※この記事中には映画の内容に関するネタバレを大いに含みます。初視聴の驚きや感動を体感したい方にはおススメしません。
『シン・ゴジラ』公開時からネタ臭く『シン・ウルトラマン』が語られ、『シン・ウルトラマン』発表時からこれまたネタ臭く『シン・仮面ライダー』が語られていたが、『シン・ウルトラマン』も『シン・仮面ライダー』も実現したのだから世の中本当に何がリアルなのかわからない時代になったものである。そんな瓢箪から駒みたいな『シン・ウルトラマン』。私は正直庵野秀明氏にも樋口真嗣氏にも正直馴染みがない。いやもちろん知らないわけじゃないし、特撮でもパワードや平成ガメラなどダイレクトに作品を見たこともあるのだが、「この人はこういう人だからこういう作品を作る」が理解できるフェイズには達していないのである*1。だから、作品イメージとしては『シン・ゴジラ』のウルトラマン版くらいの朧気なものしかない。
では、『シン・ゴジラ』のウルトラマン版とは何ぞや?『シン・ゴジラ』は、突然出現し国土を蹂躙する大怪獣を人間がどのように出来るのかというゴジラ原典が持つ主題を愚直に沿い続けた作品だった。その中で特徴的だったのは日本政府の中での人間関係を有意に描いたことだろう。必ずしもそれがリアルかとは別に、日本政府はこういうことやりそうとその中でそれを覆していくような現場パワー…お上と国民の力の縮図のようなものが表現され、これが琴線に触れた日本人は多かったのではないか。加えて特撮シーンも実在感と非実在感を合成しつつ、画面から引かないだけのレベルに達していた。さらに「蒲田くん」や無人在来線爆弾といった公開前までは隠され、一度見たら語らずにはいられないようなネタも豊富だった。卑俗だが「面白い」ポイントをいくつも抑えていたのだ。
こうした「面白さ」は『シン・ウルトラマン』で昇華できるのかと言うと不安がないわけではない。ゴジラとウルトラマンはコンテンツの成り立ちからして違うからだ。
映画になるにあたっての懸案としては、ゴジラは元々映画だが、ウルトラマンは30分のTVシリーズということがある。ゴジラは90分以上を使って日常を覆す巨大怪獣の出現、破壊、人間の対抗を描いていく。時間が長い分それはじっくりとしたものになるし、それこそがゴジラ映画の見応えだろう。対して、ウルトラマンはそうした怪獣映画を30分に短縮していて、怪獣映画を強制的に終わらせる「デウス・エクス・マキーナ」としてウルトラマンという怪獣を倒すヒーローが招来されるという作り方になっている。つまり、ウルトラマンを90分に拡大してしまったら、原理的にはウルトラマンが出て来ない単なる怪獣映画になるはずなのである。そういうわけで、ウルトラマンがTVシリーズの作劇を保ったまま映画になることは基本的になく、過去のウルトラマンの映画はTVシリーズの90分拡大版ではなく、ヒーロー作品として共演物になったものが圧倒的に多い*2。
しかし、『シン・ウルトラマン』は前情報の限りではヒーロー共演ものというわけではない。しかし、単なる90分拡大版なら相当ダラけただけの作品になる。前情報だけでもネロンガ、ガボラ、ザラブ星人、メフィラス星人の登場が明かされているが、これらの怪獣・宇宙人全てが同一の事件で登場するとも考えにくい。恐らくは原典の『ウルトラマン』の一話完結エピソードをつまみ食いして1本の映画に再構成していくようなものになるのではないか。ただ、そうするとウルトラマンが怪獣を倒すという「山場」が映画の中でいくつも発生することになるし、一話完結だからこそ滋味が出ていた原典の良さも曖昧になってしまう。映画としてまず大きな主題があり、それに沿って原典のいくつかの話を再構成・翻案することが求められるわけだが、その時点で原典に対する「愚直」な態度にはなり得ない…と書くとややストイックすぎるだろうか。
要するに、ゴジラ→『シン・ゴジラ』とウルトラマン→『シン・ウルトラマン』では翻案の文法が同じにはならない。「『シン・ゴジラ』のウルトラマン版」といったところでそれで面白くなるのかは未知数だ。換言すればそこが腕の見せ所ということにもなるが、制作スタッフには「信任」があるわけでもない。とりあえず、ウルトラマンの作劇パターンが踏襲されていれば、つまらないものにはならないだろうが、それくらいの期待度合はむしろ失礼だろう。こんな感触のまま映画公開を迎えることになった。…余談ながら少し先走っておくと、昭和ライダーは原典がある程度ワンパターンなので、90分拡大版でも結構成り立つ…もっとも『シン・仮面ライダー』は『THE FIRST』との差別化が課題だろうが。