志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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三好孫九郎生勝の役割についての雑考

 戦国時代、畿内と四国を跨ぐ勢力を築いた三好政の主宰者の地位は「三好本宗家」によって継承された(と言っても二代だけだが)。しかし、天正元年(1573)11月16日「三好本宗家」の当主・三好義継が織田信長の部将・佐久間信盛に攻められ死去したことで「三好本宗家」は滅亡する。というのがあまり知られていない三好氏をめぐる定説である。
 だが、政権主宰者たる「三好本宗家」はともかく、三好長慶が河内に移って以来の「河内三好氏」は滅亡したわけではないらしい。その鍵となるのが三好生勝である。
 三好生勝については伝来文書を平成27年(2015)に広島県立文書館様が展示してくださっており、パンフレットをPDFとしてネット公開してくださっている。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h26zuroku_miyoshi.pdf
 これによると三好生勝について以下の情報が得られる。

  • 三好生勝は三好義継の後継者である(よって河内三好氏の文書を伝来している)
  • 三好生勝の実父は多羅尾綱知である
  • 三好生勝の母は三好義継の妹(十河一存の娘)である
  • 三好生勝は三好宗渭によって養育された
  • 三好生勝は織田信長から河内の領地を認められ石山合戦で活躍した

 無論これらの情報は、広島藩士三好氏の「伝承」である。しかし「事実」としては次のものが確かめられる。

  • 三好生勝は実際に織田信長豊臣秀吉と書状をやり取り出来、三好氏の後継者としての地位を備えていた
  • 三好生勝の実父は多羅尾綱知である(『天王寺屋茶会記』)
  • 三好生勝は若江三人衆(多羅尾綱知・池田教正・野間康久)と関係が深かった(『天王寺屋茶会記』)

 だが依然としては残る。例えば、

  • 三好生勝の母親は本当に三好義継の妹なのか
  • 本当に三好宗渭によって養育されたのか、養育されたのだとしたらそれはなぜか

などである。もっともここでは「謎」としてしまっているが、パンフレットが情報を端折っただけでちゃんと展示された一次史料を見れば、別に謎でも何でもなく事情が説明されている可能性はある。ただ、今ある情報を基にしながら、三好生勝とは何者だったのか、妄想考えを述べて行く。

 まず、三好生勝の母親は三好義継の妹なのかという問題を考えたい。単刀直入に言うが、これは誤伝ではないだろうか。
 この問題を考える端緒は三好生勝の生年である。上記資料では三好生勝が何年生まれなのか全く語らない(死去年は寛永8年(1631)らしい)。生勝の活動の初見は天正7年(1579)頃だが、この頃に元服したのだろうか。仮に天正7年(1579)に14歳とすると永禄9年(1566)生まれとなる。永禄9年(1566)時叔父となる三好義継は18歳で、その妹となると18歳以下、義継の同母弟の松浦孫八郎とその妹も同母とすると、義継母(九条稙通女)は天文から弘治にかけて子供を産みまくっていたことになる。戦国時代だと10代半ばで妊娠、出産というのは珍しいことではないが、それでもこれは義継妹から見たら早い出産ではないだろうか。
 生勝の生まれを永禄9年(1566)としたが、これは下限である。永禄12年(1569)に死去した三好宗渭に養育されたのが真実なら、3歳までしか養父との関係がないことになる。しかし、三好生勝の実名「生勝」は宗渭の実名「政勝→政生」の影響を受けまくっている。さらに言えば仮名の「孫九郎」も問題で、義継後継者として元服したのなら、義継の仮名である孫六郎」や長慶、義興が名乗った「孫次郎」を継ぐ方が三好氏の後継者アピールが出来る*1。そうではないということは「孫九郎生勝」という名前は早くから宗渭によって名付けられていた可能性が高い。
 そういうわけで生勝は実際には永禄3年(1560)前後に生まれていたのではないだろうか。そうなるともはや義継妹が産むのは物理的に無理である。
 では一体どういう勘違いが発生したのか?
 生勝の母親は「義継妹」ではなく「義興妹」すなわち三好長慶の娘だったのではあるまいか。生勝の母親は「義興妹」と認識されていたが、生勝が義継の後継者とされているうちに義興と義継が混同され「義継妹」の所伝となったのではないか*2三好義興は天文11年(1542)生まれであるので、その妹が2歳年下であれば(ちょっと厳しい気もするが)永禄3年(1560)頃に子が生まれていてもそこまでおかしくはない。


 では次に三好長慶の娘が多羅尾綱知に嫁ぎ、その子が三好宗渭に養育された意味を考えたい。
 これは意外と簡単で家中統制のためだろう。そもそも多羅尾綱知は三好氏の家臣ではなかった。多羅尾綱知の出自も謎が多いが、おそらくは近江多羅尾氏の一族で、高国流細川京兆家の当主である細川氏綱に側近として仕えた。綱知の「綱」は氏綱からの偏諱と見られ、氏綱の腹心であったらしい。さて、氏綱は天文18年(1549)より三好長慶と結び、細川京兆家家督となることに成功した。この時将軍足利義輝も京都を追われ、天文末年に三好長慶は京都支配を行ったとされるが、実態としては当初は氏綱に主導権があり、徐々にそれが後退して三好氏が京都を支配するようになった。綱知も氏綱の重臣として精力的に統治に取り組んでいる。
 氏綱が行った京都支配が段階的に長慶によるものに変わっていくのにどのような政治原理が働いたのかはよくわからない。ただ、氏綱は一貫して長慶を支持し、長慶と対立・決裂することはなかった。このような中徐々に氏綱の家臣たちも長慶の家臣に編入されていく…と書くと単に部署が変わりました、くらいに思えそうだが、実際には氏綱の家臣たちにとっては伝統ある細川京兆家ならいざ知らず、四国出身の成り上がりである三好氏の家臣になるのには相当な葛藤が存在したに違いない。特に綱知は氏綱から強く信頼された腹心であった。
 このような葛藤を乗り越えるべく行われたのが、綱知が長慶の娘婿になるという縁組ではなかったか。綱知は大枠で三好氏に仕えることになったが、その立場を単なる被官ではなく一門待遇とすることで氏綱重臣を迎える際に発生する軋轢を和らげようとしたのだろう。三好氏にとっては綱知を一門に加えることで氏綱旧臣を自らの体制に留めたのである(ただ仮に生勝母が十河一存の娘でも同じ効果は期待できる)。
 それでは、そのような縁組の結果誕生した男児三好宗渭が養育することになったのはなぜか。三好宗渭三好三人衆の一人で三好名字であるため誤解されがちだが、長慶陣営の出身者ではない。宗渭の父・三好政長(宗三)は細川晴元権力を代表する人物であったため、長慶が晴元に謀反した際長慶によって討たれた。宗渭は父の路線を継いで細川晴元の部将として長らく長慶と戦った。宗渭が抵抗を諦め長慶に下ったのは永禄元年(1558)だが、このような経歴を持つ宗渭を三好家中においてどのように処理するべきか、長慶も迷ったと思われる。単なる庶流一門として片付けるには宗渭の持つ教養*3と人的ネットワークは大きな意味を持つものだった。
 結果的に宗渭は長慶によって三好氏の有力一門としての待遇を受けた*4一方で宗渭は長慶が生きている頃は政治に参画した形跡がない。ここらへんがバランス取りということだろう。それはともかく宗渭には後を継ぐべき男子がいなかった*5。長慶としては二代で三好氏嫡流に反逆した宗渭を有力一門と認めつつも、家として従順であることを望んでいたはずである。それが長慶の孫を宗渭の後継者とするということではなかったか。長慶の孫という格が存在すれば、三好氏の有力一門のままその力を「三好本宗家」に取り込むことが可能となる。宗渭は晴元の家臣でもあったから、宗渭の後継者として氏綱重臣の綱知の子が選ばれたのは、氏綱系と晴元系の人脈を合体させる意図もあったのかもしれない。宗渭の心情は不明だが、宗渭は波多野氏の血を継いでおり*6、生勝の母で綱知の妻となった長慶娘もその母親が波多野氏であるなら、波多野氏と三好氏のハイブリッドという血縁を受け継いでいるわけで、納得はしやすいものだったと考えられる。

 以上は妄想にすぎないが、仮説としてまとめると次のようになる。

  • 三好生勝の母親は「義継妹」ではなく「義興妹」すなわち三好長慶の娘である
  • 三好長慶の娘が多羅尾綱知に嫁いだのは、細川氏綱の家臣が三好家臣となる際の心情的軋轢を防ぐため
  • 三好生勝が三好宗渭に養育されたのは長慶が反抗的な宗渭流(政長流三好氏)を有力一門として編成させ直すため
  • 三好生勝は氏綱系細川家臣と晴元系細川家臣を統合させる目論見によるものかもしれない

 三好生勝という存在は一石三鳥くらいを狙う重要な役割を担わされていた。もっとも全ての仕掛け人である長慶が永禄7年(1564)没してしまうと、このような取り組みは全てが崩壊することになった。三好三人衆松永久秀による主導権争いから三好政権は内紛に突入し、宗渭はもちろん三人衆側、多羅尾綱知は松永久秀に味方して決裂した。このような中で幼い生勝がどうしていたのかわからないが、実父綱知ではなく宗渭によって確保されていたのではないだろうか。綱知が籠った淀城は三人衆によって攻略され、綱知は城主の地位を失ったが、三人衆から三好義継が離反するといつの間にか義継の重臣に転じた。
 永禄11年(1568)織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、三人衆は阿波に逼塞し、義継は義昭幕府に出仕した。翌永禄12年(1569)には宗渭は没したが、生勝が宗渭の後継者となったのかは明らかではない。ただし、『細川両家記』では野田福島の戦いにおける三人衆軍勢に「三好下野守、同息、同舎弟為三入道」を記しており、宗渭(「三好下野守」)を存命としているのは不審だが、「同息」が軍勢にいると認識されていたことがわかる*7。もっともこの戦いの中、宗渭の弟の三好為三は義昭幕府に転じ、織田信長から父祖以来の摂津の領地を保障してもらっている。為三が生勝の後見人であった可能性は否定できないが、少なくとも表面上は為三が宗渭の後継者であった*8
 元亀2年(1571)には分裂していた三人衆と義継・松永久秀は再び結び、義昭幕府から離反した。また、翌元亀3年(1572)には三好為三も三好勢力に復帰している。生勝はこの時期にようやく実父多羅尾綱知と再会を果たしたことだろう。こうして再び一つにまとまり畿内を制覇しようとした三好氏だが、畿内制覇の途上義昭幕府が足利義昭織田信長が分裂することによって政局から取り残されることになった。天正元年(1573)足利義昭を追放した織田信長は三好義継を滅ぼし、天下人たる資格があった三好本宗家は滅亡した。この時多羅尾綱知は池田教正・野間康久とともに織田軍を引き入れ、義継滅亡に一役買った。
 ただ、織田信長も多羅尾綱知も三好氏を完全に滅ぼすつもりはなかったらしい。長慶以来北河内を支配した三好家の枠組みはその後も維持されたようで、信長は河内を佐久間信盛の管轄としつつも統治は多羅尾綱知・池田教正・野間康久の三人「若江三人衆」に任せた。そして河内を支配する三好氏の当主には新たに三好生勝が就いた。しかし、なぜ生勝だったのだろうか。
 直接の原因は義継が自分の妻子もろとも自害したことにある。織田信長や若江三人衆にとっては義継に遺児がいれば、それを擁立するのが一番早かったと思われるが、その選択肢はなかった。一方で三好氏の残党は未だ南河内本願寺、四国におり、反織田活動を継続していた。信長の「味方」である三好氏連枝がすでに限られている状況である。そのような中生勝はまさにうってつけの人材であった。多羅尾綱知の子であり、若年であるため若江三人衆による制御が容易であり、長慶の孫にあたるため血統も申し分ない。こうして生勝は三好氏当主に推戴されることになったのだろう。
 三好長慶の家中統制策による三好生勝に与えられた構想は、必ずしも長慶の意図通りにはならなかったが、長慶が複数の勢力を束ねるために三好氏の血縁を用いたことは、河内三好氏を滅亡の淵から救ったと言えるだろう。

*1:なお生勝の実父・多羅尾綱知の仮名は「孫十郎」である

*2:傍証としては義継の外祖父である九条稙通が義継の死の直後にあたる天正2年(1574)に財産や権利を全て譲っているということもある。義継の係累が生存しているのなら諦めることもあるまい

*3:宗渭は刀剣オタク刀の目利きとして著名だが、茶道や能にも通じていた

*4:足利義輝が三好邸に御成した時の席次は細川氏綱三好長慶三好義興松永久秀三好長逸三好宗渭、三好長虎、三好帯刀左衛門尉の順で、宗渭は何と三好一門では長逸に次ぐナンバーツーの位置にあった

*5:宗渭には一女があったらしい

*6:現在確認中の情報

*7:「同息」は「同舎弟」とともに三好為三にかかっているという解釈もある

*8:ちなみに為三の子である三好可正は永禄11年(1568)に生まれている