※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。
『仮面ライダーアギト』もとても思い入れのある作品だ。『クウガ』に熱を入れて視聴していた流れをそのままに視聴を始めたわけだが、グロンギとはまた違うの怪奇のアンノウン、メカクウガとして開発・実装されたG3、世界観の謎を大きな軸とした大河的ストーリー構成、これらを支える魅力的なキャラクターの掛け合い、戦闘時に流れるカッコいい挿入歌などなど、ヒロイック・ミステリー・コメディを大幅に進化させた作風にすぐに夢中になった。メインとなる仮面ライダーも3人に増え、全体的に陽性ながら過去が謎な津上翔一、ただただ可哀想な葦原涼、G3装着員ながらあまりにも不器用が過ぎる氷川誠とそれぞれ話を引っ張るキャラ立ちもあり、彼らが正体を隠しながら関わるようで関わらず、でも少しは関わるようなストーリー展開は、歯がゆさもありつつも「次はどうなるんだろう」というワクワク感を強く牽引していた。
一方で『アギト』には微妙な感情もある。リアルタイムで最終回まで観たわけではあるが…当時は結局何の話だったのかよくわからなかった。謎がワクワク感を牽引し次回が気になるのと同時に、それらが「わかりやすく」回収されることはなかった。謎の青年や沢木哲也(本物の津上翔一)、アンノウン、OPに出てくるイコン画…どれも気になることだらけだったが、作中ではそれらの人物同士がそれっぽい会話を交わすだけで、主要人物や解説キャラが「ああ!そういうことだったのか!」と視聴者にもわかりやすく反応してくれることはなかった。また、アンノウンとの戦いもグロンギのようなわかりやすい最強のボスがいてそいつを倒せば全てが終わりという高揚した雰囲気を作れなかった感覚が強い。いや、最終回でも地のエルと決戦して倒したはずなんだけど、ストーリーとしてはエピローグに入っていた上にアギトが特攻して「津上ー!」「津上さーん!」して次の場面では1年経ってしまうので、『ティガFO』のグリッターティガVSデモンゾーア並に「???」だった…。リアルタイム視聴では毎回楽しんで観ていたのに、最終回が終わった後の「これで終わり…?」といった消化不良感は拭えなかった。
もちろん、その後東映YouTubeで無料配信した時に全話を見直したり、その頃には世界観やスタッフの意志などの裏方にも触れていて、改めて発見があったり納得できたことも多かったわけだが…。同時にこの頃には『アギト』は単品で見るものではなく、人外化した人間との共存というテーマは平成ライダーでは『アギト』→『555』→『キバ』の3作の流れで完結するというような気付きを得ていた。これは今でも得心しているのだが、その一方で『アギト』単体での評価にはなっていない。リアルタイム以来の『アギト』の消化不良感は結局平成ライダーに「流れ」を見出すことで解消されただけで、今書いてみて改めて気付いたのだが、結局私は『アギト』自体にはついぞ向き合えていないのだ。
そうした中、仮面ライダー55周年プロジェクトの一つとして『アギト』の25年越しの正統続編として『アギト―超能力戦争―』が発表された。正直言うと、これにもかなり当惑があった。『アギト』の続編を今また見たいとは全く思っていなかったのだ。そりゃ『アギト』の(精神的)続編とは『555』であり、『キバ』だったのだから…。好きだった『アギト』のキャラクターたちがその後どうしているのかといった興味も『ジオウ』のアギト編がその一端を見せてくれていたし、今『アギト』をやるとして何を求めて良いものか、わからなかった。あえて言えば、わからない中で『アギト』をやる意義が最も気になるところだったとも言えるだろう。
そんな思いを胸に『超能力戦争』を観たわけだが…うーん、難しい…。先取りすると、ここで「そう来たか!」が来ないのがこの映画の評価を端的に表している気はする。とは言え「難しい」のは単に期待外れだった、駄作だったというわけではない。むしろ、懐かしかったし面白かったし間違いなくいい話だったし「読後感」も良かった(かつて『シン・仮面ライダー』の感想で、この映画はEDで流れる主題歌が『M八七』みたいな歌だったらもっと素直に感動できたんだろうなあと述べたことがあるが、本作における『ダイナミック平凡』はまさにそういう歌なのでだいぶ本作のイメージの良さを増幅していると思う)。それでもなお「おれが思う『アギト』は果たしてこれだったか?」という一抹の違和感が拭えない、そんな感慨がある。
上でだらだら『アギト』についての想いをつらつら書いたが、結果的にそんな畏まったものはほとんどなく内容を一言で言えば「同窓会映画」だろう。これまで観てきた中では戦隊の10YA企画に近い(というか熱のあるキャストが企画を持ち込んで実現するという制作経緯自体もそのまんまだ)。「続編」というわけではなく、単体で見ても起承転結があってわかるようにはなっているが、ファン向け要素もふんだんに入っていて知っている人には懐かしさが加味されて楽しい、そんなテイストだ。アンノウンも出てこないし本編におけるアギトの謎も知らなくていい。なので『アギト』TVシリーズの消化不良感を『555』『キバ』とは別の形で払拭する、そういうものはなかった。
ただし、内容としては人間賛歌みが強く、ここは脚本の井上敏樹氏が手掛けた『ゴウライガン』『ドンブラザーズ』とも通じている。とにかく変な人間がいっぱい出てきてやらかしもするが、最後には善性が信じられるし、変でもいい、彼らはヒーローである。そういったヒロイックさが確かにある。それは『アギト』なのか?と言うとそうでもない気はするが、ここで氷川誠が主人公であることが効いてくる。『アギト』当時の氷川さんは不器用ながら、だからこそ超人同士の争いの中で「人間」を代表できた「仮面ライダー」だった。「変だしやらかすけど善性も強くヒーロー」という下地があるキャラだったわけで、そういった要素を作中の新キャラたちが分け合っている。氷川誠こそが『アギト』と近年(『ゴウライガン』はもう近年じゃないだろ)井上敏樹作品の橋渡しをしていて、そこに『アギト』である意味が乗っている。
本作は皆で自首して終わるのも気持ちがいい。ヒロイックさが変さ・奇天烈さ・やらかしをカバーしているように見えるが、実際に迷惑をかけている&違法であるという点を掬い上げているのも「氷川誠」である意味だ。たとえ収監された事情が冤罪だったとしても、脱走は脱走。罪は償う必要がある。この生真面目さは氷川さんにしか出せないし、それに全員が賛同して集団自首シーンになるのも氷川さんの人徳である。翔一くんや葦原さんが主役だとこういう風にはならない。単に変な奴らだなというわけではなく、「人間っていいな」を氷川誠が支えていてそこに本作の作品としての含蓄がある。
というのを基礎的ラインとして、要素ごとに箇条書きで感想を述べておきたい。
- 津上翔一/仮面ライダーアギト
『ジオウ』でも出ていたのであまり満を持して感がない。アギトじゃなくなったという話もまあアギトに再変身する前振りでしかないと思っていたが、本当にそれ以上ではなかった。戦いが終わったので力を失いかけていて本人も納得していたのに「復活再変身」に特にカタルシスがないのは『クウガ』の五代雄介とはだいぶ扱いの軽重が違うので、差別化ポイントとしては意図的なのかもしれない(これは本作において「人間(がなった怪人)を殺すこと」があっさり処理されたのにも似た匂いを感じる)。作中では氷川さんを脱走させるという大手柄があったものの、アギトに再変身することに意義があったかと言うと、良くも悪くもファンサービス的ではあった(フォームチェンジもせず必殺技も不発だし、アギトの力を託すのは変身なしでも出来ただろうし)。
本作の翔一は『アギト』正統続編であるにも関わらず、個人的情報、すなわち20年以上の間の環境の変転(当然だが色々な人生イベントは発生していたはずである)はほとんど意識させておらず、これは意図的なものだと思っているが、それはそれで良かったと思う。あまり俗っぽい翔一くんは見たくないというのもあったし、本作ではそういう個人的情報は関係ないしね。その代わりに真魚ちゃんが夫と別居という俗要素全部担ってるけど、まあ真魚ちゃんなら納得感もあるというか…(オイ!)。
- 葦原涼
まあ…初出のキービジュアルや出演者的に死んでいるのは覚悟していたが…やっぱりなあ。どれだけ作中不幸でも、役者がやらかしていたとしても、葦原さんには死んでほしくはなかった。不幸に塗れていてもだからこそ生きていてほしかった。ぶっちゃけ死ぬのなら『アギト』作中でいくらでも死ねたじゃないですか(?)。それでも生存したことに意味があると思っていたので、続編でやっぱり死んでましたは結構な卓袱台返しには感じる。
ただし、それらを飲み込めばかなり気を配ってはいるようにも感じられた。氷川さんが助かったのは間違いなくギルスの死体に残る葦原さんの何らかの意志の発現だったし、そもそも本作自体がやらかして芸能界から去った役者さんへのエールにも見える。収監された犯罪者が氷川さんと触れ合う中で正義のために戦い、最後には前向きに罪を償おうとする。これ自体がやらかしても再起できるという大きなメッセージだ。そして、事件の後の打ち上げで氷川さんたちが集う焼肉屋「神威」ではチラッとだけ肉を運んできた店長が映る。芸能人としては出せないが、協力してくれた焼肉屋の店長がカメオ出演する分にはセーフ!そんなのアリかよとは思うが、3人の仮面ライダーが主軸の『アギト』における「ギルス」に対して最大限義理を通そうとする姿勢自体はうれしかった。
そういうわけでマイナススタートからの加点でゼロくらいにはなった、というのが本作の葦原さん・ギルス要素ということになる。納得はしないが努力は認めたい。
- 要潤
要潤の『アギト』および氷川誠への熱い思い、こういうコメントって言うてリップサービスなのでは?と思うこともあれど、この映画の要潤は全身でもってそれがリップサービスじゃないことを証明してくる。「僕にはずっと氷川誠がいる」の言葉通り、最初の刑務所で黙々作業するシーンなどは現在の要潤っぽい佇まいを感じさせたのに、これがいざ喋ると一瞬で氷川誠でしかあり得ないそれになる。もうそれ自体に俳優としての円熟と思いが詰まっていて胸が熱くなる。
- 仮面ライダーG7
G3シリーズの進化系、メタ的には本作の目玉としてまあそれなり…だったかな。外観はともかく、G3と言うと様々な武器を使うイメージがあるので良くも悪くも剣一本なのは無骨すぎる印象。その一方で各所に配置したドローンでエネルギー切れをフォローしたり、傷ついた剣を錬磨したりするのは現代的正統進化を感じるものではあった。ただ、ラストでアギトの力を受け取って疑似クラッシャー展開をするのならそれもわかりやすくデザインに乗せておいてほしかった気はする。思えばG3は「メカクウガ」なのだから、『アギト』を経た発展形として「メカアギト」になっても良かったはずではあるし。
- 北條透
分身した北條透が好き勝手やりますとか北條透じゃないと許されませんよこれは(まあこの映画のキャラは「このキャラじゃなきゃ許されないよ」って言動ばっかりだけど)。まあそれはそれでゲラゲラ笑えたのでそういう存在と見なすことにしますが、話の肝にもなっているベッk…北條透婚約者殺人事件。前振りでお互いにメロついてる北條さんは気持ち悪かった。甥っ子のオナニーを偶然見てしまった系(私に甥っ子は現段階でいませんが)の「お前…性欲(正確には異性愛)あったのか…」という衝撃がありました。ここが本作最大の解釈違いかもしれません。
どうでもいいですが、尾室さんが警視になったことについて「世も末と言うか、世の中色々ということか」的なぼやきは小沢さんと全く同じことを言ったのに、作中では誰も反応せず、あくまでも視聴者だけが「ふふっ」となる構造はまさしく『アギト』っぽいギャグの塩梅で良かったですね。
- 木野さん・超能力者たち・ギルアギト
木野さんって実はあんまりキャラを覚えてないんだけど、絶対そんな人類の進化を目論むような奴じゃなかっただろ!どうもアナザーアギトは再登場するとおもちゃにされる傾向があるようだ。超能力者たちもそもそも基本的に極悪人すぎる。死にそうなところから蘇っただけであんな快楽殺人者みたいになるのは最初から計画が失敗しているようなものだと思うが。そんな中で黒谷だけがいい奴すぎる。正直言って見ている間は、超能力者サイドからのスパイじゃないか、どこかで裏切るんじゃないか…と疑っていたのに、気付けば最後まで頼りになる味方で集団自首にさえ加わっている。流石に極端すぎるので、超能力者たちにも何らかのバックボーンは欲しかった(尺が足りなかったんだろうけど)。ギルアギトはギルスでもアギトでもなくピンでも集団で出てきてもいい格付けの外見としては100%だろう。一方でトリニティ・ギルアギトはもっと「アギト」のヒロイックさに寄せてほしかった。一応作中ではヒーロー的ポジションなのにアナザーアギトより味方に見えないのは良くないし、女性ライダーとして見ると個人的にはあまり認めたくない…。シャイニング・ギルアギトについては人外化するのは納得感があったが、『アギト』はギリギリCG巨大敵が出なかったライダーかつCGの出来も正直良くない(バトルとしてもクオリティ高くなかったし)のでメタ的な納得はそこまでなかった。
- Gユニットの新メンバー(るり子・香川・杵島)
揃いも揃って小沢さんが集められるジェネリック氷川誠(不器用だけど真面目で頑張ろうとする人間)はこんなんだろうなというキャラでレベルが高い。アクの強いるり子がキャラとしていいのは当然として、香川くんと杵島くんさえ「ずっとセットでお互いに名前をくん呼びするだけ」というキャラの薄さにも関わらず、だからこそ記憶に残ってくるのはすごい。
- 挿入歌
すみません、大声出します。
何でクライマックス戦闘に挿入歌が流れないんじゃああああ!!?!!?????
いやホント『アギト』のエッセンスをこれでもかと再現してるのにマジで何でだ?『G4』は主題歌がいいとこでかかりましたよ?『アギト』がもたらしたフォーマットの一つとして、戦闘中にカッコ良く流れる挿入歌はマストだと思っていたのに、まさか本作でそれがないとは思わないじゃん。アギトパワーを得たG7が特攻のライダーキックなんて爆アゲ展開じゃないですか。何でここでカッコいい歌を流してさらにハイにさせなかったんだ?本作を『アギト』として評価するにしても、本当にここだけは解せなかった。
まとめ これが「『アギト』」なのか?
何だかんだ言ってきたが、結構いい作品ではある。人間っていいなと思える前向きさもある。それがどうにも引っ掛かる感じになるのは偏に画面が変かつショボいというのが大きいんじゃないかと思っている。冒頭のガードチェイサーの合成も甘いし、シャイニング・ギルアギトも大画面に耐え得るクオリティではなかった。「結構いい作品」とは言うがそれは結局私が東映特撮ヒーローものの文脈に慣れてしまっており、そのフィルターで見る限りにおいて、結構良かったんじゃないかということだ。『アギト』の「同窓会映画」として合格点というのはあくまでそれが前提だ。
ただ、『アギト』っぽさというのをもっとメタ的に捉えると、そういう評価のしかた自体が「『アギト』的」ではないというのは考えてしまう。初期平成ライダーにはいい意味で特撮ヒーローものっぽくないイメージがあった。これを観ていても子供番組をまだ観てるのかとバカにされないような、一般ドラマとも向こうを張れるような、そして実際「大人」の視聴者もそれなりにいた。古臭い言い方だが「大人の視聴に耐え得る」雰囲気が醸成されていた。『クウガ』とともに『アギト』はそういった雰囲気を作り出して、実際に視聴者をその沼に誘ったのだ。
そして『超能力戦争』にもそのイメージを投影した部分はあった。要潤という今や日本を代表する俳優の一人を主演に据え、OV作品の期間限定上映ではなく一般枠での大規模上映しかもGW公開、主題歌も完全な新曲、タイトルからの「仮面ライダー」の排除と、プロモーション的には完全な一般人向け映画の装いを持っていた。初期平成ライダーのような「大人の視聴に耐え得る」雰囲気を漂わせての大勝負。そう受け取っていたのだ。それが内容的にはいつもの東映特撮ヒーロー的なものになっている。オタクがキャッキャする分にはいいかもしれないが、一般人がいきなり見ても困惑するだろう画面やキャラやギャグ。それは『アギト』のエッセンスを単体では再現していても全体として見ると「『アギト』的」とは言えない。そこにはギャップがあるし、だからこそ「難しい」であり、「そう来たか!」にはならなかったのだった。そういう意味では今できる「限界」を見せられたことに寂しさもある作品だった。
おまけ 『アギト』のリアリティについて
「『超能力戦争』はリアリティ的にガバかったけどそもそも原典の『アギト』だってそうだろ!」という意見を見かけた。そうして思い返してみると確かにその通りである。そもそも氷川誠という人物自体が多分に誇張された不器用で、Gユニットや翔一、北條透との掛け合いもギャグシーンは完全にギャグである。『アギト』はキャラクターのおかしみが強く、それらが生み出す感情のせめぎ合いやからかいなどには間違いなくリアリティがあった。その一方で、一歩引いてみると「そうはならんやろ」という過剰に戯画化された出来事や展開があったのも事実だろう。『超能力戦争』は両側面をちゃんとそのままお出ししているので、後者のリアリティのなさを論うにしろ、擁護するにしろ、『アギト』原典をどう評価していたのかを明らかにするのは避けられないとは思う。
翻って私の感慨を述べると、『アギト』リアルタイム視聴時は後者のリアリティも確保できていると感じて観ていた…と思う。ただそれは『アギト』が実は出来事・展開レベルで実際にリアリティがあったということでもない。客観的なリアリティについては徹底していた『クウガ』の「続編」であるというのが『アギト』リアルタイム時評価にはセットになっていたのだ。『クウガ』の地続きなのだから、実は変なことが起きていても『クウガ』が持っていたリアリティでカバーできている…そういう風に受け止めていたのだ。
『超能力戦争』は『クウガ』抜きの『アギト』として作られている。だから『クウガ』と地続きということによるリアリティの最低保証がない。なので、『アギト』を再現しているはずなのに、『アギト』と違ってリアリティが欠けているように見えるということではないだろうか(少なくとも私は落差をそう認識した)。平成ライダーのフォーマットを作ったのは『クウガ』ではなく『アギト』とはよく言われるし、それを否定するつもりも毛頭ないが、こう考えると『クウガ』抜きで『アギト』を観るということの難しさも図らずながら感じるのだった。
