志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

怪獣monsterのコンテンツを中心に興味の赴くままに色々と綴っていくブログです。

三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者

 三好長逸は『日本人名大辞典』によれば、以下のような説明がなされている。

三好長逸 みよし-ながゆき
?-? 戦国時代の武将。
三好之長(ゆきなが)の孫。三好三人衆のひとり。松永久秀と協力し,宗家の三好義継(よしつぐ)を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長畿内制圧で阿波(あわ)(徳島県)にのがれ,しばしば反攻したが,天正(てんしょう)元年(1573)の敗走以後は不明。別名に長縁(ながより)。

 三好長逸を数行で説明しようと思ったら、おそらくこれ以上にもこれ以下にもならないだろう。しかし、三好長逸は永禄末年から天正に至るまで日本史の主役の一人を演じていた。これを考え合わせると長逸の解説を数行で済ませてしまうこと自体が不当である。にも関わらず、歴史関係の図書でも長逸は名前すら出て来ることがあまりない。そもそも三好氏自体が日本史の中で画期を示したのに対して異様にマイナーな存在である。というわけで再評価してみようというのがこの記事である。
 なお、「長逸」は上記『日本人名大辞典』のように「ながゆき」と読まれるのが一般的であった。だが、『言継卿記』永禄九年十一月十一日条において「長逸」に「ナカヤス」と仮名が振られているため、現在では「ながやす」と読むのが正しいと考えられている(みよし・ながやすMiyoshi Nagayasu)。また、長逸は弘治2年(1556)までは実名は「長縁」(読みは「ながより」か)を名乗り、永禄12年(1569)からは出家して北斎宗功」を名乗っているが、本コラムでは原則として「長逸」に呼び名を統一する。
 ぶっちゃけて言うと、三好長慶松永久秀が再評価されている現状は三好氏・三好政権再評価から見るとまだまだ物足りない。特に三好長逸は役割が大きく評価されるようになったにも関わらず、知名度はほとんど上がっていないし(信長本などでは相変わらず三好三人衆低評価言説が再生産され続けている)、今後も長逸で一冊本が出るとは考え辛い(何せCiNiiで検索しても論文は2本しかない、平成30年現在)。私は長慶や久秀以外の三好氏家臣の動向も大いに気になっているわけで、彼らの個性が解明されることでその政権像も豊かなものになっていくと確信している。この記事には単純な誤謬以外に「いやーそこまで言えるんでしょうか?」なところも散見されると思うが、知る限りの情報から長逸とはどんな人物なのか、通俗的に言えば「キャラ付け」を行いたいと思ったのだ。
※本記事は三好長逸に関する情報を募集しています。また事実の誤謬などありましたら遠慮なくご指摘くださいますようお願いします。

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生い立ち

 三好長逸の父親については三好長光芥川長則説とがある。三好長光と芥川長則は三好之長(三好長慶の曽祖父)の子であるが、両者はどうも混同される傾向があり、芥川氏に養子に入ったのも実は逆で芥川長光と三好長則であるという説もある。永正17年(1520)等持院の戦いで両者の父之長が敗れ、両者揃って父とともに処刑されたために所伝の混乱が生まれたようである。さらに芥川氏の名跡は芥川長則(長光?)の子・芥川孫十郎が継ぎ、芥川山城を本拠としていたが、三好長慶と対立した孫十郎が阿波に追放されると、その後は長慶や三好義興の城主を経て長逸が芥川山城主となった。また、長逸は初期に芥川孫十郎とともに活動していた形跡が見られる。このために長逸にも芥川氏の血筋である誤解(かどうかもわからない)が生まれたのかもしれない。しかし、『三好長光画像摸本』の賛によれば、「孝子長逸朝臣賛」とあるため、長逸は三好長光の「子」であったことがはっきりする。父・長光は永正17年(1520)に処刑されているから、長逸の生年は永正17年(1520)以前となる。長光の死亡年齢は不明だが「壮年」とされているから、30代くらいだっただろうか。『フロイス日本史』では永禄末年頃の長逸の年齢を55歳前後と推測しており、長逸の活動時期から見ても、永正年間初頭(1510年前後)の誕生と見るのが妥当であろう。母親の素性は不明であるが、『如意寺過去帳』によると天文19年(1550)10月6日に亡くなったようである。以上のように長逸の生い立ちには謎が多く、幼少時には阿波で過ごしたのと思われるが、その生活や境遇は不詳と言うほかない。また、仮名は父長光と同じ「孫四郎」とされているが、長逸が「孫四郎」を名乗ったことは確認できず、後述するように「弓介」である可能性もある*1。官途名は一貫して受領名「日向守」を名乗り、出家後は「日向入道」とも呼ばれた。

三好長慶の家臣へ

 三好之長の死後、阿波細川家(細川讃州家)・澄元流細川京兆家に従う三好氏は一時逼塞した。しかし、再起の時は早くやって来た。之長の孫・三好元長は阿波公方足利義維細川晴元*2を戴き、大永7年(1527)には畿内を席巻、堺を本拠地とする幕府、いわゆる「堺幕府」の誕生にこぎつけた。長逸も従兄弟である元長に従っていたと思われるが、記録には現れない。誕生した「堺幕府」であったが、元長の増長を恐れた主君晴元は嘉禄5年(1532)一向一揆を扇動して元長を攻め殺してしまった。ところが、晴元が扇動した一向一揆は自らを制御する力を失い、法華一揆比叡山を巻き込んだ宗教戦争へと発展していく。晴元は結局、天文2年(1533)に元長の遺児三好長慶*3を仲介者として本願寺と和睦した。ここに三好長慶が元長の後継となって、三好氏の復権を目指していくことになる。
 長逸が現れるのはまさに三好長慶細川晴元の家臣として編成された時代であった。『細川両家記』によれば、天文3年(1534)に三好伊賀守(連盛)と「三好久助本願寺の過激派と結んで細川晴元に反旗を翻した。三好久助(弓介)は長逸の子の仮名のはずだが、長逸の子である弓介長虎(生長)とすると年代が合わないため、これは仮名「弓介」を名乗っていたころの長逸のことだろう。この時は最終的に伊丹氏と木沢長政が連盛と「久助」を仲介し、晴元の旗下に復帰している。なお、三好連盛(三好伊賀守)は長慶を支える三好一族の重鎮であったようだが、天文4年(1535)には長慶を無視して摂津国長洲庄の代官となるなど長慶の制御に服さなかった。そのためであろうか、連盛は天文8年(1539)に失脚し浪人、翌年には戦死している。長逸が表舞台に出るには未だ時間が必要であったが、長慶の家臣となり、以降終生長慶を裏切ることはない忠実な一門であった。

三好長慶の部将として

 しかし、三好長逸が本格的に活動を開始するのは天文18年(1549)からである。三好長慶本願寺は礼物を交換する関係を築いたが、天文6年(1537)頃から始まった贈答において、本願寺が長慶の「内者」として礼物を贈った家臣は三好連盛、加地氏、塩田氏、三木氏などであり、ここには長逸にあたる人物は見えない。長逸が長慶の重臣としてその姿を現すのは長慶が細川晴元への下剋上を開始しこれを成し遂げて行くことが契機になっていると考えられる。長逸は天文3年(1534)に細川晴元に反旗したため、晴元政権において雌伏を余儀なくされていたと想像できる。とにもかくにもこの章段では長逸の長慶の部下としての軍事行動を見て行くことにする。
 天文17年(1548)三好長慶は同族である三好宗三(政長)が晴元の寵臣であることにより専横が極まっているとして宗三討伐を訴え、これが容れられない場合には主君晴元をも敵にすることを明らかにした。軍事力に優れた三好氏の晴元政権からの離反は晴元の政敵である細川氏綱や晴元の岳父六角定頼などの周辺大名や将軍足利義晴を巻き込んで一大戦乱へと拡大して行く。天文18年(1549)6月には長慶と宗三の決戦である江口の戦いが行われるが、長逸は芥川孫十郎とともにこれに先立つ5月2日に芥川山城を目指す香西元成を破って、晴元陣営の連絡を遮断させ勝利に貢献した。
 なおも戦いは続き、晴元が奉じる足利義晴が病死し、幕府の首長が足利義輝*4に交代する中京都内外で晴元と長慶は火花を散らす。京都中尾城に籠る晴元方と山崎に陣取った長慶方の争いである。長逸はこの中、子の弓介長虎や十河一存とともに1万8000を号する大軍を率い7月15日に京都に進出しようとして一条周辺で晴元方と戦った。この時は晴元方の主力が動かず小競り合いに終わったが、『言継卿記』によればこの戦いで三好長虎の兵一名が銃殺された。これが記録に残る最古の火縄銃による戦死者である。10月20日には今度は晴元方が京都に迫ったが、この時は逆に長逸、芥川孫十郎、十河一存が晴元方を退けた。11月19日いよいよ長慶の三好軍は中尾城に迫り麓を襲撃、翌20日には近江に進出したため、中尾城は落城し足利義輝を含む晴元方は京都からの没落を余儀なくされた。細川氏綱を奉じて入京した三好軍の十河一存、松永長頼、今村慶満*5らが放火や荘園の横領に勤しむ一方、天文21年(1550)正月に長逸は宮中の拝観を願い出て許されている。戦乱の中長逸の和やかな一面を示すものと言えるが、この朝廷への態度が後に長逸の位階を昇進させていくことへの伏線とも言えよう。
 天文23年(1554)摂津有馬氏が播磨三木氏の横暴を長慶に訴えると、長慶は8月29日に長逸を大将にした軍勢を播磨に派遣した。9月1日に合戦があり、三木氏の城を7つ落としたため、9月12日には帰陣したらしい。戦いはこれだけでは終わらず、最終的に11月に長慶・実休*6・安宅冬康・十河一存という長慶の四兄弟が全員出馬して三木氏や別所氏を圧倒、東播磨を三好氏の勢力圏に入れた。長逸が最初派遣された役割は三好の大軍を派遣する前の実地調査を兼ねていたのだろうが、手際よく勝利し城を落とすのも含めて約2週間で済ませたのだから、長慶の信頼に見事応えたと言うべきであろう。
 永禄元年(1558)長慶に従わない将軍足利義輝が帰京せんとするのを防ぐ戦いにおいて長逸は松永久秀とともに三好軍の最右翼を構成した。長逸・長虎・久秀・内藤宗勝(久秀の弟・松永長頼)らの兵は総勢1万5000と号し、将軍地蔵山を奪い、また奪い返されつつ義輝とこれを支援する晴元・六角義賢の兵と京都内外で交戦を繰り返した。6月9日には白川口で決戦があり、戦い自体は三好軍が勝利したものの損害も多く、両軍に厭戦気分が漂ったようだ。結局この戦いは長慶と義輝が和睦し、義輝が長慶の庇護下帰京することで決着した。
 永禄5年(1562)には三好政権の畿内制覇を決定づけた畠山・六角連合軍との戦いが行われた。久米田の戦いで三好実休が討ち取られ三好軍が大敗北を喫すると、畠山軍は長慶の居城・河内国飯盛山城を包囲し、六角軍は京都を窺うなど劣勢に立たされた。政権の危難に三好軍は総力を結集し、勢力圏から軍勢を募ってその数は6万とも号されたが、このうち最大の勢力であったのが2万5000とも言われる摂津国衆であった。摂津国衆を統括したのは長慶の嫡子・三好義興であり、三好政生(宗渭)であったともされるが、戦歴や政権内での立ち位置を考えると長逸が重要な役割を担っていたと考えるのは的外れではないだろう。5月19日に行われた決戦・教興寺の戦いでは長逸は松山重治、池田長正、伊丹親興らとともに明け方から畠山軍に攻撃を仕掛け、勝利に貢献した。
 以上が長逸が特筆される三好長慶旗下の戦争である。無論長慶の戦争はこれだけではなく、特筆されない中でも長逸は参戦していただろう。誇張はあるだろうが、万を超える大軍を指揮し、また播磨攻めの緒戦の際に総大将を任されたこともある。この時期にそれだけの大軍を指揮しうる人材は多くなく、長逸の軍事的非凡さを語るに足りるであろう。

三好長慶の吏僚として

 長逸の長慶吏僚としての主な役割は長慶の副状を発給することである。この役割を「取次」と言い、長逸が長慶の意志を補強、あるいは補完することで、書状の対象との信頼関係を構築した。天文19年(1550)長慶が岳父遊佐長教に荘園横領停止を促すにあたって長逸は副状を出しており、長逸の立場が知られる。長慶の書状に長逸の副状が付随していたことが明らかなものは、他に円満院門跡(永禄3年)、河野通宣(永禄4年)、大館晴光などがある。松永久秀が副状を出した対象は堺南庄細川勝国若槻長隆などであり、久秀の「取次」対象が都市、細川氏綱係累であるのと比べると、長逸の「取次」は門跡、独立大名、幕臣と高位であることが注目される。長逸は三好一門として、そうではない久秀よりも長慶に近しい立場と見られたのだろう。
 また、三好政権と在地の関係において、長逸は「申次」の立場にあった(長逸は天文22年(1553)細川氏綱の家臣である多羅尾綱知と若槻長澄に「長慶代々申次」を自称している)。在地に係争(相論)があれば、それを主君に取り次いで裁定を下すのが「申次」の役割である。この「申次」は長逸が単独で長慶に取り次ぐ場合も存在するが、多くは長逸と松永久秀が共同で行った。この体制は天文22年(1553)にはすでに確認できる。また、松永久秀三好政権の給人帳を管轄し、河内国郡代を任命するなどを行うのに対し、長逸も丹波国川勝氏に所領を安堵し、河内国道明寺の寺領安堵について久秀と相談するなど、久秀と長逸は三好政権の運営を幅広く執行、掌握していた。
 三好長慶の初期の重臣で阿波三好家に所属せず畿内に留まった者に塩田氏がおり、塩田左馬頭が芥川山城において「評定衆」として長逸とともに勤務していた。しかし、裁許状に署名できたのは長逸と松永久秀のみであった。このことから、長慶は意図的に阿波国人のいわゆる譜代層を重視せず、長逸と松永久秀の二人を「取次」、「申次」に抜擢し政権運営の担い手として並立させた。これは有力な権限を一人に集中させないことで互いに勢力を掣肘させ、主君への反逆を防ぐ体制であろう。三好一門ということで長逸の立場は久秀よりも若干先行していた。
 ただし、以上のような立場を長逸が当初より持ち得たわけではなかった。天文10年(1541)に松永久秀連署し、三好長慶の意志を伝えていた三好一族は三好祐長(三好左衛門尉)である。祐長の来歴は不明だが、天文年間以降失脚したか、死去したのか姿が見えない。長逸は三好政権の長老と称されることもあるが、三好政権成立とともに長慶によって急激に引き立てられた、作られた「長老」でもあった。長逸は清原枝賢に『建武式目』の写本の貸出を依頼し、「当家秘伝」を授けられている。長逸は三好政権の吏僚たるべく、行政法を当時最高級の知識人から学んでいた。
 長逸は三好一門という立場であり、松永久秀と違って長慶の代理を務めることが可能であった。長逸の自意識が窺えるのは長慶が名義的に推戴していた細川氏綱との関係においてである。細川氏綱は長慶の「傀儡」とされることも多いが、多羅尾綱知や京都の流通を支配する今村慶満や小泉秀清などの領主を編成しており、京都支配において一定の実力を発揮していた。しかし、長逸は天文22年(1553)立場としては同格とも取れる氏綱家臣との連署を拒否し、代理に署名させた。また、氏綱が賀茂社に竹の徴用を命じた際に長逸はこれを拒否させた。長逸は多羅尾綱知に「長慶代々申次」を名乗っているように、自身の高位さと権限を周知させることを狙っていたのではないか。長逸の氏綱を必ずしも重んじない態度は、結果的に氏綱が権限を喪失し、その家臣・多羅尾綱知や今村慶満が長慶の家臣団に編入されていく流れに繋がって行く(細川京兆家被官の一族である若槻光保が長逸の家臣になるのもこの影響と考えられる)。

三好政権「副官」三好長逸の位置

 ところで長逸には独自の所領や本拠地となる城館の詳細がわからない。長逸が振るう権限の大きさや独自の家臣団の存在、戦争の際の動員力などを考えると、所領やそれを支える本拠地がないことはあり得ない。『摂津誌』によれば長逸は摂津国原田城主となったと言う。原田城(現大阪府豊中市)は伊丹や池田に隣接するため伊丹氏や池田氏との関係構築を狙ったものだろうか。しかし原田城は北に三好氏、南に原田氏が居住するという形態であったようで長逸も拠点とはしつつもそこまで重視したわけではなかったのだろう。また、年代不明だが三好長慶山城国人・被官層に山城国飯岡城(現京都府京田辺市)の長逸への忠勤を命じている。これによれば長逸は飯岡城主となって山城国人を編成していたようだ。飯岡は南山城を一望し、木津川流通の要所でもあるため、南山城の国人編成を行うには適している。しかし、城郭の遺跡などは現代では認められていない。
 永禄10年(1567)には息子の三好生長が播磨国衆や西岡国人を組織しているため、天文23年(1554)の長逸の軍事行動の結果、三好政権が獲得した播磨東部の管掌を任された可能性もある。後述するが長逸は西岡国人の革島氏と血縁を結んでおり、細川氏綱とその家臣との折衝、あるいは飯山城主という身分から一部の西岡国人を組織し、西岡に権利を有していたとも見られる。天文21年(1552)長逸の子の長虎は御料所である「西岡河嶋之内高野田当知行」を押領している。義輝の三好邸御成の際「楽屋奉行」を務めたのは長逸の家臣である坂東季秀と岩崎越後守に西岡国人の物集女兵衛太夫であった。たまたま同じ奉行になっただけかもしれないが、物集女氏が独自に長逸と結んでいた可能性もあるだろう。また、『フロイス日本史』によれば堺に屋敷を持っており、「堺奉行」と言われる加地久勝が娘婿という所伝もあるため、堺にも権利があったようである。
 長逸はどこに居住していたのか。長逸が原田城や飯山城に常駐していたことは確認できない。また、芥川山城には松永久秀、石成友通、藤岡直綱が居住していたことが確認されるが、ここに長逸の名前はない。ただ、長逸は日常的に芥川山城に出仕している。また、長逸は芥川孫十郎が長慶に追放されるまでは共同で軍事行動を行うことが多かった。すなわち長逸の根本的な所領や居館となる城郭は芥川山城周辺に存在したと見るべきだろう。候補としては高槻城や芥川城、今城塚古墳、普門寺城などが考えられる。
 永禄3年(1560)三好長慶河内国飯盛山城に移り、芥川山城と三好氏の家督を息子の義興に譲った。長逸は長慶とともに飯盛山城に移らず、義興のものとなった芥川山城に留まった。一方で義興は将軍足利義輝との関係を重視し、京都に三好邸を構築して拠点とした。この頃には松永久秀大和国支配のため芥川山城を離れており、義興とともに幕臣となるなど芥川山城に長慶・長逸・松永久秀が集まって運営されていた三好政権の支配体制は大きく変質しようとしていた。
 この中で永禄3年(1560)9月15日長逸は従四位下に昇進した。従四位下はそれまでの武家政権において執権家・管領家一族が登る高位の位階とされていたため、長逸の従四位下は長慶個人ではない三好一族が将軍を支え得るナンバーツーの家格に上昇したことを示す。また、三好義興松永久秀従四位下に就くのは翌永禄4年(1561)であるので、長逸の位階が先んじたことになる。このタイミングでの叙位は長逸が実質的な芥川山城の主になるのと連動したものだろう。永禄4年(1561)の将軍足利義輝の三好邸御成の際に長逸は息子長虎や家臣たちとともに三好政権側として御成に供奉した。この際の三好政権の席次は「細川氏綱三好長慶三好義興松永久秀三好長逸三好政生、三好長虎、三好帯刀左衛門尉」の順番であった。久秀が長逸より先行したが、これは幕臣を兼ねていたことによるものであろう。長逸が三好政権では長慶に次ぐ「副官」であることが朝廷や幕府から公認されたとも言える。
 三好長慶が「隠居」となり、義興が当主となった二頭体制は当然両者の円滑な意思疎通が不可欠となる。飯盛山城の長慶の書状に副状を出す側近として鳥養貞長、義興の書状に副状を出す側近として奈良長高が新しく出現したのである。彼らの立場は奉行人であり、長慶・義興個人との関係からその意思を代弁するに過ぎないが、それゆえに長慶・義興と一体性を有していく。一方の長逸は永禄5年(1562)義興が河野通宣に書状を送るのに副状を発給し、河野氏との「取次」の立場を堅持している。しかし他方では長慶が義興に所領給付を命じる際、奈良長高と長逸を宛先にした書状を出しており、長慶と義興を結びつけつつも、義興の権限を監督する存在として期待されていた。
 しかし、三好義興は永禄6年(1563)病死した。独自に将軍足利義輝と関係を構築し、政権継承者として立身していた義興の死は三好政権にとってあまりに大きい痛手であった。長慶には義興の他に男子がなく、甥の十河重存(後の三好義継)を後継者に据えた。重存は母が九条稙通の娘という貴種であったが、三好政権の継承者として三好政権の要人たちや将軍との関係構築を大きな課題として背負っていくことになる。重存は養父長慶の飯盛山城に居住し、なし崩し的に長逸は畿内統治の政庁である芥川山城の城主となったと推測される。
 なお、芥川山城には細川晴元の遺児・細川昭元*7も居住していた。三好長慶の謀反を受けた細川晴元はその後も抵抗を続けたが、天文21年(1552)の和睦の際長慶に息子昭元を人質として差し出し、以来昭元は長慶によって養育されていたのである。晴元は結局永禄4年(1561)に長慶の軍門に下り、富田庄を捨扶持として宛がわれつつ芥川山城近辺の摂津国普門寺に幽閉され、永禄6年(1563)没落の中死去していた。幼少期より三好政権で育成されていた昭元が父晴元や細川京兆家をどのように見ていたのか、長慶は成人した昭元を政権内で「貴人」以上の役割を持たせるつもりがあったのか、いずれも不明である。しかし、芥川山城に居住し細川京兆家の継承者である昭元もまた三好政権の有為転変に巻き込まれていく。

三好長逸の家臣

 長逸の家臣として最初期の者は某貞清某清蔵で天文22年(1553)細川氏綱の家臣とともに長逸が連署するはずが、代理として署名している(署名が実名だけのため、名字も官途名も不明)。これは長逸が自らを氏綱家臣と同列に扱われるのを嫌ったためであろうが、某貞清も某清蔵もその素性は不明である(同一人物である可能性もある)。
 その後弘治3年(1557)に入ると長逸の直状に副状を出す存在として竹鼻清範竹鼻対馬守)と若槻光保(若槻隠岐守)が見える。永禄3年(1560)に入ると坂東信秀(後に季秀、季頼、坂東大炊助)が加わり、長逸の意を奉じて竹鼻清範や若槻光保と連署するようになる。長逸の副状を発給するのは他に江戸備中守もいたが、竹鼻清範、若槻光保、坂東季秀の三人が連署状を出す例が散見するので、この三人が長逸の家臣の中核と見られる。
 他には『言継卿記』永禄9年(1566)8月24日条には岩崎越後守伊曽(磯)与右衛門尉が長逸の「内」として記されている。『二条宴乗記』永禄11年(1568)1月19日には「坂東取次」「物書谷」が長逸の家臣として見える。「坂東取次」は坂東季秀のことだろうか。谷氏は祐筆と見られるがそれ以上のことはわからない。また『永禄九年記』によると「日向内衆」として「金子」が淀城を石成友通とともに接収している。以下でこれら家臣団のプロフィールについて確認しよう。
 竹鼻清範の竹鼻氏は長逸以前も以後も著名ではないが(竹鼻は「竹花」と書かれることもあった)、竹鼻という地名は山城国山科にあり、清範の出身として想定される。山城国竹鼻氏は天智天皇山科陵の沙汰人・守人の子孫であると称した。『教言卿記』応永13年(1406)1月22日条に山科の「おとな」として竹鼻蔵人と竹鼻掃部が見え、彼らが清範の祖先であろうか。
 若槻光保は細川氏綱の家臣に若槻長澄がいるため、細川京兆家に出仕した若槻氏の出身であろう。長逸が天文22年(1553)に若槻長澄と連署するはずであったのを拒否したのを思うと、その数年後に光保が長逸の家臣になっているのは、長逸の立場が若槻氏と同格から明確に格上に向上したことを示す。光保が若槻氏の実名に多く見られる「長」を名乗らないのは長逸への避諱であり、光保の「光」は長逸からの偏諱である可能性もある*8光保のみ長逸から偏諱を得ているとした場合、やはり従来細川京兆家奉行人の一族であったという比較的高い出自から長逸の家臣に転身していることによるものであろう。
 坂東季秀*9の坂東氏も来歴は不明だが(坂東は「番頭」とも書かれた)、阿波国に板野郡から派生した坂東郡があり、『三好記』などの軍記において三好存保に従った家臣に坂東肥後守と弟の坂東五郎右衛門、一宮成助の家臣に坂東市正が見えるため、阿波国人であろう(阿波坂東氏は坂東彦左衛門長栄が蜂須賀氏の家臣となって存続している)。季秀の登場は遅いが、長逸家臣としては譜代格なのではないだろうか。長逸家臣としては若槻光保とともに永禄4年(1561)の将軍足利義輝の三好邸御成の際に奉行を務めている。最末期まで長逸の家臣として働いており、その紐帯の強さが窺える。
 江戸氏は武蔵江戸氏が著名な一族だが、備中守の出自は不明である。岩崎越後守も出自不明だが、永禄4年(1561)将軍足利義輝の三好邸御成の際坂東季秀とともに「楽屋奉行」を務めている。伊曽与右衛門尉もまた将軍義輝の三好邸御成の奉行に「伊曽左衛門尉」が見えるため、これと同一人物、あるいは近しい一族と想像される。
 長逸の家臣で出自や来歴らしいものがわかるのは若槻光保、竹鼻清範、坂東季秀の三人でこの三人が中核である。これは阿波から畿内に進出し京都市政に参画した長逸の家臣団編成を代表していると見られる。すなわち長逸の「譜代」・阿波出身としての代表が坂東季秀、山城国人を登用したものが竹鼻清範、細川京兆家の家臣から引き抜いたのが若槻光保である。坂東の登場が遅かったのは竹鼻氏と若槻氏が阿波の零細国人である坂東氏を同格と認めるのに時間がかかったことと長逸は畿内で新参であったため意向を代表させるのに当初は畿内に由縁のある人材を用いたというのがあるのだろう(その後長逸本人の意向が重視されるようになり長逸近臣の坂東も表に出るようになったのではないだろうか)。そしてこの阿波国人勢力、畿内勢力、旧細川氏勢力を代表する三人が中核を形成するという機構は「三好三人衆」の原型となったと考えられる。一方幕府に連なる人脈からの登用は目立たず、これが永禄の変への一つの伏線と言える。
 なおこの項目で扱った家臣とは長逸に直属する直臣たちのことで、戦時には長逸は摂津国人や西岡国人を指揮下に入れ編成していたと思われる。彼らの立場は「与力」に近いだろう。

三好長逸の家族

 三好長逸の妻については記録がない。おそらく畿内か阿波の中小国人から妻を迎えたのだろうが、その閨閥と血縁が利用されたことは認められない(従兄弟の芥川孫十郎は三好実休の「妹聟」とされているので、長慶の妹を妻にしていた)。フロイス日本史』によれば、西岡国人革島氏の一族である革島ジョアンが長逸の甥とされているため、長逸の妻が革島氏出身であるか、姉妹が革島氏に嫁いでいたことになる。年齢を考えると長逸の妻が革島氏である可能性の方が自然だが、天文21年(1552)に三好長虎が革島にある将軍御料所を押領しておりこれが関係構築の契機であるのかもしれない(この場合長虎の母親は革島氏ではないが、逆に母系で革島氏に連なるがゆえの押領とも取れる)。
 長逸の息子として確実なのは三好弓介長虎、後に改名して兵庫助生長(三好生長)である。長虎から生長への改名は「生」が三好宗渭の実名「政生」と共通することから、宗渭からの偏諱であり、宗渭の養子となったとも考えられる。その活動は天文19年(1550)が初見であるため、生まれは天文初年頃であろう。活動当初より父とは別に一部隊を率いており、三好政権の有力者として遇された。生長は元亀元年(1570)10月に三好康長と連絡を取っているのが、文書における終見である。しかし、『細川家譜』では元亀2年(1571)11月に「三好兵庫頭長勝」が山城国住山(炭山?)に出張ってきたのを細川藤孝が迎え撃っている。これはおそらく三好生長を指すと考えられる。同じく『細川家譜』によれば天正元年(1573)三好義継が滅ぼされた際「三好弓之助」が義継に従って戦ったとも見える。あるいは後述する生長の子かもしれない。
 長逸の娘は良質な史料からは確認できないが、『三好系図』によれば三好義継の子・三好長元のそのまた子として挙げられる「三好長継」が三好長慶の娘を娶りその妻の死後、三好長縁(長逸)の娘を継室にしたことが見える。三好長元が義継の子というのは年代的にあり得ないが、長元とその子孫の系譜は具体的なため、このような三好一族がおり(『三好系図』では三好長継に「加治権介」という注が付記されている。三好長継とは加地久勝のことであろうか?)、当初は長慶の娘を妻にしていたが、永禄~元亀年間のどこかでその長慶の娘が没し、代わりに長逸の娘婿となった可能性はある。長継と「長縁女」との間の子である三好若狭守長□*10は佐伯藩主毛利高政に仕え、毛利名字を許される重臣に列した。その後若狭守の子孫は佐伯藩士三好氏として続いたようで、長逸の血も娘を介して伝わったことになる。
 また、『徳川諸家系譜』によれば結城松平家*11の初代・松平直基の母親・品量院は「三好越後守長虎」の娘であるという。この「三好越後守長虎」が「三好弓介長虎」(三好生長)と同一人物であるかは定かではない(三好生長は一度も「越後守」を名乗ったことがない)。しかし、「三好長虎ハ小笠原信濃入道松翁義長六世ノ孫也、阿波ノ三好郡ヲ食ム、因テ氏トス」とあるため、この「三好越後守長虎」が阿波三好氏の系譜に属する人物であるのは確実である。ただ、『徳川諸家系譜』編者がどの系図を参考にしたかにもよるが、三好義長から弓介長虎への系譜は義長―長之―之長―長光―長逸―長虎(生長)となるため、生長は五世孫であるため「義長六世ノ孫」という表記からはずれる。さらに言えば三好生長は元亀2年(1571)から活動が見られなくなるが、品量院が松平直基を産んだのは慶長9年(1604)で30年以上の開きがある。品量院が高齢出産を行った可能性はあるが、親子関係として不自然なものを含む。
 『徳川諸家系譜』が単に誤謬を含んだとも考えられるが、想像をたくましくしてみよう。『細川両家記』は元亀元年(1570)畿内に出陣してきた三好残党軍の構成を記しているが、「三好日向入道北斎、同息兵庫介」と記される長逸・生長とは別に「三好久助」が軍勢に見える。「同息兵庫介」は三好兵庫助生長のことであり、「三好久助」が示す三好弓介と同一人物であるため、『細川両家記』は同じ人物を重複して記していることになる。だが、この二人が別人、親子であったとしたらどうか。三好生長は子息の元服に際し、自分が名乗っていた「弓介長虎」の名乗りを与えたのではないか*12
 また、『三好記』・『三好家成立之事』によれば、天正7年(1579)12月27日長宗我部氏に通じた三好康俊が阿波三好家の重臣であった森飛騨守・三好越後守・矢野駿河守を殺害したことが見える。この「三好越後守」は阿波三好家とどのような系譜的繋がりを持つのかは明らかではない。両書ともに阿波三好家の重臣たちを嘲った狂歌として「カケ引ヲ三好越後ノ勝時ガウタレテ後ハマケ時トナル」を載せるため、この「三好越後守」の実名を「勝時」と見なしていたことがわかる。一方で「三好越後守」は天正5年(1577)2月に奈良玄蕃助に所領を給付しており、その書状では名前を「□円」としている。「□円」は法名である可能性が高く、結局実名は覚束ない。
 そこで大胆な仮説を立てれば、三好生長の息子として「弓介長虎」が存在し、父祖の機内での敗亡の後、阿波に転戦して「三好越後守」を名乗ったのではないか(その後改名した可能性がある)。品量院を阿波転戦時代の娘と考えれば、直基を産んだのも20代の範疇に収まり不自然ではなくなる。「三好越後守長虎」の死後その家族は河内三好氏あるいは十河存保などの阿波三好家残党に保護され、その後に結城秀康の側室となったのではないだろうか(三好為三や三好房一は徳川家康・秀忠に仕えたため、彼らからの縁である可能性もある)。いずれにせよ、長逸の血筋が近世大名として存続した可能性を大いに示している所伝と言える*13

三好長慶の死から三好三人衆の結成

 永禄7年(1564)三好長慶が死去した。長慶の死は遺言によって秘匿され、当時の記録には全く現れない。三好政権は長慶の死を隠し通すことに成功したと言えるが、永禄8年(1565)に入ると一つの案件に対し、長松軒淳世、奈良長高、三好長逸三好宗渭、松永久通が個別に三好重存の意を奉じるなど三好政権の指令系統は混乱を見せ始めた。
 ここで特筆されるのは細川晴元に従って三好長慶に長く抗戦を続け、長慶の配下に収まった後は活動を潜めていた三好宗渭(政生)が文書発給主体として復活し始めたことである。その復権は長逸が連署する形でなされたため、宗渭の復帰は長逸が促したものであろう。細川晴元旧臣代表としてのネットワークを有する宗渭を長逸は味方に抱き込み利用しようとしたのであろう。長逸と宗渭が結んだことを如実に示すであろうのが、長逸の息子長虎が永禄10年(1567)までに生長に改名したことである。生長の「生」は宗渭の実名である政生と共通するため、偏諱であると見られる。この後宗渭は長逸の係累を親族と見なすため、生長は宗渭の養子となったのかもしれない。反三好政権の旗頭となる可能性のある宗渭を抱き込むにはこれほどの縁組が必要だったのだろう。
 三好重存は三好政権主宰者の継承を示すため、松永久通や長逸を引き連れ永禄8年(1565)4月末に上洛、将軍足利義輝に伺候してその偏諱を受け左京大夫に任官された。ところが将軍義輝と穏便に関係を構築したかと見るや、5月19日には義輝を強襲しその側近もろとも誅殺した(永禄の変)。長逸も襲撃の主力部隊であったが、足利義輝正室である近衛稙家女(近衛前久の妹)を保護し近衛邸に護送している。義輝誅殺の正確な意図は不明だが、重存が元々足利将軍と関係を構築せず、対立する九条家の血筋であったことや、幕府と三好氏を繋ぐべき伊勢氏や松永久秀が当時折衝として存在しなかったのが変の大きな契機になっているのは間違いない。5月21日に長逸は三好氏の代表として参内し酒を下賜されている。長逸の朝廷からの信望が知られる。22日には生き残った幕府奉行衆・奉公衆の一部が三好義継(重存から改名)に出仕し、義継は最高権力者として裁許を下し始めた。
 義継や三好政権の首脳に義輝に代わる新将軍を擁立しようとする態度は見えない。室町幕府は首長たる将軍、朝廷からの公認という正統性、奉行衆や奉公衆といった構成員を全て失い滅亡した。しかし一方で生き残りつつ三好政権に従わない構成員や将軍を中心とする秩序を信じる大名たちは反三好闘争を開始する。また、松永久秀も義輝の弟である一乗院覚慶(後の足利義昭を保護しており「カード」として利用しようとしていた。しかし、久秀の弟で三好政権下で丹波を支配してた内藤宗勝が戦死し、覚慶の奈良からの脱出を許してしまうなど、久秀は失態を重ね他の三好政重臣との関係を悪化させた。
 11月16日三好長逸は宗渭や石成友通、阿波三好家の重臣である三好康長とともに飯盛山城に入り、義継の奉行人である長松軒淳世らを殺害し、久秀の排斥を迫った。長逸は行政・軍事両面で松永久秀と共働してきた経験もあり本来的には悪い関係ではなかっただろうが、ここでは久秀排除の主導者となった。腹心である奉行人を殺された義継に拒否権があるわけもなく久秀排除に承認を与えざるを得なかった。さらに同月から長逸は宗渭と石成友通と連署して文書を発給し始めた。三好政権を運営する「三好三人衆」の誕生である。
 三好三人衆の構成は三好政権のそれを反映した。すなわち長逸は三好政権の長老であり副官という阿波以来の立場を代表し、宗渭は旧細川晴元勢力と父政長(宗三)以来の畿内ネットワークを代表し、石成友通は長慶によって取り立てられた新興畿内国人層を代表した。地盤が違う三人が共同で統治にあたることで三好政権のより強固に維持しようというという試みである。また、長慶が飯盛山城に移って以来力を持っていた側近の排除や様々な重臣が個別に案件を安堵する混乱を収拾する側面もあった。長逸は自身の家臣団にこのような体制を取らせることで家臣団を統制しようとしていたが、それを三好政権全体に適応させることで混乱を収めた。三好三人衆の序列は三好長逸三好宗渭>石成友通であり、長逸と友通が二人だけで連署することはなかった。長逸と宗渭は松永久秀を排除して友通を政権担当者に取り立てたが、長逸は友通と「同格」と見なされるのは嫌ったのである。

松永久秀との戦いと三人衆政権

 三好政権から排除された松永久秀も黙っていたわけではない。久秀は自身の生存を賭け、足利義昭を中心とする幕府再興運動と結び大規模な抗争を展開した。久秀の同盟者となったのは三好政権に河内を奪われていた畠山高政・秋高兄弟尾張の大名織田信長と和泉を支配する松浦孫八郎(とその後見である九条稙通)、畿内で従ったのは一部の西岡国人(小泉城や勝竜寺城)と瓦林氏ら越水衆摂津国人の伊丹氏塩川氏、細川典厩家の細川藤賢などである。
 一方の三好三人衆三好長逸三好宗渭・石成友通)は三好政権の後継者三好義継を当主に戴きつつ、阿波三好家と協力し三好康長篠原長房の援軍を受けた。他には摂津国人の池田勝正や淡路の安宅神太郎、大和の反松永勢力である筒井順慶も三人衆に協力した。三人衆は細川京兆家の継承者である細川昭元を確保していたほか、和泉の松浦孫八郎への対抗として松浦孫五郎という当主を擁立した。織田信長への抑えのため美濃の大名である一色竜興(斎藤竜興)と同盟を結び、近江の大名六角承禎(義賢)・義治父子に圧力をかけた。三好長逸をはじめとする三人衆と松永久秀三好政権の内紛という枠組みを超えて日本列島の中央部に広範な同盟網を構築して対立した。それは図らずも室町幕府滅亡という事態に「国のかたち」を諸大名・国人に問うものとなったのである。
 実際の戦争は三好政権(三好三人衆)側の有利に進んだ。永禄9年(1566)2月に安宅神太郎が率いる淡路衆が松永方の摂津国滝山城を包囲し、4月に三人衆軍が筒井軍と合流して大和国に入り松永方の拠点である多聞山城や古市城の城下に放火を加えた。危機感を強くした久秀は大和国から逃れ、伊丹氏、塩川氏、瓦林氏、畠山氏の勢力を結集して堺を制圧し巻き返しを図った。しかし長逸はじめ三人衆もすぐにこれに対応、三好義継、三好康長、池田勝正、安宅神太郎らとともに久秀が制圧した堺を包囲した。久秀は堺を占領したものの、補給のアテもなく多勢に無勢であった。5月末敗北を悟った久秀は失踪し、堺も奪還された。
 これを戦争の落着と見たのか、三好政権はついに長慶の死を公表し、6月24日河内国真観寺にて葬儀が行われた。喪主の三好義継をはじめ、参列者は皆落涙したという。前年の足利義輝の葬儀には欠席していた五山の僧たちが、わざわざ河内国に赴いて長慶の葬儀に出席したことは真に天下を支配していたのは長慶であったという絶好のアピールとなり、義継が自らをその政権後継者であると喧伝するいい機会であった。
 6月には篠原長房が阿波三好家の軍勢を率いて渡海してきたこともあり、7~8月に畿内に残る松永方の拠点も次々と落城し、三人衆を首魁とする三好政権は勝利を確定させていった。松永久通が多聞山城に籠るなど以後も畿内を舞台とする戦いは継続したがほとんど残務処理にすぎない。三人衆政権が勝利した背景には、政権後継者である三好義継を確保していたことや久秀が構築した同盟網が機能しないうちに当の久秀が敗北、失踪してしまい求心力が失われたことがあろう。
 しかし、三人衆が阿波三好家の軍勢を頼んだことは新たな要素を含んでいた。篠原長房が率いてきた大軍は元「堺公方足利義維とその子である足利義栄*14・義助兄弟を伴っていたのである。その理由は本項では明らかにしないが、篠原長房と足利義輝を殺して室町幕府を崩壊させた三好義継・長逸ら三人衆との間に相当の温度差があったのは間違いない。長逸が阿波公方をどう思っていたのかよくわからない。ただ、『阿州将裔記』では足利義維が一時大内氏の周防に退いていたのを、長逸の手配で永禄6年(1563)阿波に帰国したことになっている。これを真実とすると*15長逸は阿波公方に便宜を図っていたことになる。ただ、長逸ら三人衆は義栄擁立を黙認しつつも消極的な態度に終始した(後述)。
 さらに火種となったのは三好義継と三人衆の対立である。義継は義栄の登場で畿内の政権主宰者としての地位を脅かされることになったが、対立の真の争点は三好政権の運営であった。義継はどうやら三人衆が裁許を行う運営システムは非常時の特例と思っていたらしい。しかし、松永久秀を討伐し長慶の葬儀を行って自らが政権主宰者とアピールしても三人衆は解散せず義継に政権が渡されることはなかった。長逸にとっては三人衆というシステムは長慶の死で混乱を生じていた政権運営を、政権内の様々な立場を三人に代表させることで正常に運営するためのものであり、当面は維持されてしかるべきものだったのである。
 永禄10年(1567)2月ついに三好義継は近臣を連れて出奔し、畿内の国人たちに檄文をばらまいた。その内容は何と長逸ら三人衆を「悪逆無道」と罵倒し、松永久秀「大忠」と称えるものであった。これに応えるように失踪していた松永久秀は再び姿を現し、皮肉にも反三好陣営は三好政権の当主を迎えることで再び活気づいた。こうして三人衆は擁立すべき当主を失った。ただ、長逸ら三人衆は三好本宗家に新当主は立てなかった。4月に阿波三好家の当主・三好長治が一族を集め父実休の七回忌のために畿内に上陸してきた。しかし、篠原長房や三好康長が長治を三好本宗家の当主に擁立することもなかった。

三人衆政権の内実

 独自に文書を発給し在地の訴訟に絡む篠原長房の存在は三人衆政権にとって懸案であった。永禄10年(1567)3月長逸の示唆があったものか、阿波三好家にも「三人衆」が結成された。その構成者は三好康長三好盛政矢野虎村の三人で、筆頭にして宿老である康長、三好一族の盛政、実休に取り立てられた新興の虎村など三好三人衆に構成が類似している。一方で篠原長房は独自の地位を維持し、長逸、宗渭、康長らと互いに連署を行った。10月にはこうした長房を包摂すべく、長逸、康長、長房に川人雅長を加えた四人で連署するようになるが、永禄11年(1568)からは三人衆連署が復活した。文書の発給システム一つ見ても篠原長房の存在が試行錯誤を迫っていた。
 ただ、三人衆は強大な軍事力を持つ長房と決裂はしなかった。三好義継と結び勢力を盛り返しつつあった松永久秀との戦いにおいて長房はキーマンであった。永禄10年(1567)5月長逸ら三人衆は筒井順慶や篠原長房、池田勝正、別所安治の軍勢を合わせた3万もの大軍で奈良に入った。久秀と義継の軍勢も奈良に赴き、両軍は奈良の市街地でにらみ合うことになる。8月久秀は飯盛山城の松山安芸守を寝返らせ、畠山氏を援軍に呼ぼうとしたが、これは石成友通と篠原長房が退けた。数で勝る三人衆軍は長期戦に持ち込むことで戦いを有利に進めており、久秀・義継は劣勢に立たされた。数で劣る久秀は10月10日東大寺に陣取っていた三人衆軍に奇襲をかけた。三人衆軍は大混乱に陥り、戦いの中東大寺の建物は放火され、大仏ともども大仏殿は焼け落ちた。松永久秀の起死回生の勝利であり、三人衆は一時大和から撤退せざるを得なかった。一方で松永方に寝返っていた飯盛山城は落城して再び三人衆の手に戻り、久秀方の三淵氏の京都侵攻は西岡国人や播磨国人を組織した三好生長が防いだ。大和で三人衆が再び攻勢に出るのは翌年6月からである。
 長逸ら三人衆が三好政権の本来の主宰者である三好義継と干戈を交える中、三人衆政権は三好長逸が当主であるかのように見なされていく。但馬の山名祐豊は長逸を宛先として京都の所領の処理を連絡したし、永禄11年(1568)5月に正親町天皇東大寺再興を諸大名に命じた際も三好長逸上杉輝虎(謙信)、今川氏真織田信長毛利元就に名を連ねた。同年2月には将軍に就任した足利義栄が長逸を「御供衆」として出仕を命じ、長逸は朝廷からも幕府からも三好政権の「副官」ではなく「首長」とされていく。
 しかし、長逸は自分から当主を名乗ることはなく、三人衆を核にした集団指導体制を変成させつつも維持していた。長逸は東大寺再興に向けて具体的に行動したわけではないが、再興資金を集めた阿弥陀寺の清玉を賞するなど天皇の要請に好意的に反応した。一方で長逸ら三人衆は足利義栄には冷淡に対応した。義栄は永禄10年(1567)12月篠原長房が本拠地とした摂津国越水城から普門寺に移った。普門寺は先述した通り、没落した細川晴元を付近の芥川山城から監視するために整備された施設で、義栄は以降普門寺から動くことは出来なかった。三人衆が義栄を政権担当者として遇するのなら、畿内の政庁である芥川山城に入れるべきであるが、長逸らはそうはせず普門寺に入れることで長房との接触を断ち、監禁する道を選んだ。義栄は永禄11年(1568)2月に将軍となるが、前年になろうとした際は献金が足りず、この時も朝廷に収める礼銭に悪銭が混じっていたとして、一度将軍宣下が見送られている。義栄は三好氏の経済力の支援を受けられず、朝廷も義栄の将軍宣下に積極的ではなかったのだ。義栄は京都の訴訟に介入するなど精力的に政務を執ろうとするが、長逸は「御供衆」としての招集を無視し、三人衆が明確に義栄の意を奉じることはなかった。
 三人衆政権にとってキリシタンの動向も課題であった。ヨーロッパから日本を訪れていた宣教師たちは足利義輝三好長慶から布教の許可を獲得しており、三箇頼照(サンチョ)や池田教正(シメアン)、庄林コスメなど三好氏の家臣にも多くのキリシタンがいた。しかし、義輝が暗殺されると正親町天皇は京都から宣教師を追放する命令を出した。これにキリシタンたちは騒然となり、三好氏の家臣でありながら上洛し禁教令に抗議する者もいた。この騒動を沈めたのがフロイスから「生来善良」「教会の友人」と称えられた長逸であった。フロイス評はともかく、長逸はキリスト教に好意的で、追放される宣教師を自ら保護・護送することでキリシタンを宥めることに成功した。しかし、キリシタンや宣教師の禁教令撤回運動は続くことになる。
 三好三人衆のうちキリスト教に好意的なのは長逸のみで宗渭と石成友通は反キリシタンであった。一方で篠原長房は配下の竹田一大夫がキリシタンであることもあり、キリスト教に好意的であった。フロイスによれば篠原長房と三箇頼照が三人衆を説得し、一時は禁教令の撤回直前まで行ったらしい。だが、三人衆が奈良在陣中にキリシタンである三木半大夫が春日大社の保護する鹿を殺して食べたことや、長逸の甥でキリシタンの革島ジョアンが西宮神社の神像に小便をかける事件が起こると、三人衆は態度を硬化させた。特に激怒したのは三好宗渭である。これは少し変な話で、興福寺へ奈良の鹿を保護する約束を交わしたのは三好生長で、革島ジョアンは長逸の甥と両事件は長逸の親類が起こした事件であるので、激怒するならまず長逸であろう。にも関わらず、宗渭は自分の「親類」が起こした事件として扱っている。こうしたことからも長逸が宗渭と縁戚関係を結んでいたことが見える。二つの事件に共通するのは既存の有力宗教団体に喧嘩を売るような行為であったことである。三人衆はかつて畿内一向一揆法華一揆が暴れ回った過去を知っていた。そのような過去を再演しないためにもキリシタンの動きを抑制する必要があったのである。
 長逸ら三好三人衆は三人衆による集団指導体制を維持しつつ、強大な軍事力と影響力を持つ篠原長房の存在をどのように包摂するかに腐心していた。一方で三人衆の一人・三好長逸は朝廷や諸大名から三人衆政権の首長と見なされ、将軍となった足利義栄は三人衆政権の掣肘によって幕府を整備することが出来なかった。この情勢が続けば、三好長逸、篠原長房、足利義栄の力関係が崩れ、あるいは新政権へと止揚されたかもしれない。だが、ある人物が上洛してきたことによって全ての問題が結果的に清算されることになる。

三人衆政権の崩壊と室町幕府再興

 松永久秀の保護下から逃亡した一乗院覚慶、還俗して足利義昭の幕府再興運動は当初は力を持つことがなかった。義昭が頼みとする松永久秀畠山高政は長逸ら三人衆相手に劣勢を強いられ、上杉輝虎(謙信)、武田信玄毛利元就らは義昭に好意的であったが、本格的に支援することは出来なかった。尾張の大名織田信長も例外ではなく、当初より室町幕府再興に賛意を示し、久秀の支援に「尾張衆」を送るなどをしていたが、隣国の斎藤竜興が三人衆と同盟したこともあって上洛を阻害されていた。三人衆の同盟網は有効に機能していたのである。しかし永禄10年(1567)信長は斎藤竜興を屈服させ美濃を制圧した(斎藤竜興は三人衆政権に亡命した)。信長は北近江の浅井長政に妹を嫁がせて同盟を結んでおり、美濃から近江を通ることで上洛する道が開けたのである。永禄11年(1568)7月には信長は足利義昭を美濃に迎え、室町幕府再興へ具体的な行動が取っていく。
 足利義昭を奉じて室町幕府を再興せんとする織田信長に対して長逸は永禄11年(1568)4月に接触を図った。美濃三人衆稲葉良通(一鉄)は三好・斎藤同盟時代から長逸と連絡を取っていたらしく、長逸は良通から送られた十文字鎌に感謝しつつ、良通の新しい主君である織田信長への取り成しを依頼しているのである。後世から見ると三好長逸織田信長の間に妥協が成立するとはあまり思えないが、長逸は交渉を行おうとしていた。しかし、信長はこれを黙殺したらしく、三人衆と信長の間で交渉が行われることはなかった。織田信長大和国人に対して劣勢の松永久秀への忠勤を呼びかけるなど、久秀と長く結んでいたため、三人衆との交渉の余地はなかった。
 長逸ら三人衆は義昭・信長上洛への対抗のため、南近江の六角承禎と結んだ。六角氏はかつては三好氏の敵であったが、承禎は永禄11年(1568)2月に長逸に朝倉氏や義昭の動静を伝えるなど中立的な態度を取っていた。六角承禎には義昭陣営からも誘いがあったが、長逸ら三人衆は7月に近江に出向き直接承禎と談判して六角氏を味方に付けた。
 しかし、9月7日に信長が上洛戦を開始すると、12日に六角承禎の観音寺城は落城し、29日には石成友通が籠る山城国勝竜寺城も落とされた。長逸は細川昭元を伴って、30日に芥川山城から退き、篠原長房も11月2日には越水城から退去した。畿内の三人衆政権で織田信長足利義昭の上洛軍に抵抗して戦ったのは石成友通と池田勝正だけでほとんどは自発的に兵を引き上げて阿波国に向かった。信長と義昭は長逸が去って空になった芥川山城に入城し、畿内の諸将から参賀を受け、三好義継や松永久秀らを各地の守護に任命した。こうして織田・足利の軍勢は畿内を掌握し、10月18日足利義昭は将軍に任官して室町幕府は復活を遂げた足利義栄はこの前後に亡くなっていた)。
 なぜ三人衆はその総力を挙げて、織田・足利軍に決戦を挑まなかったのか。これは挑まなかったと言うより、畿内には三好義継と松永久秀とこれに従う勢力が跋扈しており、三人衆政権は各個撃破に当たっていたために総力を結集できなかったというのが正しい。ただ、長逸ら三人衆が各地に配置した勢力を各個撃破されるよりも自ら退くことにしたのは重要で、三人衆の勢力には損害はほとんどなく温存されたということでもあった。
 あっさりと「畿内平定」が成り室町幕府が再興されたのを見た信長は10月25日には本拠地の岐阜に帰ってしまった。12月には松永久秀が岐阜を訪れている。これを見た三人衆―彼らはもう政権を形成していないので三好残党軍―は反攻を開始した。三好残党軍は12月28日に堺に上陸し、和泉国原城を攻略すると電撃戦で京都に迫ったのである。なお、この際長逸は北斎宗功」と名乗っており、畿内から追われたのを機に出家したようである。三好残党軍は翌永禄12年(1569)1月4日には将軍地蔵山と東山を焼き討ちし義昭の退路を断つと、5日には義昭の御所となっていた本圀寺を包囲した(本圀寺の変)。三好残党軍は義昭を殺害、やや緩和しても拉致してしまい、室町幕府を滅亡させるつもりだった。しかし、6日には義昭が任命した守護である三好義継、池田勝正らの軍勢が後詰に駆け付けた。三好残党軍は長逸と宗渭が本圀寺を包囲したまま、石成友通・三好康長が桂川で義継らの軍勢を迎え撃ったが、いずれも三好残党軍は敗北を喫した。三好残党軍は再び京都から阿波へ電撃的に退き、8日に異変を聞いた織田信長が駆け付けた時には京都近郊の合戦はすでに終わった後だった。
 あっさりと「畿内平定」が成ったはずの京都へ攻めのぼられたことに信長や義昭は憤懣やるかたなく、すぐに畿内の三好残党軍与党を征伐する多国籍軍が結成された。この軍勢は高槻の入江氏を征伐し、尼崎を放火した。また、信長は堅固な室町幕府体制を志向して、「殿中掟」を定め、義昭の御所として城郭である二条御所を築き始めた。和泉国堺への矢銭要求もこの流れに沿って三好残党軍からの離反を狙ったものであった。逆に言えば東瀬戸内海流通の要所である尼崎や堺は三好残党軍に協力的で、畿内国人にも残党軍に味方する勢力がいたのである。いつまた三好残党軍が京都へ攻め上がってくるとも知れぬ中、足利義昭織田信長は急ピッチで室町幕府の整備を進めていく。
 一方敗退した三好残党軍は5月に三人衆の一人・三好宗渭が亡くなり、三好義継の調略によって淡路の安宅神太郎が残党軍から離反したこともあって、永禄12年(1569)は畿内反攻の機会がなかった。『細川両家記』によると、三好残党軍の幹部たちは本圀寺の変の失敗は軍勢の分散にありと見て、次の反攻の時は大軍を大坂湾に面した城に集め籠城することを決めたという。

三好政権の再興を目指して

 事態が動くのは元亀元年(1570)4月である。室町幕府は越前の朝倉義景討伐を決め、織田信長が中心となって松永久秀池田勝正らを率い義景討伐に向かった。しかし、ここで信長の同盟者であった浅井長政が離反し、義景討伐は失敗した。浅井長政朝倉義景以外にも六角承禎や三好残党軍と結んでおり、反幕府の姿勢を明らかにした。6月には池田勝正が失脚、池田氏を主導する池田四人衆も勝正派の二人が殺され、代わりに荒木村重が加えられた。池田城には三好長逸が入っており、池田四人衆が「三人衆」となったのも長逸の指導によるものだろう。6月下旬には堺に三好残党軍の大軍が上陸し、7月には大坂湾に面した野田城・福島城に入った。三好残党軍は調略によって、池田氏、浅井氏、六角氏、朝倉氏といった有力大名・国衆を自らの反義昭・信長陣営に引き込み幕府包囲網を形成しつつあった。
 危機感を強めた織田信長は8月20日に岐阜より出陣、この戦いには足利義昭中島城に入城して参加し、室町幕府の総力を挙げた決戦を意図していた。野田・福島に籠る三好残党軍は細川昭元を名目的に推戴しつつ三好長逸、三好康長、安宅神太郎、十河存康、篠原長房、石成友通、松山彦十郎、香西長信、三好為三(宗渭の弟)、斎藤竜興、長井右近、近衛前久と三好氏および反信長・反義昭人脈のオールスターで総勢は当時の記録でも5000~1万2000と幅がある。対して幕府軍織田信長を中心に三好義継、松永久秀、畠山秋高、和田惟政らが参加し6万もの大軍である。野田・福島が堅固とはいえ数の差から三好残党軍は劣勢であり、8月末には香西長信と三好為三が幕府軍に内通し、寝返ってしまう始末であった。9月12日にはついに三好残党軍から和睦提案がなされたが、義昭と信長は一蹴した。待っていれば勝利確実でついに三好残党軍を殲滅できる戦に和睦交渉を行う意味がない。
 だが、その9月12日の夜に戦況は一変する。三好残党軍と幕府軍の戦いを傍観していた本願寺一向一揆に檄を飛ばし、反幕府陣営として参戦してきたのである。信長は「仰天」したという。すかさず三好残党軍は堤を破壊し、幕府軍の陣地を水浸しにした。また、9月16日には浅井・朝倉連合軍が近江国坂本を焼き討ちし、入京せんと迫っていた。反幕府陣営の動きは緊密に連動していた。本願寺は8月末には参戦準備を進めていたし、長逸らと交渉を積み重ねた結果の参戦であった。このように考えると9月12日の和睦提案などは義昭や信長を油断させるための「芝居」にすぎなかった。結局織田信長足利義昭は京都を守るべく、もう少しで勝てそうだった戦場から去らざるを得なかったのである。
 四面楚歌となった織田信長は最初一蹴した和睦を自ら提案せざるを得なくなっていく。三好残党軍は池田氏と結び、調略によって摂津や山城の国人を懐柔し、当初は1万にも満たない軍勢は3万にまで膨れ上がっていた。残党軍はとりあえず摂津に勢力を確保するという目的を果たした。12月に織田信長松永久秀・三好義継を仲介にして三好残党軍と講和し、松永久秀の娘が信長の養女として三好長治に嫁ぐことが決まった。
 だが、ここでも残党軍は一つの目的を果たした。和睦交渉の際に三好義継の若江城に義継、松永久秀、三好残党軍の幹部が参会した。永禄8年(1565)以来、分裂していた三好政権の主要構成員が一か所に集まり、和睦に向けて腹を割って話し合ったのである。自然と話題に長慶の往時のことも出ただろう。元亀2年(1571)より義継と久秀は三好残党軍と協力し、反幕府陣営に身を投じることになるが、伏線はここにあった。力量や経歴を考えると二人の説得にあったのは長逸ではなかったか(今は亡き宗渭に責任を押し付けたのかもしれない)。こうして三好残党軍は残党軍ではなく、三好政権再興軍として動いて行く。
 また、元亀3年(1572)頃までが長逸がその名で行動しているのが確認される最後である。残存する長逸本人の発給文書は元亀元年(1570)が最後となる。しかし、長逸のものとされる行動は後も確認される。なぜこのようなことになるのかと言えば三好三人衆」と称する団体が活動を続けているからである。この時期の「三好三人衆」は三好宗渭がすでに没し、その後継者であろう三好為三と石成友通が幕府に寝返るなど、「三人」を称しながらその内実は三人ではなかった。唯一長逸のみが常に反義昭・反信長であったため、単に「三人衆」と言う場合構成員は長逸一人だけということになる。よって「三人衆」と記される場合、それは長逸のことになる。とは言え、本当に「三人衆」が長逸を指しているのか、不審は残る。原初の三人衆は全員消え、後継者が看板だけ「三人衆」のままにしておいただけなのかもしれない。あるいは長逸が誰かを三人衆に補填したのかもしれない。ただ、他の可能性を考えるにも材料が足りないので「三人衆」を長逸と見なすことにする。
 さて、一度は三好残党軍は足利義昭織田信長と和睦したものの、元亀2年(1571)には篠原長房が備前に進出して毛利氏と交戦するなど、不穏な動きが続き、義昭・信長は毛利氏への弁明に追われた。これを尻目に5月松永久秀・三好義継は「三人衆」を引き入れて、畠山秋高の家臣である安見右近を討ち取り、秋高の籠る高屋城を攻撃した。久秀と義継は明確に幕府から離反したのである。7月には篠原長房が軍勢を引き連れて畿内に渡海し、8月には三好氏に味方する池田知正荒木村重足利義昭の右腕として摂津統治に当たっていた和田惟政を討ち取った(白井河原の戦い)。11月には義継と久秀は山城国南部に進出しており*16三好勢力*17は摂津・河内・和泉・山城を席巻した。
 和田惟政を失った足利義昭が唯一頼みとする織田信長は北の浅井・朝倉・比叡山相手に手を取られており、三好勢力のこの動きに対処できなかった(佐久間信盛が派遣され惟政の居城であった高槻城を三好勢力の手から死守した)。軍事力に欠ける義昭は大和の筒井順慶を味方にして、松永久秀の勢力に打撃を加え、12月には細川昭元と石成友通を三好勢力から離反させた。石成友通は織田信長より山城に所領を獲得し、細川昭元摂津国中島城に入って三好勢力と戦った。昭元は三人衆により旗頭として担がれたこともあったが、その中で主体性を発揮することもその意志が奉じられることもなかった。昭元は父晴元以来の摂津の国人へのリーダーシップを義昭から期待されたが、元亀3年(1572)4月にはともに中島城に入っていた三好為三と香西長信が三好勢力に復帰するなど、影響力は少なく孤軍奮闘するに留まった。長逸はすでに三好義継を主君に仰いでおり、昭元はもはや不要だった。
 元亀3年(1572)4月に入ると幕府方であった伊丹忠親和田惟長(惟政の子)も三好勢力に内通する動きを見せ始めた。義継は自身の書状に松永久秀三好長逸の副状を付け、久秀と長逸が二頭として三好氏の当主を支える体制を復活させた。ここに摂津・河内を本国とする三好政権が再興されつつあった。
 しかし、こうした動きの中の長逸の具体的な行動は不明である。元亀2年(1571)に坂東季秀(季頼)が摂津国菟原郡の諸村が大土ヶ平山の利用を定めた掟に袖判を押し証人となったことから、長逸は摂津西部を支配していた可能性が高い(池田や伊丹に近い原田城主となったのもこの時かもしれない)。しかし、元亀3年(1572)に入ると長逸やその家臣どころか、池田氏荒木村重、伊丹忠親の発給文書さえ現存しないため、三好勢力がどのような枠組みで摂津を支配していたのか判然としない。長逸や他の三好残党軍の幹部であった塩田長隆、奈良宗保(長高)、加地久勝の禁制も確認できない。三好義継は禁制発給主体を自身に一本化することに成功していたのだろうか。「三人衆」の活動の終見は義継や久秀、本願寺とともに元亀4年(1573)2月細川昭元が籠る中島城を落城させたことである。これによって三好勢力は摂津を統一することに成功した。
 一方でその元亀4年(1573)以降の情勢は長逸がこの頃死んだかのように動いて行く。その端緒の一つは三好勢力の動きが停滞したことである。元亀4年(1573)3月三好勢力の大軍は京都近郊に迫り、東福寺が義継の禁制を獲得し、大乗院尋憲は松永久秀に上洛を祝すなど上洛間近であった。しかし、三好勢力の軍は進軍を止めてしまった。フロイスは三好勢力の進軍を京都占領のためか、織田信長と対立した足利義昭を救援するためか訝しがっているが、三好勢力は織田信長足利義昭が対立し、敵である室町幕府が分裂する事態に実際の意思決定が出来なかったのではないか。三好勢力は松永久秀を通じて足利義昭と結ぶことを選択することになるが、積極的に義昭を支援するでもなかった。
 二つは荒木村重織田信長に味方したことである。荒木村重はここまで見たように三好勢力側の人間であったが、すでに織田信長と通じており、3月27日には上洛する信長を細川藤孝とともに出迎えて信長の家臣に転じた。村重はこの後池田氏や伊丹氏を討滅し、摂津の一職支配を固めていく。しかし、池田氏重臣であった村重が単独行動を取っていることやそれ以前に摂津の諸勢力を従えていた「三人衆」人脈はどこへ消えたのか不審が残る。鍵である元亀3年(1572)は何も語ってはくれない*18。しかし想像をたくましくすれば、村重は長逸の部下であり、長逸の死後その基盤をそっくり受け継いだのではあるまいか*19
 三つは坂東季秀が三好勢力から離反したことである。坂東季秀は三好長逸の家臣で重臣の地位を占めていた。しかし、天正元年(1573)石成友通とともに淀城に籠っていた坂東季秀は織田信長の家臣・木下秀吉の調略に応じ、石成友通を裏切って細川藤孝に討ちとらせた。淀城に籠っていた石成友通は義昭方とされることも多いが、諏訪飛騨守など城に籠っていたメンツを見るに三好勢力が淀城に入っていたのが事実で、石成友通は再び三好勢力側となっていたのだろう。その季秀が織田信長に味方するというのは、三好勢力への裏切りに他ならない。季秀はこの時すでに三好勢力に従う義理を消失していた。
 これらを見ると、三好長逸は元亀3年(1572)4月から元亀4年(1573)2月までのいずれかの時期に死去していた可能性が非常に高い(長逸は60歳前後であっただろうし死因は病死であろう)。長逸の死は要人の死であるために秘匿されたが、その後三好本宗家自体が滅んだために公表の機会もなくなってしまったのではないだろうか。長逸の死は明らかに畿内の情勢に大きな変化をもたらした。荒木村重と坂東季秀という長逸の人脈が織田信長に通じたところを見ると、長逸の敵は足利義昭でそのためには織田信長を結ぶのもやぶさかではなかったのではあるまいか(永禄11年(1568)に長逸が信長と交渉しようとしたことが思い出される)。しかし、長逸の死に三好勢力の意志決定プロセスは一瞬機能不全になり、松永久秀の導きで三好義継は足利義昭と結ぶことを選んだ。義継も義昭支援にどれほどの意欲があったのか疑問が多いが、この選択は義継が信長の「敵」とされ三好本宗家が滅ぼされることに繋がったのである。一方長逸の勢力を受け継いだ荒木村重は三好勢力によって統一されかけた摂津という成果を手にしていくことになる*20

三好長逸に見る中央政権意識と評価

 三好長慶については近年室町幕府に代わる中央政権を目指した」とされることも多い。では長慶の腹心であり、その死後足利義輝足利義昭織田信長と戦った長逸にはどのような政権構想が存在したのだろうか。この問題を考える上で大きな示唆を与えるのは長逸が擁立、推戴した中央政権主宰者が三好義継、足利義栄細川昭元であったという事実である。長逸は織田信長に敗れ阿波へ逼塞した後、三好残党軍を率いて畿内に再上陸し、足かけ4年に渡る反幕府運動の中心人物となった。三好残党軍は三好再興軍とも言い換えられよう。尼子再興軍が尼子氏庶流の尼子勝久を、またはこの後の阿波三好家再興軍が十河氏を継いでいた三好存保を擁立したように、長逸は三好残党軍の名目的惣領に阿波三好家当主・三好長治や義継の実弟松浦孫八郎、あるいは自分自身が惣領となる選択肢もあり得た。しかし、長逸が擁立したのは足利将軍家細川京兆家の末裔であり、彼らは中央政権を構成した氏族の系譜を継承する者であった。
 これは何を意味するのか。長逸にとって、自身が再興すべき「政権」とは戦国大名としての論理ではなく中央政権に裏打ちされるものであったということである。長逸が目指したのは戦国大名としての三好氏再興ではなく、中央政権の復興なのであった。だが、長逸にとって再興すべき中央政権の理想が足利氏や細川氏を首班とする政権でも構わなかった、と言うと語弊を生じるだろう。
 どういうことかと言うと、長逸は足利義栄の死後、その父・足利義維や弟・足利義助が健在であるにも関わらず、彼らを擁立しようとはしなかった。阿波公方の推戴は篠原長房に主導権があり、長逸には主体的積極性はなかったのだろう。さらに細川昭元を盟主とする構想も昭元に昭元本人が三好勢力から離反することで瓦解し、長逸もそれ以上昭元を求めなかった。長逸にとって、足利氏、細川氏の推戴は次善の策でしかなかった。
 ここで再び注目されるのは、永禄10年(1567)三好義継が三人衆から離反した後も長逸らは対抗する三好氏の当主を立てなかったということである。例えば、和泉国を支配する松浦孫八郎が松永久秀と通じた際、三人衆は松浦孫五郎という対抗当主を擁立した。これと比べると義継の「三好本宗家」当主という地位は長逸ら三人衆にとっては否定されるべきではなかったと言えるだろう。むしろ長逸ら三人衆にとっても主君は三好義継でしかあり得なかった。
 また、長逸の三好三人衆は構成員が長逸一人となっても「三人衆」と呼称され続けた。長逸一人になったのならば、「三人衆」ではなく「三好長逸」を主張してもいいわけだが、長逸はそうしなかった。これは長逸にとっての三人衆が特別なものであったからだろう。戦国時代でも集団指導体制が敷かれることは珍しくないが、多くの「○人衆」は同族連合や国人連合で、同質性を数の力で押すわけである。しかし、三好三人衆はそうではなく、古参で政権運営にあたっていた長老、旧細川政権人脈の代表、新興の畿内国人と異質な基盤を持つ人間たちの連合であることに特徴があった*21これは長逸の家臣である坂東季秀、若槻光保、竹鼻清範が一時連署していたのが原型である。さらに長逸は阿波三好三人衆、池田三人衆と自らの発想である「三人衆」を輸出していった*22。三好義継の死後、北河内を支配した若江三人衆も越水衆として三好家臣古参の池田教正、細川氏綱の旧臣・多羅尾綱知、新興の野間長前で構成されており、長逸の「三人衆」構成が反映されている。「三人衆」は支配秩序として一定の効力を有していたのである。
 まとめると、長逸の政権構想とは、三好義継を当主に、自身を含む「三人衆」が集団指導体制で支える中央政権であった。これは具体的な政権構想を示し得ないまま亡くなった長慶の構想をさらに具体化したものとも言え、長逸が「室町幕府」ではない中央政権を目指した証左である。

三好長逸の人物像と評価

 以上を以て三好長逸の人物像を描いてみよう。長逸は何よりまず三好氏の当主に忠実で、かつ行政・軍事両面において優秀であった。長逸の経歴もさることながら、長慶はもちろん義継も自分から裏切ったことはなく、それどころか義継に代わる三好氏当主も擁立しなかった。一方で長逸は細川氏綱家臣や三人衆を結成してからの石成友通との二人での連署は拒否した。ここからは格下と見なした相手と同格と見なされたくないプライドの高さが見える。長逸は三好政権の中で自分のポジションを至高の副官と規定していたと言えよう。
 また、長逸は温厚かつ他者からの信頼が厚かった。フロイス評の「生来善良」というのも長逸がキリスト教に好意的であったがゆえのリップサービスが入っているだろうが、的外れでもなかろう。長逸は永禄の変直後に朝廷に参内して朝廷に事件を納得させたし、朝廷も信長上洛までは長逸ら三人衆に京都の統治を委ねていた。しかし、他者からの信頼感が窺えるのは長逸が要人の護送に携わったことである。永禄の変の時は足利義輝正室である近衛氏を長逸が警護して近衛邸に送り届けた。その後宣教師追放令が出た時は、抗議に上洛してきたキリシタンを宥め、宣教師を破格の条件で堺に無事送り届けた。松永久秀との戦いで中島城を落城させ、城主の細川藤賢が降伏した時も長逸が中立地帯の大坂に藤賢を護送している。このように長逸は敵からも命の保障をしてくれる存在としての信頼があった。
 一方で長逸は文化面の事跡は乏しい。『天王寺屋茶会記』でも長逸が明確に出席したと認めうる茶会は、永禄11年(1568)の宴会を兼ねた1件しかなく、長逸所有の茶器と伝えられたものもない。三好長慶松永久秀はよく連歌会を催したが長逸が参加することはなかった。これを見ると長逸は仕事人間だったようである。
 こうして見ると長逸は一昔前のサラリーマンを極めた人間のようにも見えるが、それだけではない。
 長逸の野心的な試みが窺えるのは「三人衆」という仕組みである。この構想は長逸が自身の家臣団を編成する中で気付いたものと推測され、それだけに長逸は政権運営の仕組みとして自信を持っていた。長逸は自分一人だけになっても「三人衆」を称し続け、それどころか阿波三好家、池田氏、河内三好氏にも「三人衆」を輸出したことからもこの構想に誇りを持っていた。「三人衆」構想が最も上手く行ったのが三好本宗家滅亡後の若江三人衆であったのは皮肉なことでもあったが、「三人衆」は政権運営システムとして有効であった。
 さらに長逸は室町幕府の否定にこだわった。義輝を殺害した主犯であるのはもちろん、足利義昭織田信長が運営する再興室町幕府とも戦い続けた。自身が擁立に関わった将軍足利義栄へも出仕せず、その姿勢は黙殺に近かった。長逸が織田信長をどう思っていたのかはわからないが、長逸の死後荒木村重や坂東季秀が信長に仕えたように義昭を倒すためには信長と結ぶのもやぶさかではなかったのではあるまいか*23。一方で元亀3年(1572)には三好氏は再び摂津を本国として確保しようとしており長逸も三好政権の再興を目指した。
 長逸は永禄末から元亀にかけて日本の国家体制に挑戦し、また新しい体制を提案した日本史のキーパーソンであった。長逸は三好長慶織田信長間の時代の体現者で、それゆえにその死は三好氏にとって痛手であり、時代の転換点となったのである。

三好長逸の図像

 三好長逸には肖像画ない。また漫画などの媒体でも三好三人衆はシルエット登場であったり、名前だけの登場であったりして、長逸の「顔」が出てくることは少ない。『信長の忍び』では三好三人衆の「顔」が出て来たが、三人とも同じ顔で三つ子のようにされてしまい、長逸が構想した異なる立場の代表という三好三人衆の意図を全く汲んでいなかった。ゲーム『信長の野望』シリーズでは長逸の顔グラフィックがあり、これがとりあえず一般的だろうか。ただ、個人的にノブヤボ顔は凡庸なおじさん武将としか見えないし、長逸を理解して描いたものとも言えない。その他、カードゲームやソシャゲでも長逸が参戦し、イラストを描かれたりもしているが、その性質上かなりのアレンジが加えられており、「実像」を想起させるものではない。
 これらの状況が積み重なることが、三好長逸を含め三人衆の地味さ、適当セット売りさに繋がっていると思われる。
 というわけで、不肖ながら長逸の図像を描いてみた。
f:id:hitofutamushima:20181021164138j:plain
 線がガタガタとか、服の構造が変とか、よく見たら三階菱が三階になってなくね?とかやたら突っ込みどころが多いが、まあ甘く見てほしい。いやそもそもこの画像は何を以て実像を想起させるとしているのか?単なる妄想イラストなんじゃないのか?そう思われる方が大多数であろう。
 この図像にはモデルがある。『三好長光画像模本』*24である。「孝子長逸朝臣」と書いてあるので長逸の父が長光であるとわかるアレである。この画像は「長逸」と書いてあることだし、永禄以降に描かれたものだろう。発注を受けた絵師が長光を見知っていた可能性もあるし、長光を知っている人間から聞き取りもしたかもしれないが、やはり参考になったのは願主である目の前の「息子」ではなかったか…ということでこの長光像は長逸の容姿を反映しているのではないかと思い、その画像を若干老けさせ髭を生やさせしたのがこれである。この方法なら本人とそこまで離れていないのではないかな。長逸はもっとカッコいいだろ!というお方がいれば申し訳ない。

参考文献

ci.nii.ac.jp
この記事自体がこの論文のコピペみたいなもん(この論文以外のことは妄想に近い)なので、よく知りたい人はちゃんとした原典をあたろうね。

戦国期三好政権の研究

戦国期三好政権の研究

三好氏再評価のバイブルである。三好政権下の長逸のポジションが解明されている。
三好長慶 (人物叢書)

三好長慶 (人物叢書)

今となっては間違っている情報も多いが、軍記からの引用が多いため史料確認としては重宝する。スルーされることが多い三好氏と織田信長の関係、戦いを通史として見ているもの。長慶死去~義継死去の長逸の動向はこれに詳しい。

 天野忠幸先生には足を向けて眠れませんね

平成30年11月20日 若干改定&修正

*1:三好長光の仮名は「孫四郎」、芥川長則の仮名は「次郎」とされることも多いが、長逸が「孫四郎」を名乗った形跡がなく、芥川孫十郎が「孫十郎」であるため、「三好次郎長光」「芥川孫四郎長則」が正しいのかもしれない

*2:この人物が「細川晴元」を名乗るのはもう少し後だが以下「晴元」で統一する

*3:この時は幼名仙熊丸、後に利長、範長、長慶と改名するが以下「長慶」で統一する

*4:この頃は足利義藤であるが以後「義輝」で統一する

*5:この頃は細川氏綱の被官で厳密には長慶の部下ではない

*6:三好実休は「三好義賢」と呼ばれることが多いが、その実名は之相→之虎である。この記事では出家後の「実休」で統一する

*7:昭元を名乗るのは元亀2年(1571)からだが、昭元で統一する

*8:父祖の名を偏諱に使用するのは武田信玄が「虎」(武田信虎、信玄の父)や「昌」(武田信昌、信玄の曽祖父)を偏諱とした例などがある

*9:坂東大炊助は先述した通り、信秀→季秀→季頼と改名していくが、客観的名称として坂東季秀を採用する

*10:『三好系図』によれば長の下の字は欠字になっている

*11:徳川家康の次男・秀康は豊臣秀吉の養子になった後結城晴朝の養嗣子となって結城氏の名跡を継承していた。しかし、秀康の実父家康が江戸幕府を開くと秀康の結城氏としての立場は微妙になり、その嫡流子孫は松平氏を称した。このことに危機感を覚えた結城晴朝は秀康五男の直基に結城氏の名跡を継承させた。これが松平直基を始祖とする「結城松平家」である

*12:同じ実名の襲名は上杉謙信上杉景虎や祖父・父・子三代で「信有」を名乗った小山田氏などの例がある

*13:もっとも『三好記』などによれば、長慶~義継間の三好氏情勢を語る文で阿波国勝瑞城に「三好越後守」が務めているというものが見える。この阿波三好家の庶流であろう三好越後守が「三好越後守長虎」で長逸とは直接の関係がない可能性もある

*14:この頃は足利義親だが義栄で統一する

*15:足利義維が亡命したとされる戦国大名大内氏は弘治3年(1557)に滅亡しているし、大内氏側の記録に義維が来たという事実が確認されない

*16:「三好兵庫頭長勝」(生長?)が山城国南部で細川藤孝と戦ったのもこのタイミングだろう

*17:単に「三好氏」と呼ぶのは素朴すぎるしその他の氏族を糾合しているし、かと言って「三好政権」と呼ぶにはいまいち政権の実態が不明なので「三好勢力」と呼ぶことにする

*18:荒木村重本でも元亀2年(1572)の白井河原の戦いから元亀4年(1573)の信長臣従までの間はすっ飛ばされている。おれが知りたいのはそこで何があったかなんだよ!

*19:完全に妄想の域に入るが元亀3年(1572)の摂津支配に関係する文書がないのも村重の作為かもしれない

*20:なお、坂東季秀がその後どうなったのかはよくわからない。『改正三河風土記』によれば本能寺の変明智光秀に味方した「足利殿御家人」に「番頭大炊助」が伊勢貞興、諏訪飛騨守に並んで見える。 これによれば季秀は旧室町幕府衆として明智光秀に仕えたことになる。しかし、山崎の戦い伊勢貞興と諏訪飛騨守の討死が特筆されるのに対しここには季秀の名前はない。季秀は戦死が特筆されないほどの小身であったか、山崎の戦いまでに明智方から離反したのだろう。季秀の子孫は文禄3年(1594)坂東甚八が「坂東大炊助」の子息としてルソンに赴く原田喜右衛門に台湾までの案内人として豊臣政権から紹介されている

*21:そんなに異なる立場に拘るなら4人以上入れてもいいんじゃない?と思うかもしれないが、3という数字は決定的な対立を避けられるし、多数決が出来る最少数でもあるし集団指導体制を行うには適切な数字なのである

*22:阿波三好三人衆は三好康長が長老枠、三好盛政が今一つ確証がないが反主流枠、矢野虎村が新興枠にあたる。池田三人衆は池田四人衆が同族連合であったため中途半端だが、新興の荒木村重を加えたことが三好三人衆に相似する

*23:三好勢力に加わったこともある近衛前久はまさに反義昭として一貫していたため、義昭と信長が決裂すると信長方に転じている

*24:ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶』12頁に写真がある