志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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柳本元俊は柳本賢治の息子か

 柳本賢治という人物をご存知だろうか。戦国武将の中では大して有名というわけではないし、一般知名度は絶望的であろうが、畿内戦国史を少し齧っていればどこかで名前くらいは見たことがあるはずである。柳本賢治細川高国政権の消長に深く関わっている人物であり、兄である波多野元清とともに賢治が高国から離反することが、高国滅亡のトリガーであったのである。ただし、離反後の賢治の動向はこれに乗じて渡海し高国を打倒することになる細川晴元やその配下の三好元長に収斂されてしまい、歴史叙述の中では埋没しがちであった。
 そうしたところ、近年馬部隆弘氏が三好権力の萌芽を細川権力に求める研究に励まれたことにより、柳本賢治は注目を浴びることになった。細川晴元・高国双方が在京できない中、賢治が独自に京都支配体制を構築していたことが明らかになったのである。しかし、馬部氏の研究は賢治、そして後継者の甚次郎が戦死するまでを視野に入れたものであるので、その後の柳本氏の動静は明らかではない。
 固より本記事はその後の柳本氏がいかに振舞ったかを明らかにするものではないが、細川晴元期には柳本孫七郎元俊なる人物の活動が見られる。賢治と元俊の関係性くらいは明確になるべきだろうと考え、小文を認める次第である。

一 柳本賢治の後継者

 柳本賢治の死後、その地位を継いだのが甚次郎であるが、甚次郎は賢治の息子というわけではない。

  • 『二水記』享禄5年1月22日条

当柳本神二郎者弾正息〈四五歳歟〉代也、十九才云々、

※「弾正」…柳本弾正忠賢治
 このように甚次郎は4~5歳とされる賢治遺児の名代であり、賢治の子ではない。発給文書を見ても「甚次郎」と署名しており、諱がない若年であったことも想像し得る。19歳というのも妥当であろう。また、甚次郎は取次文言に「委細修理介方可申候」(「東寺百合文書」イ函180号、以下リンク)と、被官である柳本修理亮春重の行為に敬語を用いている。甚次郎が当主であれば、部下の行為に敬語を付すことはないので、名代である証左と言える。

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 柳本甚次郎は賢治の地位を継承しており、山城守護代として行政を担当する三好元長から見れば、自身の公的な地位を阻害する存在でしかなかった。享禄5年(1532)1月元長は独自の判断で甚次郎を攻め滅ぼし、柳本氏による京都支配を清算することに成功する。しかし、これは主君である細川晴元の意志に背くものであった。晴元は激怒し、元長は出家することで許しを乞うが、元長が再び独断で晴元の寵臣・木沢長政を攻撃すると、晴元は一向一揆を駆使して元長を滅亡に追い込む。享禄・天文の錯乱の始まりであった。
 畿内は断続的に争乱が吹き荒れることになるが、柳本氏は当主を相次いで失ったからか、主役として言及されることはなくなる。このような中の天文2年(1533)11月細川晴元の奉行人茨木長隆は以下の奉書を発給した。

  • 茨木長隆奉書 東寺百合文書

柳本虎満丸申、城州三宝院御門跡領仏名院分六条佐女牛朱雀七条散在地等代官職事、被仰付数年当知行処、木村宗俊・松証方々及違乱云々、以下次第也、所詮任百姓等申旨、一切不可有殊意由候也、仍執達如件、
  天文弐
   十一月十四日      長隆(花押)
    東寺雑掌

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 この奉書において、京都の所領を「数年当知行」してきたことを主張する柳本虎満丸が賢治の遺児ではないかと推察される。しかし、虎満丸の名が見えるのは、管見の限りこの文書のみであり、馬部隆弘氏の言及もここまでである。虎満丸はどこへ行ったのだろうか。そして、柳本孫七郎元俊が登場するのである。

二 柳本元俊の登場とその位置

 管見の限り、柳本孫七郎元俊の発給文書は以下の文書が初見である。

  • 柳本元俊書状案 法金剛院文書

為寺領之事、為廿五ヶ所之内、雖被成下御下知候、条々子細被仰付候間、如返遣之候、御知行不可有相違候、恐々謹言、
  天文六     柳本孫七郎
   六月十九日      元俊
  住持殊慶御房
    御同宿中

 柳本元俊は法金剛院の寺領について、「仰付」に基づいて知行を返付の上、保障している。元俊が権門寺院の利権に浸食する可能性があり、その憂いを払うことが可能な実力者であることがわかる。
 そして、翌天文7年(1538)には元俊周辺の人物が明らかになってくる。

松崎内八段田五段之儀、号山田作職分違乱雖申候、御寺領無紛上者、堅申付止競望候、然上者如先々全可有御寺納候也、恐々謹言、
          柳本孫七郎
   十月三日       元俊(花押)
   徳禅寺
     納所禅師

急度申付候、仍其方八段田年貢米之儀、雖違乱申候、御寺領無紛之由、依被仰分、柳本御寺へ折紙進之候、然上者、如先々早可令御寺納候者也、謹言、
          内海伊賀守
   十月三日       久次(花押)
   当地
    百姓中

徳禅寺領松崎之八段田五段内弐段之儀、号山田分雖申事在之、一職御進退之由候、殊弾正忠殿御折紙在之上者、如先々無相違可有御寺納候也、仍状如件、
  天文七      山本
   十月三日     孫六(花押)
    納所禅師

 柳本元俊書状と内海久次書状は無年号であるが、同じ日付で内容が対応する山本孫六書下が天文7年(1538)発給であることが明らかであるので、両文書も天文7年に比定できる。柳本元俊が徳禅寺に寺領収入を保障し、内海久次が現地の百姓に年貢を徳禅寺に納めるよう通達している。内海久次が「柳本折紙」の存在を前提とするように、元俊と内海久次は極めて近しい立場にある。それでは内海久次とは何者か。
 久次が名乗る「内海伊賀守」という通称を聞けば、だいたいの人間はピンと来ると思われる。柳本賢治の腹心として活躍した内海伊賀守久長である。
 そこで内海久長と内海久次の発給文書から花押を比較すると、両者の花押は一致する(以下参照)。すなわち、久次と久長は同一人物である。
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp
clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

 柳本賢治、甚次郎の二代に仕えた内海久次(久長)を継承している以上、元俊も賢治、甚次郎の跡を襲っていることは間違いない。さらに「大徳寺文書」には元俊が内海久次へ出した書状も残されているが、内容としては元俊が軍事費用のために、久次に大徳寺への借財交渉を依頼するものである。柳本元俊が天文7年(1538)段階で柳本氏の当主であったことは明らかと言えよう。

追記:『親俊日記』天文8年閏6月13日条では「柳本孫七郎」が三宅国村、芥川豊後守らとともに細川晴元の軍事活動に従事している。

三 柳本元俊は賢治の子なのか

 前節では柳本元俊が天文7年(1538)には間違いなく柳本氏の当主であったことを確認した。それでは元俊は虎満丸が成人した姿なのであろうか。そう見なすには多少の疑問点がある。
 一つには元俊が実名を帯び、花押も備えていることである。前述した『二水記』によると、享禄5年(1532)段階で虎満丸は4~5歳である。仮に5歳であったとしても、天文7年(1538)ではまだ11歳で、当主として振舞うには幼い。もっとも天文6年(1537)の「法金剛院文書」には花押がないため、この頃には加判能力がなく、10歳~11歳に花押を備えたとするならば、やや早熟ではあるが、不自然というほどのものではない。「元俊」の「元」は細川晴元からの偏諱であろうが、細川京兆家重臣柳本氏を早急に建て直す上で、早々と実名を帯びるのもあり得ないことではないだろう。
 また、柳本氏の確認できる始祖は長治であるが、長治から長治息(実名不明)、賢治と仮名は常に「又次郎」であり、実名は「治」を通字にしていたと推測される。その点で言うと、「孫七郎元俊」は「又次郎○治」という柳本氏にあり得べき名からは距離がある。もちろん、突然代々の通称を変更することはないわけではないが、賢治の子と言うにはやや不審ではある。
 さらにややこしいのは「柳本又二郎」がこの後登場することである。『言継卿記』天文14年(1545)5月24日条によると、宇治田原へ出陣する細川晴元軍に「柳本又二郎 三百」が記されている。長治、長治息、賢治と襲名された「又次郎」を名乗るこの人物こそが虎満丸の後身としてふさわしい存在であるのは間違いない。ところが、この又次郎はその後出現することがない。
 そして、謎の又次郎を余所に孫七郎元俊は天文17年(1548)の足利義輝の細川邸御成において年行事を務めるなど、細川被官として一定の地位を確認できる。細川晴元三好長慶に地位を追われると、晴元は三好が支配する京都へ復帰戦を試みることになり、晴元残党として元俊の活動が確認できるようになる。この頃には『言継卿記』に記される「柳本」も元俊を指している。
 孫七郎元俊の活動が一貫して確認できる以上、天文14年(1545)にのみ柳本又次郎という正嫡が出現するのは不審が多い。柳本氏の当主が孫七郎であることを知らなかった山科言継が当主と言えば又次郎であろうと勝手に思い込んだ誤記と考えられるが、確証には欠く。しかし、虎満丸=孫七郎元俊である可能性は高く、その上でなぜ「又次郎○治」ではないのかということが問われるべきである。根拠は全くないが、実名が不明な柳本甚次郎が「元治」を名乗っていたかその予定があったため、元俊は「元治」を避けたのかもしれない。
 なお、元俊の末路であるが、永禄以降も晴元残党の活動は続き、その中に見える「柳本」が元俊であると考えられる。ところが、永禄5年(1562)には柳本勘十郎秀俊が禁制を出す(「大徳寺文書」)。柳本氏は何度か戦死が噂されており、正確に特定できないが、元俊とは別人である秀俊が柳本氏の当主として振舞う以上、元俊が死去したことは間違いない。その後の秀俊は柳本氏代々の官途である「弾正忠」を称し、元俊の跡を襲って三好氏と戦っていくことになる*1

 柳本元俊は柳本賢治の息子なのか!?調べてみた!
 いかがでしたか?結局詳しいことはわかりませんでした。
 ですが、元俊が柳本氏の当主であることは確かなようです!

参考文献

馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と柳本賢治

戦国期細川権力の研究

戦国期細川権力の研究

馬部隆弘「柳本甚次郎と配下の動向」
osaka-ohtani.repo.nii.ac.jp

*1:ちなみに元俊と秀俊の関係性は全くの不明だが、元俊が賢治の子であるとするならば、世代的に秀俊は元俊の子ではない。秀俊は「秀」の字を帯びることから波多野氏との関係が深いとも考えられる