志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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永禄3年後半から永禄4年前半の内藤宗勝(松永長頼)・貞勝父子

 松永久秀は戦国武将でも知名度を誇る人物の一人だが、彼には有力な弟がいた。松永甚介長頼というのがその弟である。長頼の存在は長らく久秀の影に隠れていたが、今谷明氏が畿内戦国史研究を本格化させた中で注目され、その軍事的才覚が評価されることになった。そして、長頼は久秀の弟であるに留まらず、丹波守護代家である内藤氏を継承もとい乗っ取って、内藤備前守宗勝を称し、丹波一国をほぼ平定したことさえあることも知られてきた。
 そして、長頼・宗勝と当該期の内藤氏の動向は馬部隆弘氏の一連の研究によってさらに解明されつつある。馬部氏の内藤氏についての論点は多岐に渡るが、軽くまとめると、内藤国貞・永貞父子戦没から宗勝・貞勝父子の継承に至る微妙な政治情勢、丹波守護代の支配体制の継承、丹後・若狭出兵の基礎的把握などが挙げられる。
 その一方で、それぞれの論文を読む限りでは話が通っているように見えるのだが、総合していくとやや気になることもでてくる。具体的にはタイトル通り、永禄3年後半の内藤宗勝(松永長頼)・貞勝父子の居所についてである。

 まず、馬部隆弘氏が『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)までに明らかにした事実を確認していくと、内藤氏は細川氏綱の与党であったが、天文22年に内藤国貞とのその後継者永貞が戦死すると、国貞の娘婿であった松永長頼が内藤氏の居城八木城に入り、戦線崩壊を食い止めた。大枠としては長頼が内藤氏を継承していくが、三好氏が保護する細川聡明丸(後の信良)の奉行人である茨木長隆が直後に奉書を発給して、長頼の子・千勝が内藤氏を継ぐと周知する一方で、細川氏綱丹波国人に一斉に千勝の内藤氏継承を伝える文書を発給したのは翌年までずれ込んだ。しかも氏綱の書状では契約によって長頼が継ぐべきものを、長頼が遠慮して千勝に継承させたという表現になっており、長頼の内藤氏乗っ取り表現がマイルドになっている。こうした事情から、氏綱は当初長頼による乗っ取りを認めておらず、微妙な温度差があった。長頼が出家し、内藤名字を保留するのも氏綱への配慮と捉えられる。永禄3年に登場する内藤備前守貞勝が千勝の後身であろう。
 さらに、馬部隆弘「丹波片山家文書と守護代内藤国貞」(『大坂大谷大学歴史文化研究』19、2019年)は戦国期の丹波守護代家の分業体制を明らかにしている。その伝統は松永宗勝(長頼)と貞勝(千勝)にも継承されていた。すなわち、宗勝は在国して現地の守護代業務に当たり、貞勝は在京して京兆家に奉仕するというあり方である。永禄3年12月には丹波片山氏の権益が宗勝によって守護代の伝統的命令回路によって保障されているが、これは貞勝への代替わりの安堵を宗勝が行ったものである。宗勝と貞勝の分業は次の文書からも明らかになる。

  • 龍源軒紹堅書状 片山家文書

好便之条令啓候、仍国貞・永貞被進置候折紙・捻共ニ以上六通預置候、先度可進由承候つれ共、見失候て不進候、此間見出候、春辺備州御帰城候ハヽ、尚以懇ニ懸御目取合可申与存候へ共、以前御乞候つる、殊大事之物にて候間、見出候を幸ニ返進申候、正月中ニ宗勝も可被罷上様ニ申候、其時御所持候て御出候ハヽ、前々之様体懇ニ申候て可令披露候、恐々謹言、
            龍源軒
   十二月廿七日     紹堅(花押)
  片山右近丞殿
      進之候

 龍源軒紹堅は片山氏から内藤国貞・永貞発給文書を預かっていたが、紛失していたので披露が遅れていたものを見つけることができた。春になれば内藤貞勝が八木城に帰ってくるのでその時に貞勝に披露しようかとも思ったが、大事なものなのでとりあえず返却する。正月中に宗勝も罷り上がってくるようなのでその時に持って来れば披露しようという。馬部氏の推定によれば、片山氏は永禄3年12月に国貞・永貞の先例によってさらなる権益安堵を求めたとする。さらに貞勝が春に帰城すること、正月に宗勝が「罷上」ことから、貞勝は京都から年頭儀礼を済ませて帰ること、宗勝は八木城より西方に下っているとするのである。
 そして、馬部隆弘「内藤宗勝の丹後・若狭侵攻と逸見昌経の乱」(『地方史研究』72、2022年)。タイトル通り宗勝の丹後・若狭侵攻と若狭武田氏家中の関係が考察された論文だが、ここで触れたいのは宗勝の丹後侵攻である。この論文で整理されたところによると、永禄3年4月頃に宗勝は丹後田辺への侵攻を構想しはじめたが、6月には若狭から丹波へ進入してきた晴元残党を逸見昌経とともに対処している。しかし、9月には丹後の金剛心院に宗勝が禁制を発給しているのでこの前後には丹後に侵攻している。その一方、冬には若狭へ侵攻しているという状況にもあった。そのような中馬部氏が紹介したのが次の文書である。

  • 金山晴実書状 狩野文書

尤致参洛可申上候処、奥郡之儀未落居之儀候条、以同名駿河守申上候、仍知行分庵職之儀、塩見兵衛尉無故令違乱候、致迷惑候、然間度々 御下知并常桓時下知・案文等備 上覧候、此等之趣氏綱江被仰出、可停止彼妨之旨、被成御下知候様ニ所仰候、於国者内藤ニ相談令馳走候、猶委曲駿河守ニ申含候条、可申入候、恐惶謹言、
   十二月十一日    晴実(花押)
  大館左衛門佐殿
      参 人々御中

 金山晴実は大館輝氏に対し、自身の丹波での知行が押領されていることについて、細川氏綱足利義輝から下知を下してくれるよう依頼している。馬部氏は「奥郡之儀未落居之儀」から「丹波奥郡はまだ平定されていないがそろそろ平定されて良い頃だ」というニュアンスを読み取り、これを永禄3年に年次比定し、この頃には宗勝の丹後侵攻が終了しているとする。
 以上をまとめると、永禄3年12月に内藤宗勝は丹後侵攻を終了し、若狭へ侵攻しながら正月には八木城へ帰ることも想定していたとなる。馬部説では貞勝の居所についてはほとんど触れられていない。
 ところが、馬部説に一石を投じるかもしれない史料をたまたま見出してしまった。

先度者預御状候并鳥目弐拾疋被懸御意畏入候、備前守も御返事可遣候へハ、加佐郡働ニ以外取乱被申候間、先日拙者相意得可申入候云々、何も自是返事上可申候、次伯佐弥之儀ニ御使僧下被申、懇ニ被申下大形相済申、御上洛候間、目出度存候、猶追而可申入候間、不能懇筆候、恐々謹言、
   十二月廿一日     貞祐(花押)
   竜安寺
     御役者中
「          内藤和泉守
 竜安寺御役者中      貞祐
       御返報      」

 内藤貞祐は竜安寺からの音信と問い合わせに返信しているが、その中で「備前守も返事するべきだが加佐郡の軍事行動で取り乱しているので貞祐が返事するようにと言ってきた」と述べている。厳密には貞勝(備前守)が加佐郡に出陣しているとは書いていないが、返事を別人に委任するくらいなので竜安寺に返信できる場所にいないのは確かである。内藤勢が丹後国加佐郡に侵攻するのは永禄3年しかないので、永禄3年12月下旬になっても加佐郡では軍事行動、あるいはその余波による混乱が続いており、貞勝が対処していたということになる。つまり、貞勝も加佐郡出兵に赴いていたのである。
 そして貞勝が12月には丹後侵攻を引き受けていたと理解する方が宗勝の動きも理解しやすい。宗勝は9月には丹後に禁制を出しているが、10月に晴元残党が山城国の炭山に進出してくると、これを迎撃、一網打尽とした。丹後から一挙に南山城まで移動したことになるが、そこから再び丹後に戻り、12月までにその侵攻を切り上げると、年中には若狭に赴くとなるとせわしなさすぎる。もちろん三好家のブラックぶりを勘案するとこれくらい働かされていてもおかしくはないが、10月に晴元残党の主力は丹後から山城へ移動したと思しいので、宗勝は丹後方面は貞勝に対処を任せたのではなかろうか。丹後戦線にはその後戻らず若狭へ入国したとする方が北近畿を上下に往復しているのは変わらないがまだ無理がない。12月上旬に片山氏の権益を安堵しているのもたまたまその時は八木城にいたからかもしれない。
 この仮定が正しければ、12月27日の龍源軒紹堅の認識も貞勝の帰城は京都からではなく加佐郡からの帰還を意味していることになる。宗勝は正月には帰ってくるのに、貞勝の帰還が「春辺」なのも加佐郡でのごたつきの収拾をこの段階では見通せていなかったからかもしれない。ただし、貞勝は『雑々聞検書』によると永禄4年2月3日に細川氏綱へ、14日に三好義興に年頭礼を行っているので、2月には在京している。恐らく1月には加佐郡侵攻を切り上げて八木城に帰り、京都に赴いたのだろう。
 一方の宗勝の居所は今一つはっきりしないが、永禄4年1月から若狭では逸見昌経と武田信豊の交戦は続いており、宗勝は逸見氏に肩入れしていた。途中和睦交渉も行われたが、6月には武田・朝倉連合軍と内藤・逸見連合軍の決戦に至り、内藤・逸見連合軍は敗北する。このことから宗勝は軍勢を率いながら若狭に在国し続けていたのではないだろうか。その一方で、逸見昌経や朝倉義景は逸見氏と提携しているのは「内藤備前守」という認識を示している。これは貞勝が一時的にせよ、丹後・若狭侵攻の最前線に出ていたからこその表現ではなかろうか。ただし、永禄4年6月20日に貞勝は知行を宛行っているので、19日に行われた決戦には参戦していないと思われる。
 以上、推測ばかりだが、永禄3年後半から永禄4年前半の内藤宗勝・貞勝父子の居所としては、以下のような移動になるのではないかと思われる。

  • 内藤宗勝:永禄3年6月頃(若狭→丹波)→9月(丹波→丹後加佐郡)→10月(丹後加佐郡→山城炭山)→12月(丹波→若狭)→永禄4年1~6月(若狭)
  • 内藤貞勝:永禄3年10月?~永禄4年1月(丹波八木城→丹後加佐郡)→1~2月(丹波八木城→京都)→2月?~6月(京都→丹波八木城)

 ちなみに内藤貞勝は永禄4年7月を最後に一次史料から姿を消し、永禄5年からは宗勝が「内藤備前守」を称する。おそらく永禄4年中に早世したのではなかろうか。もし早世したのであれば、時期的に10歳そこそこでの初陣やその後の移動で心労が貯まった影響も考えられる。