志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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『鎌倉殿の13人』総合感想

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。視聴することになったのは、やはり鎌倉時代という時代の物珍しさがないというと嘘になる。時期が被るものとしては21世紀に入ってからも『義経』や『平清盛』などがあったが、いずれも源頼朝征夷大将軍に任官するまでに主人公は死亡してしまい、「鎌倉幕府はどうやって成立していったのか」はドラマ内部では描かれなかったのだ。もちろん同じ題材としては『草燃える』もあったが、すでに43年前。リアルタイムで観ていた視聴者がもはやどれほどいるのかという古典である。中世史ブームとも言われるこの令和初期、鎌倉幕府の草創を改めてやる意義は揃っていた。かつてと何が変わり、どう面白いドラマを紡げるのか、大いに興味があるところだったのだ。
 実際に歴史研究としても鎌倉時代初期の見え方はだいぶ変わった。源義経は政治的に無能ではないし、後白河院は謀略家ではないし、源頼朝が望んだ官職は征夷大将軍ではなかったし、東国武士は京都との繋がりも深く在地領主的側面ばかりが強調されなくなったし、頼家・実朝の人物像も再評価されているし、後鳥羽院が討幕を目指していたのかどうかも再考が迫られている。こういった側面を取り込むのか取り込まないのか、その延長に出来上がるドラマとは何なのか。
 それでは実際どうだったのか、項目立てて感想をまとめていきたい。

  • 人物像の再創造

 鎌倉時代のドラマ自体がそこまで作られていないので一般イメージがどれほどあるのかという前提もあるが、一部の人物はこのドラマだからこその新しいキャラクターになった者もいる。その最大の人物は北条政子ではなかろうか。北条政子といえば、源家の息子たちよりも実家の北条氏を優先してその覇権に貢献した烈女というイメージもあろうが、本作での政子は政治的センスがないわけではないが未熟で、安寧を求めてはそれ自体が火種となり、相次いで子供に先立たれるのは「不幸」として描写されていた。言わば、大政治家というより、等身大の女・妻・母としてそれでも努力しあがこうとする存在だった。そして、個人的な話だが、政子のイメージはこれで良いと思っている。昔からお世話になっている(意味深)小池栄子の容貌や演技もそうした政子像にマッチしていて、新たな政子像は確立されたと言えるのではないだろうか。
 そして源頼朝。演じた大泉洋は三枚目なイメージが強く大政治家としての頼朝を演じられるのか不安もあった。杞憂であった。むしろ大政治家・武家の棟梁としての頼朝を十分に演じつつ、少し抜けていたりギャグもこなせたり、そういう頼朝はまさに「こういう人が俺の上司だったらいいのにな~」な頼朝像そのものとも言えた。冷徹な側面がイメージされ、今作でもその線での人物造型もあったが、粛清に政治的判断と情としてのやりきれなさ、その両面を持たせられたのは大泉洋の力量だったと間違いなく言えるだろう。
 他にもとにかく粗暴だが中身は悪くない義経、善人すぎるがそれゆえに組織トップたりえない義仲、誇り高く和田合戦まで生き抜いた巴、義経強火担梶原景時、憎たらしい笑顔が印象的な源仲章…従来とは趣が違ったキャラクターでドラマを構成した例には事欠かない。こうしたキャラ再創造もまた「今」だからこその要素ではあろう。

  • 思惑が重なり合う展開

 本作のドラマ展開の特徴としては、意図と意図とが重なり合って意図せざる展開が紡がれるというのがあった。記憶に新しいところでは源実朝暗殺事件。北条義時公暁の実朝暗殺を黙認したが自身がターゲットになっていることは知らなかった。三浦義村公暁による実朝・義時殺害を後押しした。ところが、源仲章が義時を排除し義時に代わって実朝に供奉した。実朝は公暁が自分を殺害することは知っていたが、自身の運命を当てた巫女のおばばが「天命に逆らうな」とのたまったため、抵抗をあきらめた。そのおばばはただボケていただけだった。結果として実朝は殺害されるが、義時は難を逃れる。ここで描かれたのは義時黒幕説でも三浦黒幕説でも公暁単独犯説でもないながら、その全ての要素が織り込まれている。
 私は歴史研究の最前線と創作の関係としては、後者が前者を新しいエッセンスとして取り入れるのが良いと思っている。新しい要素がなかったら、それは極論過去作の再演にすぎない。新たな事実や歴史像を採り入れれば再演にはならないし、その点でオリジナルが生まれることもあろう。しかし、本作では通説・旧説と新説を両方同時並行にやるというか、旧説を否定せずかといって旧説そのままでもなく新説に沿って描いてもいるというある種アクロバットなドラマを展開した。これは…創作が上手すぎるというのであろうな。私が思う最新研究をエッセンスにというイメージからはだいぶ違っているし、他人にはなかなか真似できなさそうだが、これもまた最新鋭と言えるのかもしれない。

  • 密度の減退

 以上述べた「新たな人物像」「複線的なドラマ」の2点が本作の大きな評価点だろう。ここでは個人的に難点だったのではないかというところを語っていく。
 大河ドラマといえば、何といっても40話以上の長大な話数と豊富な登場人物。これがあるからこそ「大河」が描けるのが大きな強みだと勝手に思っている。本作でも前半は源氏一族や御家人も多く登場し、武田氏や義仲、京都の朝廷、平家など複数の「目」が用意され実際に成り立っていた。ところが、周知のとおり、頼朝や義時ら北条氏は次々と政敵を排除していく。その帰結としてメイン格の登場人物は次々といなくなってしまう。本作ではいなくなったのがそのままなのである。通常なら若い世代の御家人でその穴を埋めるというのもあったはずだが、そのようなことはなく終盤は名有りの御家人が少なすぎて、政子の演説は良かったが、その反応という面はそこまで盛り上がらなかったのではないかとも思う。
 そして有力キャラクターがスカスカになったことは、最終的な敵役の後鳥羽院率いる朝廷や列島規模の視座という面にも影響があった。結局朝幕関係はどのようにあるべきなのか、朝幕関係は鎌倉と京都以外ではどのように見られているのか、ここは鎌倉幕府の意義を見る上で避けてほしくなかったところだが、どうにも義時や後鳥羽院の個人に収斂されてしまってうやむやになった感は否めない。結果的に「鎌倉幕府」も泰時や後輩御家人ではなく、最終回に突如ゲスト登場した徳川家康が受け継ぐものとなったのも冷静に見ると突飛ではなかろうか。
 もっとも東西交流やネットワークを描写しなかったことは、頼朝・義経や後鳥羽・義時の意思疎通の不全さのアピールとしては良かったのかもしれないが。

 北条義時は日本史上の最高権力者としてはパッとしない人物の一人だ。義時は活躍した戦争があるわけではないし、政治が上手かったわけでもない。その生涯を眺めても政局に巻き込まれ巻き込まれ、対処を重ねていくうちに最高権力者となってしまった人物のように見える。だから、本作でも最後まで政子や大江広元が本体で義時は巻き込まれ型の主人公で貫徹すると予想していた。しかし、そうではなく義時は中盤から「魔王」と化した。頼朝亡きあと、理想の頼朝を演じきろうとした。泰時が大河主人公らしく漂白されていたのもあるが、こうしたあえて黒くなっていくタイプの人物が主人公なのは珍しい。
 そして義時は最期まで鎌倉幕府草創の負債を引き受けるべく、先帝暗殺に手を伸ばそうとしたところ、政子によってトドメを刺される。それでも義時は最期まで生にこだわる姿が描かれた。これが主人公の死に様であろうか?その一方で泰時は一人前になり、朝廷を屈服させたことにより西からの干渉はなくなった、鎌倉には平和が訪れていた。これらは義時の達成でもあり、達成がなされたことで義時は不要となる。まさしく義時の最期とは「報いの時」だった。
 本作はそういう義時を通じて何を描きたかったのか。単に政治的勝者になる夢ではあるまい。最終盤の義時の姿の醜さは重ねて描かれており、理想像を示すものではなかった。義時が最期までこだわったように、鎌倉幕府という新政権の産みの苦しみ、草創にいかに血が伴うか、その漆黒…。しかし、義時は頼朝ではなかった。天の声が聞こえ、天の声が聞こえなくなったことを自覚でき、心を開ける家族がいた頼朝と違い、義時は引き際もわからなかったし、親友や家族には裏切られて終わった。義時は凡人だったのだ。凡人が思いがけなく草創の苦しみを一身に引き受け横死した。『鎌倉殿の13人』の帰結は哀れな凡人の一生涯に他ならない。
 そしてそれは視聴者である現代人とも重なるのではなかろうか。頼朝や義経梶原景時大江広元のような天才・秀才などそうそういない。誰もが身に余る重責を背負って生きている。エスカレーター式の年功序列・終身雇用などもはや存在しない。どうあがいていけるのか、その中で何を後の世代に残していけるのか。本作の義時の人生は凡人がどう生きるかを提示している。そこに頼朝でも大江広元でも後鳥羽院でもない、義時とそして政子が主人公であった現代的意義があったのではなかろうか。…まあ私としてはドラマの中の義時よりはマシに死にたいものだが…

 …とまあ最後はカッコつけてしまったが、ドラマとして単純に面白かったうえ、この時代に関する書籍やつぶやき、ネット解説動画などが出てにぎわったのは単純に人生の彩として良かったです。この時代の一般認知度も高まったと思うし、こうした熱い流れ自体が大河ドラマ化される意義の一つでもありましょう。スタッフにキャストの皆様は1年間お疲れ様&ありがとうございました。また魅力的なドラマで相見えることを願っております。