『国宝』という作品には興味があったわけではないし、そもそも知りもしなかったのにこうして感想記事まで認めているのは不思議なことだ。まあ吉沢亮と横浜流星がほぼダブル主演というニュースを小耳にはさんだことはあったかもしれないが(この2人の組み合わせと言えば、特撮ファン的には『仮面ライダーフォーゼ』ですからね)。
それで興味を持ったのは大ヒットのニュースもさることながら、歌舞伎を素材にしているという部分と上映時間3時間弱という部分だ。忘れがちだが私は国文の徒なので歌舞伎への素養も人並み以上にはあるし、人間の興味が保てる時間を遥かに超過する上映時間に何が起きているのか、これは確かめなければならないのではないかと強く思ってしまった。
実際にどうだったかを一言で言うと圧倒された。歌舞伎を映し出す映像美、梨園の独特の成り立ち、複数人の生涯を描き切ることによるジェットコースター展開…これらがハイレベルな演技、演出、音響で一斉に殴り掛かってくる。だから、3時間もあるのに全くダレないし、飽きない。
私も実際に歌舞伎を何回か観たことがあるし、ヒーローショーや音楽ライブへの参加経験から、芸能は生で見るのがベストと思ってきた。しかし、今回の『国宝』はそうした観念を揺るがすものだ。あえて見せたいものを切り取ることで、バケモノじみた美をこれでもかと魅せてくる。映像になった時点で生の観劇からは取捨選択が発生し、だからこそ生の情報量には勝てないわけなのだが、『国宝』はそれ自体が作品なのだ。盆栽であえて枝を切り落として形を作るような、そんなハイレベルな取捨選択の上では生の情報量では勝負にならなかった。これ自体がメタ的な意味でも芸能なようにも思う。
だが、それと同時に評価したいのは梨園のカスさから全く逃げなかったところだ。私が梨園のカスさとして最も印象に残った場面が、喜久雄が半次郎を襲名した直後に半次郎が吐血するシーン。死に間際の半次郎は、直前に喜久雄に名跡を譲ったにも関わらず、「俊坊…俊坊…」と喜久雄に敗れて出奔した実子の名を呼ぶのだ。梨園の世界は所詮は血統―これは本作の大きなテーマだが、その中で喜久雄は頭角を現して半次郎の名を襲い、これを覆したかに思えた…。しかし、半次郎の本命は俊介のまま。半次郎は糖尿に苦しんでおり、襲名の座で吐血したのも偶然かもしれない。しかし、この場面は「名跡を赤の他人に譲るまですれば俊介が帰ってくるかもしれない」という最期の望みが絶たれたショックで死に至ったと読み解くべきだろう。少なくとも喜久雄の受け取り方としてはそうだろう。感想としては「ここまでウソついたんだから最期までウソを通せよ!」と「そりゃそうだよな」が半々くらいであるが、つまるところ半次郎はんはカスや。ここだけで喜久雄の少ない理解者から一気に喜久雄を所詮当て馬としか見ていないことを露呈してしまった。俊介の実母である幸子は当初から喜久雄への当たりが強く、喜久雄を引き立てることにもいちいち大反発する、いけすかない継母のようなポジションにいたが、こうなると喜久雄に対して一番優しいとさえ言える。血の後ろ盾を持たない部外者が入り込んでも不幸になるだけということをずっと示してきたと言えるからだ。半次郎が体現する建前の虚構がない分は優しさと言うべきだろう。
これは『国宝』の「国宝」たる本質…と私が理解している点とも関わるが、本作は歌舞伎役者や人間国宝の美しさ、凄さを最大限アピールしてくるにも関わらず、絶対歌舞伎役者とか人間国宝になりたくない!と思ってしまった。どういうことかと言うと、彼らは「人間」ではないからだ。これで言うと、これまた好きなシーンがある。没落し地方巡業する身になった喜久雄がある宴会場で女形として客を魅了するのだが、楽屋を訪れた客が喜久雄が男であること、小道具を触ると怒ること、入れ墨があることなどを見るとヒートアップし、そのまま喜久雄をリンチするのである。さっきまで芸にリアルを感じていた客が、リアルな役者を見てしまうと幻滅し暴力に走る。一般人の芸能人への視線にはまさしくこういう矛盾したところがある。役者は「人間」であってはならない。往年の差別感情とも関わるのだろうが、そうしたことは一旦抜きにして、そうした感情を表現できていたのではなかろうか。
そして、実際に喜久雄は人間国宝になるわけだが、すると「人間」としては死んでしまう。引退した人間国宝・万菊が何もない部屋で寝た切りになっていたのもそうだが、つまるところ国宝とは用が終わったら片付けられるモノであって人間ではない。喜久雄についてそれを象徴するのが、終盤にかけて家族がどんどん去ってしまうことだと思っている。血の体現者ながら親友とも宿敵とも言いうる俊介が生きているうちは、喜久雄は人間付き合いが出来ていたが、俊介は先に世を去ってしまう。幼馴染の春江は俊介の出奔に付き合っていなくなるし、喜久雄の出奔に同道した彰子も映画では芸に熱中する喜久雄から去った後出番はない。極めつけは人間国宝になった場面で、隠し子の綾乃が身分を隠しカメラマンとして接触してくる。自分と母を捨てた喜久雄に対して綾乃は怨みを抱いており、それを隠そうともしないが、国宝インタビューでは気の抜けた返答しかしなかった喜久雄がこの場面では確かに娘と人間が通った会話をできているのだ。ところが、綾乃は結局喜久雄の芸に感動してしまっており、人間国宝になれておめでとうが最後の結論になってしまう。実の娘から、怨みの対象としての父よりも最高の芸を持つ人間国宝と、喜久雄は見なされてしまう。こうして喜久雄は「人間」として死に、「国宝」となる。
ラストの「鷺娘」の場面。なぜ最後に「鷺娘」なのか?そして、冒頭で父が死んだシーンが喜久雄の脳裏に残り続けたことと「鷺娘」はどう重なるのか?ここは本作の肝のはずだが、これもどういう意味があったのか、悩んだ場面でもある。考えた末に思ったのは、これもつまるところ「死」の演出ではないかということだ。父が殺されたシーンを綺麗と感じそれがイメージとして喜久雄を縛ったのは、人が死ぬことこそが最も美しいことだからではないか。「鷺娘」は畜生である鷺が美しい娘に化けて息絶える演目だ。まさにヤクザの息子から女形となった喜久雄の最期を彩るのにふさわしい。「綺麗やなあ…」という一言はある種の断末魔であり、人間が死ぬことで国宝は完成する。これを象徴的に見せるには「鷺娘」でなければならないし、序盤の父の死が伏線としてずっと引っ張られなけらばならない―そういう風に解釈した。
繰り返しになるがなぜタイトルが『国宝』なのか―これは人間が「国宝」になるためには「人間」としては死ぬからということを如実に伝えているからというのが個人的な結論になるし、だからこそ本作は喜久雄の一代記として3時間かけなければならないし、その価値があった。血と芸の対決も本作のテーマの一つだが、皮肉にも血が通っていることで俊介は終始「人間」でいられるし、喜久雄を「人間」に留めていた。それが失われ、芸しかなくなった喜久雄はもはや「人間」ではない。これを演じきった吉沢亮と横浜流星―本当に凄みを感じる。おれは『フォーゼ』の頃から知っているんだぜなんて恥ずかしくて言えない(こんな役者知らん…こわ…)くらいになっていて言葉では表現できない。久々に映画のパワーを100%感じ切れた作品だった。