志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

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豊臣秀頼は豊臣秀吉の実子ではない?―論争の意義

はじめに
 豊臣秀吉は戦国時代の日本列島を統一し、江戸幕府に繋がる統一政権を作り上げた人物である。しかし、豊臣政権は秀吉の死後、豊臣政権の宿老であった徳川家康によって政権を奪われ、江戸幕府にアップグレードされた。秀吉の遺児で名目的には豊臣政権の後継者であった豊臣秀頼の存在は江戸幕府の容れるところとはならず、二度の大坂の陣を経て秀頼は家康に滅ぼされてしまう。これがとりあえず「現象」だけを述べた豊臣政権から江戸幕府への移行である。
 しかし、一方で大衆というのは「物語」を欲しがるものである。豊臣秀頼豊臣秀吉の実子ではない」という説もその一つであろう。私自身はこのような議論にあまり意味はないと考えているが、近年では歴史学者もこの論説が唱えられ、賛否両論なようである。秀頼は秀吉の実子ではないのか、その論争は一体何を意味しているのか、個人的にも興味があるので考えてみることにしよう。

1 豊臣秀吉は「胤なし」か?

 まず最初に、豊臣秀吉は生殖能力を持っているのかという問題がある。だが、はっきり言っておくが、この議論は無意味と言うか、確かめようがないからこそ議論が成り立つ案件と言えるのかもしれない。
 豊臣秀吉が好色であることは有名であるが、公に認められた「妻」は15人ほどで、織田信長の10人弱や徳川家康の20人弱と比べて特筆して多いわけではない(江戸幕府11代将軍徳川家斉に至っては40人もの女性に子を産ませている)。ただ、秀吉は妻女が10人以上いるにも関わらず、妊娠し子供を産んだと確証があるのは浅井茶々だけであった。だから、経験的に考えれば浅井茶々が不義密通したと考えるのが自然である。
 だが、一応言っておくが、たまたま特定の女性だけ妊娠するというのはあり得ないことではないため、浅井茶々の不義を疑うのはどこまで行っても状況証拠にすぎない。
 さらに、ここから秀吉を擁護していくと、秀吉には織田信長の家臣時代、子供がいた形跡がある。本来的には石松丸秀勝を引用したいところであるが、最近読んだ織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書)では、石松丸秀勝は土橋信鏡(朝倉景鏡)からの養子という説が掲載されており、個人的にこの説の真偽を確かめられていないため、触れないことにする。とは言え、秀吉には女子もいたようである。記録はあまり残っていないが、一応子をなしていることからすると、秀吉には生殖能力があったことになる。
 さらに、秀吉には側室が多くいるというが、その多くは名義的なものであったと推測される。山名豊国女(南の局)や前田利家女(加賀殿)などは単に人質への最上級待遇として側室扱いしたものと理解される。他の側室についても、成田氏長女(甲斐姫)や名護屋経勝女(広沢局)、足利頼純女(島姫)などは秀吉が政治的に重視した領主の娘を取り立てたもので、多分に政治的なものであった。性的交渉の有無は否定できないが、秀吉と関係を持った回数は少なかったであろう。
 また、織田政権時代から豊臣政権初期、秀吉は主君織田信長の子を羽柴秀勝*1として養嗣子に迎えていた。これは秀吉が後継者を信長の息子にすることでさらなる出世を狙ったものと推測できる。秀吉は出自も不明であり卑賤であるが、秀勝の養父となることで織田一門に連なることが出来る。信長にとっても悪い話ではなくて、秀吉にどれだけ特権を与えて優遇しても、秀吉が死ねば自分の息子に全て返ってくるわけである。また、信長の死後も秀勝の存在は秀吉の織田政権簒奪の大きな隠れ蓑となった(秀吉がどれだけ下剋上しようが最終的に政権は信長の息子に返ってくると思わせた)。
 このように考えると、秀吉が織田政権下において子供を儲けるのは非常にリスキーである。もしそれが男子であったなら、秀勝の羽柴家後継者の地位と抵触してしまう。そうなれば、織田信長や他の織田政権時代からの僚友の覚えはとても悪くなる。そういうわけで秀吉は秀勝を養子に迎えて以降(天正5年(1577)頃であったらしい)、子作り自体を控えたと思われる。果たして、浅井茶々との間の最初の子・豊臣鶴松が生まれたのは天正17年(1589)で、秀勝が亡くなったのは天正13年(1585)であった。本来の後継者・秀勝を亡くした秀吉が子作りを再開して出来た子供が鶴松と考えれば、年代的にはじゅうぶん整合する。
 返す返すも言うが、以上の擁護論もまた状況証拠の塊にすぎない。現代でも不妊に苦しむ人間が珍しくなく、また熟年夫婦にある時突然子供が出来ることもあるように、子供が出来る神秘を外面から推し量ることは非常に困難である。だから秀吉に生殖能力があったかどうかなど、議論自体が大いなるムダで、後は信心の問題と言える。

2 歴史学者は何を争っているのか?

 それでは一体、歴史学者が行っている論争とは何なのか?いやしくも学問の徒であるならば、信心の有無を論争するわけではあるまい。なぜ秀頼が秀吉の実子であるのかどうか、当否を確かめられるのだろうか?
 簡単な話である。浅井茶々が秀頼を妊娠した時に秀吉と同衾が可能であったかどうかという非常に物理的な問題である。
 豊臣秀頼が生まれたのは文禄2年(1593)8月3日である。一般に妊娠期間は「十月十日」と言われるが、週に直すと40週前後、日に直すと280日前後となる。若干のズレがあるとしても一般的には37~43週の間に収まる。すなわち、浅井茶々が秀頼を妊娠したのは天正20年(12月に文禄に改元)(1592)9月下旬から11月上旬の間となる。この間秀吉は朝鮮半島への派兵(文禄の役)の指揮を取るため、肥前国名護屋城にいた。一方、浅井茶々は「大坂殿」と呼ばれ基本的には摂津国大坂城にいたようだ。浅井茶々が名護屋城にいなければ秀吉と性的交渉を持つことができないわけで、秀頼の実父は自ずと秀吉ではなくなってしまう(その時期に大坂城に出入りした「誰か」が秀頼の実父となる)。
 そういうわけで、歴史学者「浅井茶々は天正20年の秋冬に名護屋城に行ったのかどうか」を争っているのだ。豊臣政権の主宰者で独裁者の秀吉の行動はどうやっても記録に残るので、実は大坂に帰っていたとは言えない(どこでもドアでもあれば別だが)。よって、動向を表すものが少ない浅井茶々の行動を洗う必要がある。
 さて、その点について重要な史料は、文禄2年に比定できる京極高次の書状であるとされている。

 又大坂殿、六月御たんじやうの事も、はやおんみつにても候はず候、こゝもとかくれも候はず候、さだめて、さやうのおりふしは、大かみさま御みまいに御ざ候はでわ、かない候まじく候間、もしそれまでもかへり候はずは、そのとき、かたく御申候やうに、よく候べく候、(略)
 色々多申し候、大さか殿、御たんじやうの事は、いまだ御つぼねの文、其外何へも不申候間、其心へ可有候、

 高次がこの書状を書いてる最中、京極家は家庭崩壊状態にあった。高次の母マリアは熱心なキリシタンであり、カトリックの一夫一妻制の遵守を息子に求めていた。にも関わらず高次は正室である浅井初以外の女性を孕ませてしまったのである。マリアは激怒し、初も大坂城に帰ってしまった(初の実家は浅井氏だが、すでに大名として滅亡していたので姉茶々のいる大坂城が「実家」扱いだったのだろう)。これはまずいと思った高次が「大坂御局」なる人物に初との復縁調停を依頼した書状の一部が上に引用したものである。高次は名護屋に在陣中であり、大坂にいる初との調停を依頼しているのであるから、書状は名護屋→大坂と届けられたことになる。
 上記引用部分は「大坂殿」すなわち茶々が6月に出産することは、高次のいる「こゝもと」では知れ渡っており、最後の文では「御局」へのこの書状以外では誰にも伝えていないことを述べている。茶々の出産という情報を「秘密だけど君だけに教えてあげる」論法で恩を売りつけているわけである。繰り返すが、この手紙は名護屋にいる高次が大坂にいる「大坂御局」に宛てた書状である。名護屋では茶々の出産が知られているが、大坂では知られていない(と高次は認識していた)、すなわち少なくとも茶々が妊娠を発覚したのは名護屋においてと言える。
 なお、6月出産予定と記しているのは実際の出産が8月頭であることを思うと予測としては若干早い。実際の出産時期は前後するものであるので、これ自体は不審とは言えないが、そもそも高次が書状を出したのは家庭内不和の調停のためであり、茶々出産の情報も「大かみさま御みまい」に繋げるためである。ここでいう「大かみさま」は高次の母マリアのことで、マリアが姪である茶々の出産を見舞うことで、マリアとの関係修復と良好な関係のアピールとしようと考えたのであろう。そうであれば、早期の和解を狙って高次が先走り6月出産と書いてしまうことも考えられる(一月の誤差なら情報の過誤を責められる心配もない)。
 しかし、結局この書状からわかるのは浅井茶々の妊娠が判明した場所が名護屋であることに留まる。肝腎の天正20年秋冬の茶々の動向はわからない。ただ、茶々が名護屋に赴いていたことを示すものではある。名護屋城には秀吉の妻妾は他にも来ていたが、彼女たちについても特段動向の記録があるわけではないので、妊娠発覚前の茶々の動静がよくわからないのも当然であり、あやふやになってしまうのも仕方ないと言える。

3 秀頼の出生と豊臣政権滅亡に因果関係はあるのか?

 「秀頼は秀吉の実子ではない」という言説には単なる下世話さ以外にも意味がある。すなわち、秀頼は豊臣政権の継承者にふさわしくないという含意がある。秀吉の実子ではない、すなわち浅井茶々の不義の子であったがゆえに、秀頼は諸大名からの信望を得られずに豊臣政権は滅亡した、という見方である。
 果たしてこれは正しいのであろうか。この言説には様々な問題点がある。まず第一に、多数の諸大名は秀頼が秀吉の実子ではないと確信していた、あるいはそこまで強い表現でなければ思っていたのかどうか。第二に、だから秀頼は政権主宰者として認められなかったのか。第三に、だから秀頼は滅亡の運命を辿ったのか、である。
 これはかなり難しい問題である。当時の世評で秀頼非実子説が出回ったことは確かなようであるが、所詮噂は噂にすぎない。いつの世もデマやゴシップは流れるもので、いちいち信用するものではない(信用してしまう人もいるが)。大名たちの書簡や記録にも秀頼が秀吉の非実子だということを明言するものはないが、厄介なのは暗黙の了解というのは記録には残らないということである。
 しかし、この問題に関しては有力な反証と言えるものがある。独眼竜として著名な伊達政宗今井宗薫宛慶長6年(1601)4月21日付けの書状である。

惣別我等が願いには、秀頼様御幼少の間は、江戸か(さらずば)伏見へ成り共、内府様御そばにしかと置き申し候て、おとなしく御成人し候わば、その時は何よう内府様御分別次第に御取り立ても御申す事か、又いかに太閤様御子に候共、日本の御置目等、取り行われるべき御人に御座無く候由、内府様御覧届候わば、御国の二、三ヶ国も、又は其の内も進じ候て、なみなみの御進退(に)御申し候て能く候わんに、唯今大坂のかたに、ふらりとして置き成され候わば、時分を以て世のいたずら者共出来候て、秀頼様を主などに仕り、謀叛をも仕り候わば、その者共の故に、何も御存じ無く、秀頼様腹を御切り候えば、太閤様亡魂迄の御為の、悪しく御座候かと存じ候、

 伊達政宗陸奥国南部の戦国大名で、最後まで豊臣秀吉の全国統一に従わなかった武将である。政宗はぎりぎりのところで秀吉に臣従したものの、苦労して手に入れた会津領は取り上げられ、その後も豊臣政権の東北支配に抵抗する葛西大崎一揆を後援するなど危ない橋を渡った。秀次事件においても嫌疑をかけられ、大領土を持っていたにも関わらず、五大老のような役職とはされず、豊臣政権内では冷遇されていたと見て良い。その鬱憤を晴らすかのように秀吉死後は徳川家康に接近し、御掟を破って家康と縁戚関係を結んだ。関ヶ原の戦いでももちろん家康に味方して、その勝利に貢献した。全く豊臣政権に対しては「義理」がない大名の代表とも言える人物である。さらに豊臣政権に盤石な力があれば、政宗も書状一つとっても滅多な事は言えないが、慶長6年(1601)は関ヶ原の戦いを経て徳川家康の専権が確立しようとする時期に入っていることに留意されたい。これらを理解した上で上記書状の内容を見よう。
 まず、政宗は自分の考えとして秀頼を家康の庇護下に置くことを披露した。そして秀頼が成人した暁には、家康の裁量で取り立てるべきであることを述べる。あまり具体的ではないが、「日本の統治を取り行える人物ではないならば」という前置きがあるので、政宗は秀頼を将来の政権主宰者とする可能性を否定していない。その上で政権主宰者にふさわしくないのであれば、2か3の国持大名にするべきとする。日本全国と比較すると2か3の国持は落ちぶれた気もするが、大名としてはじゅうぶん大大名の地位である。最後になぜそうすべきなのかを語るが、秀頼を家康が放置していれば、「世のいたずら者」が秀頼を主君に仰ぎ謀反するかもしれないからであり、そうなったなら秀頼は追討されることになって、秀吉の魂にとって悪いことになるからである。この13年後に政宗の予測が現実になったのは周知の通りである。
 しかし、この書状で重要なのは豊臣政権において最外様であった政宗でさえ、秀頼に政権主宰者の資格を積極的に認めていることであり、秀頼の生命に不都合が通じるのは秀吉の魂の安寧を妨げると捉えていることである。「秀頼は秀吉の実子ではない」と政宗が思っていたのなら後者の秀吉の魂云々の論法は成り立たないし、秀頼を政権の主宰者と認める意識も芽生えたか怪しい。事実は全く逆であった。豊臣政権からは最も離れた外様大名である政宗ですら、秀頼を秀吉の子ではないと認めることは出来ず、「秀吉の子」にふさわしい処遇を要求していたのである。
 最後に豊臣政権滅亡に繋がった大坂の陣の経緯に秀頼の出生が関わっているのか、あるいは形跡を認めうるのか一応確認してみよう。方広寺鐘銘問題の収拾に失敗した責任で、秀頼の宿老片桐且元は豊臣家中で失脚し、秀頼軍の追討を受けることになった。秀頼は且元を討つべく浪人を募り始めたが、家康はこれを見逃さなかった。且元は徳川と豊臣の取次でもあり、且元の失脚と追討は対徳川戦争を意味するものと捉えられた。こうして大坂の陣が始まることになる。
 戦争を始めるにあたり、江戸幕府は諸大名を軍事動員する。幕閣の土井利勝酒井忠世本多正信連署して10月3日付で佐竹義宣へ送った書状へは次のように記された。

急度申入候、仍、此比於大坂、若キ衆雑説を申さはき候由、九月二十六日之日付にて、御ちう進候、就其、若御用事も可有御座候間、御人数被召連、武具を為御持、早々可被成御越由、従駿府申来候間、其御心得候て、先江戸迄可被成御参上候、此状何れにて御被見候はゝ、御自身は江戸へ直に被成御越候て、御人数者呼に可被遣候、恐々謹言、

 ほぼ同じ内容の書状が各大名家に存在するため、江戸幕府はこの文言をコピペして諸大名にばらまいたと見られる。途中からお決まりの軍勢催促が続くが、江戸幕府の戦争の論理が冒頭に端的に記されていることが重要である。大坂において「若キ衆」が騒いでいることが軍事動員の直接の名目的理由であった。江戸幕府は秀頼追討という文言を巧妙に避けた。結局この後の戦争は「大坂御陣」とか「大坂忩劇」(忩劇とは騒がしいこと)と呼ばれるに留まった。あくまで大坂周辺で治安が乱れたために治安維持の軍事を行うのが江戸幕府の論理であった(一応言っておくが、だから江戸幕府は秀頼を滅ぼすつもりなどなかったと言いたいわけではない)。
 また、秀頼は豊臣恩顧あるいは反徳川と見られた大名たちに支援を依頼した。これに応じる大名は一家もなかったわけだが、彼らの秀頼に援助しない論理とはいかなるものであったのか。11月2日付の島津家久の書状から引用しよう。

其表之様子、重て被仰下候、委承届候、然者我等可罷上之由雖被仰聞候、先日申入候様に、先年関原御弓箭之刻、相守太閤様御筋目、兵庫入道雖致粉骨候、其合戦相破、御所様天下被成御安治、当家及迷惑候処、被差捨御遺恨、我等被召出、兵庫入道身体迄被差許候、然時太閤様御一筋之御奉公に付、当家者一篇仕、其後御所様被成御取立、多年之御厚恩世上無其隠事候条、相背関東不罷成候、御推察所任候、

 この書状は何を言っているのか説明していこう。人名が出て来るが、「太閤様」は秀吉、「御所様」は家康、「兵庫入道」は島津義弘のことである。関ヶ原(「関原」)の戦いの際、島津義弘は西軍に与して戦い敗れた。しかし、その後家康は島津家を許し、義弘を殺すことはなかった。秀吉への奉公は関ヶ原の際に果たし、その後の島津家があるのは家康が取り立てたおかげである。だから江戸幕府(「関東」)に背いて戦うことはできない。
 考えてみれば単純な話である。鎌倉幕府以来、武家の主従関係は「御恩」と「奉公」の双務性を基調とする。島津家の地位は江戸幕府(より直接的に言えば徳川家康)によって規定されており、秀頼によってではない。秀頼の「御恩」が存在しない以上「奉公」をする道理はないのだった*2
 以上ものすごく簡単に、大坂の陣の軍勢動員の論理と諸大名が秀頼に従わなかった論理を見た。江戸幕府の建前としては大坂の陣とは大坂周辺の治安維持軍事出動であって、秀頼追討すら名目にはなっていない。諸大名が大坂方とならなかったのは、秀頼との主従関係が現在において存在しないと見なされたためである。この論理の中に「秀頼は秀吉の実子であるかどうか」が問題として含まれていると見るのは、少なくとも私には出来ない。豊臣家の滅亡と秀頼が秀吉の実子であるかどうかは無関係の問題である。

4 論争に意義はあるのか?

 以上長々グダグダと述べてきたが、私は「はじめに」でもチラッと述べたように「秀頼は秀吉の実子かどうか」を語ることにあまり意味はないと考えている。もちろん、秀吉には遺骨があり、秀頼も大阪城の発掘調査でそれらしい遺骨が出土しているから、両者をDNA鑑定することは可能であり、その結果実際の親子関係が明らかになるかもしれない*3。しかし、私はもし仮にDNA鑑定が行われ、秀頼が秀吉の実子ではないと判明したとしても、それでも意味はあまりないと考える。
 なぜなら、秀頼は生誕の瞬間から死に至るまで社会的にはずっと「秀吉の子」として遇され、それが表だって否定されたことはないからである。人間は社会的動物であり、社会関係によって地位を規定する。秀頼は「秀吉の子」としての地位は揺るがなかったのであり、周囲の人物も秀頼を「秀吉の子」として認めることで行動を起こした。「秀頼は秀吉の実子ではなかった(かもしれない)」という言説は、「織田信忠織田信長の実子ではなかった(かもしれない)」や「徳川秀忠徳川家康の実子ではなかった(かもしれない)」と同じ程度の胡散臭さしか持たないと私は思う。
 笠谷和比古著『歴史の虚像を衝く』には次のような文章があり、私のようなアマチュアが言うのも気が引けるが、的確な指摘として肯いたい。

歴史学がやることは、秀頼が産婦人科的な意味で秀吉の子どもであるかどうかを問題にするのではなく、秀吉がどう見なしていたか、あるいは周囲の人や世間がそれをどう見なしていたかを問題としなければならない。(203頁)

 そもそも、「秀頼は秀吉の実子ではない」という「物語」が招来される原因は豊臣政権の崩壊プロセスにあると思われる。豊臣政権に先行する三好政権や織田政権は独裁的当主の死亡により、後継者選出が上手く行かず、また政権を支える制度が確立していなかったために政権を失うことになった。これに比べると豊臣政権は全国統一から秀吉の死まで8年も期間があり、秀吉は「死後」を見越して制度設計を行う余裕があった。後継者は秀頼に一本化され、それを支える五大老五奉行、御掟という大名統制の基本法があり、羽柴名字による大名統制・家格設定が行われた。豊臣政権は三好政権や織田政権と異なり秩序を作り出すことが出来た。にも関わらず、豊臣政権は秀吉の死後程なくして機能不全に陥り、少なくない豊臣恩顧大名が味方することによって、徳川家康に政権を奪われた。後世の儒教的な君臣論に馴染むと、この流れは非常に不可解である。秀頼が主君であるという秩序がすでにある以上、臣下の家康が政権を奪うのはあり得ない(しかも秀頼相手に忠臣であるべき大名たちが家康を支持した)。するとこれを説明するには、秀頼が秀吉から政権を受け継ぐには重大な瑕疵があったと想定せざるを得ない。それが「秀頼は秀吉の実子ではない」という説なのであろう。
 しかし、秀頼が政権主宰者と認められなかったのは、血縁によるものではない。伊達政宗さえも秀頼を「秀吉の実子」扱いしていたのは見た通りである。秀頼が滅亡へと向かったのは、大名たちとの間に契約的主従関係を築けなかったこと(秀頼からの「御恩」がない、あるいは期待できない)によるもので、実子であるかどうかは大した意味を持たない。秀頼は秀吉の実子であるのか、そうではないのかという論争もこれを前提に「物語」として楽しんでもらいたいものである。



参考文献

羽柴家崩壊:茶々と片桐且元の懊悩 (中世から近世へ)

羽柴家崩壊:茶々と片桐且元の懊悩 (中世から近世へ)

大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史)

大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史)

*1:一応誤解のないように言っておくが、先述の「石松丸秀勝」とは別人である

*2:ただ島津家は幕府から相当警戒されていたようで細川忠興に何度も「大坂方になるな」と釘を刺されている

*3:もっとも遺骨が含むDNA情報は劣化していくし、秀頼遺骨の真贋は不明なので、親子関係にないことが実証されたとしても疑問が完全に霧消するかというとそうでもなさそうだが