NHK大河ドラマ『べらぼう』。江戸時代中期に活躍した版元・蔦屋重三郎を主人公に迎えた作品だが、主要人物には田沼意次や松平定信らも名前を連ね、『光る君へ』に続き、政治と文化を連動させることが予測されていた。しかして一体どうなったのか。端的に言うと、作中でもあったように「そう来たか!」の連続かつ「べらぼう」な作品ぶりだった。一方でそのように思えたのは近年の大河ドラマの流れとも無縁ではない。近年の大河ドラマは史実と創作のバランスについて気を配りつつも、決してそれを昇華しきれない側面も見受けられた。それらに『べらぼう』はいかに向き合っていったのか。
主人公・蔦屋重三郎
蔦屋重三郎も魅力的な主人公だった。入れ子のような差別構造を持つ吉原出身と本への思い入れという二つの属性から日本橋の本屋まで成り上がっていくのだが、それを大元の生命力と機転とで成し遂げていくのはまさしく王道主人公。1年早いが構造としては太閤記に近いものがある。なぜ皆が蔦重に集まっていくのか、それに説得力を与えるキャラクターとして100%成り立っていたことは何よりもドラマの見やすさを支えていた。
そうした蔦重の要素としてここでは「暴力」と「責任」を取り上げたい。近年の作品ではコンプラやハラスメントといった問題もあって、画面上で暴力が描かれる機会は減っている。戦争の中での殺し合いなどでは暴力が映るが、日常の中で気付けのために一発殴るみたいな演出すらもう長らく見ていない。そうした中だったので蔦重が暴力に晒される場面が多い『べらぼう』には驚いた。しかし、だからと言って暴力がただ痛々しいものというわけでもなかった。正直蔦重の手法にはあくどいものやルールスレスレのものも多く、懲らしめられる展開自体には納得感があるし、蔦重も暴力では絶対にへこたれない男なのである。だから暴力シーンがきつくはない。こういう両津勘吉的暴力との付き合い方をまさか現在の大河ドラマ主人公でできるのは驚きだったし、だからこそ松平定信による弾圧シーンでも変な言い方だがもはや「安心感」すらあった。
そして「責任」。大河ドラマの主人公は基本的に名のある人物たちだ。そして作中でも一定以上の地位、上司的ポジションや有名人になっていくのも珍しくない(と言うよりそうではない方が珍しい)。その一方で主人公たちは「人間」としても描かれていて、人格のベースは初登場時の下っ端のままという描写がされることも多い。こうした結果として成り上がったことによる責任の所在は宙ぶらりんになりがちだ。一例として挙げたいのは『どうする家康』の徳川家康。ドラマとして「家康は神ではなく白兎だった」を主眼に描き切ったことにも価値があるのは間違いないが、同時に家康が何をもたらしたのか、また作中で死んでいった人物たちの遺志をどう背負えたのかはぼやけてしまった。あまりにも成し遂げたことに対して主眼が個人的すぎてしまったのである。ただし、責任を描けば良かったかというのも正しくない。『鎌倉殿の13人』では北条義時がどんどん歴史的使命を背負っていった結果、義時はそれに押しつぶされ最後は半ば殺される形で命を終えた。
その点で言うと蔦重は所詮は、と言ってしまうと市井の本屋にすぎないので「責任」との付き合い方もほどほどに保つことができた。幕政に意見することくらいはあったが、それをどう出力するかまでには関わらなかったし、遊郭を直接営業していたわけでもない。政治的責任も道義的責任もほどほどにしかなかったのである。また、本屋としても暴走することや作家と仲違いすることもあったが、それも思想的なものよりも人間関係の拗れであることがほとんどだった(歌麿とか歌麿とか歌麿とか)。そうした人間関係は周囲の助力もあって十分に修正可能なもので、まさしく手の届く範囲だけで責任を負うことができ、作中で過不足感を覚えなくて済んだのである。
ほどほどの暴力とほどほどの責任、この2つがあってこそ蔦重が等身大の主人公として全うできたように思う。
歴史ドラマが創作であるということ
何度も言っているが、歴史ドラマは史実再現VTRというわけではない。史実は創作を支える一要素として存在するわけだが、だからと言って完全に自由というわけではない。今年の大河ドラマでは関ヶ原で西軍が勝ちましたということはまずない。また、歴史創作には軍記なども含めれば優に何百年の歴史があるものもあり、その中で歴史上の人物・事柄への評価には「伝統」が存在するものもある。ドラマ作りにあたって取捨選択は行われるものの、そうした「伝統」とも決して無縁ではいられない(良くも悪くもそうした「伝統」は洗練されており、面白い創作のためには素直に乗っかった方が楽なものも多いのである)。
こうした創作と史実とのバランス取りは近年の大河ドラマでも意識はされていたが、どうにも史実に圧されてしまう側面も多く見られた。そうした側面の一つとしてはタイムテーブルとの兼ね合いがある。どのようなドラマでも世界観設定・キャラ描写として序盤に重点を置くのは大事だが、そこで話数を使いすぎると、主人公が体験していく歴史的出来事が後半・終盤にかけてどんどん巻いて行かれがちだ。そうすると、人生終盤の大きなイベントでも描写不足になりがちで、ドラマにおける意義まで描けないこともある。もう一つは、これは史実だけでなく創作の「伝統」とも関わるが、著名な史実・逸話を入れることを強いられること(それは視聴者からの期待もあってこそだったりする)。例えば、『光る君へ』では紫式部が日記で清少納言の悪口を言っている史実を取り入れた結果、まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)のドラマ(基本的に両者の関係は良好だった)の中でその逸話部分だけが異分子のようになってしまった。
前提が長くなったが、『べらぼう』はこの点も自由にいなすことができた。視聴者にも蔦重や江戸時代中期という時期から想起できる史実・逸話が豊富なわけでもないのも大きく、蔦重や出版業界をめぐるストーリーとしてやらなければいけないことの縛りが少なかった。その割に江戸時代なのでほどほどに史料もあったので史実をベースにした創作の独壇場を展開できた。
さらに『べらぼう』はそれだけに留まらなかった。黒幕として一橋治済を配置し、終盤には蔦重も加わり松平定信と田沼残党の共闘が実現、写楽の浮世絵プロジェクトと関係させる形で治済を成敗したのである。ここまで来ると全てが創作かつ文字にするとデタラメとしか言いようがないが、自分の血筋で将軍家や大名家を染め上げる一橋家の暗躍や、写楽プロジェクトの意義、定信と田沼の関係再構築、正体不明の斎藤十郎兵衛の意味など、史実的要素の昇華も上手くできている。この荒唐無稽な創作を確かな史実が支える構図、これこそがドラマだし、これが大河ドラマのクライマックスに持って来られたのもただただ熱い。治済にトドメを刺したのが落雷という天×エレキテルというのもドラマの伏線回収的なものとして申し分もなかった。これらをこなした上で最終回をまるまるエピローグと蔦重の死にあてられたのでタイムテーブルもしっかりしていた。
正直言うとこういう創作であることの妙味は『どうする家康』にこそ期待していた部分でもあった。しかし、最終的には史実イベントが優先され、初期にあったわかりやすくも破天荒すぎる描写はどんどん鳴りを潜めて行ってしまった。だからこそ、こうした創作を終盤の盛り上がりに持って来られたのは2年越しに報われた気持ちがある。
今、蔦重をやった意味
文化系大河としては2年連続となった『べらぼう』だが、前作の『光る君へ』と色々と対照的な要素も多かった。個人的に両時代の違いとして大きいのは、平安文学は享受層が狭く、実際まひろ(紫式部)の想定読者も道長や彰子といった個人レベルの人物が多かったが、江戸時代となると享受層が大衆という不特定多数に拡大する。そうしたことを受けて『べらぼう』での読者層は多岐に渡ったし、クリエイターではなくプロデューサーを主人公にする利点として、現代にも通じる大衆戦略が有意に描かれた。そうした中で『光る君へ』ではまひろ他数人しかいなかったクリエイターも様々なタイプが登場することになった。何が求められ、何が書け、何にこだわるのか、そうしたせめぎ合いも見所で、『光る君へ』がクリエイターのベース心情なら『べらぼう』ではその現実への即応が描かれたと言える。
それは正しく『光る君へ』への返歌でもあった。『光る君へ』では文字を読めない庶民が普通で、まひろも道長も庶民への施政を志向しつつもそれが実ることはなく、武士の台頭を予感させつつ終わった。『光る君へ』では社会的な達成がなかったのである。それが江戸幕府によって太平がもたらされ、書物は庶民でも享受できるようになった。まひろの願いが叶った時代で何が起きたのか。そこは平安時代とは違う意味で地獄でもあり、庶民への施政は寛政の改革のように庶民を権力によってどうこうしようという事態に至ることもあった。しかしそれでもなお『べらぼう』の中心には「誰もが本を楽しんでいい」というテーマがあった。花魁も松平定信も黄表紙を楽しみ、それを通じて接点があると言える時代。地獄の中に本という希望がある時代。『べらぼう』は一貫してこれを有意に描いてきた。
そして江戸時代中期という時代は狙ってか偶然か現代の世相と重なる場面も多く出てきた。個別の事象への評価にはいちいち立ち入らないが、その中で権力者や市井の人たちがどう動き、動かされたか。そういった面は今を生きる中でも大きな示唆があったと言えるだろう。その中で本、あるいはもっと大きく広げてイラストなどのクリエイトされる産物が希望であるというメッセージは個人的には大きく響いたのだった。
大河ドラマの完成形
色々述べてきたが、『べらぼう』は「大河ドラマ」として明るく、完成度も高かったように思える。史実タイムテーブルなどとの話題とも関わるが、近年の大河ドラマは終盤になると終わりが見えてきた。序盤には純真さを残していた主人公が経験を積むことで闇堕ちのようになり、主要登場人物が死亡などで脱落していっても世代交代が描かれることは少なくなった。主人公が「変わってしまった」ことによるどんよりとした雰囲気、画面に映る人物が少なくなっていく寂しさ…そうした末に最終回を迎える形が多かった(『光る君へ』のまひろはキャラを保っていたがもう1人の主人公とでも言うべき道長がそのルートを辿った)。『べらぼう』でもこうした側面は観測されたがいずれも乗り切ったことに新しさがある。田沼に肩入れしすぎる蔦重や歌麿の感情の機微を見逃してしまう蔦重はある種の老いを感じる部分でもあった。しかし、いずれも周囲の力によって蔦重が目を覚ます、とまでは行かないまでも持ち直して新しく面白いものを考える流れに戻ることができた。終盤に至るまで有名な登場人物が次々に現れ、蔦重の臨終の席に何十人もの人間が現れたように画面から寂しさなど見えようはずもない。蔦重の死すら一つのコンテンツとして終わっており、最期まで明るかった。主人公の「達成」がここまで陽気に描かれて終わるのはだいぶ久々な気がする。
『べらぼう』は間違いなく近年の大河ドラマが見せてきた可能性を上手く受けて完成度高く仕上げていた。大河ドラマの完成形と断言してしまって何ら気後れしない出来栄えだ。とは言え、だからと言ってこれが今後のモデルケースになるかと言うとそれはまた違うだろう。繰り返しになるかもしれないが、『べらぼう』が創作で大暴れできたのは政治的な部分と程よい距離を保ち、文化面だけでも十分成り立てる史料の豊富さと同時に史実としては曖昧な部分が程よくあったのが大きい。これを人気のある時代である戦国・幕末に適用するのは土台無理だ。どちらもすでに手垢がつきまくっていて、どうしても一般イメージに縛られてしまう。
そういうわけで『べらぼう』は達成を果たしたが『豊臣兄弟!』はまた違う手法を取ってくるだろう。自由度の高かった『べらぼう』の次の年が変奏太閤記というのも面白い。これまた創作と史実とで戦争が起きることは間違いない。タイムテーブル問題もまた現れてくるだろう*1。しかし、だからこそ『豊臣兄弟!』には『べらぼう』の達成を受け継ぎつつ、新しいフォーマットを示してほしい。集大成が結実しま次に求められるのは「新しい大河ドラマ」の雛型だと思っている。それがどのようなものになるのか『べらぼう』の読後感をお供に期待したいものである。
オマケ・横浜流星と井上祐貴
横浜流星も井上祐貴も実は彼らが世間的に有名になる前から知っている。というのは横浜流星は『電車戦隊トッキュウジャー』のトッキュウ4号・ヒカリ役だったし井上祐貴は『ウルトラマンタイガ』の工藤ヒロユキ役、要するに特撮番組でレギュラーを務めた役者だったのだ。そういう意味で「知っている」わけだが、『べらぼう』における彼らは全く「知らない」顔を見せてきた。
ヒカリが戦隊における王道ブルー的ポジション(色はグリーンだが)ながらわりと世渡り上手な面もあって横浜流星にも器用貧乏というか、何でも出来るものの秀でたものがないというのがイメージのベースになってしまっていた。ある種の軽薄さを横浜流星にも重ねてしまっていたのだ。それが『国宝』の俊介とともに蔦屋重三郎によって、何重にも巨大化していたことをわからされた。単に上っ面を真似ているだけではなく一人の人生を背負って表現している重みが、繊細な演技の違いによって出力されていたのである。
井上祐貴のヒロユキも正直上手くはなかった。『タイガ』は撮り直しもあったので序盤は棒読み的な部分と多少こなれた部分が混在するカオスさもあったが、どうしても一本気で叫んでいる印象の上を行くものではなかった。もっともヒロユキについては『タイガ』の後の再登場の機会もなく、井上祐貴と再び見えたのは『どうする家康』の本多正純にまで下ってしまった。その正純も老獪な父正信との対比かやはり真面目一徹な人物像で、井上祐貴という俳優には合っていたが演技の妙が見えることもなかった。それが今回の松平定信!真面目ながら黄表紙も愛するという複雑な人物像!推し作家の死に涙したり、失脚に血眼になったりする表情の多彩さ!その出力自体はある種の王道だったが、そうなる感情面を井上祐貴は表現できていたように思う。
男子三日会わざれば刮目して見よ―「知っていた」からといってその色眼鏡で見ていたらスカウターのごとくメガネが爆発四散していった。また見える日が楽しみになる2人だった!


