- 作者:馬部 隆弘
- 発売日: 2020/03/17
- メディア: 新書
まさか馬部隆弘先生の初の新書が椿井文書になるとは驚きだった。馬部隆弘先生と言えば、畿内戦国史の新進気鋭研究者の一人で、細川氏・畠山氏・三好氏などについて先学を享けながら、それらの域に留まらない新事実・新解釈の提示が持ち味である。その一方で馬部先生の「顔」というのはそれだけではなく、偽文書・偽史研究においても第一人者である(もちろん両分野がリンクする研究もある)。近年先生は論文集を出されているが、前者についてまとめられたのが『戦国期細川権力の研究』、後者についてまとめられたのが『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に』ということになる。しかし、如何せん論文集というのは高額で(両書ともに定価は5桁である)、個人が購入するというより研究者や図書館が仕入れるものという側面が強い。それだけに研究成果というものを一般人レベルにまで下し周知していくには、比較的安価な一般書を出すことが求められる。今回の『椿井文書』はまさしくそのためのものと評価できる。
- 作者:隆弘, 馬部
- 発売日: 2018/10/02
- メディア: 単行本
- 作者:馬部隆弘
- 発売日: 2019/02/28
- メディア: 単行本
実際内容としては『由緒・偽文書と地域社会』の廉価版と言える。と言うのは、筋によっては論文の文章をほぼそのまま使っている箇所もある。また、『由緒・偽文書と地域社会』には入っていた牧・交野方面の論考は削られている。『由緒・偽文書と地域社会』から新しい知見があるというわけではなく(後述するが進展がないわけではない)、まさしく椿井文書に視点を絞って、論旨はそのままにお安く(新書なので定価は3桁の範疇に収まっている)出し直したというものである。
そういうわけで大枠としては『由緒・偽文書と地域社会』とかなり重複している。よって、感想と言っても書き下ろしを読んだものとは読後感がちょっと違うのだが、とりあえず紹介していくことにしよう。
そもそも椿井文書とは何なのか。一言で言えば江戸時代後期に椿井権之助政隆という人物が創作した文書・縁起類である。これだけならさして特徴的でも何でもなかろうが、問題は椿井政隆の創作が歴史学において史料として一定の評価を受けてきたということにある。なぜ、椿井文書がこのように信じられてきたのかを探ることが本書の主旨でもある。
その根源的な理由は椿井文書が受益者の要請に応える形で創作された点に一端が求められる。各地の相論では実際の地理をめぐる村々の争いが繰り広げられ、村は勝訴するのに確かな由緒を必要とした。椿井政隆は自らの知識を生かしつつ、特定の村に有利な形で文書を創作した。かくして椿井政隆以前には存在しなかった伝説が急速に伝承化していくことになる。世代を経てしまうと、この伝承が古代・中世から連ならないものであることが意識されなくなってしまう。
また、椿井政隆の行動範囲は一地域に留まらず、近江・山城・大和・河内と畿内周辺に広がりを持っていた。椿井政隆は各地での活動を相互に関連付ける形で文書を創作していたため、各地の伝承が互いに参照され、傍証として引かれる事態を引き起こした。偽文書が相互に連関して偽の世界を作り上げていたわけである。
さらに椿井政隆本人が趣味的に作っていた偽文書も明治期に椿井家が没落して質入れ先から転売されたことで、直接の創作源とは関わらない形で世間に流出したのも良くなかった。椿井文書はこうした顛末を知る戦前の学者たちにはある程度偽文書としての認知が共有されていたが、戦前と戦後の歴史学の断絶によって世代間継承がなされなかった。この環境下で自治体史の編纂が進むと椿井文書は翻刻史料となり、ナマの史料で見ればわかる異様さが意識されなくなってしまった。椿井文書の存在は地域の伝承を密接に連携していたこともあり、否定され切られないまま現代に至った。
そもそも歴史学は偽史・偽文書を暴くのに積極的ではなかった。ある史料が偽のものとわかったとして、それをわざわざ主張することは利益を生まないからである。良識ある歴史学者の振舞いは偽文書を黙殺することである一方、一部の歴史学者がリップサービス交じりもあるとは言え偽文書を用いてしまい、偽文書の存在が社会的に認められてしまう。椿井文書の存在はそうした歴史学の盲点を突いているとも言える。
最大の問題点としては、「特定地域・特定人物に耳障りの良い話はソースがデマでも容易く利用されてしまう」という体質が普遍的なことである。単純に椿井文書にのみ問題があるわけではない。実際例示される枚方市は近年阿弖流為の首塚や王仁の墓石などを積極的に史跡として活用しているが、歴史的な裏付けは全くなく、それどころかルーツを辿ると創作であることがはっきりしている。にも関わらず、行政はキャンペーンを省みることはない。読んでいて絶望的な印象も受けるが、偽文書・偽史による受益者が存在し、偽史料を否定しても利益がないとなれば、前者が肯われるのは当然の構造的帰結でもある。椿井文書をめぐる問題はこうした構造をも露呈させており示唆的である。
ところで、馬部先生は椿井文書を利用して古代・中世を描こうとする自治体史・歴史家に対してかなり厳格な態度である。と同時に椿井文書やその作者である椿井政隆への目線は決して厳しいわけではない。個人的にも椿井政隆を「悪人」であるとは感じなかった。彼の素性についてはよくわかっていないので今後人物像も変わるかもしれないが、小知識人とでも言おうか、歴史好きのおっちゃんが趣味的に古文書を擬作しているうちに、求められる古文書を創作すれば内職代わりになることがわかった。その度に土地を調査していたら、自分が創造した独特の世界観に拘りを持つようになった。歴史好きなら多くの人が架空の歴史を妄想したことがあるのではないだろうか。私も歴史への態度は趣味人としての範疇を出ないが、将来的に、と言うか今でもだいぶテキトーなことを言っているわけで、もし自分の歴史知識が社会の役に立つとしたら「椿井政隆」にはならないと言い切れないものがある。それに、椿井文書には微妙に偽文書の特徴が紛れており、これが椿井政隆による偽文書アピール(公儀に咎められても「遊び」と主張するためか)だとしたら、どこまでも小悪党的であり小市民的である。
しかし、馬部先生としては椿井政隆の人物像に悪印象がない程度のことで筆致を緩めているわけではなかろう。先述したように椿井文書そのものと言うよりも、椿井文書の周辺にこそ椿井文書が存在する問題の意義があった。すなわち、椿井文書には受益者が現在進行形で存在するため否定するのが社会的な困難さを伴っていることやそもそも歴史学が偽文書の指弾に熱心ではないということがあった。単純に椿井文書を否定するだけでは、これらの問題点は放置されたままになってしまう。
そこで馬部先生が提案するのは椿井文書を偽文書と認めつつ、それが受容された地域社会の精神に目を向けることである。椿井文書によって古代・中世社会を復元することは不可能であるが、近世社会を復元することは出来る。そうした立場に立つことによって、椿井文書を地域社会とは矛盾せず、歴史学の範疇に戻すことが可能になる。実際『由緒・偽文書と地域社会』では椿井文書の活用のされ方についてはほぼほぼ絶望的な論調であったが、本書では平成30年(2018)に滋賀県大津市は椿井文書を偽文書と認識しながら指定文化財としたことが触れられている。大津市の具体的な意図はわからないが、少なくとも偽文書と知りつつも地域社会の文化財として有用だと認めたもので、これまで古代・中世文書として椿井文書に価値を与えてきたあり方とは質的に異なると言える。今、椿井文書は単に偽文書と認めたうえで切り捨てるのではない再評価の時期に来ている、そんな仄かな未来への希望が感じられた。
こうして書いていくとなかなか不思議な本である。偽文書をめぐる問題点を厳しく指摘し、安易な使用を咎めつつ、偽文書を単に焚書せよという類の論調は採っていない。まあ椿井文書はすでに流布してしまっているので全否定は難しいと言うのもあるだろうが、著者の人柄であろうか(良いと思います)。
冒頭でも書いてみたが、本書はお手軽である。読後ルートとしては下のようになるだろう。
- 『由緒・偽文書と地域社会』を読んでいる→『椿井文書』を布教アイテムとして売り込もう!
- 『由緒・偽文書と地域社会』を読んでいない→一部重複するが、『椿井文書』では切られた有益な部分も入っているので是非読もう!(お高いので図書館で読むか、入っていなかったら相互貸借で頼むかしてください)
あと、馬部先生次は『戦国期細川権力の研究』の内容を一般書レベルに下ろして…『細川氏綱』でも『細川国慶』でも良いので…(この2人で単書出せるのか?)