志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

和泉下守護細川家列伝

 そう、僕は気付いたんだ。ずっと宿題忘れてた…ではなくて、和泉下守護家の(正確な)系譜がネット上にも手頃な本にも転がっていないことに。ぶっちゃけローカルなネタはこういうことが多い。そもそもとして、少し大きな通史として展開されると書き飛ばされてしまうくらいの話なのである。その時の和泉下守護が誰であったか、どのように動いたのか。畿内史であっても、そんなことは書かなくても政治史・文化史は成り立ってしまう。そんな叙述が定着しているのだから、和泉下守護の系譜が研究が進展しても周知されないのは当然なのである。今後も和泉下守護をメインに据えた図書は研究書ですら出る可能性は低いのではなかろうか。
 しかし、だからと言ってこのような状況で放置されて良いわけではない。近年のレベルの高い研究書や概説書であっても、こうしたローカルネタに触れる際、ふっと旧説が出てしまうことがある。こうなると「この人はこの分野では最新鋭だけど、それ以外の最新研究は共有していないのだな」と思ってしまい、とても惜しい(もっともこの点に関しては私も人の事をとやかく言えるものではなく、他山の石としたいものである)。和泉は五畿内を構成する要国である。にも関わらず、どうであったのかが今一つ共有されていないと、ボロが出るのはここから…ということになりかねない。そういうわけで、和泉下守護について、現在の系譜や論点を試みにまとめてみた。
 正直どこからどこまでまとめるべきかは悩んだ。偉そうなことを言いつつ、旧説を引っ張っているかもしれないし、重大な誤謬や見当はずれな問題提起をしているかもしれない。そういった箇所はご叱正を賜りたい。そもそも素人の私がまとめなくても、偉い先生が本出してくれよと言いたい気持ちもあるが…
 ちなみにこの記事は下守護をまとめるものなので、上守護はたまにしか出て来ない。ところで、ここでもアピールしておくが、かの細川藤孝(長岡幽斎玄旨)は和泉上守護の系譜とは無関係の存在である。しかしながら、近世熊本藩細川家が自身は和泉上守護家の末裔と誤解し、上守護家の菩提寺から上守護関係の文書を引き取って今日まで伝来してくれたのは、日本史にとって輝かしい功績である。そういうわけで上守護の文書は残りが良い一方、下守護家の文書は被官や権門がたまたま伝来してくれたもの頼みで薄く、上守護が羨ましい限りである。もっともいいことばかりではなく、「細川藤孝は和泉上守護家を継いでいる」という勘違いが「正史」になってしまったおかげで、この誤解が解けたのがたかだか10年ちょっと前にすぎず、現在でも誤解の方が幅を利かせているという副作用もあるが…。

細川基之 1380頃?~1448

 弥九郎→兵部大輔→阿波守。備中守護細川満之の子で兄には阿波守護家(讃州家)を継いだ細川満久がいる。基之は叔父である細川頼之の猶子ともされ(『系図纂要』)、頼之の死後備後守護職を引き継いだ(応永2年(1395)が備後守護職の初見(「高野山文書」))。ただし、基之の備後守護は細川頼長との半国守護制であり、その後基之は土佐守護へと遷任するが、この時も頼長との半国守護制であった。基之への和泉守護補任時期は直接的には不明だが、応永15年(1408)8月に細川頼長が和泉半国守護(上守護)に補任されている(「細川家文書」)ため、同時期に2人揃って土佐から和泉へ移されたと見られる。同年10月には基之・頼長の両守護に対して鶴原庄を佐竹宣尚に返付するよう将軍足利義持が御教書を下しており(「秋田藩家蔵文書」)、これが基之の和泉守護職の初見である。
 応永末頃から「阿波入道常秀」として見えるようになり(『永享以来御番帳』等)、出家していたようである。嘉吉3年(1443)2月10日に一条兼良が催した歌合に参加している(『前摂政家歌合』)。基之は『新続古今和歌集』に和歌が入集するなど、歌人としての評価は高かった。文安5年(1448)10月12日に死去した(「東寺過去帳」)。

  • 細川基之遵行状写 秋田藩家蔵文書

当国鶴原地頭・領家職事、去年任御教書之旨、可沙汰付佐竹和泉入道常尚之状如件、
  応永十六年十二月十二日    (花押影)
   斎藤勘解由左衛門入道殿

細川頼久 ?~1470頃

 兵部大輔→阿波守。発給文書の署名は、確実なものは「阿波守」か法名「常繁」のものしか残存しないため、系図類に見える実名「頼久」が正しいかは不明(「兵部大輔頼久」の一次史料があるらしい)。宝徳元年(1449)12月に中原康富から和泉の所領について催促されているのが初見(『康富記』)で、恐らく前年の基之の死により守護職を襲ったと思われる(前年までは康富は基之相手に交渉していた)。応仁年間に入ると持久の下守護としての活動が見られ始めるが、頼久と持久の文書が併存しており(「和田文書」)、在京する持久と在国する頼久とで二頭体制にあった(「多和文庫所蔵文書」)。その後、文明4年(1472)頃に「細川安波守」が亡くなったことが見え(「蜷川家文書」)、これが頼久の死と見られる。
 ちなみに、かつての研究では頼久の事績は持久に吸収されており、基之の次の和泉下守護を持久とする説で定着していたこともあった。

上郷下村内神津村禅興寺別当職事、如元日根野五郎左衛門入道方に所申打渡之状如件、
   十一月十二日    頼久 判

※「泉州史料所収日根野文書」には同内容の某書下写が応永19年(1412)12月3日付で発給されているため、細川頼久発給と見なすには不審だが一応載せておく。

  • 細川頼久遵行状 石清水文書

石清水八幡宮和泉国岸和田事、任去月十日之御施行之旨、可沙汰付善法寺阿子々丸代者也、仍状如件、
  長禄三年十二月六日   阿波守(花押)
   斎藤河内入道殿

  • 細川頼久書状 和田文書

今度於京都合戦之儀、言語道断之次第候、仍国々物謂事、内々其聞候、自然之時宜出来候者、相互加談合被致忠節候者可悦入候、恐々謹言、
   六月十一日    常繁(花押)
    和田備前守殿

細川持久 ?~1489以降

 民部大輔→阿波守。後に法名・常泰。応仁元年頃から下守護としての活動を開始するが、先代の頼久と持久の文書が併存しているため、在京する持久と在国する頼久とで二頭体制にあったと思しい。応仁元年(1467)11月に和田氏へ大内氏が摂津へ侵入する対策を命じた(「和田文書」)のが守護としての初見で、その後も応仁の乱の中、感状を発給している。延徳元年(1489)には下守護となっていた「子」である細川基経と争い(『蔭涼軒日録』)、12月には京兆家の協力も受けた(『北野社家日記』)が、その後の動向は不明である。恐らく基経に敗れ没落に至ったと思われる。

  • 細川持久書状 和田文書

就畠山右衛門佐義就下国、早速於境南庄令着陣、于今在陣之由注進到来、尤神妙、弥被致粉骨者可喜入候、恐々謹言、
   拾月九日     持久(花押)
    和田次郎左衛門殿

  • 細川持久書状 和田文書

就熊取庄事出陣、辛労推量候、今度之儀、別被致忠節早々落居候者、可為祝着候、委細猶竹元新左衛門尉可申候、恐々謹言、
   六月十一日    常泰(花押)
    国役面々御中

細川基経 ?~1500

 民部大輔。文明17年(1485)3月頃よりの和泉国内での反乱に際して守護方の国人に感状を発給したのが明確な初見である(「田代文書」)。守護への抵抗勢力は「惣国」を形成しており、これを崩壊に追い込んだのが基経の最初の事績である。しかし、翌文明18年(1486)には根来寺が蜂起、基経は上守護細川元有とともに堺も捨て和泉から脱出して、畠山義就を頼った。延徳3年(1491)には和泉に復帰したが、その後も根来寺やその背後に潜む畠山尾州家とは長い因縁となった。なおこの間の延徳元年(1489)、「父」である細川持久と合戦に及び、持久を没落させている。基経期には和泉惣国の蜂起と崩壊、根来寺や畠山氏の侵入などもあり、和泉国人を守護被官として編成する努力が続けられていく。
 明応9年(1500)9月2日上守護細川元有とともに、和泉に侵入してきた畠山尚順と戦うが、陣を置いていた神於寺が尚順に内通したため、敗死に追い込まれた。しかし、敗死したことで和泉下守護家当主の中では珍しく明確に没年忌日が判明している。

  • 細川基経感状 田代文書

就今度当国牢人等可乱入雑説之儀、各翻法印以連判可致忠節之由、尤神妙候、然上者可被抽軍功事悦入候、恐々謹言、
   六月廿六日     基経(花押)
    田代源次郎殿

  • 細川基経書状 板原家文書

春木庄之事、如先々申付候、然上者、於後日応不可有相違候、公用之儀、如此間可有取沙汰候、恐々謹言、
  明応五〈丙辰〉
   弐月五日     基経(花押)
    多賀楠鶴丸殿

細川政久 ?~1508頃?

 弥九郎。先代基経が横死した一月後の明応9年(1500)10月には守護として活動している(『政基公旅引付』)。基経が細川奥州家の出身であるとするならば、政久はその実名が示すように頼久―持久の系譜を継ぐ可能性がある。基経死後すぐに守護として振る舞い始める(上守護家は細川元有戦死時に遺児元常は国外におり、元常を新守護として活動を再開するのは翌年にまでずれ込んでいる)のも、基経が死んだ間隙を突いた復権なのかもしれない(ただし、政久は社会的に守護の地位を認められているので違法に奪取したわけではない)。終見は永正元年(1504)9月和泉に侵入した畠山尚順との交戦である(『政基公旅引付』)。この後一時的に和泉の守護権は畠山尚順が掌握する。永正4年(1507)細川政元が横死し細川一門が内訌に陥る中政久は全く姿を見せないが、和泉下守護家出身とされる典厩家当主細川政賢が細川澄元に味方したことから、澄元と対立する細川高国によって政久は排除された可能性がある。

就 御家門領之事被下御書忝畏存候、委細蒙仰候之条、具令申候、此旨可然様預御披露候者、可畏入候、恐惶謹言、
   拾月廿三日     政久判
   唐橋殿

細川高基 1490s?~1524?

 弥九郎→民部大輔。細川春倶の子で、後に典厩家を継いだ尹賢の弟。つまり、細川高国から見ると従弟にあたる。永正7年(1510)「細川弥九郎」が現れるのが初見であり(『後法成寺関白記』)、永正9年(1512)頃から和泉守護としての活動が見られるようになる。当時は細川政元の横死後、細川京兆家内部で争いが激化し、一門も二分されていたため、高基が和泉下守護家を継いだのも高国一派が一門への影響力を強めようとした一環であろう。高基は高国一党として活動しており、兄の尹賢とともに度々近衛邸へ訪れている(『後法成寺関白記』)。高基は源氏講釈や古今講釈にも参加し、三条西実隆に和歌の指導を受けるなど高い教養世界の中にいた。ただし、高基は大永3年(1523)病に臥しており(『後法成寺関白記』)、7月以降は回復したようだが、大永4年(1524)3月の足利義晴の細川尹賢邸への御成への参加を最後に記録から見えなくなる(『大永四年細川亭御成記』)。すでに子の勝基が大永3年(1523)1月には「和泉守護」として記されている(『後法成寺関白記』)ため、この頃には健康が崩れ代替わりが意識されていたのかもしれない。
 ちなみに高基の娘は久我通言の養女(久我慶子)となって近衛稙家に嫁いだという(『尊卑分脈』)。稙家の妻が高基の娘であることは直接的に確かめられないが、稙家の妻は享禄5年(1532)2月になって久我晴通(近衛稙家の弟から久我家を継いだ)と兄弟契約を結んでいる。つまり、それまで久我晴通とは「兄弟」ではなかったのである。稙家室が久我家の養女とされたのは稙家と婚姻して幾何も経過した享禄5年(1532)であり、これは前年に細川高国が敗死したことで、本来の出自である高国党の和泉下守護家が没落したゆえの処置と考えるのは邪推が過ぎようか。なお、慶子が高基の娘であれば、慶子所生の近衛前久は高基の孫にあたっており、巡り巡って現在の皇室にも高基の血は流れている(前久の娘前子が産んだ後水尾天皇以降の天皇は全て高基の子孫となる)ことになる。

  • 細川高基書状 板原家文書

去十六日注進状披見候、彼方働弥不儀之段、現形由候、其趣即御屋形へ申入候、香西かたへの返事、未当来之由候、尾州進発候者、令相談可下国候、猶各武略肝要候、恐々謹言、
   五月十九日     高基(花押)
    斎藤彦次郎殿
    多賀蔵人殿
    庄備中守殿

細川勝基 1510s?~1548頃?

 九郎(天文以降は通称で呼ばれないため官途を称したかは不明)。永正10年(1513)5月9日(不明)。先代の高基との関係性は直接的には確かめられないが、勝基が直接的に高基の地位を襲っていることや、大永6年(1526)に近衛家と音信している勝基の母が、大永4年(1524)以前にしばしば近衛家と音信している高基の妻と同一人物であろうことから親子関係にあると認めて良いと思われる(ちなみに大永4年(1524)3月には「民部大輔御息」が確認される(『実隆公記』))。父高基は未だ健在であった大永3年(1523)1月に「和泉守護」と称され、高基の動向が追えなくなる翌大永4年(1524)以降は叔父である細川尹賢らと行動を共にする様子が見えるようになる(『後法成寺関白記』)。大永8年(1528)和泉国人佐竹氏の所領の回復が義晴幕府から「細川九郎」に命じられている(「秋田藩家蔵文書」)ことや、「証如書札案」の「宛名留」に「九郎勝基」が見えるため、細川高国が生きている間は和泉守護としての実態を保っていたようだが、高国が没落・戦死すると権門との接触は途絶え、和泉国内での権限も失ったと見られる。しかし、勝基はそのまま歴史の表舞台から消滅はせず、天文5年(1536)には土佐での活動が確認でき(「行宗文書」)、下守護家の所領である大忍庄に潜伏していたようである。終見は大和国人鷹山弘頼に合力を頼んだもので(「鷹山家文書」)、弘頼が細川氏綱一党と連絡を取り協力していること、書状中に「河州」(遊佐河内守長教)が意見していることから、舎利寺の戦い(第2次細川氏綱の乱)前後の文書と考えられる。ただし、天文末年に細川氏綱一党は復権を果たすものの、その中で勝基は現れないため、江口の戦いまでに死去したのかもしれない。

  • 細川勝基書状 鷹山家文書

態令啓候、仍自河州以異見筋目不日及行候、然者此砌於御合力者、可為本□□、悉皆御馳走可頼入候、猶塩穴左京進可申候、恐々謹言、
   九月廿五日   勝基(花押)
    高山主殿助殿

細川弥九郎 ?~1550頃?

 「古今采輯」に収載される畠山政国書状写は宛所を「弥九郎殿」としており、「弥九郎」の進退は遊佐長教が取り持つとしている。写であるため注意が必要だが、「弥九郎殿」には「細川殿事」と注が付けられている。仮にこの「弥九郎」が「細川弥九郎」であるのなら、政国や長教の活動時期から推すと、和泉下守護家の人物である可能性がある。あるいは勝基の後継者かもしれない。しかし、弥九郎が現れる文書はこれのみであり、真に下守護家の人物なのか確証には欠ける。いずれにせよ、天文末年以降和泉下守護家の系譜を継ぐ人物・団体の活動は見られず(生き残った下守護系の被官も上守護や松浦氏に仕えるようになる)、下守護家は滅亡した。

外伝

細川教久 ?~?

 『尊卑文脈』では基之の子・頼久の弟として見える。これによれば、九郎・民部少輔を名乗ったらしい。ただし、この人物は発給文書も受給文書も一次史料における記述、編纂物における記述も管見の限り発見できなかった。

細川勝信 ?~?

 「細川家文書」に入る細川氏系図では持久の子に勝信なる人物を入れている。文明~明応の和泉下守護「細川民部大輔」の実名が不明だった頃は、この民部大輔が「勝信」ではないかと推測されていた時代もあった。しかし、「細川民部大輔」は細川基経であるとはっきりしたため、勝信の存在は宙に浮いた。なお、今でもたまに「細川基経(勝信)」という表記が見られるが、「細川民部大輔=勝信?」という旧説と「細川民部大輔=基経」という正しい説を混同・合体させたもので、基経が「勝信」を名乗っていたことは認められない。そもそも「勝信」という実名は足利義勝から偏諱を受けており、偏諱を排除する形での改名をするとは考えられない。
 しかし、和泉下守護家当主格としての細川勝信が架空の人物なのかと言うとそうとも言い切れない。『応仁記』巻一「武衛家騒動之事附畠山之事」には応仁の乱の前哨戦に集合した細川一門の中に「細川阿波守勝信」が見えるからである。「阿波守」という受領名やその他の参集細川一門のメンツから見て、この人物は和泉下守護として記されていることは疑いない。ただし、同時期には和泉下守護として細川頼久が活動しており、「阿波守」を称している(一次史料と対照させようにも応仁の乱に参加した和泉守護は「和泉守護」や「和泉両守護」とのみ書かれており実名が特定できない)。『応仁記』は後代の編纂史料であるため何らかの誤謬を含んでいる可能性もあり(例えば、並列される上守護細川常有は「細川刑部少輔勝吉」と書かれ、官途は正しいが実名は明らかな誤りである)、この勝信が頼久、あるいは持久、または頼久・持久の後継者として実質的に守護のように見なされていた人物なのか判断し難い。

細川政賢 1470s~1511

 細川典厩家の当主。ただし、先代の細川政国の実子でないらしく、「政賢実ハ和泉下守護阿州舎弟」(『不問物語』)とされる。これが事実であるならば、政賢の出自は和泉下守護家である。以下、簡単にではあるがこれが事実であるのか述べたい。
 「和泉下守護家」で「阿波守」として最後に確認できるのは細川持久である。ただし、持久は応仁期から活動し、延徳元年(1489)には「子」である基経に放擲された。それに比べると、政賢の活動が見えるようになるのは延徳期からで明応年間に活動が本格化する。こうしたところを見ると、政賢は持久とは世代が一回りズレている。持久の父であろう頼久の活動時期から推しても持久の弟であることは考えにくい。
 「和泉下守護阿州」と言うと「阿波守」への任官が自明と思われてしまうが、実際には家督であれば、その家の官途で呼ばれる例は珍しくはない。和泉守護家の当主格であれば「阿州」と呼ばれ得るのである。この線からは政賢の兄を特定できないか。
 世代として最も合致する和泉下守護は細川基経であるが、基経は奥州家出身の可能性がある。政賢が基経の弟であれば「阿州舎弟」ではなく「奥州舎弟」とか「民部大輔(戸部)舎弟」になるはずである。
 それでは細川政久が政賢の兄であろうか。しかし、政久が活動した文亀年間前後においても政賢は仮名の「弥九郎」にすぎなかった。もちろん何らかの事情(例えば、基経からの嫌がらせ)で政久の任官が阻害されていた可能性もあるが、とっくに政賢が典厩家当主として活動しているのに比すと、やや経験不足の感がある。
 世代や「和泉下守護阿州」と称され得ることを勘案すると、細川持久の子、政久の父にあたる人物がおり、その人物が政賢の兄にあたると考えれば自然(つまり、政賢の父は持久)だが、積極的にこれを補強する材料があるわけではない。
 そもそも典厩家と和泉下守護家に養子をやり取りするような密接な関係があるのだろうか。政賢の先代政国も細川野州家から典厩家に養子に入っており、政国に実子がいなかったとしても再度野州家から養嗣子を迎えても良かったはずである。
 しかし、和泉下守護家と典厩家の明徴な関係性もまたそれを示すものは少ない。数少ない明確な接点としては、和泉国人和田氏への感状を細川政国と細川持久が出しており、政国感状では「猶阿州可被申候」とする。下守護持久の上位者として典厩政国が位置付けられている(この場合の政国は幼い京兆家当主政元の代理であろう)。また、持久と基経が戦闘に及んだ際、持久を上原元秀が支援したように京兆家は持久を支持したと思しい。それはつまり、政元を支える政国もまた持久との繋がりを優先したということになる。こうしたところを見ると、政国の側に持久を積極的に支持する理由があった…と言うと過言だろうが、縁自体は認められるようである。
 結局のところ、政賢が和泉下守護家出身という説は積極的に肯定される材料もないが、積極的に否定されるものでもない。なお、政賢が細川高国から離反すると、高国は典厩家当主として従弟の尹賢を擁立する。尹賢の弟高基は和泉下守護家の当主であったため(これが高国系人事なのか偶然なのかは不明)、典厩家当主と和泉下守護家当主が兄弟であるという事態は高国期に現出する。あるいは、典厩家当主と和泉下守護家当主が「兄弟」であるという観念が存在した可能性もあるだろう。

細川澄賢 1490s~1521

 細川高国期の和泉守護「細川弥九郎」が誰なのかわからなかったため、同時期の「細川弥九郎」である澄賢が高国期の和泉守護「細川弥九郎」に充てられていた時代があった。現在では高国期の和泉守護「細川弥九郎」が高基であることは明らかである。
 そもそも澄賢は典厩家の政賢の息子であり、父政賢は細川澄元と高国の間の内訌に際し、澄元に味方して戦死している。澄賢の動向はよくわからないものの、父と行動を共にしていたと見られ、永正18年(1521)に足利義稙が高国と対立し出奔した際には、これに呼応して晴元の上洛を企図している(「緒方家文書」)。澄賢もまた澄元・晴元派だったのであり、高国派和泉守護ではあり得なかった。
 なお、父政賢は和泉下守護家出身とされるので、そうであれば澄賢は本来の和泉下守護家の血を引いていることになる。

トピック!

仮名について

 仮名が判明している当主は多くないが、初代基之が「弥九郎」、5代政久が「弥九郎」、6代高基が「弥九郎」であることから、代々の仮名は基本的に「弥九郎」であったと思われる。ただし、「弥九郎」は細川典厩家当主の仮名でもあり、典厩家と共存していた時期の当主が「弥九郎」であったかどうかは判然としない(明確に被っている事例としては弥九郎政久と弥九郎澄賢の時期がある)。また、上守護家の細川常有も仮名は「弥九郎」であった。ということは、上守護も下守護も同時に「細川弥九郎」がいた可能性がある。また、7代勝基が例外的に「九郎」であった事情は不明である。

官途について

 初代基之と2代頼久は「兵部大輔」を称してから最終的に「阿波守」となっている。3代持久は「民部大輔」であったが、最終的に「阿波守」となった。このことから和泉下守護家は当初「阿波守」を最終官途とする家であったと見なし得る。こうした特徴からは「阿州家」と呼んでも差し支えないと思われる。
 ただし、4代基経以降「阿波守」となった当主はいない。永正期となっても「下守護阿州」(『不問物語』)という認識は生きていたので、「阿波守」となる当主がいなかったのは、任官に至るまでに没落、死去したことによる偶然かもしれない。代わって目立ち始めるのが「民部大輔」であり、3代持久、4代基経、6代高基が称している。基経―高基の系統が本来の「阿州家」の血統ではないとするならば、こちらを「民部大輔(戸部)流」と言っても良いかもしれない。ただし、高基や勝基を修飾する家としての表現は「阿州」でも「戸部」でもなくもはや「和泉」となっている。その点で言えば「和泉守護家」という意識が先行していることも捉えられるべきではある。
 あり得べき和泉下守護家の通称推移としては「弥九郎→民部大輔→阿波守」が想定される。もっともこの通称推移を体現したことが確かめられる当主は存在しないのであるが。

実名について

 3代持久、5代政久、6代高基は一見すると、足利将軍から偏諱を受けているように見える(義持→持久、義政→政久、義高→高基)。しかし、そう見なすには若干の躊躇がある。と言うのは、各当主の活動時期と偏諱タイミングが一世代ずれているように思われるからである。
 具体的に見ていこう。3代持久は応仁から延徳にかけて活動した。持久が足利義持から偏諱を受けているとした場合、義持は応永30年(1423)に出家し応永35年(1428)に死去するため、応永30年頃には成人している必要がある(実際足利義持から偏諱を受けた他の面子は少なくとも応永20年(1413)以前には生まれている)。すると、持久も応永10年代には生まれていなければならないが、そうなると守護職の初見時には60歳前後の高齢となり、80歳前後になっても守護職を巡って争う人物となる。もちろんそれがあり得ないことでもないが、先代である頼久との世代差もなくなってしまい、継承による世代交代という点からも不審が生まれる。
 次に5代政久。足利義政は延徳2年(1490)に亡くなるが、文明5年(1473)には将軍職を息子の足利義尚に譲っている。その後は義政と義尚の二頭体制…と言うか義政が政務の実権を握り続けたため、義尚が拗ねてしない、それを宥めるためになし崩し的に実権の一部を委譲していく流れが続き、どちらが偏諱の主体なのかは見えにくくなる。ただし、厳密ではないが、文明10年代に入ると偏諱の主体として義尚が定着するようにも思われる。すると、政久が足利義政から偏諱を受けるためには応仁以前に生まれていなければならず、守護の初見時には30歳を超えており、それでなお仮名を称していることになる。これまたそれがあり得ないというつもりはないが、そうであるならば何らかの込み入った事情を想定するべきではなかろうか。
 最後に6代高基。将軍足利義高からの偏諱と細川基之・基経に見られた「基」を組み合わせた実名に見える。ただし、足利義澄としてよく知られる義高が義高を名乗っていたのは文亀2年(1502)までである。高基の兄で後に典厩家を継ぐ細川尹賢は当初澄重(政光)を名乗っており、義澄から偏諱を受けている。ということは、高基という実名は「現行守護として細川政久が活動していながら」「基経の後継ネームを」「兄に先んじて」与えられるという含意がある。高基が実際に活動するのは永正7年(1510)以降であり、従兄の高国が政権を握ってからであることを思えば、その10年近く前から高基を和泉守護とする計画があったというのは何とも想定しにくいのである。
 上記の3人は将軍からの偏諱を想定するにはタイミングがずれていると言わざるを得ない。その一方で3人とも別の人物から偏諱を受けているとすれば、すっぽりと収まることにも気付かされる。すなわち、細川持之→持久、細川政元→政久、細川高国→高基という京兆家当主からの偏諱を想定すれば世代差は不自然ではなくなる。ただし、いずれも足利将軍からの偏諱の二重付与というタブーを犯していることになり、こうした例外・特例が社会的に受容されたのかどうか(許されているのは本来鎌倉公方古河公方のみである)、確言できない。
 なお7代勝基は時期的に将軍足利義晴から偏諱を受けていてもおかしくないはずだが、偏諱を得ていない。「勝」は細川勝元に肖ったのであろうか。

細川基経の出自について

 下守護細川基経の存在を明らかにしたのは岡田謙一氏の研究であった。その中で岡田氏は基経の「民部大輔基経」の名乗りに着目し、それまで阿波守を称し、実名を頼久、持久と続けてきた和泉下守護家の命名法則から見ると異質であることと、奉公衆細川奥州家の細川持経の弟に民部大輔顕経がいる(『尊卑分脈』)ことから*1、基経が奥州家の出身(より具体的には顕経本人かその子孫)であることを示唆された。奥州家の祖である細川顕氏、業氏は和泉守護であり、その後の奥州家も和泉に所領も保持していたことから、奥州家出身の基経が持久の養子となった蓋然性はあると言うのである。
 確かに基経が下守護家にとって「異物」であるとすれば、名乗り以外にも色々と示唆的ではある。「父」である持久と対立したのも、継承にあたってトラブルが発生したのかもしれない。基経の死後弥九郎政久という、ザ・下守護家ネームが活動し始めるのも、政久の後に下守護として現れる細川高基が基経の名乗りを襲うのも、基経の存在によって、下守護家が分裂したと考えれば、大きなストーリーが描けそうである。
 しかし、基経が養子であることは結局のところ状況証拠に留まってしまう。極論すれば、突然それまでの命名法則から乖離した実名が登場するのはあり得ないことではないからである。実の親子であっても、対立することはある(持久と基経の対立は「父子」の対立とされ、義理の親子である含意は読み取れない)。また、下守護家の分裂を見るにせよ、基経→政久→高基で、基本的に内衆は継承されている。
 さらに言えば、細川持久も官途は「民部大輔」であることがわかり、官途実名セットで異質とされた基経の名乗り「民部大輔基経」は、官途については単に「父」である持久を襲っただけ、と見ることが可能になった。こうなってくると、奥州家の民部大輔顕経との官途被りは基経養子説にとって大した意味でもなくなってくる。
 そうしたことを受けてか、基経奥州家出身説を唱えたそもそもの岡田謙一氏自身、基経奥州家出身説をその後は言及していない(と思われる。もしかしたらしているかもしれない)。そのため、下守護の系図が示される少ない機会の中でも、持久と基経を結ぶ線は実線(実子説)だったり、二重線(養子説)だったりする。
 細川基経は奥州家から養子に入った人物とするのは、確かにロマンあふれるし、一理ないわけではない。ただし、事実であるとさらに踏み込んでいくためには、材料が足りていないと言える。持久と基経が対立したのも、直接的な原因はわかっておらず、下守護家にはまだまだ謎が多いのであった。

被官について

 守護代を務めた被官としては久枝氏と斎藤氏がいる。久枝氏は伊予河野氏の一族で、「ひさえだ」(「ひさゑた」「泉州史料所収日根野文書」)と読む。斎藤氏は幕府奉行人の一族で京兆家にも奉行人を務める一族がいる。
 最初に、確認できる範囲で下守護代の変遷を確認しておくと、斎藤玄霖→久枝久盛(蔵人助)→斎藤基実→久枝晟祐→斎藤基実→久枝某?→斎藤久和→斎藤頼実→久枝通忠→斎藤勝実→久枝久盛(左京亮)→斎藤国盛となる。久枝氏と斎藤氏で交互に守護代を務める傾向にあるが、斎藤氏で連続することもあり(もっとも史料に残っていない久枝氏の守護代がいた可能性もある)、交互に務めることがルール化されていたわけではないようだ。勤続年数もまちまちで、数年しか在職していないであろう人物(斎藤頼実、久枝通忠、斎藤勝実など)も10年~20年は守護代であった人物(斎藤玄霖)、守護代に再任した人物(斎藤基実)もいる。
 守護代の久枝氏は最初に応永末から永享にかけて久枝蔵人助久盛が確認できる(「泉州史料所収日根野文書」・「九条家文書」)。次に宝徳年間には久枝晟祐が守護代として在京している(『康富記』・「壬生家文書」)。また、明応元年(1492)には久枝新九郎通忠守護代になっている(「板原家文書」)。明応9年(1500)段階にも下守護家の重臣として久枝左京亮久盛が確認され、永正元年(1504)には斎藤勝実に代わって守護代となった(『政基公旅引付』)。しかし、これを最後に下守護被官久枝氏は消えてしまう。あるいは細川政久から高基に下守護が移る際に排除されてしまったのであろうか。また、寛正5年(1464)には久枝筑前守が「国代官」となっている(「和田文書」)が、「国代官」が守護代であるのなら、斎藤基実と久和の間に入ることになる。
 下守護被官の斎藤氏は奉行人を務める者と守護代を務める者がいるが、両者が同一の家系であるのか、別家であるのかは明らかにし難い。守護代としての斎藤氏の初見は、応永16年(1409)の斎藤勘解由左衛門入道玄霖である。時期から考えて彼が最初の和泉下守護代と断定して良かろう。一時久枝氏が守護代となるが、嘉吉年間に入ると斎藤河内守基実守護代となる(「開口神社文書」・「久米田寺文書」)。その後、宝徳年間には久枝晟祐が守護代となるが、長禄3年(1459)には出家した基実であろう河内入道が守護代におり、守護代に再任したと見られる。応仁元年(1467)には斎藤藤右衛門尉久和が(「板原家文書」)、文明17年(1485)には斎藤彦右衛門尉頼実守護代にいる(「板原家文書」)。その後再び久枝氏に守護代職が戻るが、文亀年間には再び斎藤備後守勝実守護代となる。ただ、勝実は文亀3年(1503)末に守護代を辞し、後任は再び久枝氏となった(『政基公旅引付』)。その後の永正年間細川高基の下には斎藤国盛(彦次郎→彦右衛門尉)守護代となる。また、明応9年(1500)には斎藤彦三郎なる人物が久枝氏に並列される(「九条家文書」)が、守護代格なのか奉行人の系統なのか不明である(ちなみに同時期には細川政元の近習に斎藤彦三郎長利がいる。たぶん別人だろうが…)。これら守護代斎藤氏の系譜が親子として繋がっていくのかは、官途名や受領名が頼実と国盛の「彦右衛門尉」しか一致しないため、明らかではない。一方で、基実、頼実、勝実と「~実」という実名がある程度見られることから、守護代斎藤氏の通字は「実」であるらしい。
 奉行人斎藤氏としては応永33年・永享2年に基祐が(「薬師寺文書」・「泉州史料所収日根野文書」)、文明7年に基藤が(「板原家文書」)、高基期に三郎左衛門尉基□が(「板原家文書」)いる。「基」の字が共通することから、同系統にあるようにも見えるが、彼らが同一の系統に属するかは不明である。
 守護代の下には小守護代がおり、斎藤基実の下での松尾某、斎藤頼実の下での若林実延(源六)、斎藤久和の下での入江氏(清源か)、久枝通忠の下での岸和田元氏、斎藤勝実の下での若林勝延、久枝久盛(左京亮)の下での松坂景量(次郎左衛門尉)が確認できる。特に若林氏は斎藤氏の被官と認識されており(『政基公旅引付』)、実延・勝延ともに斎藤氏から偏諱を受けていると思われる(ちなみに松尾氏も斎藤基実の「内者」と認識されている(「藤田家文書」))。
 他に奉行人としては明応年間に篠元基信、高基期に庄備中守盛資(後に備中入道浄運)が特に目立ち、下守護の意向をよく伝えている。また、西村通宗(次郎三郎→新右衛門尉)は文明年間から文亀年間まで活動が見られ、持久・基経・政久三代に奉行人として仕える。名字が不明な奉行人としては浄欽、盛徳、壬有、豊政などがいる。
 被官としては「板原家文書」の伝来によるものも大きいが、多賀氏の存在感が大きい。多賀氏は佐野周辺に所領を持っており、守護家が佐野を直轄化する中で被官となったと思われる。下守護被官としての初見は宝徳3年(1451)の多賀蔵人である(「康富記」)。代々の多賀氏は蔵人(助)を名乗る者が多く、守護被官の主流に位置するのであろう。応仁期には多賀基永が下守護家の奉行人として現れる(「久米田寺文書」)。国人の中では早くから下守護被官となっていたからか、和泉惣国崩壊の際には惣国側の権益を獲得し、存在感を強くしていった。高基期には守護代に次ぐ地位を獲得し、下守護の権力中枢に食い込む有力者となっている。
 和泉下守護の被官に関しては「板原家文書」に「六日番交名」が残っており、基経期の編成を知ることが出来る。逐一挙げていくと、一番に竹元五郎、天下源左衛門尉、石津右馬允、長尾六郎左衛門尉、今井平三、木嶋源兵衛尉、熊取八郎、惣官又七、土師八郎左衛門尉、櫟井源六、今北四郎左衛門尉、藤木久松丸、草部四郎二郎、新村太郎三郎、喜嶋三郎、西孫太郎、二番に斎藤三郎右衛門尉、三木、大鳥新次郎、綾井玉寿丸、井上四郎左衛門尉、成田式部丞、宮五郎左衛門尉、山内四郎左衛門尉、井上弥四郎、下村孫(欠)、平井幸千代丸、岸和田、高家、鶴原藤右衛門尉、草部六郎、由良新六、三番に勝間田新三郎、西村源左衛門尉、磯上平五、毛穴新九郎、横山善左衛門尉、松尾肥前守、平井、馬場原又次郎、多田弥次郎、三木次郎三郎、吉井新右衛門尉、城上、神山、八木、日谷、古屋与次、天下弾正忠、平井、宮太郎二郎、四番に三木三郎、武正、横川五郎左衛門尉、波方四郎左衛門尉、三吉藤次郎、上神新六、鳥取次郎左衛門尉、富野藤次郎、富秋彦五郎、庄孫次郎、鳥取五郎右衛門尉、日谷石見、田中、寺田、曽祢掃部助、長岡、生嶋、五番に林弾正左衛門尉、鳥取弥次郎、信太助五郎、長岡次郎四郎、九万里、寺戸又次郎、籾井源六、十見源四郎、新家新次郎、福田善兵衛尉、籾井三郎右衛門尉、町、竹元彦次郎、下山源次郎、小池又六、赤間、神前がいる。
 よくわからない者が多いが、斎藤氏、長尾氏、井上氏、西村氏、庄氏、竹元氏のような和泉出身ではなく、下守護家の移動に伴って和泉へ来たと思われる譜代被官と天下氏、大鳥氏、綾井氏、成田氏のような和泉の地名を名字の地とするであろう国人が混在しているのは重要である。和泉惣国の形成と崩壊を受け、和泉下守護も積極的な国人編成を行った成果と見ることが出来る。特に国人の名字の地は堺や佐野、府中国衙周辺の地名が多く、守護が拠点を置いた地を中心として国人を登用・組織している。
 上守護の国人編成については「六日番交名」ほど雄弁に語ってくれる史料がないので何とも言えないが、こうした編成を行い得たことは、下守護が細川高国政権の下で在地への影響力を確保できた前提として生きた可能性もある。

被官への偏諱

 被官には「久」や「基」を実名に含む者もいる。彼らは当主から偏諱を受けた可能性がある。
 確実にそうであると言えそうなのは、応仁年間の守護代斎藤久和である。「久」を実名に含む下守護被官斎藤氏は久和のみであり、時期的に守護頼久か持久からの偏諱と見て相違ない。また、「実」は守護代斎藤氏の通字と想定され、であるならば基実の「基」は細川基之、頼実の「頼」は細川頼久からの偏諱である可能性がある。奉行人斎藤氏には「基」を実名に含む者が多いが、これが細川基之に由来するのかはよくわからない。幕府奉行人斎藤氏のように斎藤氏には「基」を通字にする一族がいるため、「基」は下守護被官斎藤氏にとっても通字であった可能性がある。
 守護代斎藤氏への偏諱に関して言えば、高基期の守護代斎藤国盛の位置はやや注目される。恐らく国盛の「国」は当該期の京兆家当主細川高国から偏諱を得ている。守護高基は高国派の和泉守護として、高国と密接な関係を持っていたと思しいが、高国を頂点とする体制の影響力は守護代クラスにまで及んでいたと言えそうである。
 一方の守護代久枝氏で偏諱を得た可能性があるのは久盛(蔵人助)と久盛(左京亮)である。ただし、久盛(蔵人助)の活動時期の守護は細川基之であり、「久」は守護家の通字として確定的ではなかった。あるいは後継者の頼久から偏諱を受けた可能性も否定できないが、不審が残る。これに対して久盛(左京亮)の時期の守護は細川政久であり、政久から偏諱を受けた蓋然性は高い。その一方、直前まで「久」の字を含まない細川基経が下守護であったことから、久盛の「久」の授与主体は持久に遡る可能性もある。
 他には多賀基永が細川基之から、篠元基信が細川基経から、横越基清が細川高基から偏諱を受けた可能性がある。
 また、和泉国人佐藤久信は下守護との積極的な関係は特に窺えない(上守護の小守護代として活動している)ものの、佐藤氏の通字は「信」であると目される(同族に佐藤光信や信吉がいる)ことから、久信の「久」は下守護細川政久に由来する可能性もある。国人でいうと、幕府奉公衆で鶴原庄の領主として最後であった佐竹基親は当初は晴元派上守護細川元常から偏諱を受けて常秋を名乗っていたが、その後高国派に鞍替えし基親を名乗る。こうした経緯から基親の「基」は下守護細川勝基からの偏諱であろう。

和泉下守護細川氏関係論文リスト(暫定版)

今谷明「和泉半国守護考」(『守護領国支配機構の研究』1986年、初出1978年)
岡田謙一「室町後期の和泉下守護細川民部大輔基経」(『日本歴史』566、1995年)
岡田謙一「統源院春臺常繁小考―和泉下守護細川氏法名を手がかりに―」(『ヒストリア』167、1999年)
岡田謙一「細川高国派の和泉守護について」(『ヒストリア』182、2002年)
小川信「世襲分国の確立と内衆の形成」(『足利一門守護発展史の研究』第一編第五章)
末柄豊「細川氏同族連合体制の解体と畿内領国化」(『中世の法と政治』1992年)
高木純一「和泉国上守護と下守護」(『史敏』15、2017年)
廣田浩治「文明の和泉国一揆と国人・惣国」(『南近畿の戦国時代』2017年)
藤田達生「戦国期守護支配の構造―和泉国細川氏―」(『日本中・近世移行期の地域構造』2000年)
森田恭二「和泉守護細川氏関連史料の基礎的考証」(『泉佐野市史研究』3、1997年)
森田恭二「和泉守護細川氏の系譜をめぐる諸問題」(『帝塚山学院大学人間文化学部研究年報』2、2000年)『大乗院寺社雑事記研究論集』2
森田恭二「和泉守護代替り関連史料の再検討」(『戦国期畿内の政治社会構造』、2006年)

*1:細川顕経については「細川民部少輔顕経」なる人物が確認できるようである。川口成人「細川顕氏・直俊・定禅・皇海―細川氏の繁栄を象徴する四兄弟」を参照。