志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

明智光秀と松永久秀の関係

 大河ドラマ麒麟がくる明智光秀が主人公のドラマだが、松永久秀の存在もそのドラマを彩っていた。何せ、久秀は第1話から登場し、最終回の5話前である第40話まで出演し続けた。もちろん間に出ていない回も多いが、間違いなく松永久秀は主要登場人物であった。人物紹介における「したたかな生き方で、若い光秀に大きな影響を与える」の通り、久秀は光秀の戦国人としての先輩であり、教師でもある存在と言って過言ではない。
 ドラマの中では、久秀は斎藤道三の家臣であった光秀を初見で気に入って鉄砲を融通したり、光秀が三好長慶重臣である久秀に働きかけて織田信長暗殺を阻止するなど、明智光秀が大きな存在となる以前から久秀との交流が描かれていた。当然のことながら、これらのドラマは史実ではない…と言うか、明智光秀が史実に姿を現すのは、足利義昭織田信長が上洛を目指す頃からなので、それ以前にどこで何をしていたのかはわからず、何とも言えないのであるが。
 それでは、史実における光秀と久秀はどのような関係だったのだろうか。永禄11年(1568)に成立した足利義昭室町幕府幕臣として、明智光秀の名前が現れはじめる。松永久秀も幕府を支える大名であったので、光秀と久秀には面識があったと見なすべきだろう。元亀2年(1571)に松永久秀高槻城を包囲した時には、光秀が調停役として赴いてもいるので、顔見知り以上の関係もあった。そういう意味では、(あくまでドラマで、ということではあるが)光秀と久秀が知人であり、それは古くからのものと描くのも、脚色としては十分アリな部類となる。
 …と書くと、そんなの誰でも言えるやんけ!何かあるんだろ、記事を作ったからにはよお!と言われるかもしれませんが、はい、あります。

貴札拝見本望之至候、如仰一途于今相済候、併彼方代官衆噯にて大方済寄候、御心安可被思召候、我等も涯分精を入候、其段御内衆被存候、巨細之儀者直談候ハてハ不可申尽候、一両日之逗留にて可罷越覚悟候、併世上はやり物之咳気にしはられ在之候、快験次第可令言入候、謹言、
           明智十兵衛尉
   二月十七日     光秀(花押影)
  松永山城守殿
      御宿所

 明智光秀から松永久秀への書状!?関係性としてドンピシャやん!
 ちなみにこの文書、なぜか『戦国遺文 三好氏編』には未収録である。掲載の許可が取れなかったとも考えられるが、写であるし、全体的に丁寧な文言が並ぶのに、書留文言が「謹言」と急に薄礼になるのは書札礼として何だかおかしいので、真正な文書とは認められなかったのかもしれない。ただ、後世単に「松永弾正」とされがちな久秀の官途を「山城守」と正しく記しているし、写なので書留文言を誤写してしまった可能性もある(他にも微妙に違和感のある表現はあるが、まあ誤写かな?)。何より偽文書では記事が続かないので、真正な文書と見なして記事を続ける。
 内容としては「あなたのお手紙を拝見できてうれしく思います。仰られるように今に至ってやっと終わりました。また、彼方の代官衆とも和平が成立したとのことで、ご安心されていることでしょう。私も相応に骨を折りました。そのことは御内衆がよく知っていることでしょう。詳しくは直接話さなければ尽きないことで、二日ほども逗留したい思いです。ただ、今世間では病気が流行っているので、落ち着き次第伺うことにします」だろうか(自信はないです)。
 松永久秀が山城守を名乗るのは永禄12年(1569)初頭からで*1明智光秀天正3年(1575)7月より惟任日向守を名乗るようになる。よって、当該文書が通称を正しく写しているのであれば、年次として考えられるのは永禄13年(1570)~天正3年(1575)で、うち光秀と久秀が敵対陣営にある元亀3年(1572)と元亀4年(1573)も除外でき、永禄13年(1570)、元亀2年(1571)、天正2年(1574)、天正3年(1575)のいずれかの年に当該文書は出されたことになる。
 手掛かりとなりそうなのは、「彼方代官衆噯にて大方済寄候」「世上はやり物之咳気にしはられ在之候」あたりだが、「彼方代官衆」が誰なのか、いつ流行病が発生したのか特定し得なかった。ただ、「病気が流行っているので会うのはいずれ」なので、3月・4月に大規模な軍事行動が発生している元亀元年(1570)と天正3年(1575)はやや不審である。元亀2年(1571)ならば、「彼方代官衆噯」は志賀の陣後の朝倉・六角・三好との和睦処理にまつわるもの、天正2年(1574)ならば前年の朝倉・浅井・三好滅亡にまつわる戦後処理の何かを指すのではないだろうか。
 細々述べてきたが、最大の味噌は「巨細之儀者直談候ハてハ不可申尽候、一両日之逗留にて可罷越覚悟候、併世上はやり物之咳気にしはられ在之候、快験次第可令言入候」であろう。この手のやり取りでは取次を立てたり、使者に口上を述べさせたりして、お互いの意思疎通を図るのが一般的だが、光秀は「詳しくは私から話す!2日逗留してでも!」と久秀と直接会って話すことに前のめりである。光秀の側に久秀への親近感がなければ、こうはならないだろう。「麒麟がくる」では光秀がアポなしで久秀へ押しかけ、話をするシーンがあったりしたが、(ドラマはドラマとして)全くの荒唐無稽というわけでもなかった。
 そして、体面に前のめりな光秀を押し留めたのが「はやり物之咳気」であったのも、令和3年(2021)現在の世情から見ると、妙にタイムリーである。光秀も久秀も健康第一!現代に生きる我々も出来うる限りは「快験次第可令言入候」(落ち着いたら会おうぜ)の精神で行きたいものである*2

史料出典

明智光秀: 史料で読む戦国史

明智光秀: 史料で読む戦国史

  • 発売日: 2015/10/10
  • メディア: 単行本

*1:この改称は織田信長が「弾正忠」であったため、弾正が被る「弾正少弼」では紛らわしいのが理由であろうと考えられる。「麒麟がくる」では久秀は斎藤道三をリスペクトしていたので、道三と同じ「山城守」を名乗ったことに意味を持たせることも出来たはずだが、改称自体触れなかった

*2:なおこの文書が元亀2年に出されていた場合、5月頃に松永久秀は幕府から離反してしまうので、光秀が話題にする案件では光秀とは会えなかった可能性が高い