※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。
復活とともに日本国民に鮮烈な印象を残した特撮映画『シン・ゴジラ』。あれからアニメだったり洋画でゴジラが連続供給されてきたので麻痺していたが、国産実写特撮映画のゴジラの流れは絶えていた。7年越しに現れたのが『ゴジラ-1.0』。当然ながら、『シン・ゴジラ』、そして合間に作られた外伝的なゴジラシリーズ、これらを経て、今、何をゴジラで作れるものか、期待よりも不安の方が大きかった。大ヒットした『シン・ゴジラ』を再演するのは二番煎じだし、バトル路線に舵を切ってもハリウッドでやっているし…国産でこそやれるゴジラとは何なのか?正直予想もつかなかった。
しかして『ゴジラ‐1.0』の事前情報は斜め上を見せてきた。舞台はなんと太平洋戦争終戦直後、日本が独立を回復してすらいない時代、東京は未だ焼野原、そこへゴジラが現れ、敗戦で全てを失った日本をマイナスに陥れるという。
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そんな舞台設定ある?そもそも怪獣映画としては怪獣出現→怪獣の脅威→何とかして怪獣の脅威を除くという流れがお決まりだ。終戦直後だと自衛隊すら存在していない。当然ながら物資もない。戦えるとしたら駐留軍だろうか?しかし、それでは米軍が主人公になってしまう?また、ゴジラは日本が復興したからこそ、その文明に異議を申し立てるという側面もあったはずだ(もちろん全ゴジラがそうではないが)。すでに亡国の日本を襲うことにどれだけの一作品としての意義ありや?
それくらいの思いのまま観に行ってしまった『ゴジラ‐1.0』。一体どういう作品だったのか…。
大筋と総論的な感想
(戦争末期―大戸島に特攻機の零戦が不時着するところから始まる。パイロットの敷島は航空機の不良を訴えるが、不具合は見当たらず。敷島は死ぬのが怖くなって嘘をついて不時着したことが匂わされる。ところがその夜、大戸島を呉爾羅が襲撃。敷島が零戦の機関銃を撃つのをためらったのもあり、大戸島の守備隊は整備長の橘と敷島を除いて全滅してしまう。敷島は自分のせいで、生還できるはずだった守備隊が全滅した自責に苛まれながら、敗戦した日本へと帰国する。
帰国した敷島だったが、空襲のせいで実家はもはやなく両親も死んでいた。生き残りを図る中、敷島は闇市で子連れの典子と出会う。典子も空襲で家族を亡くし、連れ子の明子も実の娘ではなく、空襲の中託された子だという。成り行きで敷島と典子、明子、そして隣人で子供を亡くした澄子の奇妙な共同生活が始まる。敷島は危険だが金払いは良い機雷撤去の仕事をするようになり、「艇長」秋津、「学者」野田、「小僧」水島といった同僚とともに仕事をこなしていく。
束の間の家庭らしさを得る敷島であったが、米軍の原爆実験の影響で巨大化したゴジラが日本に迫る…。ゴジラと一度対戦して難を逃れた敷島は戦争のフラッシュバックに襲われることになる。典子によって一時の癒しを得る敷島だったが、ゴジラが銀座を襲うと、典子はそれに巻き込まれて行方不明となってしまう。遺された敷島のゴジラへの怨念はいよいよ深まっていった。野田が立てた作戦は、ゴジラを海上から深海に上下させるものであった。作戦の不備を補うべく敷島は戦闘機によってゴジラを誘導することを提案する傍ら、確実にゴジラを殺すため、万一の時はゴジラの口の中に特攻することを決意する。そして作戦の行方は…敷島の運命は…。)
ほとんど情報を仕入れずに見に行った結果、これが主人公でこれがヒロイン?と考えつつ、物語を新鮮に享受できた。当初戦後すぐが舞台と聞いた時には、本当に再現できるのか不安もあったが、美術も人物もほぼ時代に即した描き方で違和感はなかった。もちろん画面上に確かに存在はしつつも文字通り煙たくはないタバコの煙とか、最初から違和感が薄いように造形されている敷島など、現代に即したものもあるのだが、それを含めて齟齬を感じさせない、上手な描き方だ。
登場人物やドラマも良い意味で雑味がない。登場人物がどういうやつなのかはわかりやすくて、不快感のある人間は全く出て来ないし、手持ちの兵器がないという状況で、むしろ自然界のパワーを借りてゴジラを倒すというのも納得感がある。どうしても怪獣のような超常存在がいる世界線だと荒唐無稽な感じが出てしまうが、戦争、敗戦という極限状況の延長線にあるおかげか、ゴジラが物語の中で馴染んでいる。
個人的に戦後の雰囲気の描き方として好感を持ったのは、世相が荒みつつも、全員が大変なので、だからこそ助け合わなければならないという感じがあったこと。もちろん、実態としてはそんなに甘っちょろいことはほとんどなかったであろうが、明子を託されて育ててしまっている典子→押しかけて来た典子を何だかんだ追い返せない敷島→明子が孤児だと知り助けてしまう澄子という連鎖で、「家庭」が成り立ってしまうことには仄かな温かさがある*1。典子は自分が「生きる」ことを至上命題にしているし、敷島は迷惑がっているし、敷島を恨んでいた澄子も口では「本当に迷惑だよ」を繰り返す。それでも少しの善意が確かに繋がって、明子が明日への希望として3人に働いていく。これもまた、戦後を舞台にしたことで有意に描けたことのように思えた。
また、キャラクターの不快感のなさとしては、どの人物にも「悪意」がないことが挙げられる。結局徴兵されないまま終戦を迎えた水島は「戦争」を含め物事に対してあっけらかんで、時に敷島の逆鱗に触れることもある。しかし、水島や周囲はすぐに敷島の苦悩を理解して引き下がる。それ以上関係が拗れることはない。大戸島で敷島が呉爾羅を撃たなかったのも共感できる恐怖によるものだったし、以後のゴジラとの戦いも足を引っ張る存在は出て来ない。GHQや日本政府は関わろうとはせず、その情報統制はネガティブに描かれているが、焦点化されているわけではないし、だからこそ民間で!が肝になっていくので、「無能」さが印象付けられることもない。
『シン・ゴジラ』は今から思うとオタク好みなところがあってそこが刺さっていくところも大きかった作品だが、『-1.0』は一般ドラマとしての自然さを意識して仕上がっていると言える。一方で「やったか!?」→やってないが都合5回くらいあったのは笑ってしまう部分ではあったが…。
「戦争」としてのゴジラ
さて、終戦直後に現れるゴジラとはどういう意味があったのだろうか。
主人公の敷島は死ぬはずだったのに生き延び、また死んでいった者に対して有責感を強く覚えている人物だ。自分が撃っていれば死なずに済んだかもしれない人間が大量にいたことは、大戸島での全滅、そして廃墟と化した東京によってダイレクトに敷島を苛む。これは言うまでもなく、史実の戦争を体験した復員兵が大なり小なり持っていた感慨と思われる。実際の戦争体験に即せばもっと生々しい修羅場、いや地獄があったはずだが、本作は純然たる戦争映画ではないし、現代に生きる我々が戦争体験を自分にも即するような出来事として捉えられるかと言われると、正直自信がない。本作はこの問題をゴジラで以て包摂する。同朋が自分のせいで死んだのも、都市が破壊されたのも突如現れた巨大生物のせいなのだ。そんな生き物が現れたら…怖くて撃てないのも、無力感を覚えるのも、トラウマになってしまうのも無理はない。
そして、ゴジラがいるからこそ、「戦争」が続いていること、それを清算できることを描くことができる。「今度は守れるかもしれない」「今度は誰一人死なせない」「今度こそ死ねるのではないか」という思いの対象としてゴジラがいる。その意味では本作のゴジラは生態などの考察はほぼされず、恐怖の対象でありつつもどこまでも物理的な物質として葬られることになるのだが、だからこそ戦争を生き延びてしまった人物の想いをダイレクトに投影されるとでも言えようか。
一方でゴジラは戦争そのものではない。あくまで怪異的な生物でもある。それを象徴するのが終盤の水島の出番だ。秋津はゴジラを倒す作戦に水島を連れて行かないと告げる。ゴジラ掃討を「戦争」と捉える秋津にとって、「戦争」に行っていない水島は「小僧」だが、だからこそ新しい時代を担う「小僧」は「戦争」とは無縁でいてほしい。そういう思いからだった。しかし、水島は独自に漁船に応援を頼みゴジラを倒す戦いに参戦する。戦争を経験していない水島にとって対ゴジラ作戦は「戦争」ではないのだ。だからこそ、秋津の真意を理解しないまま参戦できるし、水島と漁船が加わることで、「戦争」であったゴジラとの戦いは「戦争」ではなくなる。ゴジラを倒せたことは一見戦勝に見えるが、それが背負うものはどこまでも「終戦」なのだ。そういう描き方だと思っている。
VFXと恐怖感
どうしても特撮・CGと言うと、邦画は洋画より劣る感が拭えないが、本作のVFXは決して洋画に負けていない、邦画最高クラスと言って良い。ゴジラはフルCGだが、CGらしい違和感は全くないし、合成にも不自然さは全くない。特にいわゆるミニチュア特撮がどうしても実在の人間とミニチュアの市街地の実在性に差があったのと思うと、本作のゴジラと人間が同時に画面に映る、双方の実在感の共有度合は最上級である。
そしてそれが単なる特撮技術の進歩というだけではなく、本作がアピールするゴジラへの恐怖感にも合致する。今回のゴジラは人をかみ殺してくるし、歩くだけでもそこらの人など普通に踏み殺していく。破壊する車両やビルには人がおり、破壊の余波をダイレクトに食らう。放射熱線も熱線自体だけではなく爆風によって全てが吹き飛んでいくのも描かれる。画面に描かれる膨大な人的被害とその自然さは間違いなく過去随一でハリウッド版でもここまではやっていない。
ゴジラに破壊される軍艦や、終盤の作戦の肝となる巡洋艦、そして震電の実在感もすごいのだが、それ自体はフルCGなのでどうしてもゴジラと人間とを同列に描くという点が本作の肝であるのは間違いないだろう。近年はウルトラマンシリーズが予算の枠内で良質な特撮を見せて行けるのか、答えを出しつつあるものの、制約を完全に取っ払った「本気」でどれだけやれるのかというのはなかなか見られるものではない。「本気」だからこその確かな味を堪能できたのは実に幸福な映画だった。
現代日本で『ゴジラ‐1.0』が作られたということ
正直言うと、終わる10分前にはオチが全て読めた。そして実際に予想通りのラストを迎えた。それだけにラストは結構な御都合主義だ。しかし、これでもかと描かれた敷島のトラウマやゴジラの恐怖感、これらを2時間も見てきたのだ。最後にわかりやすい救いがあっても良いではないか。思った通りだったのに、落胆よりもほっとしたのだから、作品として上手かったのだろう。一方で、「まだ終わっていないのでないか」という要素が映されて終わるとここまで出なかった「ゴジラ‐1.0」のタイトルが映る。見ようによっては「-1.0」というのがプロローグを意味しているように見えないこともない。「終戦」によって、初代ゴジラの条件が整ったかのように。そう考えると、心憎い演出なのではないか。
『シン・ゴジラ』とはまた趣を変えつつ、良作(VFXとしては最高傑作)として現れた『ゴジラ‐1.0』。一方で、『ゴジラ‐1.0』が公開された今年は終戦・敗戦から78年目にあたる。現在軍人恩給の受給者の平均年齢は100歳を超えていて現代日本人の中では圧倒的少数派であるし、私も先年祖父を亡くしたがもはやその祖父でさえ終戦時は児童であった。戦争も戦争体験も今や「現代」ではなく「歴史」なのである。本作は戦後すぐの「終わらない戦争」をテーマにしていて、それ自体は説得力があるように描かれていたものの、これが「史実」だと判断できる主体はもはやいないと言える。そういう意味では「死人に口なし」をいいことに現代人が想像・創造した「都合のいい」映画と言えないこともない。
しかし、である。だからこそ空想科学の出番だったのではないか。戦争とはもはや無縁となってしまった現代日本人が戦争の時代を描くには限界があるし、どこまでも史実に近づけた戦争を再現できたところでそれを十全に受け止められる感受性ももはやないと思っている。だが、幸いにも(?)現代の日本人でも怪獣という存在が持つ恐怖や理不尽さは体験できるし、そもそも怪獣は実在の存在ではないのでその体験に「リアルな正解」などあり得ない。その意味では、どこの誰だろうが怪獣に対しては同じ土俵に立っている。本作はそもそもが非現実的な怪獣の存在を通して「戦争」を現代に蘇らせる、そういう試みであり、実際にそれに成功したのではないか。
そうした側面において、本作は終戦78年目という「今」の現代日本ということに意味も意義もあったと言えよう。『シン・ゴジラ』は東日本大震災が前提にあった作品だったが、『ゴジラ‐1.0』もまた日本と「戦争」を強く意識した作品だ。ゴジラはどこまでも日本人を苛み、また自身が倒されることで日本を復興させる存在として現代に「生きている」のだ。今後国産ゴジラは実力派監督の「俺のゴジラ」シリーズになるのかもしれない。「なぜ現代日本にゴジラが招来されるのか」という問いかけに今後どういう答えが用意されていくのか、これからも目が離せない。
PS 野田が海軍の生き残りたちに作戦を説明するシーンで長身で口髭を生やした男がいて、背格好といい声といいてっきり影丸茂樹さんかと思ったら別人らしい(少なくとも出演クレジットにはいない)。こんなそっくりさんいるんだということに驚いてしまった。