「何と!足利義氏は4人いた!」
「なななな何だってーーー!!!!」
となる人は多くないと思う。一般人なら「そもそも足利義氏って誰だよ」と一蹴されてしまいそうである。本質的には知識マウント以外の何物でもない記事だが、「4人もいたのか、知らない○人は誰だ?」という人は目を通しても損ではないんじゃないかと思う。
足利義氏には、足利義氏と足利義氏がいることはまだ知られているのではないだろうか。ただ、平成24年(2012)には足利義氏の存在が示唆され、足利義氏は3人になった。これだけだとどうにも足利義氏が足利義氏と足利義氏に比べて影が薄い感じだし、足利義氏列伝を構想するにはいかにも弱かった。ところが、平成30年(2018)足利義氏の存在が明らかとなった。この頃には「また足利義氏か」という感覚もあり、足利義氏が4人目というのも意識としてあった。よって、4人いるのなら足利義氏と足利義氏も足利義氏と足利義氏に存在感が劣らず、何とか列伝でまとめられるのではないかという思いが初めて生まれた。そういうわけで足利義氏と足利義氏、足利義氏、足利義氏についてまとめてみたのがこの記事である。足利義氏と足利義氏、足利義氏、足利義氏はいかに足利義氏であったのか、存分に読まれたい*1。
…どうせだから、5人目も出て来ないかなあ…
足利義氏―鎌倉足利氏の偉大なる父祖
足利義氏は、源姓足利氏の初代を源義康とすれば、3代目にあたる。父・足利義兼は源頼朝の母方の従弟であり、義氏の母は北条時政の娘である。義兼は頼朝の従弟であると同時に相婿でもあり、義氏は源頼家・実朝、北条泰時と従兄弟関係にある鎌倉幕府のサラブレッドであった。
父足利義兼は頼朝の縁戚でもあり、頼朝が挙兵するとすぐにこれを支持した。治承4年(1180)12月頼朝が鎌倉の新邸に移った際、「足利冠者義兼」が供奉している。特にこの段階では北関東へ頼朝の影響力は伸びておらず、そうした情勢の中で下野国の有力源氏一門である足利氏が頼朝陣営に加わった効果は大きいものがあった。ただし、義兼の頼朝陣営への参加は即御家人となったことを意味しない。しかし、文治4年(1588)正月義兼は頼朝に垸飯を献じた。年初の垸飯は君臣関係を確認する象徴的儀式であり、幕府秩序内においては高位の御家人がこれにあたる。義兼はこうして頼朝の御家人となることが明確された。その一方、最初の垸飯沙汰人となったことで、足利氏は頼朝に最も近しい源氏一門「御門葉」の筆頭となったのである。足利義兼はこうして鎌倉幕府において地位を得た。
しかし、だからと言って足利氏が有力源氏一門、有力御家人であり続けられるかは別の話である。初期鎌倉幕府においても上総介広常、一条忠頼、源義経、源範頼、平賀朝雅らは功績を挙げて名誉ある地位を得ながらも、そのために粛清されて消えて行ったのである。足利氏が同様の運命を辿る可能性は大いにあったと言えよう。建久6年(1195)足利義兼は出家、引退したが、これも政争による失脚を回避せんがためのものであるかもしれない。かくして、足利氏の命運は後継者足利義氏に託された。
足利義氏の行動の初見は元久2年(1205)の畠山重忠の乱である。次には、建保元年(1213)和田合戦でも朝比奈義秀と戦っている。いずれも北条氏の軍勢と共同で行動していた。それだけではなく、北条氏からも足利氏の軍勢は有力な与党と見なされていた。義氏の足利軍は承久の乱でも幕府軍中核を形成し、元仁元年(1224)北条義時が亡くなった際には、北条泰時、時房とともに上倉している。義氏は常に北条氏と歩調を合わせていたのである。
なぜ、足利義氏と北条氏はこのように協調していたのであろうか。これは北条氏には義氏を必要とする理由があったことが大きい。北条氏は伊豆出身だが、もともと大きな武士団を形成してはいなかった。北条氏は婿である源頼朝が力を得るにつれ、勢力を伸ばした一族であった。さらに、当然であるが北条氏は幕府首長である鎌倉殿になれるような身分ではなく、御家人という点では多くの御家人たちと対等であった。北条氏が幕府の有力者として振舞う名義的基盤は意外と脆く、他の御家人の反発を抑えるために、源氏有力一門である足利氏を抱き込まなければならなかった。一方、義氏にとっても、生き残りのために北条氏と結託する選択肢には魅力があった。こうして、義氏と北条氏は互いに補完しつつ、幕府内での地位を確立していったのである。
足利義氏の勢力扶植の最たるものは、三河を足利氏第二の本国としたことである。承久の乱の恩賞として三河守護職を得た義氏は、鎌倉と京都を連結する中間に位置する三河国の位置を生かすべく、三河における所領を拡充していった。特に三河国吉良荘に送り込まれた義氏の長男・長氏の系統は、後世吉良氏となり、権力・権威ともに足利宗家に匹敵する存在として成長していった。
北条氏と結んだと言っても、源氏一門筆頭であるという義氏の自意識はなお高いものだった。義氏が結城朝光に薄礼な書状を認め、朝光から同様に薄礼な書状を返されると、義氏は自分は「右大将家御氏族」であるとして激怒し、朝光と相論を起こしている。自らを頼朝の一門と位置付け、そのために他の御家人よりも高位であるとする論理を振りかざしたのである(結局この相論はうやむやのまま終わった)。
寛元元年(1243)足利義氏は垸飯の第一日の沙汰人を務めた。垸飯の第一日の沙汰人を務めるのは、御家人の筆頭であり北条氏執権にほぼ固定化されていた。そうした中で北条氏以外で垸飯第一日の沙汰人を務めたのは、建保元年(1213)の大江広元とこの年の義氏のみであった。北条泰時が亡くなり、後継者経時・時頼兄弟が幼い中、義氏はいつの間にか幕府の最長老となっていたのである。
義氏は宝治合戦においても、前鎌倉殿九条頼経や三浦氏排除に際し、指導的役割を果たした。建長3年(1252)には後継者足利泰氏が突如出家して失脚する中、泰氏個人の所領は没収されたものの、足利氏付随の所領は無傷で、義氏の長老の地位も変わることはなかった。建長6年(1255)足利義氏は亡くなった。享年67歳であった。
足利義氏の母は北条時政の娘であったが、正室も北条泰時の娘で、息子泰氏の妻も北条時氏、名越朝時の娘であった。こうして、鎌倉時代の足利氏当主の正室は基本的に北条一門となっていった。義氏は足利氏を北条氏に最も近しく、協力的な源氏一門として性格付け、そのレールは足利尊氏の離反に至るまで基本的に維持された。初期鎌倉幕府で源氏一門や有力御家人が次々粛清され、族滅に追い込まれる中、足利氏を源氏一門としても有力御家人としても存続させた義氏の手腕はその後の歴史に大きな影響を及ぼしたと言える。
なお、日本における猿回しの最古の記録は、足利義氏が鎌倉殿・九条頼経に披露したものであり、芸能史においてちょっとした足跡がある(『古今著聞集』)。
七一六 足利左馬入道義氏の飼猿能く舞ひて纏頭を乞ふ事
足利左馬入道義氏朝臣、美作国より猿をまうけたりけり。そのさる、えもいはずまひけり。入道将軍の見参に入たりければ、前能登守光村につゞみうたせられて、まはらせけるに、まことに其興ありてふしぎなりけり。けんもさの直垂、小袴にさはらまきさせて、烏帽子をせさせたりけり。はじめはのどかにまひて、すゑざまにはせめふせければ、上下めをおどろかして興じけり。まひはてゝは必纏頭をこひけり。とらせぬかぎりはいかにもいでざりければ、興あることにて、まはせては、かならず纏頭をとらせけり。件猿、やがて光村あづかりてかひけるを、馬屋の前につなぎたりけるに、いかゞしたりけん、馬にせなかをくはれたりけり。そのゝち舞こともせざりければ、念なきことかぎりなし。(日本古典文学大系〈第84〉古今著聞集 (1966年))
…光村とは三浦義村の子で泰村の弟。纏頭を乞うとは褒美として衣類をもらうこと。なかなかちゃっかりしているが、馬に背中を噛みつかれて芸を披露しなくなったのは残念なことである。
花押
「義」の字を崩した形である。義氏は花押においても画期であり、この「義」を崩した花押をさらに抽象化したものが足利氏歴代の花押となっていく。

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足利義氏―応永の乱西の旗頭
応永6年(1399)10月有力守護であった大内義弘は幕府の最高権力者である足利義満との対立が臨界点に達し、和泉国堺で挙兵した(応永の乱)。これは幕府に対する謀反であり、義弘は正統性を欠いていた。そのため義弘は鎌倉公方足利満兼と同盟し、有力足利一門を擁立する態度を見せることで、正統性の確保を図った。実際に足利満兼は鎌倉から出陣し、武蔵国府中に進軍する軍事行動を展開した。満兼は自身を義満に代わる将軍と自負し、西国に至るまで軍勢催促を行なったと従来は語られてきた。
しかし、応永の乱に呼応して西国で軍勢催促を行なった足利一門は満兼ではなかった。それは足利義氏を名乗る人物であり、花押も満兼とは明確に異なる。足利義氏の行動を語る史料は多くないが、確かめられるのは以下の通りである。
- 安芸の板垣将信に左衛門尉への官途推挙を行なった(10月23日)
- 備後の山内通忠に備後と摂津の所領を安堵した(10月25日)
- 備後の山内通忠に今後について使者の赤名次郎左衛門と「談合」するように命じた(10月25日)
- 安芸の児玉氏に軍勢催促を行なった(10月27日)
たった4件しかないが、それでも10月下旬にかなり頻繁に行動していることがわかる。特に官途推挙を行なえるのは将軍以外では渋川氏など有力足利一門に限られ、大内氏には不可能なことであった(大内氏が官途挙状を発給しだすのは大内教弘から)。義氏の自意識の高さと、義氏ならば官途を推挙できると見なされていた地位の高さを窺い知ることが出来よう。
だが、応永の乱は12月大内義弘が敗死したことで終結へと向かう。足利満兼の上洛戦も挫折し、義満への謝罪に追い込まれた。そして足利義氏も姿を消してしまうのである。結局、この足利義氏とはどこの誰であったのか。
注目されるのは義氏が文書を発給した対象は安芸・備後の国人たちであったことである。義氏はこの地域に大きな影響力を持つ足利将軍家の連枝であったのだ*2。とすると、かつて中国地方で反尊氏・義詮勢力として活動し、義満との和解後は石見国に隠遁したとされる足利直冬の子孫であった可能性が高い。足利直冬の子孫は嘉吉の乱の際にも義尊・義将兄弟が赤松氏によって擁立されることになるが、義氏はその嚆矢であったと言える。
花押
大内義弘花押の影響が看取される(らしい)。
足利義氏―鬼怒川水系を支配したもう一人の「鎌倉公方」
享徳3年(1454)12月27日鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を誅殺した。成氏はさらに鎌倉の上杉氏を襲撃し、ここに東国の戦国時代の端緒となる享徳の乱が勃発したのである。関東の勢力は公方の足利成氏と管領の上杉氏の二つの陣営に分かれて、30年弱に及ぶ長期的戦争を戦うことになった。上杉氏には室町幕府の支持があったものの、成氏は現職の公方である。つまり、上杉氏の行動は室町幕府体制下において正義であり、鎌倉府体制下において不義であるという込み入った事情を抱えていた。長禄元年(1557)上杉氏はこのジレンマを克服すべく、幕府将軍足利義政の兄・政知の関東下向を請い、政知を「鎌倉公方」として擁立することになる。
しかし、よく見ると乱勃発から足利政知の下向、擁立まで3年ほどのブランクがあることに気付かされる。この間、上杉氏は足利氏を推戴することなく戦っていたのだろうか?この鍵を握る人物こそ足利義氏を名乗る人物である。ただし、義氏が活動したのは宝徳4年(1452)である。その内容とは「源義氏」が陸奥の白川直朝に常陸国の小栗六十六郷の宛行を約束したことと、幕府の要人である細川持賢との連絡を賞し下野国について宇都宮氏との相談を行うよう促すものである。「源義氏」だけでは誰だかわからないが、書札礼から見ると公方に准じる存在と見て間違いない。
また、細川持賢と白川直朝の連絡を義氏に知らせた人物は「太田」と称されている。宝徳4年(1452)には陸奥に造内裏段銭が賦課されているが、その際に派遣された使節が奉公衆太田光*3であるので、ここでの「太田」も太田光のことを指す。すなわち、この段階で足利義氏―白川直朝―太田光―細川持賢(―細川勝元)という何らかの連絡ルートの存在が明らかとなる。さらに義氏は常陸国小栗の闕所宛行権を有することを自認しているのである。この足利義氏はどこの誰なのだろうか?
注目されるのは享徳の乱緒戦における分倍河原の戦いで敗れた上杉勢はまさに常陸国小栗へ敗走し、この地で軍勢を立て直したことである。なぜ敗軍となった上杉氏の軍は本拠地の上野や越後ではなく、常陸国小栗へ至ったのか*4。さらにこれを見た足利成氏は北上し、以後古河を拠点として北関東を収めようとする。小栗には上杉氏にとって潜在的な「味方」であり、成氏にとっては潜在的な「敵」である勢力があったと考えざるを得ない。
そして、小栗を与えられた白川氏が宇都宮氏と結ぶことを求められていることを頭に入れつつ、小栗から宇都宮へ線を引くと、その延長上には日光山が存在する。享徳の乱勃発時、日光山の別当を務めていたのは、公方足利成氏の兄、将軍足利義政の猶子にして、鎌倉の勝長寿院門主を兼任する成潤である。成潤は細川勝元より成氏と並列されて「御両所様」と呼ばれており、その権威は公方成氏に匹敵するものであった。
ところが、乱以前の成潤の動向というのはよくわからない。享徳の乱の前哨戦である江ノ島合戦(宝徳2年、1450)の際、成潤は成氏によって共同行動を求められている。ということは、成潤は成氏方ではなかったのである。さらに直接的なことには、乱勃発後の康正2年(1456)成氏は成潤が自身と対立していることを非難している。また、成潤は系図によると五十子で早世したという記述が見える。五十子とは享徳の乱において、約20年上杉方が駐屯した軍事拠点に他ならない。
すなわち、成潤は明確に足利成氏の敵となり、上杉氏に擁立されていたのである。その勢力圏は日光山および周辺地域である。公方を名乗り得る資格があり、小栗を宛て行うことが可能であり、宇都宮氏を傘下とし、幕府との強いコネを有する「足利義氏」が成潤その人である蓋然性は極めて高いと言えよう。しかし、成潤は「早世」してしまう。成氏や成潤の生年は正確には不明であるが、享徳の乱発生時の成氏は20歳前後であると考えられ、その「兄」である成潤は「早世」と言うからには、20代で死去したと思われる。成潤は長禄元年(1457)までに亡くなっており、擁立できる足利氏を失った上杉氏は新たな公方候補として足利政知を要したと考えるのが自然であろう。
成潤が示した高い宗教的権威を有する足利氏連枝が正統たる公方に反抗する可能性は、約50年後に小弓公方足利義明となって、古河公方の前に立ちはだかるのである。
花押

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足利義氏―権威として純化した関東の王
天文7年(1538)小弓公方足利義明の攻勢に対抗すべく、古河公方足利晴氏は北条氏綱に協力を求めた。氏綱はこれに応えて派兵し、足利義明、その弟基頼、息子義淳を討ち取る大勝利を挙げた(第1次国府台合戦)。権力体としての小弓公方は滅亡し、晴氏は古河公方の内紛を清算したのである。元来関東に地盤を有しない北条氏綱にとっても、関東公方たる権威を有する晴氏との提携は魅力的であった。北条氏綱は晴氏より「関東管領職」に補任され、さらに関係を深めるべく、天文8年(1539)娘(後の芳春院)を晴氏に嫁がせた。こうして、後北条氏は関東公方の「御一家」となっていったのである。そして、天文12年(1543)芳春院は梅千代王丸を産んだ。この子こそがラスト・足利義氏となる人物である。
しかし、父晴氏と後北条氏の関係は蜜月ではなかった。天文10年(1541)北条氏綱が亡くなると、周辺の反北条勢力の動きは活発化した。上杉憲政、上杉朝定、今川義元、武田晴信らによる北条包囲網が敷かれると、後継者北条氏康は窮地に立たされ、足利晴氏を頼んだが晴氏は氏康を見限った。ところが、晴氏のアテは外れ、北条氏康は辛くも包囲網を防ぎ切り、この過程で上杉憲政は追放され、扇谷上杉氏は滅亡する。後には氏康と晴氏の険悪な関係が残された*5。天文17年(1548)晴氏は長男幸千代王丸を元服させて、「足利藤氏」を名乗らせた。藤氏の母親は足利持氏以来、公方の正室を輩出した簗田氏の娘とされ、晴氏が藤氏を後継者とするのも当然の判断だった。
結局、天文20年(1551)北条氏康は晴氏の近臣簗田晴助と起請文を交わし、正式に晴氏と「和解」することになった。そして、天文21年(1552)晴氏は譲状を認め、梅千代王丸を後継公方とすることを宣言した。歴代の関東公方はこのような譲状を書いたことはなく、後北条氏からの圧力の結果であることは明らかである。晴氏は芳春院、梅千代王丸と家族水入らずで葛西城に暮らしたが、ついに事件が起きる。天文23年(1554)晴氏は突如として出奔して古河城に移り、廃嫡した藤氏とともに反北条の挙兵に至った。しかし、古河城はあっさりと攻略され、捕えられた晴氏は以後幽閉された。政治生命を完全に断たれた晴氏が死ぬのは永禄3年(1560)のことである。
晴氏から家督を譲られた梅千代王丸は弘治元年(1554)元服して、将軍足利義輝から一字を戴いて「足利義氏」となった。将軍から「義」字偏諱を受けたのは歴代関東公方では義氏ただ一人である。これまでの経緯からすると、義氏は後北条氏の傀儡であり、ただのお飾り公方にしか見えない。確かに義氏は父晴氏と違い、一度として後北条氏に反抗することはなかった。しかし、一概にお飾りとも言えない。なぜならば、義氏の発給文書数は歴代古河公方の中で最多であるからだ。『戦国遺文 古河公方編』によると、歴代公方の文書による活動年数と文書数は次の通りである。
公方 | 文書初見 | 文書終見 | 活動年 | 文書数 |
足利成氏 | 嘉吉元年(1441) | 延徳2年(1490) | 50年 | 339 |
足利政氏 | 長享2年(1488) | 永正17年(1520) | 33年 | 164 |
足利高基 | 文亀3年(1501) | 享禄2年(1529) | 29年 | 145 |
足利晴氏 | 天文6年(1537) | 天文23年(1554) | 18年 | 157 |
足利義氏 | 天文22年(1553) | 天正10年(1582) | 30年 | 432 |
足利氏姫 | 天正11年(1583) | 天正19年(1591) | 9年 | 21 |
固より、史料は発給されたものが全て現存するはずもないが、それでも一見して義氏の文書数が抜群であることがわかる。足利成氏も多いが、これは活動年数の長さと享徳の乱という長期戦乱に主体として関与したことが主因と思えば、義氏の多さは異様である。義氏は確かに後北条氏のロボットであったのかもしれないが、その実態は最大限駆動させられるロボットだったのである。
それでは後北条氏は義氏をいかに働かせたのか。南関東を押さえ「関東管領」を自認する後北条氏にとっての政治課題は北関東と南奥にあった。後北条氏は北関東とその延長に位置する大名に対し、公方義氏の権威を通して接触を図った。すなわち、後北条氏によって足利義氏には「御下知」を行う権限があると設定され、後北条氏は「管領」として義氏の「上意」を奉じ、助言・意見を加えたのである。後北条氏にとって義氏とは、自らが上位権力であることを示す装置であったが、この時点の後北条氏にとっても義氏を用いなければ、大名たちと交渉を行い得なかったことに関東公方の秩序は生きていた。
さらに、義氏の兄である足利藤氏が反北条の旗頭となったことも影響していた。実際の権限や実力はともかくとして、藤氏には義氏を凌駕する正統性を本来的には有していた。実際に里見氏や上杉謙信は藤氏を公方と見なすことで、後北条氏を攻撃する正統性を得ることが出来た。後北条氏は、自らが擁立する義氏は藤氏以上の存在であるとアピールしなければならなかった。こうした中、義氏は古河公方で唯一鶴岡八幡宮を参詣し、花押を関東公方の様式ではなく、将軍足利義輝のものを模倣したものに変えるなど、自らを「将軍」に擬して行くことになった。
こうして、足利義氏は「関東の王」たる空前の至上の権威として純化していったのである。
しかし、天正年間に入ると情勢の変化が訪れる。後北条氏は自らを「管領」ではなく「大途」と称し始め、それまでのように交渉に義氏を用いることはなくなった。それどころか、古河公方領は後北条氏の支配地域に編入され、その行政も北条氏照の監督下に置かれることになった。ここに義氏の政治的役割は消滅し、今度こそ本当の「お飾り」になった。義氏は本拠地である古河城で発生した喧嘩さえも、「栗橋」(北条氏照)に連絡しその裁定を仰がねばならない存在に落ちた。晩年の義氏は後北条氏が自らを軽んじることを歎きながらも、父晴氏のように反発する力もなかった。
天正11年(1583)足利義氏は亡くなった。だが、その生涯は無駄ではなかった。義氏が後北条氏によって身に帯びた至上の権威はもはや消滅させることも無視することも出来なかった。義氏の唯一の男子梅千代王丸は夭折しており、古河公方の継承者はなかったが、後北条氏は古河公方を消滅させるでも、養子によって継承させるでもなく、義氏の娘である氏姫を当主と見なした。関東公方たる古河公方のみが持つ宗教への支配権は後北条氏さえも手を付けることは出来ず、古河公方に残された権力の一つであった。氏姫は義氏の印判を使用し、古河公方家の7人の重臣(「連判衆」)が連署することで、古河公方家は存続したのである。
こうした古河公方家を豊臣秀吉や徳川家康も重んじるほかなかった。秀吉は氏姫を小弓公方の子孫である足利国朝、ついで頼氏と婚姻させて、喜連川氏として再出発させた。江戸幕府においても喜連川氏は5000石でありながら、10万石待遇で、参勤の義務もない規定外の存在であった。その特殊な地位へのレールを敷いた人物として、足利義氏は評価されるであろう。
花押
足利義氏は生涯に4種類の花押を用いた。左よりA、B、C、Dと呼称する。なお、義氏は後北条氏に倣ったものか、古河公方で唯一印判を使用しているが、省略する。
Aは関東公方伝統様式とも言うべきものに沿っている。Bは西の将軍・足利義輝の花押を模倣したとされるもので、永禄7年(1564)以降使用した。C、DはBの変形で、B以降断続的に変更し、永禄9年(1566)頃Dに落ち着いた。

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「足利義氏」とは何だったのか
こうして足利義氏を見て行くと、ある共通点があることに気付く。足利義氏には足利義満、足利義氏には足利成氏、足利義氏には足利藤氏と、この3人の足利義氏には正統性において勝る足利氏の「公方」が存在し、義氏は正統への対抗者であったことである。義氏(と義氏を担ぐ勢力)には当初より、正統性において重大な瑕疵があった。そのたびに「足利義氏」は招来されたのである。
足利義氏は、鎌倉・関東足利氏を有力者として決定づけた偉大なる父祖であった。三河に勢力を扶植し、花押も歴代足利氏の原型となり、足利氏の通字である「義」と「氏」を同時に使用した人物であった。その権威性は子孫にあってなお高いものであったと推測できる。現実に存在する高い権威を凌駕すべく、より高い過去の権威が必要であった。「足利義氏」は反権威としての高権威を担保する名前であったのではないか*6。
そうした反権威としての高権威「足利義氏」は、皮肉と言うべきか当然と言うべきか、正統たる権威を超克してしまい、中世から近世への転換の中で新しい権威を纏うことになった*7。「足利義氏」は中世足利氏の祖であると同時に近世足利氏の祖となったのである。足利義氏と足利義氏は、足利義氏が「足利義氏」となったことに示唆を与える、権威と反権威としての「足利義氏」の歴史を象徴する存在と言えるだろう。

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*1:この段落が書きたかっただけでは…
*2:なお、石見は大内義弘が守護であったため、義弘が直接軍勢動員をかけている。義氏はあくまで大内氏が公権を持たない地域において活動が期待されていたのである
*4:一応小栗周辺にも上杉氏の所領が存在するため、積極的な理由に欠くわけではない
*5:なお、晴氏と敵対に追い込まれた氏康は代替策として、足利氏「御一家」の吉良頼康を公方に擁立した
*6:もちろん、足利義久、足利義尊、足利義明など「義氏」ではなかった反権威足利氏も多く存在したし、偏諱「義」と通字「氏」の組み合わせであった足利義氏もいるので、全てがそうした狙いというわけでもあるまいが
*7:奇しくも両方ともに「北条氏」が深く関わっている