志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

亀田俊和・杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版)の感想

 戎光祥出版では『室町幕府将軍列伝』、『室町・戦国天皇列伝』と過去に列伝本が2冊上梓されていた(他にもマンガで読むシリーズで信長家臣列伝、徳川家臣列伝もある)。もっとも将軍や天皇であれば、過去にも似たような本はあった(近年では『室町幕府全将軍・管領列伝』なる一見すると上位互換本みたいなものもある)。将軍や天皇は日本史上メジャーな存在で、そもそもネームバリューがあり、これらを一定の基準で集成した本というのは発想としては特段珍しくはない。

 これに比べると、戎光祥出版からの列伝シリーズ第3弾が南北朝武将列伝なことは非凡な試みと言える。南北朝時代は近年人気や露出が上がっているものの日本史の中で大人気な時代ではない。一般知名度で言えば、後醍醐天皇足利尊氏楠木正成は一線級だろうが、天皇と将軍、一部の執事・管領クラス以外はほぼ絶望的ではなかろうか。しかし、こうした点に「列伝」であることのミソがあるとも言える。食玩のブラインド商法やガチャではないが、特定個人だけにフィーチャーしてしまうと人気差が現れてしまうが、ランダムあるいはいっしょくたにしてしまえば、とてもピンでは売り物にならないものを上手に混ぜることが出来る。南北朝時代は人気があるわけではないと書いたが、近年の動向としてこの時代を扱った書籍は少なくなく、「室町ブーム」の一端を支える需要は存在する。南北朝の武将を列伝形式で出すことには、この本が初心者向けにも中級者向けにも上級者向けにもなれるという強い意義付けがある。
 それを裏付けるように取り上げられる武将は50人以上に及ぶ。これまでの本でも名前はチラッと見たが、どのような人物なのかよく知らないという人物や、知っていたと思っていたが研究の成果により人物像が変わっていた人物などが目白押しであり、どのように読んでも新鮮な筆致が揃っている。感想ついでに紐解いていくことにしたい。

第一部 東国武将編

足利基氏―東国の安定に尽くした初代鎌倉公方(杉山一弥)

 初代鎌倉公方こと足利基氏。「初代」と言うと何らかのカリスマで地位を確立してこその「初代」といったイメージが強いが、基氏には幸か不幸かそのようなイメージに乏しい印象がある。鎌倉府の基礎を整えたのは父尊氏や兄義詮も役割が大きく基氏本人の主体性があまり見えて来ないからかもしれない。実際に本項の記述でも基氏は義詮のスペアとして鎌倉に派遣されたのが活動の最初であり、その後も関東執事上杉憲顕の要請によって15歳にも満たない元服前ながら花押を据えるなど、周囲の都合で動かされた感も強い。戦争においても実際に戦場に出たかは微妙だったりと、鎌倉公方として働いていた一方で政変や反乱著しい中の基氏の意志というものはあまり窺えないように感じた。
 しかし、これらを基氏の個性に返すのも酷かもしれない。現在では足利義詮は「仕事する将軍」を確立させたと評価されている。鎌倉幕府親王将軍は基本的にお飾りであり実際の政治は執権北条氏に一任していた。室町幕府もこの流れを継承しており、足利尊氏は弟の直義に政務をほぼ丸投げしていた。その後の観応の擾乱で尊氏は政治の主体性を回復していくが、これが戦時の臨時的なものである余地を残すものでもあった。しかし義詮は将軍親裁の傾向を強め、将軍を最終決定権を有するトップに位置付けた。
 では鎌倉府ではどうだったのか?という点は私もよく知らないが、基氏にも似たジレンマがあったのではなかろうか。トップである公方は政務を自分で行うべきなのか、部下たちに一任すべきなのか。基氏のある種の主体性のなさはこの悩みに由来するのかもしれない。そうであれば、基氏が鎌倉公方には珍しく京都の将軍義詮と対立しなかったのはトップとしての悩みを共有していたからという事情もあったのかもしれない。

高師冬―常陸攻略で活躍した関東執事(杉山一弥)

 東国武将編に唯一いる高一族が師冬である。関東執事として常陸攻略で活躍し、そのほかでも戦場働きが詳述されている。観応の擾乱の中で関東での尊氏派を結集すべく関東執事に再任するが敗死してしまった。筆致が淡々としていて師冬のキャラクターも特に見えない。また、基氏を初め、鎌倉府をその後形作っていく人物や関東武士との繋がりも大きなものはないように見受けられる。逆説的に関東における高一族の根は師冬の敗死を以て断たれたように見え切なさを覚えた。

畠山国清―伊豆に散った薩埵山体制の功労者(杉山一弥)

 鎌倉府において鎌倉公方関東管領上杉氏が主導する体制は当初からのものではなかった。観応の擾乱足利尊氏は基氏を入間川陣に在陣させ、畠山国清・宇都宮氏綱・河越直重らを鎌倉府中枢に据えた。旧直義派を排除したこの支配体制は「薩埵山体制」という学術用語で呼ばれる。畠山国清はこの「薩埵山体制」の盛衰を担っており、彼が没落することで「薩埵山体制」は大きく動揺しやがて崩壊した。
 ただし国清の没落は単純に鎌倉府の一体制如何という話でもないように思う。国清以降、畠山氏は関東で排除されるものの、室町幕府では管領家となる。またそもそも国清没落の原因は西国への関東武士派兵をごり押ししたからであり、その後関東の武士が西国へ遠征することはなくなる。鎌倉府と室町幕府という東西の政権の架け橋となっていたのが国清で、それを失ったがゆえに鎌倉府は独立性を強める方向に向かったと言えるのではなかろうか。であれば、国清の存在は日本の東西史を規定したことになる(実際には京極道誉が足利氏満を後見するなどその後も繋がりが断絶したわけではないが)。

上杉憲顕―上杉一族繁栄の礎を築いた重鎮(駒見敬祐)

 上杉氏という一族は室町幕府成立に伴って勢力が伸長した一族だが、他の室町の雄族とはちょっと毛色が違う。有力鎌倉武士の系譜を引くわけでも足利一門に属するわけでもないからだ。足利一門や有力鎌倉武士には「足利が偉いなら俺だって偉いし成り替われる」という思いがあったはずだ。だからこそ、初期の室町将軍は足利氏の貴種化を図る必要があった。
 それに比べると上杉氏は単に足利尊氏の母方の外戚であるにすぎず、足利が立たねば己も立たない位置にあった。上杉憲顕観応の擾乱の際、元服前の基氏に花押を据えさせる形で文書を発給させているが、かかる事態にあっても足利氏を戴くことでしか権力を揮えなかった。憲顕の手腕によって「薩埵山体制」が崩壊しその構成者たる有力者が多く没落するが、その結果生まれた関東管領上杉氏の体制は鎌倉公方足利氏をトップに定着させていく上では幸福な体制だったのではなかろうか。

岩松直国―尊氏と直義の間で揺れ動く新田一族(駒見敬祐)

 足利直義から偏諱を受け、上杉憲顕と姻戚関係を結び、観応の擾乱では直義方として活動し戦後没落、その後「薩埵山体制」の崩壊とともに復権し、室町岩松氏の基盤となる。お手本のような直義党の一生と見える。そうした中でも尊氏・師直方から懐柔を受けているのが、単なる陣営で色分けしきれない要素なのかもしれない。

河越直重―平一揆を束ねる武蔵武士の名門(駒見敬祐)

 河越氏と言えば源義経絡みで重頼が抹殺されたイメージだが、南北朝期でも直重が活躍しつつ、直重で以て関東有力武士としては終わってしまい、氏族として焦点化されにくいイメージがあった。こうした列伝でないとなかなかお目にかかれない武将ではあったろう。個人的にはオチ付バサラ逸話がやっぱり受けますね。本書で紹介される武将は没落しても何だかんだ主流ではなにしろ、一定の家格で家を繋いでるのが、河越氏の場合そういうものがないのも物悲しい。何がダメだったのか。

足利氏満―鎌倉府の勢力拡大に成功した二代公方(石橋一展)

 足利基氏の項目では「こいつ個性足りてないんちゃう?」的に感想を述べたが、息子の氏満になると個性と事績がはっきりと見えてくる。もちろん単純に氏満は活動期間が長かったこともあるが、「仕事する公方」を決定づけたのは氏満であるとの評価も可能だろう。…基氏でも思ったけど、室町将軍と鎌倉公方って仲が良いとは限らない割に同時期の人は性格も組織史の中での役割も似てるのではないだろうか。あまり同時代公方比較みたいな試みも聞かないが、やっとみると面白いのでは?

宇都宮氏綱―初期の鎌倉府を支えた「薩埵山体制」の柱石(石橋一展)

 「薩埵山体制」の人はどうしても没落エンドになってしまうのだが、3人とも腹心っぽい部下が殺されて(滅ぼされて)本人がその後生存していても政治的に死亡してしまったり、氏綱も紀伊で客死しているなど東西の政権を繋ぐことの出来る人間であることを示唆されているようにも見える。氏綱は他の2人とは違い再起をかけてその後も頑張ったのが余計に郷愁を感じる。

小山義政―鎌倉府と対峙し続けた不屈の闘将(石橋一展)

 ちょっとした所領問題から反乱を起こしたら引っ込みがつかなくなって本人も亡くなったのに長期戦乱に火がついてしまった…。本項における小山義政のキャラクターはこんなところだろうか。ぶっちゃけ鎌倉府に反抗し続ける必要あった?と思ってしまうが、まあそこが武士の譲れない一線なのだろう。義政の鎌倉府へ逆らう意欲はかなりあるのに、足利氏の連枝と協力するとか、南朝と結ぶとかそういうこともなかったのも特異で、本当に身一つで反抗しているのも見所である。

吉良貞義・満義・貞家―尊氏に蹶起を促した一門の長老(谷口雄太)

 吉良一族が観応の擾乱で尊氏・師直方だったのか、直義方だったのか、『太平記』の諸本によって異同があることが指摘されており、吉良氏の位置把握の難しさと『太平記』の史料としての信頼性について実感することになった(国文学研究的には単なるミスなのか、新しい解釈が可能なのかドキドキはしますね)。

小笠原貞宗・政長・長基―内乱に翻弄された信濃守護家(花岡康隆)

 奇しくも最近某漫画で目力がすごいという造形をされている人物ドンピシャ。小笠原氏と言えば信濃守護のイメージがあるが、まさに小笠原氏が信濃守護職を得た時代が南北朝時代であり、その中での結実と限界が同時に味わえる。信濃は関東から見ると周縁に位置しており、この国をめぐる争いは一元的には捉えられないと実感した。また、後の小笠原流故実貞宗は直接関係がないとする点も興味深い。

桃井直常―一貫して忠誠を尽くした熱烈な直義党(亀田俊和

 桃井直常と言うと、これまた大河ドラマ太平記」のイメージで不屈不遜の直義党という印象が強い。その一方で、直義以前はどのような境遇だったのか、直義の死後どのように動いたのかといった点はあまり意識していなかった。直常は足利一門でも低位に属しており南北朝の動乱を機に急成長を遂げた。また、直義死後も幕府とは融和の時期もありつつ基本的には敵対し続けたという。こうした点からは直常は非常にエネルギッシュな武将に思える。単に反師直と言うだけではなく、自身の能力を評価してくれた直義にも恩義めいたものがあったのではないか。最期は不詳だが、墓の候補地が7つもあるのも興味深い。桃井氏自体は幕臣として続いており、直常の戦いが単なる徒花ではなかったと捉えられるのも面白い。足利直義観応の擾乱をメインにすると直常は付随物になってしまうが、こうした列伝で立項されるとそうではないことが窺えまさしく醍醐味である。

土岐頼遠―猛将のたった一度の過ち(木下聡)

 土岐頼遠と言えば、光厳院の行列と出くわした際に道を譲らず、それどころか「院か犬か、犬であれば射てやろう」と言って光厳院の車に矢を射かけたことで知られる。当然頼遠はその後処刑されるのだが、「バサラ大名」の横暴ぶりを如実に表す逸話として著名である。…が、土岐頼遠に関して言えばこの逸話ばかりが独り歩きしすぎているのではなかろうか。実際頼遠とは何者だったのか、全く知らないのだがこの逸話だけでもって評価できる人物なのか。漠然とそう思って来たので、本項はいよいよ渡りに船であった。
 土岐頼遠北朝方として活躍し、美濃守護となった。東国へ続く越前や尾張は足利一門が守護分国としており、足利一門ではない土岐氏に美濃が与えられたことは、頼遠の評価がかなり高かったことを示している。そして頼遠は上の事件を起こし処刑されることになるが、罰せられたのは頼遠一人で土岐氏としての権益は冒されなかった。処刑前に出頭した頼遠は死を覚悟していたものと見られ(この自分の死を引き換えに共同体を守る行為はアテルイとか平忠常っぽい)、「バサラ大名」らしい不遜さは感じられない。だからと言って光厳院への態度や行為が許されるわけでもないが、単純に粗暴な人物ではなかった。それが確かめられたのが良かった。

土岐頼康―美濃・尾張・伊勢を押さえる東海の雄(木下聡)

 土岐頼康もイメージがなかったが、本項で持った印象としては東の細川になり損ねた人物であり、氏族かなと。畿内に近すぎず遠すぎない地域に勢力を蓄え、重鎮である惣領を中心に統率される有力一門…頼康の段階ではきちんとまとまってるのがまた惜しい。美濃・尾張・伊勢を全部抑えるなんて織田信長の大先輩なわけでもっと幕政に影響力を発揮していればあるいは違った幕府があったのかもしれない。

第二部 西国武将編

足利尊氏室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者(亀田俊和

 本項を記述する亀田俊和氏は近年の初期室町幕府研究をリードしている学者である。高師直足利直義の評伝も書かれており、『観応の擾乱』(中公新書)でも足利尊氏のキャラクターについてはかなり触れられていた。なぜいきなり著者紹介をしているのかと言うと、本項は「筆者は~と考えている」など、著者の思いを滲ませる表現が頻出する(他の亀田氏担当部分でもこの表現はあるが、たぶん本項がダントツで多いように感じる)。後醍醐天皇愛を基軸にした行動解釈については、懐良親王との対決の心情推測など「流石に行きすぎじゃあ?」とも思うが、個人的には著者の強い思い入れに裏打ちされた文章は迫力があって嫌いではない。足利尊氏の評伝は豊富にあるので、著者の個性が見える方が差別化という観点からも「面白い」ものに仕上がっている。最後に尊氏の歯というトリビアルな知識で締めるのも新しいものを読んでいる気持ちになる。

足利直義―兄との対決に惑う幕府軍総司令官(田中誠

 従来初期室町幕府の権限分割は将軍である兄尊氏が軍事面を、弟直義が行政面を担当していたとされてきた。ところが、近年では尊氏は守護補任や恩賞といった将軍という公職に不可分な権限以外は軍事・行政ともに直義に丸投げしていたと指摘されている。初期幕府に占める足利直義の役割の大きさが再評価される一方で、軍事面も担当していた直義のその才幹については未だ十分に触れられていない。その問題に切り込んだのが本項ということになる。
 直義には確かに敗戦もあるが、その一方で直義自身の奮戦によって勝利を挙げた戦いもあった。また、『観応の擾乱』では兄尊氏との対決に際して消極性が指摘されていたものも再評価されている。もっとも観応の擾乱パートでも基本的に兄尊氏とは戦いたくないという思いが指摘され、それが最終的に恩賞を付与する決断(尊氏とは別個の恩賞体系への意志)の遅さに繋がったという理路は共通している。最終的に尊氏と戦う意志を固めたがもはや遅すぎ、そこからは何も生まれなかった。行政や軍事にも能力があったからこそその悲劇性は光るものとなっている。

足利直冬―必然ではなかった父尊氏との対決(花田卓司)

 足利直冬は尊氏の実子であるが、従来尊氏は直冬を冷遇し、それもあって直冬も尊氏に反発、二人は実の親子でありながら不倶戴天の戦いを続けたとされてきた。これを再考するのが本項であり、尊氏・直冬の親子対立はかなり違った描き方になっている。直冬は有力足利一門として遇されており、冷遇されているわけではなかった。尊氏との対立も不可避ではなく、直冬が九州や中国にいたことから遠隔のため十分な意思疎通が出来なかった結果であった。それもあって直冬自身には尊氏と戦う意欲は薄く、これが直接の原因となって直冬は没落した。直義も尊氏とは戦いたくなかったが、直冬も尊氏とは戦いたくなかった(尊氏どんだけ愛されてるんだ)。
 かつて大河ドラマ太平記」では尊氏と直冬の諍いが「親の心、子知らず」「子の心、親知らず」といったお互いに愛しつつもその真意を理解しきれないものとしてドラマに昇華された。あれはドラマであったが、実際のところもそこまで離れていなかったのかもしれない。直冬は没落し権力体として死亡しながらも以後40年生きたともされる。その間どのような感情が去来していたのか、非常に興味深いところでもある。

足利義詮―幕府を軌道に乗せた二代将軍(田中誠

 足利基氏の項で義詮の評価についてちょっと書いたが、本項は義詮の軍事面についての記述に大きく偏っている。とは言え義詮の評伝も少なからずすでに出ており、本書では趣を変えて…ということであろう。「武将列伝」なので武将としての評価を行ってこそとも言える。従来義詮は戦下手とされていたが、本項ではこれを再考し、義詮が度重なる戦争の中で軍事的才覚を徐々に体得していったことを評価している。それにしてもこうした再評価は直義の項目でも行われていたもので、何となくだが「戦下手」というのは絶対的な評価と言うよりも比較対象である足利尊氏が戦に関しては上手すぎるがゆえの評価だったのではとも思ってしまう。

高師直―権勢無双を極めた初代幕府執事(山田敏恭)

 他の人物は軍事面を中心にしつつも一生涯を追う記述になっているのが、師直については戦争での活躍と幕府内での役割についてトピック的に書かれる構成になっている。恩賞問題について過大な要求をする武士、気前の良い尊氏に挟まれつつ所領問題に意欲を欠く師直が敵視される。英雄と言うより中間管理職の悲哀ですね。

高師泰―兄師直に劣らぬ軍事的才覚(山田敏恭)

 高師泰高師直、どちらが兄なのかは確定的ではないが、本項では師直が兄派。提示された論拠も説得的なので師直が兄の方に分がありそうとは思った(弟なのに立場は兄より上な師直というキャラ付けも嫌いではなかったが…)。
 …どうも記述が淡々としすぎていて師泰が師直に並んで敵視され殺害された独自の理由とかないんですか?って感じが…。

石橋和義―栄光と挫折を一身に味わった一門の名門(谷口雄太)

 中国地方を中心に活躍し、観応の擾乱でも生き延びて幕閣の首脳となってGOOD END…かと思いきや突如失脚しこれまでほとんど縁がなかった東北に移って細々活動して終わる。転落人生が劇的すぎるでしょ。ここらの転落の構図はもうちょい話を聞きたかった。

斯波高経・義将―室町幕府重職・三管領家筆頭への道(谷口雄太)

 斯波氏は足利一門の中でも特に格が高く…というか本項の高経も義将も彼らが実際に名乗った名字は足利であり、有力分家ではなく本家の一翼を担う存在であった。本項で記される言動からも高経の自意識の高さが如実に窺われ、逆に高経が死去し義将が幕府に帰順したことで嫡流争いというものが終わったように見える。幕府初期の足利氏を相対化する存在としての斯波氏が高経に体現されているように思えた。

六角氏頼―近江守護の礎を築いた佐々木氏惣領(新谷和之)

 佐々木源氏の嫡流なのに道誉とかいう傑物のせいで南北朝期には影が薄げな六角氏。実際、本項を読んでも六角氏頼は地味にずっと仕事はしていた人物という印象を持つ。しかし、政争の主役になることなく、堅実に動いて地位を保ったのは南北朝期にあっては逆にすごいのではなかろうか。

京極道誉―尊氏・義詮の信任厚い〝バサラ大名〟(新谷和之)

 陣内孝則の笑い声が脳内再生されそうな武将ナンバーワンの地位をたぶん占めている。今回の列伝で既存の有名武将では一番評価が気になった人物かもしれない。とにかくイメージとしてクセが強いので、そのイメージ通りなら物足りないし、逆にイメージと違って実はいいやつのように書かれると「本当か?逆張りじゃないの?」とも思ってしまう。結局本項での道誉の評価とは…「権勢を奮う者の専横に対する不満をすくい上げ、行動に移した点は評価すべき」(282頁)。上手いこと書くじゃないか(笑)。政変に関わるのは一種のガス抜きであり、将軍からの信任と独特のバランス感覚で幕府を潰さないようにしていたと。暗躍するけどそれは幕府と将軍のため。これが最新の道誉観か。得心。

仁木頼章―尊氏を補佐し責務を全うした執事(亀田俊和

 どうにも貧乏籤なイメージのある、初期幕府の重鎮が仁木頼章である。観応の擾乱の後始末を一身に担い、その見返りは伊賀一国くらいしかなかった。もともと似たような立場の高一族や桃井氏と比べると世襲守護分国を一国でも確保できたのは救いだろうか。しかしながら、どうにもキャラが濃いこの武将列伝の中にあっては頼章のような仕事人がいるのが一種の清涼剤のように感じられる。

仁木義長―〝勇士〟と称えられた歴戦の猛将(亀田俊和

 仁木義長と言っても仁木兄弟のように兄頼章と並べられる記述もあったせいか、義長個人にはイメージは全くなかった。それが急速に色付いて行くのが本項であった。一言で言えば「やべーやつ」である。軍事に優れていたが、ある時からは一線には出なくなり、その割に過大な恩賞要求を行うなど傍若無人さによって諸大名と軋轢を引き起こす。足利尊氏に忠義を尽くしたり、戦争で強いのは評価できるが、もはや自分では命を賭けて戦わくなったのは武士としてどうなんだと思わせる。北朝で傍若無人と言うと「バサラ大名」なる言葉もあるが、義長はもっと純粋に危ういように見える。しかし、考えてみればこうした人間がいるのはおかしくない、むしろ自然なことでこうした人物を発掘できたことに列伝たる真骨頂がある。
 ところで実直な兄と暴れん坊な弟の組み合わせってたまに見るけど、何かのパターンなんですかね。

細川和氏・頼春―管領・守護家につながる細川氏嫡流(川口成人)

 南北朝の武将というと、地位をのしあがったり、逆に失脚、没落したり、南朝北朝、尊氏、直義と陣営移動を繰り返したり波のある人生を送った武将が多い。そうした中で和氏・頼春兄弟は波があまりないと言うか、本項も「管領・守護家につながる細川氏嫡流」が副題になっているが、南北朝から室町への細川氏隆盛の流れを受け継ぎ、自分も乗り、後世に繋いだといった印象を持った。

細川顕氏・直俊・定禅・皇海―細川氏の繁栄を象徴する四兄弟(川口成人)

 細川顕氏といえば大河ドラマ太平記」では森次晃嗣氏が演じられていた。つまりはウルトラセブン!…じゃなくてドラマでは直義党のキャラ付けのためか実直な印象で戦争は不得手であるかのような描き方だった。しかも尊氏の人格に魅せられてではあるが、ドラマの途中で直義から尊氏に離反する。客観的にカッコいいとは言い難い。
 本項における顕氏は軍事のベテランであることへのアピールはもちろんだが、観応の擾乱前後の離反劇は反師直で説明できるのではと思った。勢力や性向の不一致と言うより、単に師直個人が気に食わなかっただけと考えれば、師直滅亡後尊氏に従うようになったことに説明がつくのではないだろうか。であれば、「機を見るに敏」といった評価は本人的にむしろ不本意だったかもしれない。
 なお項目としては直俊・定禅・皇海と兄弟仲良く並んではいるが、彼らの活動は実のところはよくわからないようで、顕氏+α的記述に留まっている。定禅・皇海に至っては僧体がデフォのようで、定禅は六条八幡宮別当に補任されたこともある。僧体の武人への恩賞が僧侶としての地位というのはなかなか意識しないところだったので興味深い。
 また、顕氏の系統を継ぐ奥州家について手短にまとまっているのもやさしい。細川顕経は…実在する…。

細川清氏―初期幕府屈指の叩き上げの武闘派(亀田俊和

 清氏も名前は聞くけど、個人的に実際どうなのかよくわかっていなかった武将の一人である。本項では清氏のいかにもな武将らしさを克明に描き出している。戦場に出たらほぼ必ず負傷しているのはすごいですね。武闘派ではあるが身を削っているのが仁木義長との違いだろうか。執事となるも強引な行いに反発が集まり没落、敗死の最期を迎えてしまうが、宝蔵の扉を破壊した一件や戦時で先例通り行えなかった事象が非難されているのは流石に分が悪い。

細川頼之―義満を支え細川氏繁栄の礎を築いた管領(川口成人)

 改めて見ると権限も実際にやらないといけないことも多いな!となった本項。幕閣からの失脚は本人としては不本意だったかもしれないが、現代的目線で見ると仕事やそれに伴う責任がぐっと減って肉体面も精神面もほっとしたかもしれない。

赤松円心・則祐―室町幕府樹立最大の功労者(花田卓司)

 足利一門でも鎌倉幕府の有力武士でもなく、護良親王に従って成り上がり、その後は幕府草創に関与し、しかし南朝に離反したこともある経歴が最終的に未来の将軍を養育する立場になる。赤松とは実にわからんやつよ、全く。

山名時氏・師義―大勢力を築いた中国地方の重鎮(伊藤大貴)

 本書では一項目で複数人(だいたい兄弟や親子だが)を記述するものもある。その中で高い完成度を誇るのが本項で、単に親子二代を語るというものではなく、親子のコンビの活動がアピールされ、時氏没後間もなく師義も没したことが後の山名一族の命運を左右したことに得心が行く構成になっていた。
 また、初期の時氏の補佐役として弟兼義が存在したことが短いながらも印象に残る。こういう地味ながら兄と一心同体の弟は気になる存在だ。

武田信武―尊氏に忠義を尽くした武田家中興の祖(花田卓司)

 武田氏と言えば甲斐のイメージが強そうだが、本書では西国分類されている。信武は「関東」に遠征していたのであり基盤は西国(安芸)にあった。後に甲斐守護職を得るが現地に赴任したことはない。安芸武田氏や若狭武田氏は一般知名度が低いが、西国の信武が中興の祖扱いされることでイメージ変転に繋がると良いなと思わせる武将チョイス&配置。

大内義弘―幕府体制の安定化に貢献した西国の雄(松井直人)

 大内氏が面白い大名なのは知っているので、本項で新鮮に思ったのは応永の乱への評価。義弘が構想した応永の乱は大規模なものであったが、それが結実せず短期的に鎮圧されたことで、幕府への武力反乱は起こらなくなったという。そして約40年後には他の大名ともども将軍を殺害する事件が起こってしまう。こういう反乱・政争も意識づけに心情の系譜のようなものがありそうだ。永禄の変を考えるヒントになるかもしれない。

一色範氏・直氏―九州統治を担った鎮西管領(小澤尚平)

 「鎮西管領」一色氏の九州支配は結局挫折・撤退を余儀なくされたことで影が薄いが、足利尊氏支持を鮮明にし続けたため、一色氏の地位自体はその後の幕府に確保された。頑張りというか、この場合は忠義になると思うが、それがきちんと評価されたのは戦乱の中ある種の救いのようにも思える。

少弐頼尚・冬資―征西府と対峙する九州北部幕府方の中心(小澤尚平)

 北朝南朝に分裂した少弐氏だったが、北朝方の少弐冬資が粛清されることで南朝方の少弐氏が北朝に帰順し少弐氏が統一される。もうちょい込み入った話があるのだろうが、素直にはいと言えない流れだ…。

今川了俊―強硬姿勢で九州制圧を進めた鎮西探題(新名一仁)

 今川了俊と言えば、幕府の命によって九州を平定するも、平定した途端「じゃあもう君はいらないね」されて任を解かれ「何でやねん!」された武将という印象ですが…普通に了俊の九州経営って行き詰ってたんですね。守護ではなく将軍の分身たる探題に従え、その一方探題は守護職も兼務するとか、現場に責任丸投げなど、こうしたアクの強さが一時の成功の要因なのだろうが、絶対に上司には欲しくはない人物だ。

畠山直顕―国大将と守護をつとめた日向攻略の責任者(新名一仁)

 畠山直顕…?やべーぞ、知らない名前だ。九州で畠山が有力者としていたとは意識したことがなかった。日向守護として活躍するもやがて懐良親王に敗れ没落かー、越中に移った奉公衆畠山日向守家が子孫の可能性アリ?ああ!畠山日向守家!そうか!日向守の受領はこの人が日向で活躍したことに由来する(可能性がある)のか!なるほど!妙に繋がって興奮したけど、一般的には畠山日向守家の方がマイナーじゃねえかな?

島津貞久・氏久―三ヶ国守護を保持する南九州の重鎮(新名一仁)

 日本史における島津のポジションというのは特異というか、中央に従ってなくても結局中央もその支配を認めざるを得なくなっているというイメージがある。「俺は俺」を中央からの同調圧力に認めさせる胆力があるというか。本項でもそんな島津のイメージが十二分に展開されていて読み応えがある。

今後の「列伝」への期待

 これだけは言わせてほしい。流石に全員何かしら感想書くのは疲れるわ~~~!!!!!じゃあ書くなよ。一言感想みたいに終わっている武将は前提知識のなさを実感しますね…。
 以下、全体を見た感想

  • 南朝編だとだいたい北朝と戦っていたという軸が明確なのが、北朝編だと南朝との戦いで軍功をあげた人間も多い一方、北朝内部での政争・紛争の方が印象に残る。
  • 非足利一族の武将に対して「足利一族じゃないけど足利一門並の権限を与えてやろう」という叙述がちらほら。足利一門権威化の流れが追えそう。
  • 南北朝武将列伝なので、南北朝後はあまり触れられないが、「でもこの氏族、この人の後に足利義満にボコられるんだよな」という郷愁がある(「薩埵山体制」の3人や大内義弘みたいにボコられパート付の人もいるが)。
  • 氏族の来歴や場合によっては子孫にも触れてくれるのは氏族の流れへの理解がしやすくてありがたい。
  • 東西に分割したことで戦国脳から見ると、この名字がこっちなのかということ自体が刺激になる。
  • 書くところがないのでここに書くけど、かつて足利尊氏像とされ、その後高一族の誰かとされ再度尊氏説も出されている「騎馬武者像」を表紙に使っているのは「北朝武将」のイメージ集合体として面白いし適任だったと思う。「皆さんよく知る逆賊と言えばコレ!」みたいな。

 はじめにも触れたが、今回の列伝は過去出されていた列伝とは大きく次元を異にする。室町将軍や天皇といった地位にネームバリューがそもそも存在する人物ではなく、「時代」をテーマに50人以上の人物の伝記を集めている。これによって単体では伝記の立項が難しいであろう人物たちの幅広い集成が可能となった。これは一種の発明であり、南北朝時代に限らず様々な時代・地域・地位について同様の取り組みが出来る可能性が開けたということだ。そういうわけで今後どのような列伝が繰り出されていくのか、かなり期待している。
 その一方で列伝であるために1人1人の紙数が限定されるという問題もある。まあこれは仕方ないのだが、事績の羅列だけで終わってしまうような事例もあり、そうなるとどのような武将だったのかが見えにくくなることもある。単に武将をキャラクターとして消費する、ということではなく、ここでなぜそう動いたのか(動かなかったのか)の一端が見えてこそ、時代や人物が見えるとも思っている。そういう面を読者に実感させられるような文章が書けたら良い…と自分でも思っているのだが…。
 そうした点での気付きとしては以下のようなことを指針に立てたいと思った。

  • 事実の羅列だけではなく、どのように判断したのかの方向性の一端を示す。
  • 文化面などは適宜触れるより末尾でまとめた方が印象に残りやすいこともある。
  • 氏族や政権といった大きな歴史の流れの中でのその人物や行動の位置を忘れないようにする。

 この指針通りに書けたら苦労はないという予防線を張って終わりにしておく。