志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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細川氏綱の実名について―「氏綱」って何やねん論

 不肖ながら私が細川氏綱という人物について詳しく調べ出したのはここ数か月の話にすぎない。が、この人物の名前は10年以上前から知っている。中学の頃歴史手帳を買っていたことがあり、それには付録として室町幕府歴代執事・管領表が付属していたからだ。歴史手帳の記述では細川氏綱室町幕府最後の管領であったため*1、「ふーん」程度の意識であった。
 ただ、当時から引っかかっていたことはあった。
 細川氏綱という名前である。
 中学生レベルの認知でも管領細川氏の歴代の実名が頼元、満元、勝元、政元、晴元と「~元」が基本(「元」が通字)であることくらいは気付くものである*2。さらに足利将軍の歴代の実名と対応すれば満、勝、政、晴が偏諱であることも容易に想像がつく。この流れで見ると将軍からの偏諱も「元」も含まれない「氏綱」という実名は異質というほかない。同じような疑問は細川高国にも抱いたが、これは「高」が将軍足利義澄が義高を名乗っていた時代の偏諱ということと、高国は本来細川野州家の出身で野州家の通字が「国」であることから疑問は氷解した。のに対し氏綱はなぜ「氏綱」なのかという疑問はこのように説明することが出来ない。
 固よりこの謎が解き明かせるとは考えていないが、とりあえずどのような可能性があるのか探っていくことにしよう。

1 細川氏綱のプロフィール

 まずは細川氏綱の系譜を洗ってみよう。
 細川氏綱管領となる資格のある細川京兆家*3の出身ではなかった。細川京兆家にはいくつもの有力な支流(分家)が存在し、氏綱の父・細川尹賢はその中の一つである細川典厩家*4の当主であった。氏綱は尹賢の長男で弟には典厩家を継いだ細川藤賢と庶弟・細川勝国がいる。平時であったなら、氏綱は父から細川典厩家の家督を継ぎ、細川京兆家家督となることなど思いもしなかっただろう。
 しかし、乱世は氏綱を細川氏の有力一門に留まることを許さなかった。原因は16世紀序盤の細川京兆家の当主・細川政元にあった。政元には実子がおらず、摂関家九条家から澄之、細川讃州家(阿波守護を主につとめた)*5から澄元、細川野州*6から高国という三人の養子を迎えていたのである。自然と京兆家の後継者争いは燃え上がり、永正4年(1507)政元が謀反に会って殺されるとついに実戦となった。九条家の澄之がすぐに排斥され、以降は澄元と高国による争いとなる。これを両細川の乱というが、その経過を見ることは措こう。重要なのは細川典厩家は基本的に高国陣営にあり、高国を支える有力一門であったことである。これには高国と典厩家の当主・細川尹賢が従兄弟という近い血縁にあったことが大きく作用している。典厩家は高国が京兆家の家督となることで京兆家に最も近しい細川一門となっていく。
 さて、両細川の乱は当初は高国の勝利に終わり、細川尹賢は目論見通り高国を支える有力一門となった。しかし、高国は息子であり後継者に予定していた細川稙国を大永5年(1525)に失い、享禄4年(1531)には自身も澄元の子・細川晴元の攻撃で敗死してしまう。高国陣営は敗北したのである。細川尹賢も高国と運命を共にした。一方で高国陣営の残党は反晴元行動を継続した。尹賢の子である細川氏綱や藤賢もその一員であったが、当初の高国残党のリーダーは高国の弟・細川晴国であった。だが、晴国も天文5年(1536)配下の三宅国村に背かれ、天王寺で敗死した。
 こうして細川高国、細川稙国、細川晴国と高国流を形成する実力者は全滅した。高国残党は細川晴元に対抗できるリーダーを新しく擁立したいが、一体誰がいるのか…。そこに登場するのが細川氏綱であった。こうして氏綱は高国陣営のリーダーとなって細川晴元に戦いを挑んでいく。詳しい経緯は省略するが、氏綱は晴元陣営から三好長慶を離反させることで晴元に勝利し、天文21年(1552)細川京兆家家督となったのであった。

2 細川氏綱の改名歴

 思ったよりダラダラ書いてしまったが、細川典厩家出身の氏綱がいかに細川京兆家家督になれたのか説明するにはこれくらいは必要なので勘弁してほしい。
 さて、当の氏綱である。ここまで普通に氏綱、氏綱と書いてしまっているが、細川氏綱はずっと細川氏綱という名前であったわけではない。これは弟の細川藤賢もそうである。二人の改名歴を見てみよう。
 細川氏綱の幼名は宮寿である。これは大永4年(1524)将軍足利義晴が細川尹賢邸に御成した際「御曹司様」である「宮寿」が太刀と馬を進上したことから確かめられる。氏綱はこの2年後の大永6年(1526)12月27日細川晴国とともに元服し以後「細川次郎」を名乗った。同時に元服した晴国は備中守護を務める細川房州家の継承者であり「細川八郎」を名乗りつつ、足利義晴から偏諱を賜り「晴国」を名乗っている。そうであれば氏綱も典厩家の後継者であるので「細川晴賢」を名乗っても良さそうである。そうはならなかったのは父である細川尹賢に氏綱の加冠役を細川高国とする構想があったからのようだ。高国は前年に本来の後継者であった稙国を失っており、尹賢は空位となった後継者に氏綱を推すべく、高国と氏綱に擬制的親子関係を創出することを狙ったらしい。「細川晴賢」となってしまっては典厩家後継者の地位に規定され、京兆家家督となることに支障をきたすことになる。
 しかし、尹賢の構想は清原宣賢が入道となった人間が加冠した前例がないとして実現しなかった(高国はすでに出家して道永を名乗っていた)。この結果、氏綱は偏諱を受けることもなく一字名「清」を用いることになった。もっとも「清」が後年の氏綱と同一人物なのかは確定はできていない。そのうち高国から偏諱を受けて「国清」とでも名乗るつもりだったのだろうか。ただ、その機会は訪れぬまま、高国も尹賢も享禄4年(1531)敗死した。氏綱は未だ19歳にすぎず、その後の動向は歴史の中に埋もれて行く。
 氏綱の復活と氏綱への改名を記すのは『天文日記』である。『天文日記』天文12年(1543)10月20日条に「細川次郎氏綱」という名前が出現する。氏綱は「細川次郎」としてこれ以前にも『天文日記』に登場するが、「氏綱」の名を記すのはこれが初見で、この時期に「氏綱」と名乗る契機があったらしい。
 細川藤賢は系図類によると永正14年(1517)生まれであるらしく、永正10年(1513)4月誕生の氏綱の4歳下の弟となる。氏綱の庶弟である細川勝国の方が年上である可能性もあるが、藤賢の方が一貫して勝国より地位が高く、典厩家を継承していることから、氏綱の同母弟であると見られる。幼年期の動向ははっきりしないが、永正17年(1520)5月兄弟3人で近衛尚通邸に挨拶に赴いている。この3人が後の氏綱、藤賢、勝国であろう。藤賢の仮名は「四郎」であり、この時兄弟3人を引率した細川左衛門佐の出自「細川駿州家」の当主の仮名も「四郎」であるため、幼い藤賢は駿州家の養子となりその後継を予定されていたらしい。
 藤賢の動向は「細川四郎」として記されることがほとんどであるが、天文16年(1547)に内藤国貞への書状によると実名は「和匡」であった。細川駿州家の通字はよくわからないが、藤賢が典厩家を継いだことで兄弟である細川勝国が駿州家を継承している。「和匡」という名前には典厩家の通字も駿州家の通字も関係がないのだろう。
 細川氏綱と細川藤賢は高国残党として勢力があり、三好長慶に奉戴されることで父の仇である細川晴元を放逐した。当時の将軍足利義輝は晴元に味方したせいで晴元とともに没落し近江に逃れた。その後、帰京を望む義輝と長慶の間で和睦が成立し、天文21年(1551)義輝は帰京することができた。もちろん和睦の条件は晴元の排除がセットである。3月11日に氏綱と藤賢の兄弟は義輝に出仕した。この時に氏綱は細川京兆家家督の証である右京大夫、藤賢は細川典厩家の家督の証である右馬頭に任官され、両家の家督であることを「公認」された。また、二人とも当時は義藤を名乗っていた足利義輝から「藤」の偏諱を受けた。こうして和匡を名乗っていた細川藤賢は偏諱「藤」と典厩家の通字「賢」を組み合わせた「細川藤賢」となったのである。
 しかし、奇妙なことに偏諱を受けたにも関わらず細川氏綱は氏綱のままであった。通常であれば偏諱「藤」に京兆家の通字「元」あるいは細川高国以来の通字「国」を組み合わせた「細川藤元」あるいは「細川藤国」が誕生していてもおかしくないが、そうはならなかったのである。そして氏綱は死ぬまで細川氏綱のままだった。

3 「氏綱」とは何か

 まとめると細川氏綱の実名「氏綱」は

  • 天文12年(1543)8~10月に名乗りの契機がある
  • 将軍の偏諱を得る機会はあったが「氏綱」を名乗り続けた

など何らかの思い入れがあったらしい。
 戦国時代の「氏綱」と聞くと多くのマニアは細川氏綱ではなく、北条氏綱を思い出すと思われる。北条氏綱は関東後北条氏の二代目とされ(実際は北条名字を名乗り始めたのは氏綱が「初代」である)、相模・武蔵に侵攻して後北条氏領国の基礎を構築し、古河公方との関係では関東管領を自認した人物である。北条氏綱が亡くなったのは折しも天文10年(1541)で、若干のタイムラグはあるが「関東管領北条氏綱の死を知った細川氏綱が自身も「管領」となるべく「氏綱」の名前を継承したとも考えられる。…と書くと何となくそれっぽい気がするが、後北条氏と高国流細川氏に関係がある、もしくはあったのだろうか?
 北条氏綱の父・伊勢宗瑞(北条早雲)の下剋上と見られていた足利茶々丸攻撃が実は同時期の明応の政変に連動した軍事行動であったことは近年定説化している。伊勢宗瑞は室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の一族で駿河今川氏に出向しつつ室町幕府の指令を受けていたのである。後北条氏は後々も室町幕府とのコネを有していたらしく、将軍と連絡を取り合うこともあった。伊勢氏綱の北条への改姓が認められたのも大永3年(1523)頃であり、執権北条氏が代々帯びた左京大夫の官職を得た。大永年間といえばまさに室町幕府細川高国によって運営されていた時期で、幼い細川氏綱北条氏綱の噂を聞き、また高国流細川氏後北条氏と密接であったのかもしれない。
 ただ、細川氏綱北条氏綱を個人的に尊敬していたというのは根拠がない。細川氏綱後北条氏に接点を見出せる史料というのは(私は史料全部を見たわけではないが)ないように思う。当たり前だが「かもしれない」話であって、細川氏綱が「氏綱」を名乗ったのは畿内政治史や細川氏の由緒が関係していると考える方が自然ではないか。
 「氏綱」はともかくとして「氏」というのは足利一門の通字の一つである。細川氏南北朝時代には細川顕氏細川清氏細川繁氏といった武将が活躍した。しかし、彼らの実名は「氏」が下に付いているし、細川で「氏」を実名に含むのは南北朝時代以来消え去った。これは細川氏の一門が「家」として編成され、将軍の実名の下の字を偏諱としそれに各家の通字を組み合わせる実名スタイルが定着した結果である。「氏」を通字にしているとたいていの場合、将軍からの偏諱と通字「氏」を組み合わせる実名である鎌倉公方と名前が被ってしまうのである。こうして細川氏のみならず、鎌倉公方とその係累を除く多くの足利一門は「氏」を通字にすることをやめた。
 一方で将軍から偏諱を受けず、自立してしまえば「氏」を通字にしても問題はない。駿河今川氏は従来「範」を通字にしていたが、戦国時代に入ると氏親→氏輝→義元→氏真と、義元のみ例外であるが急に「氏」を通字にし始めた。なぜ、今川氏親から「氏」を名乗っているのか、堀越公方から偏諱を受けたとも言われるがよくわからない。ただ、氏親と言えば分国法『今川仮名目録』を制定し、領国支配を室町幕府秩序に必ずしも依らないことを宣言した戦国大名である。通字「氏」というのは将軍の偏諱をやんわり拒否する自立の姿勢を見せていると言えるかもしれない(義元のみ「義」字偏諱を受けているのは彼が本来正統な継承者ではなかったからだろう)。
 また、細川氏綱と同時代の畿内には足利一門でも「氏」を実名に含む者がいた。畠山総州家の畠山存氏である。畠山総州家は始祖義就以来、義就→義豊→義英→義堯と「義」字偏諱を受け続けた(もっとも本当に偏諱を受けたのか怪しい当主も多く「義」を通字にしてしまっている感もある)。存氏は義堯の息子だが、義堯は家臣の木沢長政と対立し、逆に攻め殺され、存氏は名義上畠山氏の家督として長政に推戴されていたに過ぎない。木沢長政は将軍足利義晴と直結することで「下剋上」を果たそうとしており、存氏は独自に将軍と結んで偏諱を受けることを阻害されていたのだろうか。畠山存氏は木沢長政とは距離を保っていたが、天文11年(1543)に長政が敗死すると庇護者でもあった長政の没落に伴って存氏も細川晴元政権から排除された。これを見た細川氏綱が反晴元陣営になった畠山存氏と組むためのメッセージとして「氏」を共有する「氏綱」を名乗ったのだろうか。
 ただ、細川氏綱はこの後畠山尾州家の家臣である遊佐長教と提携することで、細川晴元へ戦いを挑んでいく。天文16年(1547)に行われた晴元との決戦である舎利寺の戦いでは、存氏は晴元に味方して氏綱を破っている。存氏の母親は不明だが、畠山義堯の妻は細川晴元の姉妹で細川氏綱とは血縁関係もなかった。氏綱の「氏」が畠山存氏の「氏」であったとしても、氏綱と畠山総州家は決別してしまっているのであり後生大事に持ち続ける意味は薄い。
 細川氏の父祖との関わりを言うなら、弟の細川藤賢が匡を名乗り、氏綱もを名乗っていたことを考えると、南北朝時代に活躍した細川和氏細川清氏親子が想起される。細川和氏は当初細川氏嫡流の地位にあり、その息子清氏も将軍足利義詮の執事を務めるなど幕閣でも指折りの重臣であった。しかし、清氏はその急進的政治と佐々木道誉の讒言によって失脚し、追討を受けた。清氏の系統は仕方なく南朝に属したが、その後没落していく。こうして細川氏嫡流細川和氏の弟・頼春の系統に移ってしまったわけである。
 細川氏綱がこうした細川氏の由緒について知っていたかどうかは定かではないが、太平記は基本的な古典であるし、ただでさえ細川氏の色んな家の相続の都合に振り回されている人生なので常識として認知していた可能性は高い。しかし、本当に和氏や清氏を意識して実名を決めていた場合、かつて将軍に追討されて没落した嫡流の復活を掲げたことになる。それは…幕府秩序的にどうなんだろうか。
 まとめてみよう。細川氏綱が「氏綱」という実名を名乗り、死ぬまで維持した可能性としては次のようなものが考えられる。

  1. 東の「管領北条氏綱を尊敬しており、その名を受け継いだ
  2. 「氏」は室町幕府秩序に必ずしも依らない自立の証である
  3. 畠山存氏に肖った
  4. 南北朝時代細川氏嫡流であった細川和氏や清氏へのリスペクト

 どの可能性を選ぶにしろ、氏綱は将軍偏諱を受ける機会をやんわりスルーしたように、現実に存在する足利将軍への敬意が全く足りていない。しかし、思い返せば確かに細川氏綱自分から足利将軍を擁立した経験はない。これは高国流の政敵細川晴元が一貫して足利義維足利義晴足利義輝を擁立していたのと比べると好対照をなす。もっとも高国残党たちはまさに「残党」であるがゆえに擁立する足利氏連枝の選択肢もなかった(細川晴国は晴元に捨てられた足利義維と結ぼうとしていたという説もある)。細川氏綱は反晴元闘争の中で遊佐長教と結び、遊佐長教を通じて足利義晴から支持を得ていたが、足利義晴が息子義輝を元服させる際も氏綱は何ら行動せず、義晴は先例を破って六角定頼を管領格として義輝に加冠せざるを得なかった(もっとも戦争中の氏綱が実際に近江に行こうとして行けるものなのかと言えば厳しいものもあるが)。三好長慶に推戴されて細川晴元を近江に追放した際足利義輝もまた追放され、氏綱は長慶とともに京都を支配したが、この時も長慶もとい氏綱は足利将軍を自分から帰京させようとはしなかった。その後も長慶と義輝は争い、義輝は帰京したり追放されたりしたが、氏綱は常に長慶の側にあった。
 また、氏綱与党である細川国慶は幕府機構に依らない独自の京都支配を志向し、今村慶満小泉秀清津田経長ら京都流通を支配する領主たちを編成した。国慶はすぐに戦死してしまったため、彼の名は近年まで全くの無名であったが、国慶が組織した領主たちは細川氏綱の家臣として引き継がれ、氏綱は国慶の京都支配スタイルを継承した。国慶の京都支配は軍事に重きを置いたものであったが、その編成を平時のものとしたのは氏綱であった。また、氏綱の腹心であり唯一偏諱を受けたと思しい多羅尾綱知の多羅尾氏も氏綱以前に細川氏に仕えた経歴がない。氏綱は家臣の登用に身分などを問わない柔軟さがあった(そうせざるを得なかったとも言えよう)と評価できる。氏綱にとって従来の幕府秩序は重視するものではなかったのだ。
 三好長慶の勢力伸長とともに細川氏綱は貴人として遇されながらも、三好政権の後景へと退場していく。国慶が編成した京都の領主たちや氏綱の腹心であった多羅尾綱知は三好長慶の家臣となり、その支配ノウハウを伝えた。何より長慶の足利将軍を重視せず、それどころか権限を冒す態度も氏綱の暗黙の支持があってこそとも言える。
 こうして考えていくと、細川氏綱を「最後の管領」とするのは失礼な話である。私の氏綱原体験は「氏綱なんて名前は全然細川氏管領らしくねー!」というものだが、幕府管領といった幕府秩序の籠の鳥になどなりたくなかったのが氏綱の本音ではなかったか。氏綱という名前自体が幕府秩序の包摂への拒否として機能していたのである。
 …ということにして「氏綱」とは何なのか解明したということにしたい。


参考文献

戦国期細川権力の研究

戦国期細川権力の研究

↑この記事の氏綱論はだいたいこの本に依ったもので、自分なりに噛み砕いたものである。
↓こっちは確認史料
言継卿記 (第3)

言継卿記 (第3)

※件の歴史手帳は未だに細川氏綱室町幕府最後の管領扱いであった
歴史手帳2019年版

歴史手帳2019年版

*1:現在では公式に管領に就任した最後は細川高国ともされ、晴元や氏綱が管領になったのかどうかについては議論がある

*2:なお厳密には満元と勝元の間に持之がいる。持之のみ「元」が入っていないのは兄の持元が早世して弟の持之が家督を継いだため

*3:代々の当主が「右京大夫」の官職を世襲したため「右京大夫」の唐名「右京兆」にちなみ「細川京兆家」と呼ぶ

*4:代々の当主が「右馬頭」または「右馬助」の官職を世襲したことから「右馬頭」の唐名「典厩」にちなみ「細川典厩家」と呼ぶ

*5:代々の当主が「讃岐守」の官職を世襲したことから「細川讃州家」と呼ぶ。阿波守護を主に務めたのに「讃岐守」なのが地味なトラップで後世讃岐守護も務めたと誤解されることもあった

*6:代々の当主が「下野守」の官職を世襲したことから「細川野州家」と呼ぶ