志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

100日後に死ぬ足利義教

 もはや一昔前のような気さえしてしまうが、「100日後に死ぬワニ」という1日更新型4コマがわりと流行った。これが秀逸だったのは「100日後に死ぬ○○」にそれなりの汎用性があることで、歴史オタ界隈でも歴史上の人物を○○に入れるのがそれなりにまた流行った(多くは一発ネタだったが)。ただ、実際問題として本当に死までの100日を追いかけられる人物は多くはない。まず病死の場合、死までの数日~数十日は病に苦しむので、日々にバラエティ感が出ない。そもそもの話として1日1日の動静の記録がわからない。
 すなわち、「100日後に死ぬ○○」が可能なのは、1日の動静が丹念に記録に残り、なおかつ突然の死を迎えた人物に限られる。足利義教はこの両条件を満たす存在であるため、試みに100日の動静を調べてみることにした。

 なお、この記事の情報はほぼほぼコピペみたいなものなので、この記事を参考に誰かが漫画化するとかSNSbotにするとかするのは自由です。ちなみにこの頃は太陰暦なので今のカレンダーとは月日が一致しないので気を付けてね。

3月13日(1日目)

 晴。足利義教本人の動向はのっけから不明。ただし、この日日向守護島津忠国が義教の弟で九州まで出奔していた大覚寺義昭を攻めて自害に追い込んでいる。

3月14日(2日目)

 晴、夜から雨。10日に義教が石清水八幡宮へ参詣したのを受けて、公卿たちが足利義教参賀する(『看聞日記』・『建内記』・『公名公記』)。本来は12日に参賀があるはずだったが延期して14日となったらしい。摂関や常盤井宮など多くの貴顕が義教を訪れ太刀などを献上した(『建内記』)。

3月15日(3日目)

 雨。足利義教、常光在寺へ花見に赴き食事を取る。その後畠山持永邸で猿楽を見る(『看聞日記』・『蔭凉軒日録』)。ちなみに前日(14日)に義教は御成を予告するのと同時に饅頭を用意させており(『蔭凉軒日録』)、花見の席で食べたと思われる。相応院の弘助法親王は去年から病であったのが回復したので、足利義教に出仕しようとしていたが、義教は留守で会えなかった(『看聞日記』)。

3月16日(4日目)

 晴。足利義教西芳寺へ花見に赴き食事を取る(『看聞日記』・『蔭凉軒日録』)。足利義教、安芸竹原庄地頭職を同日付で小早川煕平から盛景に交代させる(「小早川文書」)。

3月17日(5日目)

 晴。足利義教、永明院へ御成し食事を取る(花見?)(『蔭凉軒日録』)。

3月18日(6日目)

 晴。足利義教南禅寺へ御成し食事を取る。その後勝定院へ御成し焼香する(『蔭凉軒日録』)。

3月19日(7日目)

 晴。足利義教の伊勢参宮のため、馬が徴発される(『建内記』)。

3月20日(8日目)

 雨。暴風が吹き晩に降雨という。賀茂祭についてまずは義教に相談することが朝廷で協議される(『建内記』)。

3月21日(9日目)

 曇り。伊勢参宮の神事に備え、足利義教が伊勢貞国邸へ御成し風呂に入る(『蔭凉軒日録』)。また、後花園天皇が病気のため、義教から医師・清阿弥を朝廷に遣わす(『看聞日記』・『建内記』)。

3月22日(10日目)

 曇り。足利義教の伊勢参宮のため、雑色はこの日から出発する(『建内記』)。承道法親王阿闍梨勤仕に伴い、僧官に褒賞が図られるが、万里小路時房は義教に嫌われている者を避けて人選しようとする(『建内記』)。また、伏見宮貞成親王に義教から菱食2と雁3の贈り物があり、親王は義教が多忙な中での贈り物を喜ぶ(『看聞日記』)。

3月23日(11日目)

 雨時々晴、夜にまた雨。足利義教伊勢神宮へ参詣のため出京する(『看聞日記』・『管見記』)。出立は卯刻(午前6時くらい)(『蔭凉軒日録』)。

3月24日(12日目)

 晴。義教は伊勢へ向かう途中か。義教は輿に源氏累代の名剣「髭切」を携えていたが、草津で別の剣であることに気付き、飯尾肥前守に命じて本物を取りに帰らせたという(『南方紀伝』)。事実なら興味深いが、『南方紀伝』ではこれを「物怪」とし、義教が一時でも源氏累代の宝を手放したことを強調するので創作かもしれない。事実としても草津は京都から近いのでたぶん23日の出来事である。

3月25日(13日目)

 晴。日程としてはこの日には伊勢に到着していると思われる。義教が用意した医者が良かったのか、天皇の病気は快復傾向にあったようだ(『看聞日記』)。

3月26日(14日目)

 晴、朝のみ雨。足利義教伊勢神宮へ参詣する。参詣に従ったのは公卿が四条隆夏、正親町三条実雅、北畠(木造)持康、殿上人は高倉永豊、烏丸資任勧修寺教秀、その他諸大夫もろもろである(『建内記』)。

3月27日(15日目)

 曇り。足利義教は京都への帰路についていたはずである。

3月28日(16日目)

 雨のち晴。足利義教、伊勢から帰京する(『看聞日記』・『管見記』)。帰着は巳刻(『蔭凉軒日録』)とも、午刻(『建内記』)ともいうが、だいたい午前11時台であろう。関東の結城城が落城し、「鎌倉殿」(春王と安王のことか)も自害したという注進が入ったため、帰京を急いだらしい(『建内記』)。実際にはこの時点では結城城は落城しておらず虚報であった。

3月29日(17日目)

 晴。足利義教への参賀は来月3日というお達しが方々に来る(『看聞日記』・『建内記』)

4月1日(18日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

4月2日(19日目)

 晴。足利義教・正親町三条尹子夫妻、鞍馬へ花見に赴く(『看聞日記』・『建内記』・『管見記』)。管領細川持之の計らいという(『建内記』)。

4月3日(20日目)

 雨。足利義教の伊勢参宮を受け、公卿たちが義教へ参賀する(『看聞日記』・『建内記』)。

4月4日(21日目)

 晴。足利義教の伊勢参宮を受け、御相伴衆が義教へ参賀する(『蔭凉軒日録』)。

4月5日(22日目)

 晴。足利義教、禅仏寺へ御成(『蔭凉軒日録』)。

4月6日(23日目)

 雨。足利義教鹿苑院へ御成(『蔭凉軒日録』)。

4月7日(24日目)

 晴。足利義教、徳雲院へ御成。その後、雲狐寺、清水寺鹿苑院へ御成し、新橋を見物する(『蔭凉軒日録』)。

4月8日(25日目)

 晴。足利義教天龍寺へ御成し食事を取る。その後、嵯峨から鹿苑院へ御成し焼香する(『蔭凉軒日録』)。大覚寺義昭が自害した知らせが九州から届き、夕方から公家たちが義教に参賀する(『蔭凉軒日録』・『看聞日記』・『建内記』)。

4月9日(26日目)

 雨。足利義教雲龍院へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。大覚寺義昭の首級が京都に到着するという(『東寺執行日記』)。

4月10日(27日目)

 晴。足利義教鹿苑寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。大覚寺義昭が討たれたことについて8日に参賀しなかった者たちが義教に参賀する(『蔭凉軒日録』・『看聞日記』・『建内記』)。夜に相国寺大覚寺義昭の首実検があり、義昭が召し使っていた長田という人物に確かめさせる(『建内記』・『公名公記』)。義昭は虫歯で奥歯3本が抜けていたことから、これを以て確かめたともいう(『今川記』)。

4月11日(28日目)

 晴。足利義教、雲居庵へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。慶雲庵主足利義満側室で光照院尊久の母)のみ大覚寺義昭が討ち取られたことについて義教に参賀しなかったので、義教は激怒し所領を没収する。慶雲庵主は娘に累が及ぶことを恐れ自主的に光照院から退去する(『看聞日記』・『建内記』)。慶雲庵主は大覚寺義昭の実母という説もあるが、もしそうならどこかに記載が残りそうだし、義昭の同母姉妹になる尊久にも累が及びそうなので、たぶんただすっぽかしただけだろう(慶雲庵主は義昭の母ではないだろう)。

4月12日(29日目)

 晴時々雨。大覚寺義昭討伐の参賀を明日13日に行うようお達しが来る(『看聞日記』・『建内記』)。

4月13日(30日目)

 晴時々雨、夜は雨。足利義教東福寺へ御成(『蔭凉軒日録』)。その後、御所に戻り、公卿らの参賀と太刀の献上などを受ける(『看聞日記』・『建内記』・『公名公記』)。正親町三条実雅が万里小路時房に慶賀の際にたびたび朝廷から幕府へ剣を下賜することの可否(今回の大覚寺義昭討伐では注進が入った時にも首が入京した時にも下賜があった)を諮問するが、時房は細かい回答を保留する(『建内記』)。この日付で義教が島津忠国の忠節を賞する(島津文書)。この時の恩賞として島津氏は琉球を拝領したという(『島津家譜』)。

4月14日(31日目)

 朝雨のち晴。足利義教、雲頂院へ御成し食事を取る。その後雲狐寺楼門の図画と清見寺造営の様子を見る『蔭凉軒日録』)。ちなみに万里小路時房が正親町三条実雅に前日の諮問について、功労のたびに下賜があるのは当然であるが、今回の大覚寺義昭討伐に関して重ねて下賜があったのは過剰であると回答した(『建内記』)。

4月15日(32日目)

 晴。大仏絵上下・平家屋島三巻の絵巻が完成し、今日読み上げられるはずだったが、足利義教の服喪により6月に延期される(『看聞日記』)。

4月16日(33日目)

 晴、夜は雨。足利義教の動向は不明である。この日、結城城が落城し結城氏朝は自害、足利春王丸と安王丸が捕縛される(『永享記』)

4月17日(34日目)

 雨。足利義教の動向は不明である。この日古河城が落城する(『永享記』)。

4月18日(35日目)

 晴。足利義教、勝定院へ御成(『蔭凉軒日録』)。

4月19日(36日目)

 晴、夜は雨。足利義教、春熙軒へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

4月20日(37日目)

 雨。足利義教、冷泉為富の姉(18歳)を側室にする(『建内記』)。

4月21日(38日目)

 晴。足利義教、禅仏寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

4月22日(39日目)

 曇り時々雨、夜は雨。足利義教、禅源庵へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

4月23日(40日目)

 雨。結城落城の注進が届き、公家や御相伴衆足利義教参賀しようとしたが、義教は体調が悪く(『公名公記』)面会はなかった(『蔭凉軒日録』・『看聞日記』・『管見記』)。

4月24日(41日目)

 雨。足利義教の動向は不明である。

4月25日(42日目)

 曇り時々雨。結城城が落城し、結城氏朝が切腹、故足利持氏の遺児3人(なぜかわからないが3人である。春王と安王以外の1人についてはよくわからない)が捕縛された注進が届き、この参賀を28日に行うお達しがある(『看聞日記』・『管見記』)。

4月26日(43日目)

 雨。伏見宮貞成親王足利義教に岩梨1合と紫竹6束を贈り、喜んでもらう(『看聞日記』)。

4月27日(44日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

4月28日(45日目)

 晴、夜は雨。足利義教、結城城陥落の参賀や太刀・馬の献上を公卿らから受ける(『蔭凉軒日録』・『看聞日記』・『管見記』)。

4月29日(46日目)

 雨。足利義教、蔭涼軒主季瓊真蘂へ関東平定の御礼のための鹿苑院相国寺への御成の日時を、吉日を選んで行うように伝える(『蔭凉軒日録』)。

4月30日(47日目)

 晴。足利義教鹿苑院で食事を取るが、御成はせず、夜に焼香する。この日は足利尊氏の命日である(『蔭凉軒日録』)。

5月1日(48日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

5月2日(49日目)

 晴。足利義教、正親町三条実雅邸へ御成し猿楽を見物する(『建内記』)。蔭涼軒主季瓊真蘂が足利義教に寺院御成スケジュールを立てる。義教からは例日以外は毎日御成するという意向があった(『蔭凉軒日録』)。

5月3日(50日目)

 晴、夜は雨。足利義教鹿苑院へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。関東から結城氏の首級が上洛する(『看聞日記』・『建内記』)。また、足利義教から南御方・庭田幸子へ鮒が贈られる(『看聞日記』)。

5月4日(51日目)

 雨。足利義教相国寺へ御成し食事を取る。これは関東平定の御礼である(『蔭凉軒日録』)。その後御所へ戻り、結城氏らの首級を実検し、また公卿らの参賀を受ける(『看聞日記』・『建内記』)。首級29は六条河原で晒される(『看聞日記』)。

5月5日(52日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。まあ御所内で端午の節句の行事でもやってたんじゃないですかね?

5月6日(53日目)

 晴。足利義教が午後に鹿苑院を訪れ焼香する。この日は足利義満の命日である(『蔭凉軒日録』)。

5月7日(54日目)

 晴。足利義教、等持寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。4日に参賀しなかった公卿らが早朝に御所を訪れ足利義教参賀するが、今日結城一党の首級がまた届き、4日に参賀した公卿らがまた参賀する。さしもの義教も「か様の殊なる事にもなき細々には」(いちいち細々したことで参賀するな)とこぼした様子(『看聞日記』・『建内記』)。でもお前参賀しなかったら怒るじゃん、一人だけ来なかったら慶雲庵主みたくなってしまうのでそりゃ公卿からしたら行かない選択肢はリスクである。

5月8日(55日目)

 雨。足利義教、夜に等持院で焼香する。この日は勝曼院殿藤原慶子(足利義持・義教の実母)の命日である(『蔭凉軒日録』)。

5月9日(56日目)

 雨。朝、足利義教大般若経を結願する(『建内記』)。足利義教、雲頂寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。足利義教、室町邸で関東平定祝いに猿楽を見る(『看聞日記』)。常盤井宮明王大覚寺義昭討伐の参賀に来なかったため、義教の不興を買っているという噂が立つ(『建内記』)。時房「直明王は最近貧乏だけど、義教のせいやろか?」そういうとこだぞ。

5月10日(57日目)

 晴。足利義教、宝福寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。伏見宮貞成親王足利義教へ鮭100、昆布50、正親町三条尹子へ鮭50、昆布50を贈る(『看聞日記』)。

5月11日(58日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。夜に火事があり、近江守護六角満綱の宿が炎上する(『看聞日記』)。

5月12日(59日目)

 曇り。足利義教、勝定院へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。足利義教、外様の人々の参賀や細々とした事に対する参賀を停止させる(『建内記』)。時房「人々の困窮を救う、仁恵である」せ…せやな。

5月13日(60日目)

 時々雨。足利義教、崇寿院で軽食を取り、大智院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

5月14日(61日目)

 曇り、夜に雨。足利義教、雲居庵へ御成し軽食と食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

5月15日(62日目)

 晴。足利義教、隆寿院へ御成して軽食を取り、雲狐寺で仁王を見、興善院で食事を取り、清水寺へ参詣する(『蔭凉軒日録』)。足利義教から伏見宮貞成親王へ樽10、初物の白瓜・鱸10が贈られる(『看聞日記』)。

5月16日(63日目)

 晴。足利義教大般若経を真読する。その後、三会院で軽食し、臨川寺で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。奥州から異形の比丘尼が上洛し、義教の命令で伊勢貞国に預けられるという噂が立つ。異形の比丘尼とは顔の片面は常人だが、片方は額からコブが顎まで垂れ下がっているという異形らしい(『看聞日記』)。なお、この日京都へ移送されていた春王丸と安王丸が美濃国垂井で処刑されている。

5月17日(64日目)

 五月雨が一日中降り続ける。足利義教の動向は不明である。

5月18日(65日目)

 晴。足利義教建仁寺へ御成し軽食を取り、清住院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

5月19日(66日目)

 晴。足利義教、勝曼院へ御成し軽食を取り、管領細川持之を伴って永泰院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。義教、夕方から白雲寺にて上洛してきた足利安王丸・春王丸兄弟の首級を実検する。公卿たちの参賀もあったが、12日の決定通り外様衆の参賀は制限される。安王丸・春王丸の首級は「美麗」であり、見る人は義教も含めて落涙したという(『看聞日記』・『管見記』)。お前が殺したんやろ…。

5月20日(67日目)

 朝は晴だが、昼から豪雨となる。足利義教、瑞雲庵へ御成し軽食を取り、慈雲院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。足利義教伏見宮貞常王に美物・白瓜などを贈る(『看聞日記』)。豪雨により夜になって賀茂川が氾濫する(『看聞日記』)。

5月21日(68日目)

 雨。足利義教は長福寺・禅源庵へ御成の予定であったが、洪水により延期となる(『蔭凉軒日録』)。

5月22日(69日目)

 晴。足利義教大覚寺義昭討伐と関東平定を祝し正親町三条実雅邸へ御成する(『看聞日記』・『建内記』)。阿波守護細川持常から宝光院への義教御成について問い合わせがある(『蔭凉軒日録』)。

5月23日(70日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

5月24日(71日目)

 晴。足利義教、清和院へ参詣し地蔵像を下賜する。その後、阿波守護細川持常を伴って宝性院へ御成し食事を取る。細川持常は御礼として御所に参る(『蔭凉軒日録』)

5月25日(72日目)

 雨。足利義教鹿苑寺へ御成し食事を取る。義教、関東への使いとして梵桂蔵主を起用する(『蔭凉軒日録』)。足利義教、息子千也茶丸(後の足利義勝)の読書始について、義満の先例を調べさせる(『建内記』)。

5月26日(73日目)

 晴。足利義教管領細川持之邸へ御成する(『看聞日記』)。洪水によって義教の寺社への御成が延期される(『蔭凉軒日録』)。この日付で足利義教が関東諸将の結城合戦における戦功を賞する(『御内書附案』など)。

5月27日(74日目)

 曇りのち雨。足利義教、五檀法を修める(『修法部類記』)。蔭涼軒主季瓊真蘂が鹿王院主乾楞からの注進を義教に披露する(『蔭凉軒日録』)。

5月28日(75日目)

 雨。足利義教万寿寺へ御成し軽食を取り、東福寺で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。入江殿(知恩寺門跡)性恵女王(伏見宮貞成親王の娘)が薨去する。享年26歳(『看聞日記』)。入江殿の後継者には義教の娘(聖智)が入る(『建内記』)。

5月29日(76日目)

 天気不明。足利義教の動向は不明である。

6月1日(77日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

6月2日(78日目)

 晴、昼から雨。足利義教泉涌寺で軽食を取り、雲龍院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

6月3日(79日目)

 晴。足利義教西芳寺へ御成し食事を取る。義教、満済の7回忌のため、100貫文を隆寿院へ送るよう命令する。また、この日義教は平和を祝して八幡社僧宋清の坊へも御成する(『建内記』)。

6月4日(80日目)

 雨。足利義教の動向は不明である。

6月5日(81日目)

 晴。足利義教、龍徳寺で軽食し、遠碧軒で食事を取る。義教は食後、食事は饅頭ではなく干飯と冷麺を所望する(『蔭凉軒日録』)。またこの日足利義教、普賢延命法を修める(『修法部類記』)。延命はできそうですか…?

6月6日(82日目)

 曇り、夕方から豪雨となり雹が降る。足利義教、善入寺で軽食を取り、修理大夫(誰なのか特定できず)を伴って三秀院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。伏見宮貞成親王、義教が入江殿薨去に弔意を示したのに礼を申し上げることを促されるが、体調不良により断る(『看聞日記』)。

6月7日(83日目)

 晴。足利義教・正親町三条尹子夫妻、京極高数邸で祇園祭を見物する(『看聞日記』・『建内記』)。

6月8日(84日目)

 晴、雷があったらしい。足利義教、蔭凉軒で焼香する(『蔭凉軒日録』)。

6月9日(85日目)

 晴だが夕立が降る。足利義教、岩栖院へ管領細川持之を伴って御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

6月10日(86日目)

 晴。伏見宮貞成親王、明石津の所領問題について伝奏とともに足利義教に図る(『看聞日記』)。

6月11日(87日目)

 雨。足利義教、安国寺へ御成し軽食を取り、大聖寺で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

6月12日(88日目)

 雨。足利義教、如是院で軽食を取り、玉泉寺で食事を取る。その後、満済の命日が13日のため、隆寿院で焼香する(『蔭凉軒日録』)。

6月13日(89日目)

 晴。足利義教、奥御坊へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。足利義教、誕生日の祈祷を行わせる(『建内記』)。全然関係ないが、義教の誕生日と満済の命日って同日なんですな。なお、この日室町一条で大きな光るものが浮遊するという(『看聞日記』)。未確認飛行物体か!?

6月14日(90日目)

 晴。足利義教、阿波守護細川持常を伴い宝光院へ御成し軽食を取り、霊松庵で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。この日、関東から京都に移送されていた小山広朝とその子2人が六条河原で処刑される(『看聞日記』)。

6月15日(91日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

6月16日(92日目)

 晴。足利義教の動向は不明である。

6月17日(93日目)

 晴。足利義教鹿苑院で丈六地蔵の彫り初めを行う(『蔭凉軒日録』)。またこの日9月3日予定の延暦寺中堂供養の奉行を任命する(『建内記』)。

6月18日(94日目)

 朝に少し雨が降るがすぐ止み、晴。足利義教太子堂へ御成し食事を取り、その後勝定院で焼香する(『蔭凉軒日録』)。加賀守護富樫教家、足利義教の不興を買い出奔、弟泰高が慣例細川持之の後見で富樫氏の家督となる(『建内記』)。

6月19日(95日目)

 晴。足利義教、徳雲院へ御成し軽食を取り、帰雲院で食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

6月20日(96日目)

 晴。足利義教、長福寺へ御成し食事を取る(『蔭凉軒日録』)。

6月21日(97日目)

 曇り。足利義教、来たる7月5日に御所で催事を行うので、御相伴衆をはじめ、幕府宿老たちへの出仕を命じる(『蔭凉軒日録』)。なお。また、この日、仁王経法を修める(『建内記』)。義教は着々と功徳を積んでいる。

6月22日(98日目)

 雨。足利義教の動向は不明である。

6月23日(99日目)

 曇り時々雨。足利義教、雲沢軒へ御成し軽食を取る(『蔭凉軒日録』)。また、正親町三条実雅邸へ御成し猿楽を見る(『看聞日記』・『建内記』)。東条吉良持長(あるいは子の持助)が故足利持氏の反義教策動に参加していたことから出奔する(『建内記』)。あと1日待っていればなあ…。この日、義教の刀が鞘走ったので、別の刀に代えさせたところまた鞘走り、義教は立腹するという怪異があったという(『看聞日記』)が、これは「後聞」なので後付けフラグかもしれない。

6月24日(100日目)

 雨。足利義教、播磨守護赤松教康邸へ平和を祝して御成のところ、殺害される(『看聞日記』など)。有名な事件なのでもはや詳述はしないが、赤松方が合図に馬を放った音を聞いた義教が「何事ぞ」と訝り、正親町三条実雅が「雷鳴歟」と答えた(雨が降ってたから「雷かな」って発想だったんですね)次の瞬間に障子が開き義教の首は胴体を離れた。自分が殺されることを意識する暇すらほぼなかったのではないだろうか。まさしく青天の霹靂とも言うべき突然の死であった。

まとめてみた感想

 何をやっていたかわからない日もあったが、思ったより毎日の動静がわかるもんである。それにしても時期的な都合もあろうが、100日の間のほとんど寺社に御成してご飯食べてますね。暇なのか忙しいのかわからん。
 この100日の間だけで3回も正親町三条実雅邸へ御成しており、義教の信任の厚さが窺える。武家への御成は細川持之を除けば、赤松教康が最初であった。何事もなければ他の武家も25日以降に続いていたことだろう。嘉吉の変は義教の赤松への圧迫によって起こったともされるが、義教本人は未だ赤松を重視していたのかもしれない。
 100日の間には大覚寺義昭、結城氏朝一党、足利安王丸・春王丸兄弟、小山広朝父子3人らが処刑され、慶雲庵主、富樫教家、東条吉良氏らが失脚している。時期的な都合もあるが、100日の間にこれだけ義教被害者がいるのは多い…多くない?大覚寺義昭と義教の死が99日間隔だったのは今回初めて知ったので何かの創作ネタに使えそうである。
 些末な慶事であっても皆さん参賀してくるので義教が疲れ果ててしまう場面もあるが、正直同情はない。もっとも参賀に制限を加えた1か月後に義教は死んでしまうのであるが。
 当然と言えば当然であるが、義教は死を迎えるまで死ぬつもりは毛頭なかった。25日以降のスケジュールはちゃんとあったはずである。月並だが死とは無情なものである。