『ウルトラマンジード』という作品は私にとってとても啓発的な作品でした。ウルトラマンゼロとウルトラマンベリアル、この2人のキャラクターについては、有難いことに彼らが生まれた時からずっと付き合いがあるわけです*1。『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』における衝撃な登場から始まり、色々なことがありました。『ウルトラマンジード』は彼ら2人のこれまでの流れのある種の結実という側面があり、様々な知見を得ることが出来たシリーズでもありました。もちろん『ウルトラマンジード』はニュージェネレーションシリーズの一作でもあり、ゼロシリーズからの要素を過剰に取り込んでしまっては、ウルトラマンジード・朝倉リクを主人公とする作品としての意義が薄くなってしまいます。ただ、私としてはゼロシリーズの延長に『ウルトラマンジード』が位置する意味は最低限必要だという認識を持っていました。具体的に言いますと「なぜベリアルの息子が必要なのか?」、これがなければ『ウルトラマンジード』のシリーズとしての存在意義は全くないと感じていました。
ゼロシリーズの流れを振り返るとウルトラマンゼロとベリアルは何度か戦ったことがあり、そのたびにゼロは最終的にベリアルを倒しています。2人の対立軸と勝利を決定づける要素は作品毎に異なっていますが、まとめると以下のようになるでしょう。
作品 | ゼロ | ベリアル |
大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE | 力への渇望を家族が止め力の意味を知る | 力への渇望を止められず悪に堕ちる |
ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国 | あらゆる種族を仲間として絆を紡ぐ | 異種族は部下にすぎず数は多くてもほとんどロボット |
ウルトラゼロファイト | ウルトラマンの意味を知る | ウルトラマンの意味がわからない |
このようにゼロとベリアルは様々なキャラクターとしての特徴が対比され、そのたびにゼロが勝利し、それ自体がメッセージ性として生きてきたと言えます。『ウルトラマンジード』でもベリアルは大いなる敵として描かれており、最終的にジードに倒される存在でしょう。しかし、上気のようなゼロシリーズの流れが再演されるだけなのなら、ゼロという存在がいれば充分、つまりジードという存在の必要性がないということになってしまうのです。別に『ジード』だけ観ていれば、再演だろうが何だろうが納得できる視聴者は多いであろうと思われますが、ゼロシリーズの創生から付き合ってきた私としてはここは譲れない一点でした。
果たして、『ウルトラマンジード』17話「キングの奇跡!変えるぜ運命!!」ではジードのベリアルに対する最初の勝利が描かれました。ここでの対立軸はウルトラマンキングの恩寵を受けたかどうかであること、それをビジュアルとしては騎士然としたロイヤルメガマスター、半獣化したキメラベロスという形で有意に描いていましたね。しかし、ここではベリアルとジードが父子であることはあまり有意に働かず、ウルトラマンキングという要素を付加することで結果的に息子の父への勝利があるにすぎません(極論を言えば、キングの力を得るのはゼロでゼロがキメラベロスを倒してもあまり変わらない)。『ウルトラマンジード』の作中においてキングの存在は大いに意味があり、作中の流れだけ見るならば感動的ですが、私がこだわる点はスルーされていたと言えましょう。もっともまだ17話であり、放送当時にはラスボスであるウルトラマンベリアルアトロシアスの存在も明かされていましたので、私も不満点を爆発させることもなく、「本当の勝負は最終回だ」と思いを新たにしました。
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そして、『ウルトラマンジード』24話「キボウノカケラ」ではウルトラマンベリアルが復活の上、ベリアルアトロシアスとなりジードたちの前に立ちはだかります。ジード陣営が考案した作戦は「永久追放空間を作り出し、そこへベリアルを追放してしまう」でした。この作戦でのジードの役割は時空破壊神ゼガンと光線を撃ちあい、永久追放空間を作り出すこと。まだ、親子関係は有意に働いてはいませんが、これまでゼロがアプローチしてきた「倒す」ではなく「追放する」という方法が取られたことで、ゼロシリーズと同じ結末にはならない(だから『ジード』のシリーズとしての存在意義は担保される)ととりあえずは安堵しました。作戦の第一段階として、ウルトラマンゼロがベリアルアトロシアスに挑み、カレラン分子分解酵素ガスを撃ち込む隙を作りに行きます。ベリアルは配下の伏井出ケイ(ストルム星人)がゼロが一体化していた伊賀栗レイトの家族を人質に取ると、人質を取られて戦えなくなったゼロを一方的に攻め立てます。駆け付けたライハによってレイトの家族は解放され、ゼロも戦意を取り戻すのですが、この間に意味深なセリフが挟まります。
ベリアル「この星に来て弱点を作ったようだな」
ゼロ「俺達は守るべきものがあるから戦えるんだ!」
このやり取りは『ウルトラゼロファイト』第2部でのやり取りと重なります。
ゼロ「なぜ守るものを持たないんだ…。お前だってウルトラマンだろうが!」
ベリアル「うるせえ!」
なぜ、ここで『ウルトラゼロファイト』と似たやり取りを繰り返したのか?疑問に思いながらも、『ウルトラマンジード』は最終回に突入していきます。
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『ウルトラマンジード』25話「GEEDの証」。いよいよウルトラマンジードとベリアルの最終決戦です。キングの力を強制的に我が物にしているベリアルアトロシアスにはロイヤルメガマスターですら歯が立ちません。一度は敗退したジード陣営は、光の国から駆け付けたウルトラの父がベリアルを引き受けている間に最初の作戦を再実行します。ゼガンの犠牲によって永久追放空間への扉は開きましたが、ジードはベリアルアトロシアスには敵いません。そこにリクがそれまでにウルトラカプセルから力を借りたウルトラマンたちが若きウルトラマンにエールを送り、ジードは分身技ジードマルチレイヤーを発動します。5人のジードはベリアルアトロシアスにジードプルーフを撃ち込むと、ベリアルのデモニックフュージョン・アンリーシュは解除され、通常形態に戻ってしまいます。そこをジードはベリアルを抱える形でともに永久追放空間に突入します。
永久追放空間で二人は殴り合います。その中でリクの脳裏にベリアルの記憶が迷い込みます。かつてのアーリースタイルの同胞への妬みや理解されなさへの苦しみ、それらが暴走してプラズマスパークに手を出し、レイブラッド星人に付け込まれたこと。これをリクは「理解」します。客観的に見るとすごくご都合主義なシーンです。そもそもリクは父であるベリアルのことをあまり知りません。ベリアルをよく知っているゼロから深く話を聞くこともなく、本人同士の対面も先述の17話であったくらいで、リクのベリアル観は漠然と巨悪という印象に留まるものだったと言えましょう。
…というところで話が飛びますが、『ウルトラマンジード』は放送前「ついにゼロとベリアルがTVシリーズのレギュラーに!」と言われていました。しかし、ゼロが伊賀栗レイトと一体化し、レギュラーキャラとしての役割を果たしたのに対して、ベリアルが登場する回は少なく*2「TVシリーズのレギュラー」と言うよりも出番が少なめの準レギュラーくらいの位置でした。その一方で『ジード』はベリアルのTVシリーズとして成立していた側面もあります。それが主人公朝倉リクの存在です。
ここまで朝倉リク(ジード)とベリアルを親子と書いて来、実際に公式でもそう書いてありますが、厳密に言うと正しくありません。朝倉リクと名付けられた「ベリアルの息子」は伏井出ケイがベリアルの遺伝子を貰い受け、20年足らずでウルトラマンの成体になれ、しかもウルトラカプセルを使わなければウルトラマンになることが出来ないように遺伝子改良された存在です。つまり見方を変えればもう1人のベリアル本人であるとも言えます。フュージョンライズの際、サブリミナル的にウルトラマンベリアル(アーリースタイル)とそっくりな姿(超全集などを見るとカラータイマーの形だけ違う)が映るのもこれを仄めかす演出でしょう。
そして、かつてのベリアル(アーリーベリアル)はプラズマスパークタワーのコアに手を出し、この罪によって光の国を追放されたところをレイブラッド星人に乗っ取られ、悪のウルトラマンとなったのは先述の通りです。ただ、この場面でベリアルが何を思いプラズマスパークに手を出したのかは描かれていませんでした(ウルトラマンメビウスであるヒビノ ミライはベリアルを強さに憧れたと表現していた)。アーリーベリアルはウルトラの父とともにエンペラ星人相手のウルティメイトウォーズ(ウルトラ大戦争)を戦った勇者の一人でもあり、光の戦士としての実績がありました。光の戦士アーリーベリアルはどのような人格ゆえに光の戦士であり、そうでありながら悪の道に堕ちたのか?これはベリアルが悪のウルトラマンとしてカリスマを備えて立身して行く中、問題としては忘れ去られて行きましたが、謎のまま残されていたと言えます。
意図してか、意図せざるものか、朝倉リクの人格はアーリーベリアルの人格を想像させるものを持っていました。リクは決して完全無欠の性格ではありません。その特徴を並べると以下のようにもなるでしょう。
- ヒーローに憧れこれを目指しつつも、のめり込みすぎてしまうオタク気質がある
- 基本的には仲間想いだが、それゆえに一人で抱え込んでしまう独りよがりなところがある
リクの性格や言動の全てをアーリーベリアル由来としてしまうのには、リクのアイデンティティを軽視する点において問題がありますが、基本的な人格はやはりベリアルと共通していると考えられます。その点では、『ジード』は確かにベリアルのもう一つの可能性を描く「ベリアルのTVシリーズ」として成立していると考えることも出来るのです。
ということもあって、私は見方によってはご都合主義の極致とも言える、リクがベリアルを「理解」できたことを不自然には思いませんでした。むしろ、ベリアルのこれまでの巨悪さについて余計な情報がなかったぶん、ベリアルが根っこに抱えるある種の卑屈さが理解できたとも言えましょう。
ベリアルを「理解」したリクはアーリーベリアルに対して「疲れたよね…終わりにしよう」と語りかけます。これに対してベリアルは「わかったようなことを言うな!」と返し、レッキングバーストとデスシウム光線の撃ち合いとなります。この撃ち合いはジードが勝利し、ベリアルは「ジードォォォォ!!!」と叫びながら爆炎の中に消え、ジード(リク)は「さよなら…父さん」とつぶやいて最終決戦は終わります。
短いですが、意味深な応酬です。リクの「理解」をベリアル本人は否定しますが、その意味はリクの認識が誤っているようにも、ベリアルが自分の心の底を認めたくないようにも取れます。さらにベリアルは浄化されたのか、さらなる怨念に塗れたのかもはっきりとしません。ただし、決定的に重要なのはリクがそれまでベリアルを「ベリアル」と呼んでいたのが「父さん」になり、ベリアルがそれまでジードを「息子」と呼んでいたのが「ジード」になったということです。ベリアルはジードを息子であることを最期に否定し、逆にリクはベリアルを父親と認めたわけです。
最後の最後に親子関係が有意に働いた精神的勝利が描かれたわけです。これは父やゼロには出来ません。思えば、ゼロにとってベリアルは常に否定するべき存在でした。ゼロにとってベリアルとは、プラズマスパークに手を出すという出発点が同じであり、それゆえに「俺はベリアルとは違う!」と思うことが、ゼロをウルトラマンたらしめてきたとも言えます(もちろんそれだけでは決してありませんが)。また、父もかつてのアーリーベリアルを理解しきれなかったことが、ベリアルを悪の道に至らしめており、その責任を感じているだけに裏方に徹していたのでしょう。
その意味では、父やゼロの言葉は決してベリアルには響きません。24話でなぜ『ゼロファイト』と似たやり取りを挟んだのか訝しがりましたが、要するにシャイニングゼロの言葉でベリアルの行いをどうこうすることは出来なかったという象徴的場面として挿入されたと言えるでしょう(たぶん)。しかし、「息子」であるリクの言葉は、リクがベリアル本人という側面を有するために、「理解」を含むものでした。その末にベリアルは敗れ去ります。しかし、その敗北がこれまでゼロ相手に喫してきた敗北とは異質なものであることは言うまでもないと思います。
ウルトラマンベリアルは『ゼロTHE MOVIE』で一旦倒されて表舞台から退場したのが、『ゼロファイト』で復活したキャラクターです。『ゼロTHE MOVIE』ではゼロと仲間たちがベリアルを倒した末に新しい宇宙警備隊(ウルティメイトフォースゼロ)を結成しており、ベリアルの死の意義はゼロたちに託されました。しかし、『ゼロファイト』では、ゼロの身体を乗っ取ったベリアルがウルティメイトフォースゼロを全滅させ、彼らの命を甦らせると同時にベリアルも復活するという非常に悪趣味な重い方法でベリアルは呼び戻されることになりました。今度はベリアルの行動にゼロやその仲間たちの死が託されたと言えるわけです。そして『ジード』でのベリアルは、まさにウルトラマンジード・朝倉リクを1シリーズかけて真のウルトラマンに仕立てることで託された役割を果たし抜いたと言ってもいいでしょう*3。
こうしてウルトラマンベリアルは再び眠りにつきました。『ウルトラマンジード』はベリアルを再び眠らせる作品として、ゼロシリーズの延長上に成り立つ作品として、有意義な示唆を含んでいると言えるでしょう。
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ところで、