志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

高槻市しろあと歴史館・トピック展示「戦国武将・松永久秀と高槻」を見に行って来た!

 「たかつきDAYS(広報たかつき)」(http://www.city.takatsuki.osaka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/11/koho200301all.pdf)を読んでいたら、突然見たことがない松永久秀肖像画が飛び込んできたのもだいぶ昔な気がする(ついろぐで見てみたら2月25日らしい)。松永久秀の新出肖像画をメインに据えたしろあと歴史館のトピック展示も当初は3月7日からの開催のはずが、新型コロナウィルスことCOVID-19の感染対策のため、しろあと歴史館が臨時閉館状態になったこともあり、6月2日からようやく開催された。しろあと歴史館自体そこまで大規模な博物館ではないし、トピック展示と言ってもそこまで色々やっているわけではないが手短に感想を語ってみたい。

www.city.takatsuki.osaka.jp

 なお、ネット上に出品目録も公開されているのでご参考までに。
 まずは最大のトピックである新出の松永久秀肖像画である。見た通り、何だか普通のオッサンって感じで、満員電車にこいつが乗っててもまず戦国武将のオーラはなさそうな佇まいがある。私が松永久秀を初めて認知したのは学研だったかの教材の歴史漫画だと記憶しているが、その時の図像からずっと久秀は髭面の悪人顔であった。恐らく、世間の認知としても松永久秀と言えば髭面の悪人顔なのではないか、と思えるほどそうした図像が氾濫している(何たって『仮面の忍者赤影』に出て来た夕里弾正(たぶん久秀がモデル)もそんなビジュアルである)。しかし、この肖像画にはそうしたイメージは欠片もない。それだけに近年の久秀のイメージが梟雄から三好政権の有能な吏僚となるに従って、出るべくして出て来た肖像画なのかもしれない。
 ただし、その一方でこれが本当に久秀か?というのは疑問なしとはしない。確かに上部には久秀の法名と命日が書いてあるし、この肖像画松永久秀その人であるとする意識が現物にはあるのは間違いなさそうである。一方で描かれている家紋は松永氏の家紋として知られる蔦紋でもないし、せめて久秀のことを書いているとわかる法語でもあれば完璧だっただろうが、決め手に欠ける印象も正直否めない。
 展示での説明によると、この肖像画は18世紀後半くらいに描かれたと思われるが、衣装は室町時代武家のものであり、刀や茶道具の包みには桐紋が入っており、風貌に写実性が認められることから、戦国期の原本が江戸時代中期くらいに写されたものとされていた。この肖像画が作られた江戸時代中期にこれが松永久秀だ!されていたのはそうなのだろうが、これぞ真・久秀!と言うにはもう少し作成環境や伝来の由緒がわかればなあという感じである。
 が、とにもかくにもこれは「松永久秀」であろうし、近年でのイメージの変転の流れに乗って、久秀と言えばこれ!のように図像のデフォになっていくのではないか(天野忠幸先生はミネルヴァ評伝選の松永久秀を書く予定のはずだが、表紙の肖像画もこれになるんじゃないのかな)と思われるし、その中で肖像画にまつわる新たな事実がわかるかもしれず今後に期待したい。
 残りの3分の1は久秀の肖像画に直接絡むのであろう、これまでの久秀の図像が集合し、オマケで織田信長明智光秀細川藤孝三好長慶の幕末~明治の図像が展示された。メンツが大河ドラマ連動重視って感じですな。
 他3分の1は松永久秀は高槻出身やで~、高槻と縁があるんやで~という江戸時代以降の伝承のオールスター。松永久秀が高槻五百住出身というのは近年有力視されているが、中西裕樹先生の立論のベースになったのがこうした伝承たちである。
 そして最後に述べたいのが三好政権下で発給された文書5通である。複製ではなく全部本物である。ぶっちゃけ、久秀の肖像画よりもこっちのが垂涎でしたよ!単純に三好長慶の発給だけではなく、奈良長高、金山信貞、石成友通、寺町通昭らが署名するものでううーッ、渋い!知らん人も彼らの署名から!息遣いを感じて!名前くらいは覚えて帰ってくれ!!!そんな方々でございます。
 葉間家文書の三好長慶奉行人連署状の連署者で従来「寺町通以」とされていた人物は寺町通昭と同一人物であると今や確信しているが、「以」と翻刻された署名が「昭」の崩し字なのかは正直よくわからんかったでござる…。ただ、他の署名部分も「寺」や「北」や「友」はかなり崩されていたので、「以」に似た字形が「昭」である可能性は否定できない(本文書には花押があるので、「開口神社文書」の通昭の花押と突き合わせれば同一人物かわかるはずだが、「開口神社文書」の方を見られていないので即断は避ける)。ちなみに米村治清さんの花押は東寺百合文書のものと同じでした(治清さんの名は「俊信」とか翻刻されることもあるが、治清の方が正しそう。なお、「雑々書札」に出てくる米村正清は同一人物と思われるが「正清」が治清の改名なのか、写か翻刻ミスなのかは確かめられていない)。
 「水論裁許并井出絵図」も知識として裏に据えられた三好長慶の花押が表から透けて見えるのは知っていたが、実物を見ると「なるほど、こういうことか」と得心できますね。
 そういうわけで三好クラスタ的にはこの5文書で大満足だったわけですが、よく考えるとこの中に久秀に関係する文書がなくてすごいですね。いいのかな?しかし、市民にはいかに三好が高槻に関係があったかはよく伝わると思います。

 ちなみに私が行ったのは15時30分くらいでしたが、館内には他におばちゃんが一人しかいませんでした。時節柄、いっぱい人に来て見て欲しい!とは言いにくいですが、これだけを見に来ても充分元は取れるかと(無料だし)。会期は8月2日までです!感染対策・予防をしつつ(入館には予約は不要ですが申込書は必要です)、機会があれば近隣の方は是非お立ち寄りください。