※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。
『シン・ゴジラ』、『シン・ウルトラマン』と来て『シン・仮面ライダー』。いよいよ日本人なら誰でも知っているであろう特撮御三家が揃った。だが、『シン・仮面ライダー』はその実態が視聴前にはよくわからなかった。内容が事前にはよくわからなかったのはゴジラやウルトラマンもそうなのだが、ゴジラはゴジラを何とかする、ウルトラマンはウルトラマンが地球や人類を守るという究極の結末があり、どういう作品であってもそこは外しようがないと思っている(もちろんそうではない作品も数少ないながら存在するが)。それに対して仮面ライダー、特に『シン』がモチーフとする昭和ライダーは究極の目標が実はない。毎回怪人が悪事を働いてそれを倒してはいるものの、最終的な目標である敵組織の壊滅は焦点化されず、最終回での壊滅もとってつけたものが多い(さらに翌週には新しいシリーズで新しい敵組織が現れてしまう)。
昭和ライダーから示唆を受けた作品にあって、昭和ライダーの何を焦点化するべきなのか?これは奥深いテーマだ。昭和ライダー、もとい昭和東映等身大特撮ヒーローというのは、何というかストーリーが無茶苦茶優れているとか、社会問題に鋭く切り込んでいるとか、そういう評価はあまりされたことがない。70年代の特撮ヒーロー大量製造&淘汰の時代にあっては、何より重要なのは視聴者受けであり、意欲的な設定を盛り込んだとしても視聴率が低ければすぐに投げ捨てられる。ただし、これにはメリットもあった。とにかくヒーローのケレン味やカッコよさ、画面のインパクトは本当にすごいのである。ストーリーの秀逸さや意欲的な新設定、しかしそれがヒーローを魅せることに本当に繋がるのかい?と問いかけられているような気さえしてしまう。これは今でも「強み」であると確信している。…まあこういった面も番組後半になってくると、次の番組に予算回すぞ!ということでダルくなっていくのであるが。
『シン・仮面ライダー』もこういう「理屈付けよりもとにかくヒーローのカッコよさを魅せる」作品になるのではないかとは予想していた。ただ、『シン』シリーズの流れというのもあるので、リアル路線との兼ね合いも気になっていた。
実際はどうだったのか。観に行ったのは3月17日。3月は多忙だったので、隙間を縫うといつの間にか舞台挨拶ライブビューイング付最速上映に辿り着いていた。しかし、舞台挨拶も登壇者の皆さんは誰も実のある話をしない!何を言ってもネタバレになるからなんだろうが、それにしても的を射ないので不安になるものがあった。これらを吹き飛ばす内容になっていればいいのだが…。
そして…。
うむ?うむむむむ。うーむ。
結論を一言で言うと、胡乱、ということになるだろう。初代ライダーへのリスペクト、それによるオマージュ演出、リアル風味な世界観設定、仮面ライダー・ショッカーの再定義、出演者の名演、「現代的」であるということ…『シン・仮面ライダー』ではこういうことをやるのではないかという点は盛り込まれていると言っていいだろうが、これらが一本の哲学でまとまっているのかと言うと、どうやらまとまっていない。ただ、まとまりのなさが低評価に直結するかというと「仮面ライダー」ではそうではないということも述べた通りだ。今回ややこしいのは「リアル風にきっちりした部分」と「仮面ライダーはそんなこと考える作品か?」が同時存在したカオスさと、そのカオスさにも意図されたカオスと意図されていないカオスが混在し、それが一個の作品・仮面ライダー作品として良かったのか確信が持てないということにある。通常はまとまりがあった方がいい作品なのは間違いない。しかし、初代ライダーの試行錯誤をリスペクトするのなら?一本の映画でもその中で試行錯誤を繰り返し、それが観客を引き付けられるのなら?それこそが『仮面ライダー』なのではないか。そうした考えによって『シン・仮面ライダー』が成り立っているとも言えるわけである。
もっとも個人的には、先述したように昭和ライダーの魅力はとにかくヒーローのカッコよさへの傾倒と見ていたので、その意味では私は別に試行錯誤の果てのナニモノカを見たかったわけではない。なので、『シン・仮面ライダー』の作りには不満を感じている。キャラクターにもストーリーにもアクションにも、これを「正統」に評価しようとすると、どうしても惜しさが残る。
特に具体的な所で言うと、今回のストーリーが端的に言うと「緑川家の内紛に本郷・一文字が一方的に巻き込まれ、その内紛を解決するだけで終わってしまう」のは「仮面ライダー」が背負う世界が狭すぎると感じる。緑川家の内紛解決のギミック自体は面白かったが、「迫るショッカー 地獄の軍団」に相対する「人間の自由のために戦う」仮面ライダー像というのは、今回ほとんどない。本郷・一文字が戦うのはあくまで緑川ルリ子への義理のためで、最終的にライダーは政府・情報機関と連携する存在に落ち着いてしまうので、意地悪く言うとライダーは「政府の犬」になるわけである。別に私はそんな反政府的心情が強いわけではないと自分では思ってるし、歴代ライダーには公的機関の傘下であることが明確なライダーもいたが、初代ライダーをリスペクト・リブートする存在がそのポジションになってしまうのはどうにも「自由」からは距離を置いてしまう処理のようには見えた。
ここはライダーが等身大であるからこそ露呈した点なのかもしれない。怪獣や宇宙人はそもそも個人の力で立ち向かうのは無理なので、主役サイドに政府・公的機関が設定されるし、直接守られる・救われる描写がなくとも怪獣を倒せばそれが市井の安寧を守ることに直結する。ゴジラやウルトラマンは主人公が「政府の犬」であってこそだし、国家的な働きと民衆の安寧が直結するので、そこに葛藤はなくても良い。しかし、ライダーは本来的に組織の反逆者なので国家からは自由であってほしいし、ショッカーは社会の中で我々に危害を加えてくる存在なので、ライダーは直接的に我々を守ってほしい。ライダーが自分の「正義」を背負っていないことは、これまでの『シン』シリーズでの論法が「仮面ライダー」では齟齬を起こした箇所ではなかろうか。
上記とも関連するが、今回は緑川イチローというキャラが緑川博士の実の息子、ルリ子の生物学的な兄として登場する。ヒロインの兄や「イチロー」という命名からしてこれは『キカイダー』における光明寺一郎がモチーフになっていると見て間違いない。しかし、光明寺一郎は公害問題に取り組む中非業の死を遂げたのに対し、緑川イチローは全く環境問題を背負っていない。それに伴い、仮面ライダーの「大自然の使者」という要素もなくなっている。わざわざ「一郎」を使った割にギミックの仕込みがなかったのは今作のライダーへのある種の思想・哲学のなさに通底する部分かもしれない。
他にもう1点、今回ハマらなかった部分としてはダイジェストみの強さがある。この点は元がTVシリーズである『シン・ウルトラマン』でも存在していたが、『シン・仮面ライダー』はさらにきつい。ただ、本郷とルリ子の距離が徐々に近づいていくためにこなすタスクとして不要な事件はない。『シン・ウルトラマン』は1話→2話→最終三部作のダイジェストだと以前述べたことがあるが、今回は1話→2話→3話→4話→5話→6話→7話のダイジェストといった趣である。また、怪獣はとりあえず出て来て倒されるだけでもキャラクターが成立してしまうが、怪人(オーグ)は人間でもあるので、どうしても人間としてのバックボーンやオーグ・ショッカーであることへの信念を背負っている。そうしたところをじっくりと映す時間的余裕もないので、興味を引きつつも上っ面の描写で終わってしまう消化不良は拭えない*1。単純にもったいない、と言うかやっぱTVシリーズ半クールくらいの物量を120分で捌くのは無理がある。
不満ばっかり言っていても仕方ないので、ここからは感嘆できた部分について語っていきたい。
まずは「仮面ライダー」という言葉に真面目に切り込んだ点。バイクライダーであること(およびそれを象徴するマフラー)への本郷・一文字・ルリ子・イチローの位置付けと思い入れ。そして仮面がただ顔を隠すためのものではなく、「継承」のモチーフということ(特に初代ライダーから「仮面」は本当の顔を隠すものでしかなかったが、使い回される能面のような「同じ顔」が継承されることで意志が続いていくとしたのは、日本的でもあり現代的でもあり素晴らしかった。これこそがまさに「変わるモノ」「変わらないモノ」「変えたくないモノ」であると言える)。仮面ライダーがシリーズになり「仮面ライダー」が自明のものとなっていくに当たって失われていた部分を再解釈し、それがストーリーの中でも最大限ハマっていた。ただそれだけに序盤で本郷がいきなり「仮面ライダー」を脈絡なく名乗ってしまったのはもったいなかったかもしれない。
次にアクションの多様さ。ここはドキュメンタリーでも常に試行錯誤していて結局「正解」がないまま出力されていた部分でもあるが、結果的にこの試行錯誤は良かったのではないだろうか。先述したように今作はダイジェストみが強く、怪人を倒す戦闘シーンも多い。全てが同じ方法論だとさらにダイジェストみが強くなっていたと思うが、試行錯誤が繰り返されることで「飽き」はなかった。『シン・ウルトラマン』だとニュージェネ特撮と比べてどうか?という感想も持ったが、現状の令和ライダーとは全く違った趣を見せられたのはこの映画の個性として評価されるべきだろう。
最後にキャラクター。『シン・ゴジラ』での日本政府官僚や『シン・ウルトラマン』の禍特対が神永(ウルトラマン)も含めて機能的で、それゆえにストーリーにある種のコクをもたらしていたのに対し、『シン・仮面ライダー』は個人的な話ということもあって、キャラクター造形の方に主があるように感じる。感情表出が下手糞だが底抜けに善良な本郷、無機質なようでいて感情的になっていくルリ子、出番は少なめだがクールかつ陽性さで話を引っ張る一文字…みなありきたりなようでそうではない。そういったキャラクターに含蓄を与えていたのは名演と言うべきだろう。ここは『シン』シリーズ3作で最も胸を張れるのではなかろうか。
以上つらつらと書いてきたが、『シン・仮面ライダー』の持つ「まとまりのなさ」。それはあえてであるかもしれないし、単純な失敗であるのかもしれない。そういう部分に折り合いが付けられていないのが、私の「不満」の正体ということになるだろう。どうすれば良かったのかを『シン・ウルトラマン』との違いで考えると、つまるところ「M八七」の有無ということになる。新1号カラーになった防護服をまとって本郷の声を聞きつつ悠々と走り去っていく一文字…ここから流れるエンドロールでこの映画の本郷・ルリ子・一文字の心性が歌い上げられていたなら…。きっと「腑に落ちる」感覚があったことだろう*2。しかし、こうした「腑に落ちない」感覚こそが間違いなく『シン・仮面ライダー』の味なのである。だからこれはもう一生折り合いが付かないのかもしれない。
おまけ
- 原典でも何なのかはっきりしないショッカー首領の正体として、ショッカーの創設者はもう死んだよ、AIが仕切ってるよというのは「首領の正体」の現代的かつあり得べきものとして良かった。