※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。
『ウルトラマンブレーザー』はある種の先祖返りというか「ニュージェネシリーズももう10作あるんだからたまには単独ウルトラマン・新規怪獣マシマシ・玩具販促を画面にそこまで映さないをやってもいいよね!」で作られたシリーズだった(もっとも実際にはそれだけの事情ではないが)。しかして、『トリガー』以降復活した春映画ではどうなるか…と思ったら、ここまで来たら流石『ブレーザー』。客演ウルトラマンも新ウルトラマンもなく、推されているのは新怪獣と国会議事堂を舞台にしたミニチュア特撮だった!
…正気か!?!??
こういう時に限ってツブイマ配信兼映画という装いではなく完全劇場作品だし、上映劇場は160館以上ある(何と『ウルトラ銀河伝説』や『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』より多い!)し、ゲストウルトラマンどころか大物ゲスト俳優もTVとは別に主題歌を担当する著名アーティストがいるわけでもない。商業的成功を睨むにはあまりに硬派!平成ウルトラマンの映画や『シン・ウルトラマン』でも客演や著名ゲストがいたのを思うと、ここまで「ブレーザー」と「新怪獣」と「ミニチュア特撮」だけでしか攻めない映画は空前と言って良い。これを「こんなことが出来るまでにウルトラマンのブランドイメージは上昇、確固としたものになったんだな」と思うことはまだ出来ない…。まあいい…ここまで攻めてくるのならもはや商業的な部分は全く考えないようにしよう。この映画がヒットしようがしまいが、それこそ「ウルトラマン」はびくともしないくらいの「ブランド」だとは思えるので。
ストーリーはまあそれなりになるとして、不安を覚えるのはやはり特撮という部分。もちろん田口清隆監督の特撮への手腕というものは信用しているのだが、こと『ブレーザー』に関して言えばあまり新しい側面は見られなかった気がする。そうした中、国会議事堂を推すようなコテコテなミニチュア特撮をやって「現代的な特撮」として映えるものになっているのかどうか。別にCGが絶対的に良いわけではないが、ニュージェネ映画でも『X』~『R/B』あたりが「出来ること」を積み重ねて新しい表現にチャレンジしていたことを思うと、どうにも「保守的」には思える。時期的に反映は難しいだろうがつい最近『ゴジラ-1.0』が素晴らしい画を作っていたのを見ると猶更だ。
そういうわけで2月23日に観に行って来た。近年の映画は金曜日公開が多いが、この日は祝日なので当日に観に行くことができた。天皇陛下万歳だ。まあそれはともかくとして。ざっとストーリーを追って、最後に気になるところについて述べていくことにしたい。
と、その前に今回の上映は握手会付でブレーザーと握手してきた。しかしてびっくり。これまでのウルトラマンは握手したががっちり握ってくれるのに、ブレーザーは手こそ差し出すものの「握手」という文化を知らないのか、こっちが握るだけで終わり。ウルトラマンとの触れ合いはだいたい愛想のよいイメージだったのでカルチャーショックがあった。その後握手が一段落するとブレーザーが会場内を練り歩いたりもしたが、手を振るのもぎこちない。そういったコミュニケーションをするという概念がないのを万遍なく表現していた。すごく…ブレーザーらしさなんだけど、塩い…。何と言うかこの「確かにちゃんと成り立ってはいるんだけどそれをやられても満足度がプラスになるわけではない」というのは『ブレーザー』という作品の一側面への感触にも似ているな…。
- 総集編~OP
TVシリーズの総集編からスタート。と言っても特段ナレーションがあるわけでもなく、隊員紹介とゲントとブレーザーの関係性を紹介していく映像となっている。そのため、最終回の映像も使われてはいるが、V99関連は全カットである。コミュニケーションの不全や和解の重要性は本作でも一応触れてはいるので、全カットは少し驚いた。
その後ヒルマ家のシーンを挟んで、オープニングへ。映像は基本的にTVシリーズに準じていて(「僕らのスペクトラ」は挿入歌扱い)本作はハルノ参謀長の出演がないのでそこを省いてTVシリーズ後半の怪獣ぞくぞくパートが増えている。これはTVシリーズ本編で差し替えの形ででもやっておくべきだったのでは…。それはともかく、まんまOPが流れるのはギンガの劇場スペシャルめいていて「映画」っぽくはないと思った*1。
- VSズグガン・タガヌラー
いきなりズグガンとの戦いになる。ズグガンは巨大怪獣として出現するが小型のズグガン、さらにはタガヌラーとのその幼体も登場し、2対1の形になるアースガロン、多対3のSKaRDは追い詰められていく。ゲントはブレーザーに変身し、2対2の形に持ち込んで何とか2大怪獣を撃破!巨大戦と等身大戦が同時並行するのはまさしく田口監督の十八番というべき演出で、アースガロンもタガヌラーにトドメを刺すなどきっちりと活躍してくれる。個人的にタガヌラーはアースガロン初陣の相手でもあったし、タガヌラーは強敵でも量産敵でも通用する怪獣だと思っているので、アースガロンの事実上の初撃破がタガヌラーになって良かった。他にもタガヌラーやズグガンの着ぐるみは1体ずつしかないはずだが、等身大戦での群れを次々倒していくのはとても合成が自然で、画としてすごく豪華だった。
- ゴンギルガン登場へ…
突然の怪獣大量発生の鍵を握るであろうネクロマス社に乗り込むゲントとエミ。「不老不死を実現できる「ダムドキシン」はやべえ開発してるんじゃないの?」「いやーそんなことないですねんて。これは医療にも役立つんです!」とマブセ社長と通り一辺倒の話をした後、「ダムノー星人」を名乗る宇宙人が映像配信。ダムドキシンのデータを破棄しろと迫る。「ダムノー星人」は防衛隊の管制もハッキングしておりミサイルを撃ち込むという。慌てた社長やゲントらは研究所に向かいデータを破棄しようとするが、事情をわかっていない防衛隊の乱入もあって話が進まない。その間に時間切れとなり「ダムノー星人」はミサイルを研究所に打ち込んでしまう。漏れ出たダムドキシンは研究所に蓄えられていた怪獣の細胞らを取り込んでゴンギルガンが誕生!
「ダムノー星人」は最初から胡散臭く、というかネクロマス社の内情に詳しすぎるので、正体が社長の息子のユウキであることはすぐに読めた、と言うか他に正体の該当者いないし。一方で切り札のアンチダムドキシンを奪う社長の部下がこのタイミングで登場。しかし、ここは社長とユウキくんの話には何ら関係なし。ええー!?このタイミングで全く関係ない産業スパイの話なの!?産業スパイとユウキくんは同時に追い詰められ、スパイ側はユウキくんに銃を突き付けて人質に取ったりするも、スパイはゴンギルガンに踏みつぶされ、ユウキくんはゴンギルガンに吸収されて大人への悪意をゴンギルガンの「感情」として利用されてしまう。もはやゴンギルガンは止められない!
- VSゴンギルガン~エピローグ
SKaRDはユウキを救出するため確保したアンチダムドキシンを用いて作戦を練る。それは怪獣内部のユウキの居所を突き止めてそこへ直接的に乗り込んで助け出すというもの。ここは是非を置いておいて、親子関係で拗れて大人社会の汚さを叫ぶ子供が怪獣と融合しているのを助け出すのに、「説得」が全くないのは珍しい。完全に物理手段だけで「嫌いだ」BOTと化した少年を怪獣から取り除くのは、子供向けらしからぬシニカルさと言えよう。何やかんやあってブレーザーとアースガロンのタッグマッチで国会議事堂を舞台にゴンギルガンとの死闘が展開、国会議事堂が半壊になりながら、ゴンギルガンの急所を突いて弱らせた上でブレーザー光線とアースファイアのダブル撃ちでゴンギルガンを撃破した。
ブレーザーへの変身シークエンスは悪い意味でTVシリーズ通りで、ゲントが変身して後はSKaRDの隊員たちは全員ゲント隊長がいることを忘れてしまう。変身直前のゲントは弱点を探る!って言って単独行動を取ったのに、弱点判明からの作戦で誰も隊長に触れないのは無茶苦茶おかしいが、まあこれが『ブレーザー』という作品なので仕方ないですね。弱点がわかってからも触角を引っこ抜くのに結構時間がかかってしまうのもあんま心象は良くなかった。アースガロンの方がヤケクソで戦ってる感じがあってそこは死力の表現的に良かったかもしれない。
国会議事堂は結局半壊状態で終わる。戦いの中でも思いっきり壊すわけではなく、わりとちまちま壊していく感じだったのでそこまでスカッとしなかったが、ゴンギルガンが議事堂をバックにブレーザー&アースガロンがトドメの必殺技を放った瞬間、「おお、ゴンギルガンと一緒に議事堂も爆破か!」と思ったものの、ゴンギルガン爆死の中からはやっぱり半壊の議事堂が!マジかよ…結局議事堂壊さないのか…。やっぱり政治的配慮か?
そういうわけでゴンギルガン本人は形態変化もあり、手数も多しで見所はあった(何でこいつウルトラ怪獣アドバンスで出てないの?)ものの、最後の倒され方があんまり気持ち良くないというか、フラストレーションが溜まったまま終わってしまう最終決戦だった。ブレーザー光線もTV最終回とシークエンスがほぼ同じだし、今や普通に必殺光線を撃てるというところに落ち着いたのかもしれないが、最終回ならではのスペシャル感は削がれるのを感じる。
エピローグは皆で焼肉。「打ち上げは焼肉だ」の時はどこか店に行くのかなと思ったらヒルマ家でのホームパーティーだった。ヒルマ家をバックにワイワイやるSKaRDのメンバーたち…これは確かに見たかった場面だ。思い返せば、隊員たちの家庭やバックボーンに関する話は結構あったものの、ゲント隊長は本人がウルトラマンであるということもあってか、自分のパーソナルな部分を組織とはそこまで共有していなかった。それがこうして自然に馴染んでいるとやっとゲント隊長のキャラクターが結実したような気がする。ただ、どうでもいいけど肉を焼いても各人話すことがあるので誰も取らず、手前の肉が真っ黒になっていっているのはシュールだった(もったいないな)。
本作は何を言いたかったのか?
ストーリー的には田口監督お得意の怪獣映画成分マシマシになるだろうから心配していなかったのだが、こっちの側面で結構躓いてしまった。メッセージ性があるように見えて特に結論めいたものも示していないからだ。ユウキの家庭環境の寂しさを埋め合わせたい感情と大人の罪を断罪する感情がどう繋がるのかわからないし、その発露としての行動が暴露やネクロマス社の妨害だけならともかく施設の破壊と怪獣の出現による都市破壊なのは大事すぎる。産業スパイの人とヘリコプターとで明確に死者出てるし…。まあそこらへんの不一致は言ってしまえばどうせ子供のやることなので、理路が通っていないのは飲み込むとしてもユウキの感情は結局誰も引き受けない。これはゴンギルガンに取り込まれたユウキを誰も「説得」しないのもそうで、ユウキによる「大人の負債を子供に押し付けるな!」「この国の中枢はクソ!」「そんな政権を支持してる国民も同罪だぞ!」はまさしくリアルタイムで意味のある憤激のはずだが、当のSKaRDやマブセ社長らの大人たちは「その通りだ」とも「それは違う!」とも言わないのである。なので告発はあるもののそれは完全に宙に浮いたままになっている。
最終決戦でも国会議事堂を舞台にするのはいいものの、「醜い大人の中心地を破壊するぞ!」というゴンギルガンに対して、SKaRDもブレーザーも議事堂に対する「意志」が見えてこない。「そうはいってもこの国の中枢は守らねばならない」も「議事堂を犠牲にしても怪獣を倒すぞ!」も何もないので、議事堂はただ戦いの余波で半壊になるだけ。ある意味、大人たちの議事堂への扱いの「軽さ」が現代日本の象徴と言えなくもないが…。どうせ無関心なのならブレーザーは地球文化のことなんてよくわかってないし、サンダーブレスターみたく議事堂の一部を武器に使うくらいの無邪気な「軽さ」で答えても良かったかもしれない。
親子の対立やネクロマス社の断罪にしても疑問が残る…。そもそもの話としてマブセ社長に落ち度らしい落ち度はないのだ。ユウキの望みは基本的に叶えてやっているし、「仕事で忙しいので来られない」に対してもユウキは抗議せずに受け入れている。こんなんで本当は一緒の時間が欲しかったと言われても、じゃあそう言えば良かったのではと思ってしまう*2。
ダムドキシンについても試作品投入は防衛隊の差し金だし、医療目的への使用も観た限りでは否定されていない(マブセ社長は妻を亡くしているし家族愛については本物のようなので医療という目的へも真摯に見える)。ダムドキシンのデメリットも承知して厳重に管理していたし、万が一の時のためにアンチダムドキシンだって作っていた。リスク管理としてはほとんど完璧だろう。それが漏れ出て怪獣が出たのは100%ユウキの責任で、大人への断罪という点ではかなりチグハグである。
つまるところ、この作品には「悪意」がない。『ゴジラ-1.0』では「悪意」のなさが最後の作戦にハマっていったものだが、本作では怪獣は人為の作品なので「悪意」はないのに大災難ということになってしまうし、それに責任を負うべき存在がなぜか子供で、物語中では落ち度がない大人を断罪しようとするというわけのわからない構造になっている。詰まるところ、産業スパイの人をもっと掘り下げて黒幕にするとか、コテコテの悪の政治家が出てくるとかそういうのがあれば「悪意」に行先があってまだすんなりと行ったと思うのだが…。
特撮の総評
特撮面の出来栄えは特に言うことはない。あえて言えば「特に言うことはない」こと自体が残念とでも言うべきか。田口特撮の醍醐味が展開され堪能できたのは確かなのだが、巨大戦と等身大戦の同時進行くらいだと「いつもの」の範疇を出ない。田口特撮を大画面で観られるのは大きな価値であるけれども、「映画だからこの特撮が見られた」「新しい特撮や技術だった」という側面は途方もなく弱い。国会議事堂のデカさは圧巻だが作ることで力尽きてしまいどう壊せば面白くてスカッとするかまで頭が回らなかった感じがする。
冒頭でも言ったが過去のニュージェネ映画がどうやって映画の豪華さを出そうか、新しいやれることを増やそうか腐心していたのと比べると、端的に言ってチャレンジ精神に欠けるように思えるし、「現代の特撮」の到達点としては寂しい限りだ。
満ち足りている『ブレーザー』
何だかだいぶ辛い感じになってしまっているが、良くも悪くも『ウルトラマンブレーザー』TVシリーズの1話くらいのものとして見ればそれなりに収まっている。SKaRDのキャラが悪いなんてことは全くないのでプロ集団としての頼もしさが見られるし、TVシリーズでは渋めの扱いだったアースガロンも本作では大活躍できた。親子対立が拗れれば良いなんてことは絶対にないので、そこに至る理路はよくわからないものの仲直りできて良かった。これくらいのヌルいリアリティラインでこその牧歌的な「ウルトラマン」とも言える。
ただやはり『ブレーザー』の総評として「バトンを受け取ってもいないし渡す気もない」という態度は感じてしまう。『トリガー』や『デッカー』はニュージェネ×平成三部作を何とかしようとしてもがき、たとえ上手く行かなくとも「現代のウルトラマン」を出力していた。そもそもがニュージェネというシリーズ自体が青空ホリゾントすらない『ギンガ』から始まって、「やれること」「やりたいこと」「やらざるを得ないこと」のジレンマの中で成長してきた。逆説的だが、理想が叶わない・上手く行かないからこそのエネルギーを作品から感じ取ることができたし、だからこそハマった時に燃え上がることがあった。『ブレーザー』からは良くも悪くもこういう葛藤をあまり感じられず、製作もファンも満ち足りてしまった趣がある。こういうある種「やりきってしまった」作品を享ける形から次のウルトラマンを作るエネルギーは生まれるのだろうか。いや、もちろん作れるとは思うがそれは『ブレーザー』とは全く関係のないものになるのではないか。自己完結される方がシリーズに不安があるというのを体験できたのがある意味で『ブレーザー』の糧だったのかもしれない。