志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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新元号「令和」に思うこと

 先立つ平成31年(2019)4月1日、来たる皇太子殿下の御即位に向け、新元号「令和」が発表されました。

 いやはや驚きました。
 新元号がおめでたく発表されるのは近頃あまりなく…と言うか、平成4年生まれの私からすると改元を体験するのも初めてなわけで、興味津々でありました。その中で新元号は何になるのか、色々と考えていたのです。なぜだか「安」が入る元号がやたら予測されていましたが、普通に考えて首相の名字と同じ字を使ってしまうと、元号が政治の道具になってしまうことになるので、それはないだろうなと。明治以降の元号イニシャルMTSHも避ける。そうなると、候補の字としては「光」「元」「弘」「永」あたりを使ってくるのではないか…そんな風に予想していました。


 予知夢ならず!


 しかして、運命の11時40分菅官房長官が掲げた文字は「令和」。見事に外したわけであります。「令」は命令の令だし、そんなの使うなんて思わないじゃん。「和」も平成の前が昭和だったもんで避けると思ってたし。
 「令」を使う元号は採用は初めてですが、過去に提案されたことはあります。幕末、文久4年(1864)の改元時です。改元天皇・朝廷の権限ですが、室町以降は武家(幕府)の財政的協力がなければ、行えなくなっておりました。そのために元号は武士にも気兼ねするものになっており、例えば「延徳」(1489~92)はかつて「延文」(1356~61)に幕府の祖・足利尊氏が亡くなっていたために、幕府からは不吉な年号と思われるのではないかという意見が公家から出ております。
 余計な話をしました。文久からの改元時に、朝廷は新元号の候補を幕府に見せて、幕府の意見を聞いたわけです。しかし、その新元号の候補2つというのが「令徳」「元治」。幕閣は眉を顰めます。「令徳」とは「徳川に命令する」、「元治」とは「元のように朝廷が治める」という含意があるのでは…?どっちにしろ、幕府は軽んじられています。朝廷からすると、この時期は権威が上がっていたので、居丈高なところもあったのでしょうね。結局、幕府は「元治」を選び、文久4年は元治元年となりました。
 そういう話をたまたま知っていたので、元号の令とは「命令する」の意であると、わりと強烈に思ってしまったんですよね。この元号を決めたのが自民党政権で良かったですね。「令徳」=「徳川に命令する」なら「令和」は「和(日本)に命令する」とも読めますし。
 しかし、元号に採用するからには「令」をネガティブな意味として採るとはとても考えられません。出典は何と万葉集!我が国の古典から元号が出るのは、記録上初めてで、間違いなく画期です。「令和」の出典となったのは、巻第五・梅歌三十二首の序であります。以下、『萬葉集 (1) (新日本古典文学大系 1)』に基づいて書き下し文を挙げます。

天平二年正月十三日、帥老の宅に萃まり、宴会を申ぶ。時に、初春の月、気淑しく風らぐ。梅は鏡前の粉に披き、蘭は佩後の香に薫る。加以、曙の嶺に雲移りて、松は羅を掛けて蓋を傾け、夕の岫に霧結びて、鳥は穀に封ざされて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る。ここに於て、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然として自ら放にし、快然として自ら足る。若し幹苑に非ざれば、何を以てか情を攄べむ。詩に落梅の篇を紀す。古今それ何ぞ異ならむ。聊かに短詠を成すべし。

 何が書いてあるかわからないですよね。そんなあなたに現代語訳!

天平2年(730)1月13日、大宰帥大伴旅人の家に集まって宴会が開かれた。その時は、初春の良い月で、空気は美しく風は柔らかい。梅は鏡の前の白粉のように花が咲き、蘭は匂い袋(現代的に言うと香水)のように良く薫る。さらにさらに、夜明けの山には雲がさしかかり、松はその雲を纏って頭上の光景を遮る。夕方の山には霧がかかり、鳥はその霧に囚われて山中の林に行くアテもない。庭には今年の蝶が飛び、空には去年の雁が帰って行く。(まさしく宴会日和である。)
 そこで、天を屋根に地を席にして、互いに膝を近づけて酒杯を回そう。言葉も忘れてしまうほど中は楽しく、それでいて外からは穏やかに見える。各自が気ままに振舞いつつも、それで嫌な思いもなく皆が満足している。(素晴らしい宴会だった。)
 言葉に起こさねば、この心を伝える方法などないのだ。昔も今も風流を愛する心は変わらないのだから、皆で梅の歌を披露しよう。さあまずは庭の梅で短歌を作ろうではないか。」

 現代語訳の出来栄えはともかく、ニュアンスを掴んでもらえればというところです。今更言うまでもないですが、修辞には明らかに漢籍の影響が強く看取されます。大伴旅人大宰府の長官である大宰帥であり、当時の最先進地域である大陸への窓口の元締めであったのです。すなわち、上記の序が描く情景とは、国際色豊かな九州の地において、当時最高文明と認識された中華的理想の一つが現出する空間なのであります。梅も現代こそ日本に馴染んでいますが、中国からの外来種です(梅の訓である「むめ」も厳密にはやまとことばではありません)。
 しかし、宴会の参加者たちはこの空間において、漢詩を詠みませんでした。彼らは中華的理想空間において和歌を詠じたのでした。「古今それ何ぞ異ならむ」からはある種の矜持を読み取ることも出来るでしょう。中華王朝を模範にして、その価値観を受容して国家を整備しつつ、自らの言葉、伝統ある様式で語る。梅歌序にはまさしく国際主義と国粋主義が並び立ち、交差していると捉えられるでしょう(一応言っておきますが、これは一つの解釈です。あしからず)。
 「令和」の出典はただの良い風景ではありません。その背後に広がるのは、国際主義の空間とその中での国粋主義のささやかな主張なのです。21世紀の日本における新時代を飾る言葉としてはとても素晴らしいものなのではないかと私はかなり感動しております。
 ちなみに梅歌三十二首の中では次の歌が好きですね。

青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし 笠沙弥
(原文:阿乎夜奈義 烏悔等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母与斯)

 「青柳と梅の花(の枝)を折って(頭の)髪飾りとし (酒を)飲んだ後は死んでしまって構わない」の意味です。すごく酔っ払い的な歌ですよね。しかして、詠み手は「笠沙弥」という僧侶でした。僧侶と言えば普通は髪もありませんし、不飲酒戒は基本的な戒律です。しかも楽しくやれれば死んでも良いわ、とは享楽的すぎる…。笠沙弥は筑紫観世音寺別当、つまり九州仏教界のトップであるわけで、破戒僧でもないのです。いかにも僧侶らしからぬ歌をトップクラスの僧侶が詠んでいるわけです。
 この歌は『万葉集』の中では直前に置かれた歌との対応関係が読み取れます。

梅の花 今盛りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛りなり 筑後守葛井大夫
(原文:烏悔能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理)

 「どち」というのは聞きなれませんが、「仲間」を意味する古語です。「梅の花は今満開だ。仲間同士で髪飾りにしようではないか。今満開だ」という大意になります。なお、梅の花を髪飾りにするのも漢籍にある表現で、筑後守は「梅が満開なんだし、漢籍にあるアレやってみようか」と詠っているわけですね。
 しかし、笠沙弥にとっては、普通だと「そんなこと言われてもわしには髪がないから、漢籍のアレ出来ないじゃん」と思うほかないですよね。そこを反駁するのではなく「全くその通り。髪飾りにして酒を飲めば、死んでも構わんくらいの楽しみですわ」とあえて乗っかることで、ある種の笑いに転化してみせた…そういった巧みさなのであります。実際にこのようなやり取りがあったかどうかは不明ですが、『万葉集』の編者はこの二首を並べたら面白いと考えたのは明らかだと思われます。
 それにしても恥ずかしながら「令」にいい意味があるとは、「令和」まで意識したことがありませんでした。しかし、調べてみると「令月」というのは熟語として日本の過去の文献にもそれなりに顔を出しておりますね。公家の日記などによく見えます。

一 六月十五日に三好長慶境津へ渡海有。御親父開運のため廿五年忌千部経有。同七月十日に長慶境より多喜山へ松弾被申候也。種々御遊共千句連歌も有之。観世大夫の能も有之。嘉辰令月とも此節可申哉と世上人申候也。

 上記は『細川両家記』に見える「令月」です。戦国大名三好長慶が家臣の摂津国滝山城松永久秀(「松弾」)の招きで滝山城に御成し、連歌を催したり(滝山千句)、能楽を観劇したりした様が、「嘉辰令月」と世間の人々から言われております。要するにものすごくおめでたいと思われているのであります。主君が家臣の邸宅に招かれるのは、君臣関係が密であることのアピールであり、久秀にとっては長慶を歓待してそれが「おめでたい」と思われたこの瞬間はまさしく人生の幸せの一つの絶頂ではなかったかと推測できます。
 ちなみに上記はJapanKnowedgeで群書類従を検索して見つけたのですが、戦国大名関連の記述で「令月」が出現するのは、『細川両家記』の上記の一節だけでした。もちろん群書類従未所収の文献や文書には「令月」が登場している可能性は大いにあります。その上で言わせてもらえば、三好氏の記述にのみ出現するという点から風雅さを勝手に感じてしまいますね。
 思ったよりダラダラ取り留めもなく書いてきましたが、そろそろ読んでる皆さんもお腹が減ってきたんじゃないですか。あと一つだけにしましょう。「令和」の「和」についてです。昭和と被ってるじゃんと思ったのは前述した通りですが、確かに「令」を受けるには「和」しかない気はします。「令」を元号に使うのは初めてなので、やはり違和感もあり、そこを使用回数の多い「和」で支える構図です。これもまた、新らしさを古さで支えつつ、押し出していく意志を感じさせるものではないでしょうか。逆に言えば、すぐに全てを新しくすることは出来ないが、古例のままではいけないという態度と言いますか。急進ではなく漸進といった風に思います。
 以上、「令和」にかこつけて色々言ってきましたが、まとめると次のようになります。

  • 「令和」が描く風景とは、国際主義と国粋主義の融和である(素晴らしい元号だ)
  • 万葉集』は面白い(皆読もうな。いや、読めとは言わないからどういう文献なのか基礎知識くらい知っておいてくれ…*1
  • 「令月」と言えば三好長慶松永久秀の君臣愛(新時代でさらに研究が深まることを願います)
  • 「令和」が持つ新旧両立、漸進改革の風(いいと思います)

 正直言いますと、まだ命令の「令」じゃんという思いは消えてません。ただ、これは慣れと言いますか、今後「令和」を題した商売は横行するでしょうし、新生児に元号から採った名前を付ける親も多くいるかと思います。そうした中で「令」の字も社会的な意味合いは変わっていくはずです。10年経ったら「令」の良い意味が定着し、命令の「令」じゃんと言ったら「これだから平成以前の老人は…」みたいに思われる世の中になっているかもしれません。元号は時代を作ります。どのような時代が現出するのか、我々自身が動かし現出する未来にふさわしい時代となるよう祈ります。
 いやあ締まりましたね、最後。じゃあそろそろ置きますか。

万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし 筑前介佐氏子首
(原文:万世尓 得之波岐布得母 烏悔能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子)

*1:右も左も『万葉集』を読んだことないのに色々言ってる人多い…多くない?