志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『興福院所蔵鷹山家文書調査報告書』のススメ

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 4月上旬頃から『鷹山家文書調査報告書』というのはすごいらしいという噂が聞こえてきた。しかも聞くところによると、充実の内容にして2000円という安価!付属論文も錚々たるメンツが書いている。家にいてもやれることは多くはないし、自粛のお供と思って買ってみることにした。

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www.city.ikoma.lg.jp
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 そういうわけで購入してみたが…評判通りこりゃスゴイ。個人的にこうした自治体発行の報告書はそこまでチェックしているわけではないが、文書は一部の写真のみ、目録のみ、翻刻は抜粋のようなタイプの報告書と比べると、全文書の翻刻と写真が掲載されているのはそれだけで贅沢だ。文書の写真があるならいらないだろとも思える花押集まで人物ごとに整理してまとめて掲載しているし、鷹山氏に関係する他の文献史料までまとめている。墓に関する資料と考察まである。この1冊だけで鷹山氏研究が出来る、それくらいの高レベルさを感じる。
 本体である「鷹山家文書」自体も面白い。細川氏や遊佐長教が発給した書状が多く、また十河一存や篠原長房の文書もある。畿内戦国クラスタにとっては最近よく聞く名前を中心に密かなツボも抑えている、そういう文書集として成り立っている。検討対象になったことのない文書でも様々な背景が感じ取れる。その一つとして以下の文書を挙げたい。

  • 細川勝基書状(下25)

態令啓候、仍自河州以異見筋目不日及行候、然者此砌於御合力者、可為本□□(望候ヵ)、悉皆御馳走可頼入候、猶塩穴左京進可申候、恐々謹言、
   九月廿五日   勝基(花押)
    高山主殿助殿

 これは最後の和泉下守護細川勝基の発給と思しい書状である。岡田謙一「細川高国派の和泉守護について」によって勝基の存在は指摘され、岡田論文内では最後の動向が天文5年(1536)に比定されていた。岡田論文については手元に一部のコピーしかないので、この文書について触れているのかわからない(ただ論文中で勝基の被官として塩穴左京進を挙げているので、そのソースはこの文書ではないかと思われる)が、細川氏綱陣営(高国残党)が鷹山弘頼と接点を持ち始めるのが天文11年(1542)からであり、文書中に登場する「河州」が遊佐河内守長教であるならば、長教が河内守となるのは天文13年(1544)なのでこの文書はそれ以降の文書となる(鷹山弘頼は系図上永正13年(1516)生まれなので初見である天文5年(1536)以前に勝基と連絡を取っていたのは考えにくい)。すなわち、最後の下守護細川勝基の終見は岡田論文から大幅に下ることになる。具体的な年次比定は関係史料を今確認できないので後考に俟ちたいが、第2次細川氏綱の乱において遊佐長教が下守護再興を企図していたことを示す史料として評価が可能なのではないだろうか。和泉守護関係史料として意識の片隅に留めたい。

ci.nii.ac.jp

 他にも上2~上17の16通は鷹山氏関係国人から鷹山藤政に対して弘頼粛清を悼んだ悔やみ状が並んでおり、鷹山氏の勢力圏・交遊圏を窺うことが出来る(ここでしか出て来ない国人もいる)。これらに続く上18の畠山高政書状は遊佐太藤が激怒しているに関わらず、藤政の権益を認める内容となっており、配列から見ると弘頼粛清にも関わらず信望の厚い鷹山氏を潰すことは出来なかった…という意識の発露にも見える。
 次に収載論文についての感想をつらつら述べる。

 戦国時代の鷹山氏の通史といった論文。…正直あまり言うことがないレベルに鷹山氏の動向について、『調査報告書』の史料に基づいてまとめている。天野先生は足利義輝が絡まない限り実直な筆致なのでそこは安定感があるが、紙数の関係もあり突っ込んだ話には至っていない。天野先生の専門分野的には「三好・松永氏と鷹山氏」のようなタイトルの方が本領は発揮できたと思うので、こう言うのはアレだが鷹山氏の通史をお願いされたのは貧乏籤を引いた格好である。

  • 馬部隆弘「急成長する大和国境の在地勢力―若井出雲守の事例から―」

 タイトルだけだとわからないが中身は木沢長政権力論である。若井出雲守とは何者か?から木沢長政の実態に迫るのは、以前馬部先生自身が『戦国期細川権力の研究』を人物事典として使ってほしいとしていた指針の延長上ですね。その若井出雲守であるが、大和国若井の出身で木沢長政の配下となることで大和川流通から淀川流通へ進出したとされる。面白いのは若井は独立性もあり、主君長政とは別に独自に権益を拡大していた側面もあるが、若井が配下である限りその権益拡大は長政の利益にもなるので半独立的な動きも黙認されていたことで、このような配下が半独立的に勢力拡大しているが自身の利益になる限り黙認する姿勢細川晴元権力下における長政自身がそうであるし、他国の事例だが尾張の織田達勝と織田信秀の関係性に敷衍しても面白い事例かもしれない。もっとも長政は本願寺への取次に若井以外も用いており、若井を更迭しているのでリスクヘッジはしていたと言える(まあその長政自身も晴元に排除されるので、リスクヘッジされていたのであるが)。
 ただし本来主題になるべきはずだったと思われる当の鷹山弘頼のポスト木沢長政としての側面は展望に留まってしまい、どうポスト木沢長政なのかは今後の課題とも思われる。…まあ馬部先生のことだから来年の今頃には書かれてそうだが。ポスト木沢長政と言えばやはり三好宗三、遊佐長教、安見宗房らの名前が挙がりがちで、鷹山弘頼は影が薄いので、弘頼の権力とはどのようなものか?ポスト木沢長政として他者とはどう違うのか?まで含めて期待したい。

戦国期細川権力の研究

戦国期細川権力の研究

  • 小谷利明「鷹山家文書に見える河内守護畠山氏―鷹山弘頼を中心に―」

 従来遊佐長教は野心的な下剋上者な扱いが多かった印象があるが、この論文からは畠山稙長復帰後何とか細川晴元との協調を維持しようとする中間管理職的働きが印象に残る。例えば、この論文では「鷹山家文書」に入る某晴満書状の発給者を畠山弥九郎と推定している。実際、遊佐長教を取次に出来る「晴○」を実名に持つ人物と言えば消去法で弥九郎しかいないので妥当な比定なのではなかろうか。今後は皆さんも畠山晴満と呼びましょう。ってそうではなくて、この書状が出されたのは3月7日なのである。内容面からして天文11年(1542)である可能性も高い。しかし、8日には遊佐長教が木沢派を粛清し、9日には晴満は木沢方に出奔してしまう。まさにギリギリの日付と言えよう。晴満書状では遊佐長教に対し鷹山弘頼が協力することを賞しているので、晴満は遊佐長教を支持し反木沢党に付こうとしていたのだろう。勝手に遊佐長教の名前を出したという線もあるが、長教もギリギリまで晴満の擁立に拘っていたのではないだろうか。想像をたくましくすれば畠山稙長には息子がいないので、晴満を養子にするなど穏便な並立・和解方法はあったはずである。通説では長教は晴満を積極的に見捨てた匂いがあるが、調停の失敗により見捨てざるを得なかったという筋も想定できるのではなかろうか。一方で、それだけに畠山稙長の死後本格的に反晴元となる転換はもう少し説明が欲しかった部分である。
 なお小谷先生は木沢長政の乱における将軍足利義晴の主体性を主張しているようで、これは馬部先生の木沢長政論への牽制(?)なのかとも思うわけです(馬部説では木沢と将軍の繋がりを重視している)が、そのためか却って木沢長政の乱において長政が周辺勢力から一丸となってハメられた印象はむしろ強く残った(もちろん、先述のように復帰してくる畠山稙長と既存の畠山晴満の融和を幕府や遊佐が図っていることから「反木沢」以外の情勢は流動的ではあっただろうが)。

  • 新谷和之「鷹山弘頼と近江六角氏」

 昨年村井祐樹先生が『六角定頼』を上梓され六角氏こそ天下人と主張していたが、この論文はその主張を受けた最初のものではなかろうか。「鷹山家文書」に残る一通の進藤貞治・平井高好連署状から六角氏の江口の戦いにおける天下人としてのスタンスを探っている。『六角定頼』でも六角氏は間違いなく有力者であることが認識できたものの、畿内の戦争ではそこまでパッとしなくない?というのは疑問でもあった。しかし、この論文では天下人六角氏の方法として、その実力で敵対勢力を軍事的に打倒するのではなく、抑止力として紛争を調停するところに見出されたのは得心する気持ちである。
 この論文では六角氏の畿内への関与において進藤貞治の名前が印象に残る。進藤貞治については正直よくわかっていないので、また改めて認識を深めたい。
 …ただ一つ気になったのは件の連署状の年次比定。六角氏が鷹山弘頼とアポを取れるとしたら天文18年(1549)(江口の戦い)だろうとして論が進んでいったが、内容としては「和平について遊佐長教と連絡取ってるし、鷹山クンも筒井の説得頼むわ!」というものなので、江口の戦い直前と言うよりは前年の舎利寺の戦い直前に六角氏が和平の斡旋をしていた件と関連付ける方が整合的なのでは…。もっとも論文の主旨としてはそこまで影響はないけれども。


 というわけでどの論文も「えっ、調査報告書でこんな大事な言及してていいんですか?」という内容だった。これだけで通常の論集なら2000円の何倍かの値打ちがありますぜ。
 以下は、調査報告書から鷹山氏について思ったことを述べたい。
 気になったのは、文書の宛名に「鷹山藤政殿」「鷹山藤寿殿」というように、「藤」が入った名前が使われていることである。最近、丸島和洋先生が宛名に実名を用いる厚礼の書札礼が九州・中国を中心に存在することを明らかにしていた(CiNii 論文 -  敢えて実名を記す : 「二字書」という書札礼)が、これは恐らくそういう例ではない。墓や系図によると、鷹山氏の実名は「頼」を含む名が多い。調査報告書内では具体的な比定はされていないが、系図と文書における宛名を対応できる人物は次のようになると考えられる。

宛名 系図
春藤 頼秀
藤若 頼宗
藤政 頼貞

※なお、松永久秀や津田重兼から「鷹新」を宛名にする書状もあり、調査報告書では「鷹山新」と呼称されているが、彼は系図における「鷹山新八郎頼盛」(弘頼の次男)のことだろう。
※藤政=頼貞として、同時期に活動する藤逸と藤寿はどちらかが「鷹新」=鷹山頼盛と同一人物と思われるがよくわからない。藤逸や藤寿は永禄末~元亀にかけて三好(三人衆)方として活動しているが、現存の「鷹山家文書」に藤政宛、藤逸宛、藤寿宛の文書が一括されているため、藤政と対立関係にあったとしてもすぐそれが清算できる一族だったのではないか。

 このように歴代の鷹山氏には名前が2種類あったと思しい。調査報告書では「藤」が入るのが字で「頼」が入るのが諱かと推定していたが、そういったことを考える余地はあるだろう。筒井順慶は幼い時分に「藤勝」という署名を使っているが、これも同様に捉えられるかもしれないし、鷹山家文書内にも大和国人が「藤」を含む署名を用いているので、大和国人全体にこういう慣習が見出せる可能性もある(大和国人は基本的に興福寺門徒なので「藤」は藤原から採っているのかもしれない)。さすれば、謎の多い遊佐太藤(長教横死後守護代に擁立された人物)の出自もここらへんかもしれない(そうなると、弘頼が太藤擁立に反対したのは、大和方面で対立していた氏族関係者だったからか…と妄想は膨らんでいく)。
 また、墓碑には「頼」を含む名前が大徳や居士とセットで刻まれているのも気にかかる。実名をそのまま法名にする習慣自体は存在するが、この場合鷹山氏も筒井氏や古市氏ら一般的な大和国人のように「頼」を含む名は法名だった可能性もある。そうであれば、鷹山弘頼は「たかやま・ひろより」と読んでいたが実は「たかやま・こうらい」が正しい読みなのかもしれない。

 そういうわけで色々トピックが詰まっているので、興味があれば入手して損がないどころか明確にお得な1冊である。他の自治体の出版物もこれくらい充実するのがデフォになると今後うれしいですね。

PS 「興福院」はこれまで興福寺に倣って「こうふくいん」と呼んでたのが実は「こんぷいん」だそうです。何と!地味な難読名でした。