをモデルにしているが、南宗寺の像とネタ元が被ってしまっている。大東市のものは浮世絵の長慶像をモデルにしているが、浮世絵はあくまで後世の想像であり本当に長慶があの甲冑を身に纏っていたことがあったのかという点は疑問である。
他に長慶像と言えば、「戦国百人一首」所収のものや馬場氏所蔵のものがあるが、前者は僧形で描かれて事実からは明確にずれているし、後者は現在所在不明で(見つけたら教えてくれって天野忠幸先生が講演で言ってたよ)確実な容貌の細部がわからない。
三好長慶の肖像画と言えば大徳寺聚光院か南宗寺所蔵のものがよく使われますが、実はそれらを種本にしつつちょっと違う肖像画があります。こちらは現在所在不明なので見かけたらしかるべきところに御一報くださいね pic.twitter.com/ROCu68QQXC
— 志末与志 (@shima_126) 2019年7月4日
翻って考えると像がかなりありそうな織田信長や豊臣秀吉あたりは容貌を捉えつつも自由なポージングで造形されているものも多く、長慶像も今後作られていくのなら聚光院肖像画をモデルにしつつも色んなものがあっても良い。例えば、越水城や滝山城に絡めるのであれば連歌を詠もうとしている(この場合桐紋が使えないことに注意)とか予算的に厳しい気もするが騎馬武者像(飯盛城の御城印の包装紙に採用された軍装図がカッコいいのでおススメです)とか…。
もう一つ期待したい可能性としては長慶本人ではなくその周辺人物を造形していく方向である。私は令和3年6月現在高槻市民だが、高槻市に像を作るのであれば三好義興や松永久秀の方がよりふさわしいのではないかとも思っていた。義興は芥川山城主として亡くなったのであり、墓も高槻の霊松寺にあり、他の三好氏と比べると高槻との所縁は深い(長慶が芥川山城に在城していたのは7年くらいで短くもないがそこまで長くもない)。松永久秀については高槻の五百住出身とする説が現在支持を集めており、それもあってか先年三好長慶の祠に久秀も合祀された。高槻で「三好」を売り出すのであれば長慶である必要性はなく、むしろ義興や久秀の方が高槻により立脚していると言うこともできる。
逐一言わないが、堺や徳島であれば長慶よりも三好実休や篠原長房がふさわしい場合もあろう(像がない足利義維さんとか狙い目じゃない?三好氏の人かはやや微妙だが)。今後も三好長慶再評価に伴って像が造られていくのなら「三好政権」像を豊かにする方向で充実していってほしいところである。そしてゆくゆくは三好三人衆の像が造られますように。