志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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遊佐信教の初見文書

 天野忠幸『三好一族』は三好氏に関する令和3年段階での情報量をまとめあげた一冊である。それゆえにあまりな馴染みのない情報も多々あった。今回取り上げる以下の文章もその一つ。

三好氏も、三好実休が遊佐信教に対して、順慶に意見して三碓庄(奈良市)をめぐる相論を収めることが後奈良天皇の意向であると伝えたり、三好長逸が筒井氏被官の向井専弘らに早く年貢を仁和寺に納めるよう指示したりしている(「仁和寺文書」)。(84頁)

 …三好実休遊佐信教に対して、筒井順慶に意見することが後奈良天皇の意向であると伝えている?すごい文章である。何がって、三好実休も遊佐信教も筒井順慶後奈良天皇も知っている名前なのに文章の意味がてんでわからない
 三好実休三好長慶の弟だが、阿波三好家の当主で永禄3年(1560)に畠山氏から南河内を奪うまで基本的に四国にいた。さらに実休は永禄5年に畠山氏と戦い戦死している。また、遊佐信教は河内守護代遊佐長教の息子だが天文20年(1551)に長教が殺された際は未だ4歳。その発給文書の初見は永禄6年(1563)にまで下り、以降活動を具体的に追えるようになる。2人の活動時期は被っていないし、接点らしい接点もない(長慶の妻が長教の娘なので実は2人は義兄弟になるのだが)。そして、後奈良天皇は弘治3年(1557)に崩御している。ということは、上記の一件も弘治3年以前のはずだが、実休は畿内にいないし、未だ活動が見えない信教に宛てているというのはどういうことなのか。全くもって不可解なのである。

 とは言え、流石に何かの誤植でこんな文章が成立しているわけでもなかろう。ちゃんと「仁和寺文書」と出典表記も入っているし、そのうち確認せねば…と思いつつ1年以上経っていたが、ようやく典拠文書を発見できた。

御室領和州三碓庄之事、為秋篠数代御代官御当知行之処、今度号小泉本地非分競望、言語道断之儀候、幸先規様体御存知之由候間、急度被加意見筒井藤勝、於無別義者、可被悦思召之由、為 叡慮被仰出候也、謹言、
   七月廿五日   三豊
   遊佐新次郎殿

(訳)仁和寺領である大和国の三碓庄のことですが、秋篠が数代にわたり代官職を務め知行していたところ、今回小泉が本知と号して代官職を奪おうとしていること、言語道断です。幸い先例を御存知とのことなので、強く筒井藤勝(順慶)に意見なされ、別儀のないようであれば、お喜び思召すということ、天皇の意志として仰られております。

 なるほど、確かに「三豊」なる人物が天皇の意志として「遊佐新次郎」に(実質的に)小泉の押領を排除するよう筒井順慶に意見せよということを伝えている。なお、署名が「判」としかないがほとんど同文の安見美作守宛の文書も上記文書に続いて収められている。
 この件に関しては別の関係文書もある。

「河内へ書状案文 弘治参年」
御室御門跡領和州三碓庄事、為数代秋篠御代官御当知行之処、今度小泉非分之競望御迷惑之儀候、就 禁裏被仰出候、対筒井被加御意見、於無相違者可為祝着候、仍御祈念之巻数并五明・杉原十帖被進候、此等之趣 御室御気色所候也、仍執達如件、
   八月   法印実心在判
 表書同 遊佐新次郎殿

(訳)仁和寺御門跡領である大和国の三碓庄のことですが、秋篠が数代にわたり代官職を務め知行していたところ、今回小泉が代官職を望んでいることに当惑していること、天皇から仰せ出されたことにつき、筒井に意見なされ、相違ないようにすれば喜ばしいことです。よって祈祷の記録と杉原紙10帖を贈られています。これらが御門跡様のお気持ちですので、上から下へお伝えすることは以上です。

 実心は上記に続いて、丹下備中守および安見美作守宛にもほぼ同内容の書状を送っている(ちなみに丹下備中守へは「御祈念之巻数并扇子・杉原十帖」、安見美作守へは「御祈念之巻数数次・三種三荷」と音信内容に差がある)。安見美作守宛の文書では三碓庄は「先年就尾州雖申掠、依被仰分遊佐前河州并丹下備中守以書状致落居候」とするので、過去に畠山氏の当主が押領した際は故遊佐長教と丹下盛知が書状を発給して押領を排除したらしい。「三豊」書状にて「幸先規様体御存知之由候間」(幸い先例を御存知とのこと)と言っているのは恐らくこのことを指す(三碓庄の代官が秋篠なのはちょっと前に遊佐氏や丹下氏も認めてたよね?知ってるよね?)と思われる。
 さて、実心の奉書案には「弘治参年」という端裏書がある。この端裏書が信用できるかという問題だが、これは安見美作守こと安見宗房の動向が手掛かりになるだろう。安見宗房は少なくとも永禄2年には遊佐美作守となっているし、以降は畠山高政との確執や三好氏に河内を追われることから、上記のような筒井氏への影響力を期待されるとは考えにくい。可能性としては永禄元年(1558)も排除しきれないが、とりあえずは弘治3年(1557)を信じて良いのではなかろうか。
 ということはである。宛所となっている遊佐新次郎は遊佐信教しか該当者がいないが、彼は弘治3年にはすでに元服していたことになる。信教の発給文書は先述したように年次が明確なものは永禄6年が初見で、管見の限り永禄5年(1562)の六角承禎書状の取次者に「遊佐新二郎」が見えるのが元服後の初見であった。しかし、今回取り上げた文書で信教の仮名「新次郎」は初見が5年も遡ることになった。信教は数えでちょうど10歳。元服するには早いがギリギリあり得ないわけでもない年齢となる。
 ちなみにこの三碓庄の一件は他にも定勝なる人物が喜多氏や向井氏といった筒井氏家臣に善処を求めたり、筒井順慶本人宛の奉書案であったり、三好長逸が向井氏や辰巳氏に三碓庄の公物を先例通りに納めるよう通知したりと、要するに「小泉の競望を排除し、秋篠の代官を認めろ」という内容を手を変え品を変え人を変えた形で様々な文書が残る。三碓庄の知行問題はかなり大きな懸案であったのである。
 そうした中で気になる文書があった。

 筒家にて馳走之体
喜多石見
向井 超昇寺豊前
      入道
郡山辰巳向井息
森田新介 滝主介
井戸
「河州 遊佐太藤殿 丹下備中守 安見美作守」

 年月日も書かれていないが、筒井氏家中の有力者を列挙したものと推察される。当該期に筒井氏が問題となるのは三碓庄の一件のみなので、三碓庄絡みで頼りになる人名を出していると考えられる。河内として書かれた3人、遊佐太藤、丹下盛知、安見宗房らは筒井氏家中に属してはいないが、筒井氏に影響力のある存在として仁和寺サイドは認識していたのであろう。
 となると気になるのは、仁和寺遊佐太藤ではなく遊佐新次郎に文書を出した理由である。遊佐太藤とは長教の死後、幼少の信教に代わって遊佐氏当主代理を務めていたとされる人物である。可能性としては2つ考えられる。1つは遊佐信教が元服したため、当主代理であった太藤はその役割から退き、そのため太藤ではなく信教が宛所になったという可能性。もう1つは太藤と信教は同一人物で、幼名太藤が元服し新次郎となったため、仁和寺は想定通りの3人にきちんと文書を送っているという捉え方である。どちらの可能性も決し難いが、いずれにせよ遊佐信教の元服は弘治3年7月直前ということが示唆されていると言える。
 そういうわけで、遊佐信教は(現代的には9歳なので実際の政治能力はまだまだなかっただろうが)弘治3年には成人しており、一定の政治主体を期待されていたことが、ひょんなことからわかった。なお付言しておくと、この一件は遊佐太藤(信教と別人である場合)および丹下盛知の終見である可能性が高い。既知の文書なので紹介しておく次第である。




 …ところで、この一件に関わってる「三豊」って本当に三好実休なんですかね?結局何で実休が天皇の意向を代弁できるのか、さっぱりわからないし、遊佐信教相手に書止「謹言」は案文とはいえ薄礼が過ぎませんか?公家か仁和寺門跡に仕える坊官と考えた方が自然だと思うが…。でも「三豊」って実名としてそんなのある?と思うし(みつとよ?)、通称の略なら該当者は確かに「三好豊前守」くらいしか思いつかない。結局よくわからないのだった。