志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『戦国遺文 佐々木六角氏編』八〇一・本文と現代語訳~長文で激怒する六角承禎

 先日から村井祐樹『六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選)』を読んでいるわけなのですが、この本は史料の引用と現代語訳が多く、六角氏に関する歴史の流れはとてもわかりやすいものになっています。その中には、永禄3年(1560)の「六角承禎条書案」の現代語訳もありました。ただ、これがかなり面白い!何が面白いって六角承禎の激怒ぶりがです。しかもそれが現代語訳だけで5ページも続きます。長い!あまりに長かったためか、原史料が引用されておらず、調べればこの広いネットの海にも(この文書は斎藤道三下剋上を語っているので有名ながら)原文が転がっていないということで、ならば紹介しても罰は当たるまい…ということで本文と現代語訳を掲載することにしました(本文は『戦國遺文―佐々木六角氏編』より引用)。
 なお、現代語訳ですが、上記『六角定頼』のものを参考にしながら、若干表現を変えた箇所もあります。これは承禎の怒りを盛っているのではないか?という意訳もあるかもしれませんので、適宜原文と対照してください。また、六角義弼や土岐頼芸の呼称は数種類ありますが、訳では「義弼」・「土岐殿」など統一を図ったところがあります。

簡単な紹介

 六角氏は斎藤道三に追放された土岐頼芸を保護し、頼芸の美濃復帰を国策として、織田信長朝倉義景、幕府らを誘って斎藤包囲網を作ろうとしていた。だが、承禎の息子で六角氏の家督である義弼(義堯・義治)は、斎藤氏との同盟路線に転換し、斎藤義龍の娘を娶ろうとした。ところが、この路線変更は父承禎には知らされず、義弼が独断で進めようとしたものであった。これに気付いた承禎は義弼にストップを掛け、制止された義弼は拗ねて出奔してしまった。そこで承禎が義弼を連れ戻すこととこれまでの外交路線の維持を求めて、家老たちに出したのがこの文書である。
 そういう経緯で出されたものなので、とにかく斎藤氏と結ぶことの愚かさをこれでもかと説いているのが特徴である。もちろん斎藤氏さげのバイアスはかかっているが、しれっと重要な情報が紛れ込んでいる。有名なのは、斎藤道三の国盗りが実は親子二代のものであったことである。他にも、承禎は土岐頼芸の復帰を押し立てて斎藤義龍を悪し様に言っており、義龍の実父が頼芸である可能性など脳裏に全くないことや、六角氏と朝倉氏との縁組が過去に存在していなかったことなどがわかる。
 また、世間の評判といったものを戦国大名が強く意識していることが窺える。下々の者の噂話でも大名家の生末を左右するという認識があったのである。

  • 八〇一 六角承禎条書案 〇春日匠氏所蔵文書

(前欠)
一、永源寺へ義弼が引きこもったのはどういうわけか、家臣たちが事情を尋ねたところ、義弼は箇条書きで自分の考えを述べてきた。第一に京都に関すること、第二に土岐殿(頼芸)を長年近江に保護しながら、美濃復帰への努力をやめること、また今回の承禎の横槍は間違いだということ。

一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋処ニ、以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、


一、土岐家と我が六角家は、慈光院殿(六角高頼の妻、土岐氏の出身)以来、代々縁深いことは日本全国に知られていることである。だから、今回土岐殿を蔑ろにしようとしたことは言い訳不可である。

一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院始而、代々重縁儀、京・ゐ中無其隠ニ、諸事不遁間事、


一、あの斎藤義龍の出自は、祖父新左衛門尉は、京都妙覚寺の坊主で西村であったのが、長井弥次郎に仕え、美濃が動乱となったときに才覚を働かせて出世し、長井の一族となり、また父左近大夫(道三)は代々の長井氏の家督を殺害し、長井氏の役職を奪い取って、斎藤の一族に成り上がり、さらに土岐次郎殿を婿にとり、次郎殿が早世した後は、舎弟の八郎殿と申し含め、井口に呼び寄せて理屈をつけて自殺に追い込み、その他の兄弟たちも毒殺やら暗殺やらで全員を殺してしまった。このような悪因には悪い結果がふりかかるのは明白だ。

一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主にて西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近大夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤同名に成あかり剰次郎殿を聟仁取、彼早世之後、舎弟八郎殿へ申合、井口へ引寄、事ニ左右をよせ、生害させ申、其外兄弟衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事、


一、斎藤道三と義龍は義絶し、義龍は弟たちを殺害し、父との戦いでついに親の首まで取ってしまった。このような代々の悪逆、思うがままの下剋上が長く続くはずがない。土岐殿を我らが保護しながら、斎藤が美濃の国主に固定化してしまえば、我が家の面目は丸つぶれになるのは明らかだ。太陽と月が地面に落ちなければ天道は罪をお許しにならないというのに、義龍と縁戚になるなど、名誉も利益も失うことになるのだ。江雲寺殿(承禎の父・六角定頼)は全国にその名が轟く名将であったのに、その孫にも関わらず義龍と結ぶなど、先祖に対し申し訳が立たないし、名門佐々木家の重大な瑕疵だ。理解不能だ。公私ともに大恥だ。

一、斎治父子及義絶、弟共生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候、如此代々悪逆之躰、恣ニ身上成あかり、可有長久候哉、美濃守殿、当国ニ拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、不可過之候、日月地ニ不落ハ、天道其罪不可遁之処、縁篇之儀、可申合儀者、名利二なから可相果候、江雲寺殿天下無其隠孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有分別候、公私共辱同前事、


一、義弼が城に戻るのなら、今後は承禎に従うという起請文を出せ。

一、義弼帰城之時、諸事承禎御意次第由、起請文在之事、


一、佐和山ですでに義龍方に誓紙を出したから今更反故にはできないだと?義弼があくまで義龍との縁談を進めようと言うのなら、合戦をして義弼に味方する者どもは討ち果たしてくれる。しかし、承禎の意向に従い起請文を出して、城に帰ってくるのなら佐和山での誓紙の件は許そう。起請文を破棄するか、提出するのか、各自よく考えておけ。

一、於佐和山、井口与縁篇可申合誓紙遣之由、申候哉、既対父承禎引弓放矢時者、いか様之儀も可申合候、定而人々跡職なとも配当可仕候へ共、令和談、以起請文相果、帰城之上者、佐和山間之儀者、一切ニ不可入候、其時々起請文そたつへきか、承禎ニ誓紙正ニ可成候歟、各可有分別事、

一、家老たちが起請文に背くことがあれば、自分たちで申告し、また義弼に不届きなことがあれば、必ず止めるように定めていたのではないか。それなのに、なぜ止めなかったのだ?天罰や神罰があるとは思わなかったのか?

一、歳寄衆起請文相違之儀在之者、達而可申之、又義弼不可然儀者、達而異見可申旨被申定、今度対父子是非之異見、不被申届儀者、併天罰・神罰をハ不被存候哉事、


一、縁もゆかりもない人でも助けてくださいと言ってきたら、保護するのは侍の義理であるし、小作人や夜盗の類でもそれくらいは考えるものだ。ましてや土岐殿は我が家と縁も深く、もう何年も保護している。今になって突き放して、敵である義龍と結ぼうなどとは、日本全国の前代未聞の笑いものになるのは必至でとても無念なことだ。

一、無縁之人、立入頼儀さへ拘置者、諸侍義理、田夫・野人迄も、其覚語有物にて候、美濃守殿重縁と云、数年拘置、此時つきはなし、彼敵と縁篇可申合儀、天下之嘲、前代未聞口惜無念之事、


一、義龍からの言上は一切お許しにならないように公方様(足利義輝)へも再三申し上げているし、伊勢守(政所執事伊勢貞孝)と斎藤に縁組が成立した時にも、京都への荷物は近江で没収し、伊勢守には数年も渡さなかった。また近衛殿が義龍の娘を側室にする時も、我が家へ内々に知らせてくださったが、「あまりにも馬鹿馬鹿しく、話になりません」と返答し、(欠)も放っておいたほどである。にも関わらず、今回の縁談について、伊勢守より興禅寺(承禎の側近)を通じて問い合わせがあった。さんざん義龍を忌避してきた我が家が義龍と縁組などしたら家の面目を失い、京都で馬鹿にされるであろうことは言うまでもない。この問い合わせに「承禎は知りませんでした」とでも答えるのがいいのか?義弼のやらかしは末代までの不祥事だ。まあ義弼は若いから仕方ないのかもしれん。それなら家老ども!お前らは義龍からの賄賂に心を奪われたとでも世間様に言うのか?我が佐々木家はかの源平の宇治川の戦い以来、数々の名声を得てきた。それがこの代になって何と情けないことよ。物語や草紙の種になって馬鹿にされ続けるだろう。主従ともに恥ずかしくて仕方ない。無念極まりない。

一、斎治言上儀、不可被成御許容旨、 公方様江再三申上、又伊勢守与斎治所縁之時、京都江荷物以下当国押とらせ、対勢州数年不返候、幷近衛殿江彼娘可被召置由、内々此方江御届之時、以外御比興、沙汰之限候之由、申入□□被打置儀候、然処ニ、今度此縁之風聞ニ付而、政所殿より以興禅寺、被仰越儀、失面目次第共、京都之嘲、無申事儀共候、さて〳〵右之御届者、承禎不存旨可申哉、四郎悪名末代不覚候、義弼ハ若年候之間、宿老共覚語と申候ヘハ、自然礼物二ふけり候て、仕合もとならてハ世上二不可申候、誠当家ハ宇治川已来、及度々名字之名誉共、于今相残候処ニ、此代ニ至而比興之題目、物語・草子なとにも可書留儀、主従共恥ニあらす哉、無念至極之事、


一、朝倉氏との縁談の件を、去年家老たちが長光寺に集まった時に興禅寺を通じて諮問したら、家老たちは皆賛成して、朝倉とは堅い約束をしたではないか。それが義龍と縁組になると朝倉へはどう弁明すればいいのだ?特に斎藤と朝倉は仲が悪い。時に我が家と義龍が縁組となると、朝倉は無念しきりだろう。また以前に朝倉は我が家から嫁を欲しいと言ってきたことがあったが、能登の畠山との義理もあるので断ってきた。それらを乗り越えてやっと朝倉との縁談がまとまりそうであったのに、違約となると朝倉は恨みに思うに違いない。我が家を恨む朝倉が浅井と親しくなるのは目に見えている。そうなったらお前らはどう責任を取るつもりなのか。

一、越前と縁篇申合儀、去年宿老衆長光寺参会之時、以興禅寺相尋候処ニ、尤可然旨、一同ニ返事被申間、堅申合、此度違変儀、可申遣様躰、如何可在之候哉、殊井口儀者、古敵と存候所へ、申合儀、定無念ニ可被存候、又先年御料人儀、内々雖所望候、能州江義理違候間、難成由、再往相断、只今又此縁相違候者、旁以遺恨有へく候間、北辺深重入魂と覚候、其時各覚語いかゝ有へく候事、


一、密かに聞いたことでは、義龍は浅井と敵対するらしいとな?全く馬鹿げたことだ。義龍が浅井との縁を捨て、我が家と結んで浅井と断交するなど、義龍にとっては自滅ではないか。こんなことは義龍が名門である我が家と縁を結びたいがために、仲人が口から出まかせを言っているのだろう。国が滅び後世への恥さえ一顧だにしないとは、いよいよ我が家も終わりか。

一、内々聞及候、斎治申合北辺へ存分在之由候、さても〳〵愚なる儀候、井口より北之縁篇をハすて、当方へ令同心、可及義絶候哉、其ハ自滅候間、とても不可成候処ニ、義弼ニ縁之儀申合度まゝ、彼仲人共落着、国之破、其身後代恥をもかへり不見儀、時刻到来事、

一、朝倉と不仲になったことを義龍との縁談で埋め合わせようだと?現在進行形で揖斐五郎を美濃に入国させる算段をつけ、尾張の織田とも協力しようと土岐殿に話も通しているのにか?義龍と結んで、朝倉と織田が共同で美濃に攻めたら、我が家はどうすればいいと思っているのだ?土岐殿がその時我が家にいなかったら、美濃に出兵も出来ないではないか。朝倉や織田はそのつもりで準備するだろうにだ。我が家が動けなかったならば、全国から批判を一身に受けるのはその時であろう。

一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、美濃守殿江申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、当方働可有如何候哉、美濃守殿すてゝさへ有へきニ、当国出勢何と被存候哉、越州尾州其覚語手宛有へく候、其上此方働一切不可成事候、旁以天下のほうへん此時候事、


一、以前我が家が浅井を討つべく出陣した時、確かに道三は井口から矢倉山まで出てきたな。しかし緒戦で負けるとあっさりと退却し、その後は足軽一人すら寄越さなかったのではないか。義弼がピンチの時、美濃から斎藤の軍勢が助けに来るとお前らは本気で考えているのか?いやあ、斎藤の連中は首に綱をつけて引っ張っても出ては来ないだろう。なぜなら朝倉、織田が敵として斎藤の左右におり、後ろには遠山ら東美濃の国衆がいる。近江に出兵する余力などなかろう。我が家の状況によっては、三好が志賀郡に出兵してくるという噂もある。そのような状況も考えねばならないのに、朝倉と断交となれば、いよいよ事態は不測だ。お前らにその時の覚悟があるのか?

一、先年北郡出陣之時、自濃州井口、斎山自身矢倉山迄相働候、一向手ニもためす、かけ散候、其後足軽一人不出候、義弼自然之時、為合力、従井口可有出勢と、各被存候哉、頸ニ綱を付而も不可出候、その故ハ越州尾州を左右ニ置、遠山初而東美濃を跡ニ置、人数出儀不可成候、さ候ヘハ、此国用ニ何として可立候哉、当方辺依様躰、志賀郡なとへ、京都雑説ありけニ候、左様之遠慮も有へき処、越前・北郡辺不通ニ成候者、弥不思儀可出来候、其時各覚語専一候事、


一、慈寿院殿(承禎の母、土岐氏出身?)と承禎の目の前で、義弼が義龍の娘と祝言するなど、不孝の至りだ。世間の評判をどう考えているのだ。今回の縁談で承禎や慈寿院殿のことは一先ず置いても、土岐殿を何年も保護し、扶持も与え、義弼の縁談も特に問題がないものを近いうちにと考えていたのに、美濃の下剋上野郎と縁談をまとめ、下剋上野郎の娘を我が家に入れるようなことがあれば、朝倉や織田から恨まれることは必至だ。そうなれば名誉も利益も失うことになるだろう。今回の一件は、承禎も義弼も家老どもも全員が悪評を被る。国としても家としてもあまりに口惜しいので、このように長々と言っているのだ。江雲寺殿は日本全国にその名が轟く偉大なお方であったのに、息子承禎はその器ではなくこのようなことになってしまった。その子である義弼は若く分別もないのはわかっているだろうに、家老どもはただちやほやして異議も出さなかった。下々の者が「このような有様では六角も終わりだな」と噂すると想像したことはあるか?義弼のことは叱りつけたが、お前らからも言うことあるよな?誓紙を出したのだから、今後背くことはあってはならない。後悔先に立たずである。必ず義弼にこのことを伝え、返事をもらってこい。

一、慈寿院殿・承禎目前ニ置なから、四郎祝言可仕事、不孝之いたり、外聞実儀いかゝ被存候哉、此縁上下儀ハ第二、美濃守殿数年拘置、手前おも指当、迷惑も無之縁篇も、更ニをそからさる所ニ、彼国取候被官人と縁篇申合、他国より入国させ申、越州尾州当国へ遺恨必定候、然者、名利共相かけ候、此度承禎・義弼幷年寄衆、悪名不可有其隠候、国之為、家之為、余口惜候間、如此候、江雲寺殿、都鄙之名誉共在之処、承禎無器用、依而此仕立成候、其子四郎若年無分別を、歳寄衆奉而、異見不仕候て、目くらへ候て、永代名をも、徳をも、家をもはたし候とて、下々之人口いかゝ被存候哉、一旦及折檻ニ候共、各可被申儀候、右如申、誓紙之上者、相違にてハ不可然候、後悔さきに立へからす候、急度被申届、返事可被申事、

    以上、
  永禄三年
七月廿一日      承禎
     平井兵衛尉殿
     蒲生下野入道殿
     後藤但馬守殿
     布施淡路入道殿
     狛修理亮殿

参考文献

戦国大名佐々木六角氏の基礎研究

戦国大名佐々木六角氏の基礎研究

戦國遺文―佐々木六角氏編

戦國遺文―佐々木六角氏編

オンデマンド版 戦国遺文 佐々木六角氏編

オンデマンド版 戦国遺文 佐々木六角氏編