志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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「千勝」は誰の子か?―丹波守護代家内藤氏継承再考

 先ごろ『戦国武将列伝 畿内編【下】』が出版された。以前述べたようにこうした本が出ること自体が画期的だったが、それ以上に各執筆者がここぞとばかりにあまり知られていない史料や独自の解釈を開陳していき、その画期性は想定以上だ。そうした中で一つ気になったものとして、丹波守護代家内藤氏の家督継承の解釈がある。「松永長頼」を執筆されたのは飛鳥井拓氏であるが、飛鳥井氏はその項にて、内藤国貞の死を契機に浮上した丹波守護代家内藤氏の後継問題について「女系男子である長頼の息を立てたところで解決するとは考えにくい」とし、内藤氏の家督に就いた千勝を国貞の遺児と位置付けたのである。
 内藤氏の当主や系譜の問題については、近年馬部隆弘氏が整理されており、馬部氏は千勝を長頼の子と位置付けている。すなわち、飛鳥井氏は馬部氏の研究を引用しながらもそれとは相反する解釈を新しく提示したことになる。個人的には馬部説に慣れてしまっていたので、それを受けつつも従来説を採った飛鳥井説には新鮮さと当惑とがある。飛鳥井説は松永長頼と内藤貞勝(千勝が成人した姿とされる)が親子ではないことから、永禄初期の若狭・丹後もまきこんだ戦争について、長頼と貞勝の対立関係まで提示しているが、本記事ではそれはさておき、問題の基幹となる一次史料を読み直すことで、この長頼と千勝の関係について考えていきたい。

 天文22年(1553)9月細川氏綱三好長慶の与党として細川晴元方の波多野秀親を攻めていた内藤国貞は、秀親救援に現れた香西元成・三好宗渭の攻撃を受け戦死した。当主を失った内藤氏の家中は混乱したが、国貞の娘婿となっていた松永長頼が内藤氏の本拠地である八木城に入城し、態勢を立て直した。ここまでの流れはいわゆる「史実」として確定できる。問題となってくるのはこれを受けて発給された史料の解釈である。

  • 【史料1】茨木長隆奉書 野間建明家文書

内藤家督事、国貞契約筋目依在之、松永甚介息被定置千勝上者、如先々可被致馳走由候也、仍執達如件、
  天文廿二
   十一月十五日    長隆(花押)
    出野日向守殿
    片山左近丞殿

(私訳)内藤氏の家督の事であるが、国貞との契約・筋目があるということで、松永長頼の息子を千勝として定め置かれた上は、以前のように馳走するようにということである。上から下へ伝達するのは以上である。

 内藤国貞が戦死して約2ヶ月後、細川京兆家の奉行人である茨木長隆は内藤氏の家督について丹波国人に対し奉書を発給した。「国貞契約」によって、「松永甚介息」が「千勝」として定め置かれたというのが家督決定の文言となる。
 しかし、事態は長隆の奉書だけでは解決しなかった。

内藤跡目事、備前国貞雖契約松永甚介候、長頼以分別息千勝相続上者、如先々相談内藤忠節肝要候、猶三好筑前守可被申候、謹言、
   三月廿日   氏綱(花押)
      片山右近丞とのへ

(私訳)内藤氏の後継者のことは、備前守国貞が松永長頼と契約していたが、長頼が分別をもって息子の千勝に相続させた上は、以前のように内藤氏と相談し忠節を尽くすのが大事である。なお三好長慶が申されるであろう。

 【史料2】は天文23年(1554)に比定されている。翌年3月になると京兆家当主である氏綱が、内藤氏の家督は内藤国貞と松永長頼の間で契約があったが、長頼の分別によって「息千勝」が継承すると周知した。「千勝」が内藤氏の家督となるという結論は同じだが、国貞没後数ヶ月後と約半年後で微妙に発給体系が異なる2つの文書が出ているのである。
 これをどう考えるべきか、まずは馬部説から見て行こう。
 まず、馬部氏は国貞と長頼の「契約」の欺瞞を述べる。ここまで触れていなかったが、天文後期になると内藤永貞という守護代家当主格の人物の活動が始まる。永貞は国貞の通称である彦五郎→弾正忠をそのまま襲っており、国貞の嫡子と見て良い。この点は飛鳥井氏も認めており、すなわち国貞には歴とした後継者が存在していたのである。つまり、国貞と長頼の間で家督継承に関する前約束があった可能性は低い。馬部氏は「契約」なるものは「もしもの時は娘婿を頼りにする」というありがちな口約束を拡大解釈したものではないかとするが、現実的にはそんなところであろう。
 そして、馬部氏は【史料1・2】に発給間隔があるのは、国貞・永貞戦没によって事実上長頼が内藤氏家中を切り盛りすることになったものの、氏綱がそれを認めなかったか、三好長慶が氏綱に遠慮したため、三好方が保護していた細川信良の奉行人である茨木長隆が当初対応することになったことに原因があるとする。しかし、氏綱が長頼による乗っ取りを追認したか、長慶が氏綱を説得したため、翌年3月氏綱が直接文書を発給して千勝の継承を周知するに至るとする。馬部氏はこの流れに氏綱権力の三好権力への収斂の流れも見ているが、本記事とはズレるので割愛する。
 なお、【史料1】は一点しか残存しておらず、背景の人間関係もいまいちわからないが、【史料2】は取次者に三好長慶を置き、権威者と有力者の認証2段構えとなっている。【史料2】について、同文言の文書が3通も現存しているのは、この文書の方が効力が高い最終的なものとして認識されていたからだろう。
 飛鳥井説も基本的には馬部説に倣っている。しかし、馬部説では【史料1】→【史料2】について乗っ取りの恣意性を弱めているとするものの、結論は「千勝」の相続で同じなので、二重に文書が発給される説明として的を射きらないと言われればそうかもしれない。実際、飛鳥井説が言うように【史料2】だけでは「息千勝」が誰の息子なのか特定しきれるわけではなく、長頼が分別によって国貞の「息千勝」に相続させたので、「内藤」と相談するようにと解釈する方が収まりは良い。…もっとも飛鳥井氏は【史料1】の解釈について触れていないので、【1】の「松永甚介息」と「千勝」はどう読み解けるのかはよくわからず、論としての精緻さには欠けるが…。
 【史料2】には三好長慶の副状や松永長頼の書状も同時に発給されていたらしく*1、それらが残っていればもう少し断定的な表現があったと思われるが、残っていないので仕方ない。
 それもこれも【史料1】の表現にわからないところが残るのが悪い。(私訳)では「松永長頼の息子を千勝として定め置かれた上は」としたが、実際「松永甚介息被定置千勝上者」は意味を取るのが難しい表現である。「被定置松永甚介息千勝」であれば、長頼と千勝の関係も同一人物としてわかりやすいのだが、「松永甚介息」と「千勝」を離してしまったせいで…ん?
 確かに「松永甚介息」と「千勝」が離れているのはおかしい。これは読点の位置が違うのではないか?

内藤家督事、国貞契約筋目、依在之松永甚介息、被定置千勝上者、如先々可被致馳走由候也、仍執達如件、
  天文廿二
   十一月十五日    長隆(花押)
    出野日向守殿
    片山左近丞殿

(私訳)内藤氏の家督の事であるが、国貞との契約・筋目が松永長頼の息子にあるということで、千勝に定め置かれた上は、以前のように馳走するようにということである。上から下へ伝達するのは以上である。

 これで意味が通るのではなかろうか。契約対象は「松永甚介息」なので、「千勝」に定め置かれたとするなら、「松永甚介息」=「千勝」な上、論理も破綻しない。そして【史料2】とは「千勝」の継承という結論が同じであっても、そうなる筋道は異なる。つまり、

  • 【史料1】:内藤国貞が松永長頼の息子・千勝と契約していたので千勝が内藤氏の家督を継ぐ
  • 【史料2】:内藤国貞が松永長頼と契約していたので長頼が内藤氏家督となるはずだが、長頼が分別によって息子で国貞にとっては外孫にあたる千勝を内藤氏の家督とする

ということになる。こうして見ると、【史料1】は国貞が幼児と契約していたというのはいかにも苦しい上、長頼の事実上の乗っ取りが見え見えなのに対し、【史料2】は国貞と長頼という大人同士の契約になる上、長頼自身は身を引き、内藤氏の血を継ぐ人物に譲るという、乗っ取りの性質がだいぶ弱まる継承となる*2。忖度するに馬部氏がいう「恣意性を弱めた表現」もこういうことを言いたかったのではないだろうか。松永長頼は【史料2】段階では俗名「長頼」であったが、その後は「蓬雲軒宗勝」を称し、出家している。これも馬部氏によると俗世を離れることで内藤氏を乗っ取らない意思表示を行ったものになるが、【史料2】の「本当の契約は長頼が内藤氏の家督になることだったが、長頼の「俺が内藤氏を継ぐのはダメだろ…せめて国貞の孫にあたる俺の息子の千勝だろ」という分別で千勝が継ぐ」という内容にも綺麗に対応することがわかる。
 というわけで、本記事の結論としては馬部氏の「千勝」=松永長頼の息子という説を支持したい。飛鳥井説も永禄初期の内藤氏内部の問題まで波及するので問題提起としては意味があるが、【史料1】の解釈を示していないので不十分さは否めない。現状では本記事で新たに示した【史料1】の解釈も含め、「千勝」を長頼の子とする方が自然であると考えておく。

おまけ 内藤国貞の娘にして貞勝(千勝)・貞弘(ジョアン)の母

 松永長頼(内藤宗勝)の妻で内藤国貞の娘は本記事でも話題にした丹波守護代家内藤氏の継承をめぐるキーマンだ。彼女が国貞の娘で長頼に嫁いでいなければ、長頼が国貞・永貞死去後内藤氏を切り盛りすることはなかったし、当然それにまつわる諸問題も発生しなかった。にも関わらず、彼女がどういう存在だったのかは言及されたことがない。…いやもちろん史料がないから、触れようとしても触れられないのが実情であろうが…。
 彼女が登場する史料としてはまず『兼右卿記』がある。永禄8年(1565)1月27日吉田兼右は内藤宗勝(松永長頼)に対し、祓をやっているが、同時に「女房」へも祓を行っている。このため、3日後の30日には宗勝から太刀一腰が、女房から10疋が届いている。10疋はお金だとすると安すぎるので着物の単位ではないかと思われる。いずれにせよ、内藤氏の中で妻としての一定の地位はあったと見て良い。
 次に登場するのが、1573年4月20日付のカブラル宛フロイス書簡である。ここで内藤貞弘が「ジョアン内藤殿」として宣教師の記録に登場し、紹介されるのだが、「異教徒なる其母」の存在が触れられる。とは言え、彼女は何と殺されている。内藤氏の家臣団は貞弘の母が禅宗の徒であったため、大徳寺で葬儀を行おうとしたが、貞弘はキリシタンの利益になる葬儀を志向し、年末の母の命日に困窮者1000人を八木城に招き喜捨を行ったため評判を呼んだということである。言うまでもなく、キリシタン・内藤ジョアンを称揚するための記述なのだが、貞弘の母が家臣団挙げて大徳寺で葬儀を行うべき重要人物と見られていたとは言える。
 以上が彼女について残る史料の全てである。ぶっちゃけここから何がわかるのかと言うと、何か大きなことがわかるわけではないが、彼女は決して空気だったわけではなく、世間からはそれなりの重みを持つ存在として見られていた、その一端は窺えるのではないだろうか。一つの記事を書けるほどの話でもないので、おまけとしてここに書いておく。

 …ところで殺されたと言うのは全く穏やかではないが、何があったんでしょうね。恐らく元亀年間の出来事だと思われるが、家庭内の諍いなのか、それとも戦争にダイレクトに巻き込まれてなのか。父・国貞、兄・永貞、夫・宗勝(長頼)に続いて内藤氏呪われてないか?

参考文献

飛鳥井拓「内藤永貞の基礎的考察」『丹波』21号、2019年。
馬部隆弘「丹波片山家文書と守護代内藤国貞」『大阪大谷大学歴史文化研究』19号、2019年。
osaka-ohtani.repo.nii.ac.jp

*1:(天文23年ヵ)4月21日付龍源軒紹堅書状「片山家文書」

*2:ちなみに上記龍源軒紹堅書状でも国貞との契約によって長頼が八木城に在城しているとするので、国貞と長頼の「契約」は千勝継承後も一部が有効であったと同時に内藤氏家中を実質的に差配するものが含まれているように説明されていた模様