令和6年のNHK大河ドラマは『光る君へ』。主人公を紫式部とし、平安時代中期の京都・宮廷を主な舞台にする大河ドラマだ。平安時代の大河ドラマ自体は過去にもあったが、武士が主人公ではない上で中期を時代にした作品は初めてだ(時代的には『風と雲と虹と』が近い)。それだけに、どのようなタイムテーブルで「大河」を紡ぐのかと言うのは予想ができないでいた。ドラマの終着点はどこで、どの話数までに何のイベントが起きれば良いのか?全くわからないまま視聴することになった。
そうして全話完走した感想としては…肯定的な部分も否定的な部分もタイムテーブルの不在ということに裏打ちされていたように思える。
当然ながら紫式部は『源氏物語』のいわゆる作者として著名な人物ではあるものの、その生涯というのは彰子の女房「紫式部」としてのそれ以外はよくわかっていない。だからこそ「創作」の余地が大きいわけでドラマとしてはうってつけと言える反面、初回から最終回までのタイムテーブルは全て自分で考える必要がある。本作では、藤原道長、という一生涯が比較的精密に判明する有名人を紫式部ことまひろの幼馴染に据えることでタイムテーブルを補完した。そのため、『光る君へ』は紫式部を主人公としながら、初回から最終回まで道長の一生を描き切った。そういうわけで本作は「紫式部の目から見た藤原道長」としての完成度を高めることになった。特に有名な「この世をば~」の歌を道長からまひろへの一種のラブソング(と言うよりエール?)として解釈し描き切ったのは本作ならではの出色だろう。
一方で、紫式部ならではの奔放な部分が道長にまつわる「史実」に規定されてしまった部分も少なくない。『源氏物語』自体の執筆目的はともかく、そのうちの宇治十帖は道長を引退させないために続きを書く、だけで終わってしまい、内容面とドラマはリンクしなかった。清少納言ことききょうの描き方についても、中盤から終盤にかけてまひろとの関係がピリつきながらも保つ中で、決定的な決裂を迎え、しかし直後にききょうは改心し最終回では友人関係に戻っていた。これなどは『紫式部日記』における清少納言評をまひろに書かせるために無理を通したようにしか見えない。道長―まひろ関係に「史実」とも矛盾しないギリギリの危うい創作を成立させていたのに比べると、どうしても不備が残る。
歴史を先に考え出すと、やはり気になるところも多々ある。本作は荘園制については序盤に言葉こそ出たものの、触れたのはそれくらいでほぼスルーした。これでは政治パートの前提がなく、何をするにしても場当たり的で国家観を欠くものにならざるを得ない。武士についても比較的通俗的な描き方で、天皇家や摂関家の武力という側面は印象に残らなかった。11世紀初頭は古代律令国家だった日本が本格的に中世国家へ転換していく時代だったが、本作はそれを有意には描いていない。
一方で、アクの強いキャラやそれを支える時代の原理などは現代にも通用するように描いており、それはハイレベルだったように思う。現代で見たら迷信としか思えない時代のしきたりについて、藤原兼家や安倍晴明、藤原伊周などがそれを利用し、活用し、あるいは絡めとられということを描出し、それは説得力を伴っていた。この登場人物はこういう人格なのでこういうことをする、その中でそれがどう変化していくか、という描き方は、(中関白家の一部以外は)一貫していて違和感は少なかったように思う。
こうして見ていくと、本作は長所と短所が複雑に絡み合っており、なかなか難しい。戦国時代や幕末のような使い古された題材であれば、一般イメージやこれまでのドラマの積み重なりから、今回はこうなったということを評価しやすいのだが、本作にはモデルがいないため、長所がいかに良いか、短所がいかに悪いか、ぶった切ることができない。
最終回は道長こそ死去したものの、まひろの死は直接的には描かれず、次回があるかのような流れで終わりを迎えた。もちろんこれはこれで意味のあるエンディングだったとは思う。しかし、つまるところまひろ(=紫式部)とは何だったのか、という規定はついぞなかった、と言える。本作は紫式部の大河ドラマとしては成り立っていないとすら言えてしまうのではないか。これは終盤の登場人物たちの死もそうだ。惟規、周明、そして道長とまひろ、そしてこのドラマにとっても重いはずの死が何度か描かれた。しかし、それがまひろのドラマの中でどのような意味があったのか。死の昇華についても本作は直接的に描かなかった。また、『源氏物語』が終わり、まひろが生きる意味を失っていたことも描かれたが、これへも救いとなるような回答はない。周明が示唆したように、それでもとりあえず生き続けるしかなかった。
こうした事件、あるいは悲劇を有意に大きな物語に回収できないし、転換を描けない、と言うのは、雑駁に言えば現代的なのだろうと思う。現代の日本、引いては世界も悲劇に見舞われ、「嵐」が来ることがわかっているものの、その向こう側に何があるのか 誰も知らない。気付けば、『光る君へ』の時代は奇しくもほとんどちょうど今から1000年前に当たるわけで、何もわからなくてもまずは「生きねばならない」ことが最後に来たのは、1000年を超える文化を残した人間を通じた現代への訴えだったのかもしれない。
PS 本作の藤原道長について、中盤から終盤まで最高権力者になりつつも結局何を目指しているのか、権力者であることに自覚的なのか、よくわからない状態になったことにはもやもやしていた。しかし、最終的に「何もなせなかった三郎」に落ち着き、これはこれである種得心した。『鎌倉殿の13人』の小四郎が明確に闇堕ちしていたことに比べると、本作の道長は極めて中途半端で確かにカタルシスはない。しかし、それこそがまひろを通してみた道長としてはふさわしいのではないか。道長は三郎でありつつも、「光る君」を期待されつつも、結局兼家の顔にしかなれなかった。こうした「光る君」として何もなし得ないまま最高権力者になっている男が本作の道長としては正解だと思うのだ。ついでに言うと、「史実」の道長も有名ではあるが、出世が約束されていたわけではなく棚ぼた式に権力を得ていった側面も強いので、実際もこんなもんだったのかもしれないという感触もある。




