志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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【ネタバレ有】『シン・ウルトラマン』感想―そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。

※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。

 『シン・ゴジラ』公開時からネタ臭く『シン・ウルトラマン』が語られ、『シン・ウルトラマン』発表時からこれまたネタ臭く『シン・仮面ライダー』が語られていたが、『シン・ウルトラマン』も『シン・仮面ライダー』も実現したのだから世の中本当に何がリアルなのかわからない時代になったものである。そんな瓢箪から駒みたいな『シン・ウルトラマン』。私は正直庵野秀明氏にも樋口真嗣氏にも正直馴染みがない。いやもちろん知らないわけじゃないし、特撮でもパワードや平成ガメラなどダイレクトに作品を見たこともあるのだが、「この人はこういう人だからこういう作品を作る」が理解できるフェイズには達していないのである*1。だから、作品イメージとしては『シン・ゴジラ』のウルトラマン版くらいの朧気なものしかない。
 では、『シン・ゴジラ』のウルトラマン版とは何ぞや?『シン・ゴジラ』は、突然出現し国土を蹂躙する大怪獣を人間がどのように出来るのかというゴジラ原典が持つ主題を愚直に沿い続けた作品だった。その中で特徴的だったのは日本政府の中での人間関係を有意に描いたことだろう。必ずしもそれがリアルかとは別に、日本政府はこういうことやりそうとその中でそれを覆していくような現場パワー…お上と国民の力の縮図のようなものが表現され、これが琴線に触れた日本人は多かったのではないか。加えて特撮シーンも実在感と非実在感を合成しつつ、画面から引かないだけのレベルに達していた。さらに「蒲田くん」や無人在来線爆弾といった公開前までは隠され、一度見たら語らずにはいられないようなネタも豊富だった。卑俗だが「面白い」ポイントをいくつも抑えていたのだ。
 こうした「面白さ」は『シン・ウルトラマン』で昇華できるのかと言うと不安がないわけではない。ゴジラウルトラマンはコンテンツの成り立ちからして違うからだ。
 映画になるにあたっての懸案としては、ゴジラは元々映画だが、ウルトラマンは30分のTVシリーズということがある。ゴジラは90分以上を使って日常を覆す巨大怪獣の出現、破壊、人間の対抗を描いていく。時間が長い分それはじっくりとしたものになるし、それこそがゴジラ映画の見応えだろう。対して、ウルトラマンはそうした怪獣映画を30分に短縮していて、怪獣映画を強制的に終わらせる「デウス・エクス・マキーナ」としてウルトラマンという怪獣を倒すヒーローが招来されるという作り方になっている。つまり、ウルトラマンを90分に拡大してしまったら、原理的にはウルトラマンが出て来ない単なる怪獣映画になるはずなのである。そういうわけで、ウルトラマンTVシリーズの作劇を保ったまま映画になることは基本的になく、過去のウルトラマンの映画はTVシリーズの90分拡大版ではなく、ヒーロー作品として共演物になったものが圧倒的に多い*2
 しかし、『シン・ウルトラマン』は前情報の限りではヒーロー共演ものというわけではない。しかし、単なる90分拡大版なら相当ダラけただけの作品になる。前情報だけでもネロンガガボラザラブ星人メフィラス星人の登場が明かされているが、これらの怪獣・宇宙人全てが同一の事件で登場するとも考えにくい。恐らくは原典の『ウルトラマン』の一話完結エピソードをつまみ食いして1本の映画に再構成していくようなものになるのではないか。ただ、そうするとウルトラマンが怪獣を倒すという「山場」が映画の中でいくつも発生することになるし、一話完結だからこそ滋味が出ていた原典の良さも曖昧になってしまう。映画としてまず大きな主題があり、それに沿って原典のいくつかの話を再構成・翻案することが求められるわけだが、その時点で原典に対する「愚直」な態度にはなり得ない…と書くとややストイックすぎるだろうか。
 要するに、ゴジラ→『シン・ゴジラ』とウルトラマン→『シン・ウルトラマン』では翻案の文法が同じにはならない。「『シン・ゴジラ』のウルトラマン版」といったところでそれで面白くなるのかは未知数だ。換言すればそこが腕の見せ所ということにもなるが、制作スタッフには「信任」があるわけでもない。とりあえず、ウルトラマンの作劇パターンが踏襲されていれば、つまらないものにはならないだろうが、それくらいの期待度合はむしろ失礼だろう。こんな感触のまま映画公開を迎えることになった。…余談ながら少し先走っておくと、昭和ライダーは原典がある程度ワンパターンなので、90分拡大版でも結構成り立つ…もっとも『シン・仮面ライダー』は『THE FIRST』との差別化が課題だろうが。

 それでは実際にはどうだったのか。まずは一言で言うと、すごく…「空想特撮映画」してました…。もちろん『シン・ゴジラ』的な政治劇や人間劇のテイストも健在だし、地球の未来だって芳しくはなさそうな最後を迎える。それでも禍威獣やウルトラマンの存在や超科学にイマジネーションの心地よさが感じられる。科学を下敷きにした空想が潤沢な映像として正しく出力される。確かにこれは「ウルトラマン」が視聴者に訴えかける本質の一つだ。もちろんここを外すとは思っていなかったが、最初のハードルは悠々と超えていったので、ウルトラマンを知っている人間に対しては基本的におススメできる作品になっている。樋口監督が「一般受け」と言っていたのはこういうところで、この点に関しては人類普遍の欲求に応えていると言えるのではなかろうか。
 特に「宇宙」へのロマン。この映画の舞台はほぼほぼ地球上で、原典のように禍特対が宇宙に進出して戦うというようなことはない。それでも宇宙へのワクワク感が強く感じられる。多用されるマルチバースという言葉、知的生命を持つ星が云百あるという設定、物語の核心の一つであるウルトラマンの巨大化の秘密…そして何よりブラックホールの最新学説に基づいた映像化、ウルトラで「空想科学」を感じたのは『ゼロ THE MOVIE』以来かもしれない。
 というところで、最初の方にやや残念・不満な点を述べておくと、やはり予想通りと言うべきか、原典の『ウルトラマン』からの映画『シン・ウルトラマン』への翻案にはそもそも無理があった。一本の映画としてちゃんとお話を再構成できているのでそこは評価が下がる部分ではないが、どうしても一本の映画にするために展開がややせわしない。TVシリーズ的に言えば1話→2話→最終三部作のような筋になっていて、禍威獣や禍特対の描写は不足しているわけではないが充足もしていない。神永の正体がウルトラマンとバレるのも映画中盤でかなり早いし、ガボラの後は外星人が話の中心になって禍威獣がフェードアウトしてしまう。この2点は「怪獣映画を終わらせる存在」としてのウルトラマン像からはズレてしまっているだろう(原典では宇宙人回は最終回含めても6/39しかないし、そもそもハヤタの正体は誰にもバレない)。時間や予算の都合も大きいのだろうが、正統派怪獣な禍威獣はもう1体くらい欲しかった。

 そういうところで色々語っていきたいと思う。
 最初に語っておきたいのは何よりもまずウルトラマンだろう。「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」。今作のウルトラマンはこれに尽きると言うか、ウルトラマンが人間を「好き」になっていく作品だった。初代ウルトラマンが持つ人間離れしているようで人間臭さもある宇宙人然としたキャラクターを翻案しつつ、原典最終回でハヤタに命を渡しても良いとさえ語り、ゾフィーに驚かれたあの感情。それが人間とは全く別のバックボーンを持ち、それでいて人間にかなり影響されつつつ、感情が成長していく。その末に掟破りや自己犠牲を厭わなくなるのは、ウルトラマンが当初それを理解できなかっただけに感動的だった。『シン・ウルトラマン』はまさしくウルトラマンが主役の映画だった。その外星人としての人物造型は斎藤工氏の好演だろう。
 ウルトラマンの生態についてもここで述べておこう。これは『シン・ゴジラ』で言う「蒲田くん」のようなサプライズ要素だったのだろうが、初登場のウルトラマンは銀一色かつ顔もやや肌荒れに頬こけ…はい、つまりAタイプですね。予告ではちゃんとCタイプフェイスだったのに作品内ではAタイプに変えてるってすごい小ネタだな…。さらに今回のウルトラマンはカラータイマーがないが、ピンチシチュエーションはちゃんとあってそれは赤色が緑色になることで表現される。そう来たかー!でも初見で思ったのはどっちも「うわこれ色変えでお手軽にソフビバリエーション増やせるやつだ」だったので、我ながら販促視点に相当毒されてますね…。
 次に禍特対。人間関係が薄いのではという感想も見たが、個人的には全員キャラ立ちはしているし、何より優秀な人間たちであるというアピールは十分だったように思う。ウルトラシリーズの防衛隊で言うと、どうしても防衛隊が何かしら失敗する→ウルトラマン登場で解決のようなパターンも多くて、防衛隊ポジションは作劇上役に立たないように描かれることもある。しかし、今回はネロンガ戦もガボラ戦もギリギリまで知恵を出していて、その末にもう猶予がないというところでウルトラマン登場なので、禍特対が無能というよりも「地球人」という殻の中で最大限やれることをやっている認識になる。今回禍特対といっても自前の戦闘機もスーパー兵器も持っておらず、大まかな作戦担当部隊に要素を振っているので、余計に「足りないなりに最大限」という感想になるのかもしれない。
 そして本作のヒロインとなる浅見弘子。ウルトラマンである神永とはバディ関係になる女性だ。これも「バディ」と言うが、一般的なバディものとはだいぶ趣が異なる。2人で組んで事件を解決に導くとかそういう場面は基本的にないし、名連携プレーがあるわけでもない。しかし、2人はちゃんとバディなのである。ウルトラマンは外星人なので、人間との間にはそもそもわかりあえない断絶がある。それでも2人の間には信頼関係が成立するようになる。そしてそれも間違いなく「友情」なのだ。この関係性はなかなか言葉では言い表せないが、間違いなく今作の妙の1つだ(恋愛的にする話展開もあったようだが、人間と外星人の奇妙な友情を評価したい観点からすると恋愛方面には流れなくて良かったと思っている)。
 というところで触れねばならないのは(笑)、メフィラスによって彼女が巨大化させられてしまうことだろう。メフィラスが出るのはわかっていたのにこの可能性は全く想像できていなかった。これも口コミ必至のサプライズ要素だったのだろうが…。もちろんただの巨女趣味というわけではなく、作劇上もすごく意味があることになるのではあるが、よくぞ長澤まさみもこれを引き受けたなと感心してしまう。長澤まさみの歴史にも残る映画にもなってしまったと言えよう。もっとも、桜井浩子さんレベルになるには美女怪獣の人間体として登場する実績も解除しないとな!
 3つ目に触れたいのは禍威獣と外星人。禍威獣はもう1体くらい出てほしかったと書いたが、プロローグでのウルトラQ怪獣ラッシュは上がりましたわ。一枚絵な部分が多いがそこまで怪獣を出してくれるのか!という感動。ぶっちゃけガボラを最後に怪獣らしい禍威獣が出ない不満も最初にあれだけ出されたからというところからの落差が大きかったかもしれない。ただ、ここで一つケチを付けておくと、我が愛するパゴスがガボラのコンパチで顔はまんまガボラにされたのはあまり心持ちは良くなかった。ガボラは襟巻も特徴的なので顔が変わってもガボラアイデンティティは失われないのだが、パゴスはそうではないので…。何にせよ、パゴスは今年もう2回も映画に出たんだから、バンダイも観念して早くソフビを出して欲しい。
 ザラブは予告では原典と変わり映えしないと思っていたので、後ろから見ると体が抉れているように見える造型になっていたのはしてやられた感がある。メフィラスのデザインアレンジは個人的にはそこまでだった。ゼットンも怪獣というよりは一種の兵器になってしまったし、ソフビでは出せなさそうなデザインなのでそこまで評価が高くない。良くも悪くも元のイメージを大事にしていたネロンガガボラ、アイデア賞なザラブと違い、メフィラスやゼットンはここ10年だけでもアレンジデザインが多いので、今作のアレンジはそれらとのいい意味での差別化が出来なかった気がする。ちなみにメフィラスもゼットンも発光機関がわざわざ着ぐるみの電飾っぽくなっているのは『サーガ』でのハイパーゼットンみたいですね。
 怪獣としてのキャラで言えばネロンガガボラ、ザラブいずれも原典を意識していて上々の仕上がり…しかし山本耕史演じるメフィラスが何よりも強かった。原典の胡散臭い紳士ぶりそのままに、地球そのものへの愛着を感じさせる立ち振る舞いに山本耕史の怪演が重なって相乗効果がえらいことになっていた。もう完全にミーム化してしまっているのでわざわざ書かないが、これもまた観てこそのサプライズ要素だろう。個人的には格言や諺をナチュラルに使うヴィランというのはちょっと懐かしいし、メフィラス的には2代目要素っぽいのも楽しいかもしれない。

 ここからそのまま特撮の話に移ることにするが、今作の特撮は正直そこまでという印象が強い。もちろん過去のウルトラマン作品の中では最大級に予算がかけられているのは間違いない。しかし、オールCGだからこれが出来るとか樋口監督ならではのセンスとかそういう点はそこまで感じ取れなかった。この点現行のウルトラマンが特撮に関してはとにかく意欲的な分、今作は独自性を出し切れなかったのもあるし、今作も思い返すと印象的なシーンも飛び人形や過去の戦闘を忠実に再現しただけのもので、本作ならではの個性も乏しかったかもしれない。禍威獣やある種の非現実性を狙ったであろうウルトラマンはともかく、メフィラスやゼットンは表面もぬるっとしていて悪い意味でのCG臭さは抜けていなかった。巨大長澤まさみもアイデアはともかく合成は正直褒められた出来ではなかった。まだ、そうした部分はある種の非現実で流せるかもしれないが、メフィラスがベータシステムを禍特対の前で出したところなどはベータシステムのCGが浮きすぎていて流石に看過は難しい。
 こういった不満点が最も悪く出たのがゼットン戦だと思っている。今作のゼットンは怪獣というより太陽系もろとも消し去ってしまう兵器のようなもので地球外に存在していた。1兆度の火球という児童誌の与太設定に大真面目に取り組んだ結果、おそらくウルトラシリーズ史上最強のゼットンになった。当然ウルトラマンも敗れてしまうわけだが、どうにもその演出が格落ちしてしまっている。原典がテレポートでウルトラマンを翻弄し、ウルトラマンの技を全て退けウルトラマンを死に追いやった、あの演出の凄みを思うと、今作のゼットンは固定砲台に色々技を繰り出したけどダメでした程度の重みしか感じられず、身体で感じるヤバさはそこまででもなかった。やはり人型の怪獣であるからこそ伝えられることはあるのだ。
 ゼットンと言えばゾーフィ。ここでゾーフィを持ってくるのはほとんど悪ノリに近いが、ストーリー上成り立っているから仕方ない(ゾーフィなのに最後の方は普通に「ゾフィー」に聞こえるのは…いいのか?)本作でのゾーフィは光の星のエージェント的で第三者的でありながら、結構ウルトラマンの意志も尊重してくれるという、初代マン最終回のゾフィーの翻案としては正統派だったのではなかろうか。ヒーローキャラが地球を消す決断をすると言うと、『スーパーヒーロー大戦Z』のギャバンみたくもっと非難轟々でもおかしくないものだが、そうは思わせないバランスがゾーフィに関しては優れているように思った。山寺宏一が声を演じているのもハマってましたね。
 そんなこんなで述べていくと今作はそこそこ不満点もある。おそらく一作品としては『シン・ゴジラ』の方が良く出来ているし、いい意味で評論向きなのに比べると、『シン・ウルトラマン』はそこまでカチカチというわけではないし、現代という時代に即したストーリーラインでもない(この点は「原発」や「震災」を重ねられる『シン・ゴジラ』がずるすぎるのはあるが)。それでも私は『シン・ウルトラマン』の方が好きだ。ゴジラという唯一の災厄に焦点を絞っている『シン・ゴジラ』の方が見やすいし、理性に訴えかけるものは大きいが、『シン・ウルトラマン』が焦点化した人間を理解できないからこそその存在を気にかけ命を賭してくれたウルトラマンは心に響く。「ありがとう」と何の曇り気もない本心から感謝できる存在、それがウルトラマンだ。思考よりも感謝―そういったことを思い出させてくれた、リピアのことを思うたびに感極まる。これこそが『シン・ウルトラマン』の現代的価値だったのではなかろうか。
 この感慨を補強していくのが、主題歌の「M八七」だ。米津玄師については正直あんまり知らなかった*3が、「M八七」については歌詞も曲調もウルトラマンにまつわる心情に寄り添いすぎている。米津玄師が実は特撮オタクという話は聞いたことがないので、単純にタイアップ主題歌を作るにあたって内容を研究したのだろう。要するにプロフェッショナルとしての仕事をしただけだろうが、結果として100点満点中300点くらいの仕事をされていますね…。私としては「いまに枯れる花が最後に僕へと語りかけた 「姿見えなくとも遥か先で見守っている」と」が命を神永に捧げたウルトラマンの今際の際の心情を最大限言語化できていて泣きそうになる。

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 ところで、『シン・ウルトラマン』の世界線は、地球人は一時的にせよゼットンを退けられるテクノロジーを入手し、今後外星人の訪問も相次ぐことが仄めかされた。『シン・ウルトラセブン』作る気満々じゃないですか!(ゾーフィがゼットンを使役していたのもカプセル怪獣の伏線と言えないこともない)今作のもろもろの話は『シン・ゴジラ』的リアルと外星人がナチュラルに地球社会に存在する世界を橋渡しするためのものだったのではないかと思ってしまうくらいだ。そういえば、『シン・ウルトラマン』は理詰めで考えるなら、『シン・ゴジラ』の続編ではない。が、竹野内豊演じる政府の男の存在など続編を否定するものでもない。こういう「明確な続編じゃないけど続編要素はある」というのは懐かしいですね。完全に身内話だが、第1期ウルトラシリーズ世代である私の父は、幼い私に『ウルトラQ』19話の天野二等空佐がその時の功績を評価されてムラマツキャップになったと説明してくれたことがあった。もちろん演じていたのが同じ小林昭二さんなだけで天野空佐とムラマツキャップは同一人物ではないのだが、そういう風に思えたとしても不思議ではない。『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』もそのような関係で、視聴者が同じ世界観と誤解して解釈するのも大いにアリだろう。ついでにここで言っておくと、「空想特撮映画 シン・ウルトラマン」のタイトルの前に出てきたのが「シン・ゴジラ」だったのはびっくりしたし、現代的な「ウルトラQ」タイトル生成が見られたのもワクワクして良かった。
 かなりまとまりの感想となったが、もうすでにだいぶヒットしているし、『シン・ウルトラマン』を観た人が誰であれ「ウルトラマンって良いな」と思ってくれたらこれに勝る喜びはない…そういう映画でした。

※今後の再視聴で感想が変わったり増えたら追記するかも。

 以下はオタクっぽい感想トピック。

おまけ1 『シン・ウルトラマン』とニュージェネレーションシリーズ

 『シン・ウルトラマン』公開前に一部のウルトラファンが「『シン・ウルトラマン』を叩き棒に現行ニュージェネレーションシリーズが叩かれるのでは…」と危惧する意見が流れて来ていたが、現時点ではそういう意見は観測できていない。杞憂に終わって(?)良かったですね。
 良くも悪くも『シン・ウルトラマン』はニュージェネっぽさがあると思っている。例えば、最終的にウルトラマンや外星人に話の焦点がシフトしていくのもそうだし、ネロンガガボラを尖兵にするメフィラスがライバル的ポジションにいるのも今風に言えばヴィランだろう。禍特対の装備があまり充実しておらず、戦闘機どころか専用の銃といったアイテムすらないのも防衛チームとしてはショボい。規模は大きいはずなのに人間関係がわりと狭く完結してしまい、一般市民の描写が乏しいのもニュージェネっぽい。『シン・ウルトラマン』ではこういったニュージェネ的要素をリアルさでカバー、つまり生まれたての政府組織なので予算にも苦慮しているとか、すでに避難が完了している状況とかであまり欠点には見えさせないようにしていたが、伝統的な「ウルトラマン」としては抑えたいところを落としているのはニュージェネの文法に驚くほど似ている。加えて言うと、それでもウルトラマン周りの話だけで感動できてしまうのもニュージェネの良さ・悪さと共通していますね。
 そういうわけで実際問題として、どっちかがどっちかの叩き棒になるほど、ニュージェネも『シン・ウルトラマン』もウルトラマンから離れていないし、同じような問題点も抱えてい(ながら評価できるところはちゃんと評価でき)ると言えてしまうだろう。偶然か、必然か、同時代の別系統の作品がお互い示し合わせるでもなく奇妙に符号するのは面白い(箇条書きトリックと言われるかもしれないが)。

おまけ2 『シン・ウルトラマン』と『ゼロTHE MOVIE』

 『シン・ウルトラマン』の「宇宙」を語る時に『ゼロTHE MOVIE』を引き合いに出してみたが、実際『シン・ウルトラマン』はかなり『ゼロTHE MOVIE』的な映画だと思っている。「マルチバース」という言葉が今作でも結構出て来て、これがウルトラでは『ゼロTHE MOVIE』で登場した概念であるとかそういう表面的な要素もあるが、「空想科学」というか「科学啓蒙」というか…サイエンスとワンダーのバランスというか、そういう映像の趣がとても似ている気がする。
 ウルトラマンゼロウルトラマン(リピア)もキャラクターとしては全然違うのは言うまでもない。ただ、『ゼロTHE MOVIE』もウルトラマンと人間とのファーストコンタクトがストーリーの主軸になっているので、神永の姿でありながらウルトラマンであることとランの体をゼロが使っていることはそれなりに似ている。ウルトラマン憑依状態では瞬きをしないというのも演出としては共通していて面白い。ウルトラマンが人間の体を「使う」ことでどういう心境の変化が起きたのか?奇しくもゼロもウルトラマン(リピア)も終盤に命を賭すことになるので、共通点や相違点がまざまざと浮かび上がってくる。
 『シン・ウルトラマン』でこういう体験ができるとは思っていなかった。実は『ゼロTHE MOVIE』10周年記念作品だったりして…。そういうわけで『シン・ウルトラマン』からウルトラ沼に落ちる人への私のおススメは『ゼロTHE MOVIE』です。是非観てね。

おまけ3 『シン・ウルトラマン』でセクハラと指摘されるシーンについて

 感想を漁っていてびっくりしたのがセクハラ問題。正直『シン・ウルトラマン』を観ていても特にこちら方面でノイズを感じたりはしなかったので、意識差を感じる…。通俗的に言うとジェンダー概念をアップデートできていないことになるんでしょうか。とは言え、何で特に問題と思っていないのか、とりあえず説明しておこう。
 大きいのは神永が浅見の臭いを嗅ぐシーンだろうか。ただ、神永の中に宿るウルトラマンには地球人的な常識やデリカシーはなさそうだし、性癖の一環として嗅いだのではなく、ベータシステムのありかを探るためなので、作中的にはその直前に浅見が政府機関にすっぽんぽんにされたことを示唆する台詞があるが、それと同じだろう。メフィラスは地球に馴染んでいるので「ウルトラマンが変態行為を…」と言語化してくれるわけだが、ウルトラマンの地球人的常識の欠如と作戦による必要が重なった場面と認識していたので、セクハラという発想は全然出て来なかった。
 巨大化させられた浅見が写真や動画を撮られて中にはセンシティブなものもあったのも、あり得べきものとして見ていた。美女が巨大化していたらそりゃ写真や動画撮るし、パンツの中とか覗くでしょ。ちょっと違うけど、レイヤーの写真撮ってるカメコがいやらしいアングルを狙ったりするのと心理は同じだろう。もちろん浅見さんは本人の意思関係なく巨大化させられて見世物にされてしまったので、それは良くないが、本人も大激怒してメフィラスがその意思に沿う形でフォローしているので、「良くない」という感情が視聴後に残ることはなかった。ぶっちゃけメフィラスは悪役という前提があるので、ちゃんとアフターフォローしてくれたのは意外だった。所詮メフィラスは地球人女性のプライベートとか気にしていませんよというキャラクターにしても不自然ではなかったので。
 セクハラ指摘で唯一まだ理解できたのは「他人の尻を勝手に触るのは良くない」でしょうか。浅見は気合を入れる時に自分の尻を叩く癖があり、それも最初こそ違和感があったものの、すぐキャラクター設定として飲み込めた(この人物はそういうことをするというのが織り込まれた)。ただ、自分で自分の尻を触るのは好きにしたらいいだろうが、船縁さんや神永の尻を叩いたのは確かにデリケートな部分で後々のフォローもない(例えば、船縁さんが浅見に「あれ嫌だった」と言って浅見が反省すればあれは実は良くないというメッセージにはなる。『シン・ウルトラマン』はセクハラ啓蒙ムービーではないので作中でやったらこれこそノイズでしかないけど…)のはセクハラというのは一理あるかもしれない*4。浅見さんは正義の味方サイドなので、『シン・ウルトラマン』を観た子供や中身は子供の大人が真似をして他人の尻を叩くのが流行る可能性もないとは言えない。ただ、ここも所詮は…と言ってしまうと家庭教育の範疇なんじゃないですかね(いい大人が『シン・ウルトラマン』でもやってたじゃん!と痴漢する事例が現れる確率はゴジラが生まれる確率くらいだと思うので)。
 長澤まさみへの視線が尻を叩くときにどアップだったり、巨大化の時の撮り方にフェチズムを感じてそれが嫌だというのは…まあ嫌なら嫌でいいんじゃないですかという感想になる。少なくとも長澤まさみは納得して出演しているのだろうし、エロが露骨かと言うと別にそうでもないだろう(もっともここは坂本浩一監督の演出に馴らされた部分かも…)。それに特撮とフェチズムはかなり連関していて、例えばウルトラの世界だとウルトラマンの敗北シーンに興奮するという話も珍しくはないので…。それとこれとは話とは違うと言われるかもしれないが、特撮における一般性癖じゃないものに裏打ちされた映像ジャンルの中では悪影響や悪趣味を感じるものではなかった。
 まとめると「まあ言わんとすることはわからんでもないけど、そんな大問題になるものでもないんじゃないか」といったところです。もっともこういう話は男女でも感覚は違うだろうし、今回みたいに自分なりに咀嚼していきたいですね。

*1:ちなみにエヴァンゲリオンシリーズも未見である

*2:少ない例外としては『ULTRAMAN』(映画の方)がある

*3:クッソどうでもいいが実は米津玄師はうちの祖父の後輩だったりする

*4:ただ、これまで30年生きてきた中でも景気付けに他人の尻を叩く人は一定数いたので、そもそもこれがセクハラに当たるのかという認識も濃淡がありそうである